長崎・佐世保で起きた小学生が小学生を殺害した事件から20年
2024-06-21 18:02

長崎・佐世保で起きた小学生が小学生を殺害した事件から20年

元サンデー毎日編集長 潟永秀一郎
Learn more about your ad choices. Visit megaphone.fm/adchoices

感想

まだ感想はありません。最初の1件を書きましょう!

00:01
この6月というのは、潟永さんにとって大変つらい月なんだそうですよ。
一つは、1991年6月3日、雲泉福建田家の災害の時に、大火災で同僚の方3人を亡くされたということ。
そしてもう一つが、2004年6月1日に長崎県佐世保市で起きた小学校6年生の女児同級生殺害事件で、先輩の記者の方のお嬢さんが亡くなったことだということを聞きました。
あの事件から今年で20年ということで、今日はその節目に初めて当時のことをお話ししてくださるということです。
潟永さん、おはようございます。
はい、おはようございます。もう20年になるんですね。私にはまだ気持ちが整理しきれてないところがあってですね。
今年の明日、毎日新聞の長官に大きく被害者のお父さんである先輩、三田雷教授さんのインタビュー記事が載っているのを見て、そうかもう20年も経つのかと思ったくらいでした。
すぐに三田雷さんに電話をして話し込んで、来た後はまた妻と話し込んで、その時はすいません実はラジオでお話しすることなど考えてなかったんですけれども、
後からですね、20年の節目が最後と思って毎日の後輩記者の取材だけを受けたんだっていうふうに三田雷さんが話していたのを思い出してですね、
私も今回一度きりお話ししようかと、昨日三田雷さんに電話したらですね、いや気にしなくていいよって20年経ったんだからって言われてですね、
だから私にとっても一つの区切りのつもりでと言っても、まあ一種区切りなんてないんですけれども、お話をします。
ただ断片的な記憶なので不正確なところがあると思うんですけれども、どうぞお許しください。
はい。当時三田雷さんは毎日新聞の佐世保市局長、私は福岡本部のデスクでした。
午後1時過ぎだったと思います。三田雷さんからはおそらく小倉の西部本社に長女さとみちゃんが事件に巻き込まれて亡くなった旨の電話があったらしくですね、
私は至急会社に戻れっていう連絡を受けて帰ると、そのまま会社の車で佐世保に向かえと指示されました。
だから何が起きたのかよくわからないままでして、現地に向かう車の中の電話で少しずつ状況を知ってですね、私も混乱してました。
ただのはっきり覚えているのは当時の編集局長がですね、お前取材一切しなくていいと、三田雷のそばにいて支えろ、三田雷を死なせなと繰り返したことです。
この局長は三田雷さんが新人記者当時に支局のキャップで、お兄さんのような存在だったからだと思います。
03:00
私も三田雷さんとは若い頃からの付き合いで、独身当時からの付き合いでですね、長崎支局にいた当時はデスクとキャップという間柄でもありました。
この時は家も近所で、忙しい時はデスクもキャップも二人とも遅くなりますから、三田雷さんのところは奥さんと子供さんに、
うちは妻と子供二人、どっちもお父さん無期の計7人で一緒にご飯を食べるような、そんな家族グループの付き合いでした。
だから会社から刻一刻の連絡を受けてもですね、間違いであって欲しいって思う脳が理解を拒むというかですね、現実感がありませんでした。
だから局長はそんな私の状況を読んで三田雷を死なせなって強い口調で言ったんでしょう。
そこでまあハッと目が覚めた思いだったのを覚えてます。
実は局長がですね当時の三田雷さんを死なせなと言ったのには事件とは別の事情もあってですね、
三田雷さんはこの3年前に奥さんも病気で亡くしてまして、
消水しきった三田雷さんを支えたのが子供たちだったからなんですね。
それはもちろん父親としての責任感もそうですけれども、むしろ本当に子供たちがお父さんを励まして元気づけて、三田雷さんがどっちが大人かわからんなっていうぐらいでした。
生っ子の一人娘だったさとみちゃん、さっちゃんまで育てあげることが当時の三田雷さんのただ一つの人生の目標で、
きっと奥さんにも誓ったと思うんですね。
