夏の思い出:クイズ番組への挑戦
さて、世の中はお盆休み待ったらなか、ということで、今日の学ぼう社会のカギのお題はですね、夏の記憶、ということだそうですよ。どんな記憶なんでしょうか。元サンデー毎日編集長、潟永秀一郎さんです。
潟永さん、おはようございます。
夏の記憶なんですが、中3の夏、当時の人気クイズ番組、アップダウンクイズの研修予選を通って、中学生大会に出場したことがあります。
アップダウンクイズって、かつとハワイ旅行に行けるやつですよね。
そうなんですよ。
ハワイに行ってきましたか。
気になりますね、結果は。
いやいやいや、これが悲惨というかですね、やっぱり田舎モンなんですね。
本番になったらもう頭真っ白ですよ。
気がついたらもうあと何問かしか残ってなくて、ようやく1問答えたら終わりでした。
緊張しちゃったんですね。
答えわかってても押せないもんですね、ボタン。
そうですか。
もう金縛りみたいな緊張でした。
唯一言えたのがSEEDっていう答えで、夏休みが終わって学校に行ったらもうあだ名はSEEDでした。
無断でテレビに出たっていう。
怒らなくても。
別にクイズ番組に出たくらいでね、いいじゃないですかね。
許可を取りなさいということだったんですけどね。
なんていう半世紀も前のことを思い出したのはですね、
経済問題と支援の必要性
毎週の月曜日帰りに坊をね、店に入ってうどん注文してトレーに乗って空いた席に座ろうとしたらですね、
隣の年配の女性が申し訳なさそうにすみませんそことってますって言われて近くの席に移ったんですけど、
その後でした。娘さんなのかお孫さんなのか、若い女性がかきうどんを一つだけ持って二人の間に置いて、
また席離れて、今度はつゆとか入れる容器ありますよね。
あれの三つ、無料の天かすとネギ。
うどんは一つ二人で分けて、トッピングはいっぱい。
ちょうど見える席に移っちゃったもんですから。
思い出したんです、クイズ。テレビ局の招待ですから、宿も大阪市内なんですが、
母が休めずに付き添ってくれたのは母の妹、おばでした。
初めての土地でご飯どこに食べに行っても値段の高いのにびっくりしてですね。
ホテルのレストランですからね。
環境ホテルだからね。
サラダだけ頼んで晩御飯済ませたんですね。
二人で一つ頼んで。
今はもう外で行ったのになって申し訳なさ感じるんですね。
けれども、昔は一杯のかけそばっていう話がありましたよね。
ありましたね。
あれは後にフィクションだってわかるんですが、
こちらのかけうどんの方は実は、
私もしかしたらね、あんまりお腹空いてなくて一杯しか頼まれなかったのかもしれませんが、
また無料のトッピングをたくさん取るのはどうかっていう意見もあるかもしれませんけれども、
本当に申し訳なさそうに座っていらっしゃった年配女性の姿を見るとですね、
私はちょっと時もそんな風には思わないんですけれども、
家に帰ってまっすぐ仏壇の母とおばに手を合わせて、
貧乏記者だと思うんで、食料品の1%への減税のことを思っちゃったんですね。
あれって来年4月からですよね。
でもこの仏壇で困っている人は今、まさに今困っていらっしゃるんですね。
しかも財源のめどがないまま減税に踏み切れば、
財政悪化の懸念からさらに円安が、多くのアナリストが指摘しています。
結果、減税による負担軽減よりも円安による輸入コストの上昇とか仏壇が直撃して、
結局は生活費につながる恐れがあります。
第一ですね、ガソリン代の保障もそうなんですけれども、
金額でいうと大きな会社に載っている人とかですね、
消費減税も値段なんか気にせず、バンバン食材を買える富裕層の方が、
金銭的な恩恵は大きいわけで、消費減税もいいんですけれども、
それよりもまずは所得や扶養家族の数に応じて、
すぐに給付をするとか、何とかならないのかなと。
そうして、今本当に困っている方々を支えた上で、
食料品減税は財源としての税学税、
外食産業への影響の緩和、
物を元に戻す際の激変緩和措置、
一回議論を重ねてからでいいんじゃないかと。
