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神戸金史 のCatch Up 1月17日阪神淡路大震災から30年
2025-01-14 11:47

神戸金史 のCatch Up 1月17日阪神淡路大震災から30年

RKB解説委員長 神戸金史
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00:28
この時間は日替わりコメンテーター が独自の切り口で多様な視点を提案する
Catch Up、火曜日はRKBの神戸金文 解説委員長です。
神戸金史のCatch Upは、火曜日の 日替わりコメンテーターによる
コメンテーターによるコミュニケーション です。
2週間ほどして、最初に現地の 土地下になる汽車が入って、その
次のクルーとして私たちが入った。 阪神電車もまだ大城という駅で止まって
たんですよね。神戸市に入ったぐらい のところで。その後は三宮まで、本当は
20分ぐらいで行けるんですけど、 1時間半ぐらいかかって、歩いていったり
している状態でした。 1月29日に現地に入った時に、とりあえず
被災者といろんな話をしていました けども、最初の仕事として、被災者の
ルポを書いてほしい。あなたは被災者 の避難生活を知っているから、その
現場を見た人間がこの被災地を どういうふうに見るかというのを
ルポにして新聞記事に書いてほしい という話だったので、被災者の方々
に話を聞いていました。そして 阪神電鉄の最後の大城駅から歩き
ながら、北に10分ぐらい歩いたところ にあったのが、神戸市立福池小学校
という小学校でした。ここでお話を いろいろ伺ったんですけども、当時
03:05
800人ぐらいの被災者がいました。 学校の中で壊れた家の廃材という
のもなんですけど柱とか板とかを 燃やして断を取ったりしていました。
もう2週間経っているんですけど まだそういう状況でしたね。一番
多い時は1900人から2000人ぐらい いたそうです。当時そこの校長先生
や教頭先生に大変お世話になったん ですけど、教徒の上田美沙子さんが
お話をしてくれました。3日間は 孤立状態だったということ。それから
30人の教員のうち1人が女性教師 若い女性教師が亡くなっていた。
自宅が全半壊したのは教員のうち 9人で、生徒さんだと3人亡くなって
いた。保護者も1人。その犠牲になった 災害の時の様子は神戸市の記録に
上田教頭が書いています。怪我人 が続々と運び込まれてきたと。その
うち遺体が運ばれてきてそれは 本校の卒業生だった。理科室の机
の上に安置したが次々に運ばれる 遺体でいっぱいになったため生活
科の教師にも安置した。生き夢の 人を救い出す道具を貸してほしい
と近所の人が押しかけてきた。ある だけの道具を渡したが中には図工室
のガラスを割ってノコギリを持ち 出すものもあった。切羽詰まった
様子を見ると止めることはでき なかった。そして学校まで着いて
亡くなる人。保健室で生きていた 人もあり19人の遺体が安置された
ということを上田教頭が記録に しています。その話は当時小学校
に行った私も聞かせていただき ました。さながら野戦病院のような
様相だったということ。そして ただ19日になって2日後になって電気
がついた。その時に校内の空気 が全く変わったというふうに上田
さんはおっしゃっていましたね。 真っ暗な闇が去って一人一人の
顔が照らし出されると気せずして 歓声があちこちから上がった。あの
光が生きる勇気を湧き立たせたん ですよと上田先生はおっしゃって
いましたね。翌日はトイレが大変な ことになったんですよね。近く
避難してきている女性たちが自主 的に片付けようとしました。男性
が校庭の一角を掘って仮設トイレ を作ってお母さんたちは手袋を
して素手で全部外に出して。あの 時のお母さんたちはものすごく
偉かったですと上田先生がおっしゃ っていたのは30年経って今でも
はっきり覚えていますね。今では ちょっと考えられないかもしれない
06:00
ですけど私はそこの避難所の中に 取材して仲良くなった方がいて
今日夜どうするのと言ったらいや どっか探しますと言ったら家に
泊まりなさいと言われたんですよ。 家ってと思ったら体育館の中にある
段ボールで区切られた家族5人で 暮らしているスペースそこに泊めて
もらいました。10代後半から20代の 女の子3人の娘さんの横で僕は1人
5人家族の中にぎゅうぎゅう詰め ですけどね寝させてもらってその
日だいたい一晩にお湯が一家に 夜間3杯だけだったんですよ。
で夜その方が焼酎があったんですけどね お湯割りを作ってくれたんですよね。
そして生のキャベツがあってこれを つまみに食べると意外と甘くて
おいしいんですよって言ってこの 体育館で被災者の中でお湯割り
を飲ませてもらったんですね。 そして泊めてもらってそしてその
小学校には被災後2週間経って ましたんで安否確認をするために
自転車を20台くらい寄付されて たんですよね。安否確認の段階も
終わってて使ってないわけですよ。 そしたら京都先生が亀さん取材
にこれ使ってくださいって言われて 僕はそこにいてそこの自転車を
借りて神戸市内の自転車でずっと 取材をしてたんです。そして空いてる
時は食事の配給をお手伝いしたり 温かいものがとにかく欲しかった
んでやっと温かいものが出始め たばっかりだったんですけど出して
そして見せてもらったのはジャム パンの山でしたね。いっぱい当初
差し入れが来たんですよ。ところ が寒すぎて凍ってるんですよジャム
が。凍ったジャムパンは食べられない んですよね。こんなに溜まっちゃ
ってるんだけどどうしようもなくて 誰も手つけてくれない。それはそう
ですよね。とにかく寒かった1月。 その中で凍ったジャムパンを食べる
ことはできない。当たり前だなと思いました。 そして近くの人たちが学校に避難
してない人たちが学校に行けば何か あると思って来るんですよ。そうする
と住民たちが自治組織を作って いたんですけど一生懸命みんな
に持って分けるんですよね。私も そこのお手伝いをずっとしていました
けど早くしてくれとか待ってるんだ こっちは1時間もなんて声が罵声
が飛んだりすることもあった。それを 受けているのは実は被災者なんですよ
ね。地震ってそこら中でいろんな 人が被災していて自分たちで立つ
しかない。だから自治組織を作る しかない。だからそこには誰かが
09:01
助けてくれるというよりは空襲の 後の現場のような感じが僕はすごく
したんですよね。そのときいろんな 人たちの人間的な優しさとかも
すごく見ました。近くにいて家から 離れられないおじいさんおばあさん
のところにその被災者の人たちが 水筒を持ってみんなで配りに行った
僕も手伝いに行きましたけどここまで みんなするんだって。学校にいる
人だけが食事が取れるだけでは まずいと考えたんですよね。これを
考えたのも被災者の人たちなんですよ。 そして学校の先生たちがそれを
バックアップする。その現場に 僕は2週間いてですね。人間って
こんなにやれるんだと。そういうことも 逆に思ったんですね。たまたま
昨日久しぶりにその学校の先生 と連絡を取ったら会いたいと先生
から言われて。毎年8月に当時の 保護者と教員で集まってるんだ
そうですがその会で時々カンベさんの 名前出てるんですよって言われて
えーと思って嬉しくなっちゃいました ね。そのときの記録は運善記者日記
という本の中で一章を阪神大震災 に費やしています。運善記者日記
はネット公開をしているので検索 をしていただければ全文読める
ようになっています。第11章が私が 見た阪神大震災の現場のことを
書いていますのでよければ読んで いただけたら。私もいつか近々
阪神に行って当時の皆さんとお会い したいなと思っています。
今度の金曜日17日。あれから30年の 時が経ちます。
カンベ・カヌービーのキャッチアップ でした。
11:47

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