先週も山本さんと消費税の話をしたんだけども、
僕はもちろん今おっしゃるように、
ちょっと高市さんが公約に掲げたという理由だけで、
ご利用し過ぎている感はあると僕は思いますね。
もっと効果的な、本当におっしゃるように給付なのかわかりませんけども、
物価高い対策、そして円安是正に向けた経済政策とかを
やっていくことの方が大事かなと僕も思います。
円安このまま続くと、いくら減税してもその効果取れないんですもんね。
月曜から悶々と考えているお盆休みなんですけど、
うどんの風景を見てからですね。
戦争の記憶と平和への願い
一方で会っていたおばあちゃんのことを思い出します。
祖母は次男の吉祥寺ちゃんを戦争で亡くしました。
すら戻らない戦死でした。
後に母から聞いたんですが、
祖母は終戦後も何年か、
文字に引き上げ線が入ると聞くたびに出向いていたそうで、
歌にもなった岩壁の母のこと。
文字工に最後の集団引き上げ線が入ったのは1961年だったそうで、
必ずお寺で手を合わせていたんですね。
本当に優しいお兄ちゃんだったと。
そんなぼんやりした記憶をよみがえったのは、
最初の長崎勤務の時でした。
まだ幼稚園生だった長男がですね、
道で立ちしょうべんして、本当に申し訳なかったんですけれども、
通りかかったおじいさんに怒られた日でした。
妻が近所のおばあちゃんにですね、
たくさんの人が道端でも亡くなったの。
だからここは町の全部が墓碑みたいなところなのよと、
教えてくださったそうです。
初めて身近に感じた日でして。
8月ジャーナリズムという戦争報道が集中する。
四季、季節ごとに被爆者の定点取材を続ける企画で、
孫ほども年の違い。
彼ら自身もこれまでの掲載回数は326回。
取材に応じてくださった中で、
14年前に亡くなった。
俺は嘘はかけんと。
中澤さんは忘れられるから生きられる。
でも忘れてはいけないことがある。
という言葉を残してくださいました。
また長崎原爆被災者協議会の元会長で、
9年前に亡くなった他に、
2010年の花園本部での講演で、
自身の被爆直後の生々しい写真を掲げて、
私はモルモットでも見せ物でもない。
もう一度見てほしいと語りかけて、
どうもは広島。
何度も取材に応じていただく。
原爆の工程につながる。
目をそらさないでほしいという言葉を。
今は26年夏の被爆者のシリーズが続いて、
昨日の8月2日の井村隆記者が、
85歳の高飛勝誠二さんとの交流を、
9キロの自宅で黒い雨を浴びました。
そうした被害者の救済は長年放置されて、
ようやく1976年に国は、
黒い雨被害の援護対象区域を指定しましたが、
被爆者認定を求める集団の一人になりました。
5年前の広島交際判決で広がって手にしましたが、
新基準でも対象外となった人々は、
今も訴訟は続いているんですね。
独自の幸運に濃厚促を患って、
体に麻痺が残り、運転免許を返納されました。
5年前に担当記者になった井村記者に、
わしの足になってくれんか。
以来2人は2人3客で1、2ヶ月に1回、
地域をあの日のことを浴びた全員が手帳をもらえること、
少しでもなりたいと記事を結んでいます。
81年目の夏ですけれども、
もう一度これは被爆者のみなさんの思いでもあろう
中澤さんことがありがとうございました。
おっしゃる通りで、やっぱり戦争を体験した人たちが
どんどんいなくなって、それこそ田中角栄さんでしたかね、
その経験を忘れている者たちが、
この政権の注水になっていくのが一番恐ろしいと
おっしゃっていたというのもありますけれども、
忘れてはいけないことがある。
まさにおっしゃる通りだと思います。
今日はお盆の中火ということもあって、
いろいろ夏の思い出を語っていただきました。
そして、やっぱり明日終戦記念日、
忘れてはいけないこの平和のありがたさ、
そして戦争の悲惨さということも伝えていただきました。
元サンデー毎日編集長、
田中周一郎さんでした。
どうもお休みの中ありがとうございました。
ありがとうございました。