サセボに向かう社中から三田雷さんに電話をして、家とは、自宅とは離れたとある施設で落ち合いました。
サセボ市局ってちっちゃなビルで2階が市局、3階が市局長住宅っていう作りで、しかも隣がですね各社の取材拠点となっているサセボ警察署なんですね。
だから家に帰れば混乱がそこから続くのは必死で、
さっちゃんのお兄ちゃん、次男のお兄ちゃんや市局まで巻き込んでしまうのは、父親としてそれから市局長としてもうこれは避けたいという思いと、
あとは帰ってくるさっちゃんをせめて静かに休ませてあげたいという思いですね。
三田雷さんの遺行を確認して、県内の別の市にあった奥さんの実家に三田雷さんとお兄ちゃんは当面移ってもらうことになりました。
三田雷さんの同期入社でしたし、高原勝幸さん、私にとっても先輩記者ですけれども、もう合流してですね、
警察など外部の対応は2人が窓口になるっていうふうに決めて、警察にもその旨と居所を伝えて、
司法解剖を終えたさっちゃんのご遺体は私が引き取りに行きました。
さっちゃんが帰ったのは深夜でした。ここでいくつか触れておかなければならないことがあるんで、少しお話しますと、
06:07
一つは取材とですね遺族のケアと毎日新聞は厳密に2つの役割を分けたということです。
今お話しした通り、私は遺体を引き取って様々な説明を受けましたけれども、
そのことも含めて同僚記者に一切遺族の代理で聞いたことは話しませんでした。
この事件報道が終わるまでずっと三田雷さんも高原さんもそうでした。
キレイごとに聞こえるかもしれないんですけれども、それはメディアとしてフェアじゃないっていう考えを
会社も三田雷さんも共有してました。おかげで私と高原さんは三田雷さんのケアと様々な手続きの代行に専念できました。
もう一つは長崎県警の対応でして、県警はこの5年前にですね被害者対策推進要項っていうのを制定して、
被害者や遺族の支援に取り組み始めたところで、実はちょうどこの年の8月に犯罪被害者支援室を立ち上げる。
2ヶ月前だったんですね。これは後に県警幹部に聞いたんですけれども、まさにそのテストケースとなったそうで、
遺族が何を望んで警察に何ができるのか、親身に相談に乗ってもらいました。
またこの経験がその後の被害者ケアに役立ったと言われたことが、微かな光になったのを覚えています。
最後の一つはこれが一番大きいんですけれども、取材する側だったというかその後もそうなんですけど、私たちが初めて被害者の立場になったということです。
実は事件当時、三田雷さんがどうしても当日ですね、発生当日聞き入れてくれなかったことがあって、
記者会見です。今はやめといてくださいと必死に止めたんですけれども、三田雷さんは自分も取材してきた人間で、被害者側になったからと言って逃げるわけにはいかないと聞かなかったんですね。
そう話せば記者の私たちが言い返せないと思ったんでしょうね。
ただ今月1日のインタビュー記事で三田雷さんは、当時中学生と大学生だった2人の息子に取材が及ぶのを避けたかったというふうに、20年目のインタビューで語っていてですね、おそらくこちらの思いが強かったんでしょう。
子供たちを守るために、という気持ちが強かったんですね。
加害少女の供述などが明らかになった後、再度の会見要請はあったんですけれども、さすがに精神的に厳しいと、医師の助言を受けて弁護士さんに止められましてですね、手記を書いて弁護士さんが代読したんですけれども、
09:06
実はこのやり方はその後様々な事件で今も踏襲されてるんですね。
でまたどうやって調べたのか、さっちゃんの葬儀の日にある雑誌記者が奥さんの実家を張り込んで写真を撮られました。
その後はわかってしまうとどんどん増えたんですけれども、事件以降泣き通しだったおばあちゃんにも辛いし、ご近所にも迷惑が及ぶので、ひっそりとサセボに戻りました。
三田さんの元には多くの手紙も届いてですね、高田さんと私が読んで差し支えのないものだけを渡しました。中には信仰宗教の誘いとかですね、抽象に近いものもあったからです。
でも当時はまだSNSが普及する前でしたから、今ならこの日じゃないんだろうなぁと思いますし、そんな被害者側の思いを身をもって知った日々でした。
その後三田さんとお兄ちゃんは外に出ることももらわず、事件に伴う手続きとか買い物とかは高原さんと私が出てですね、家事は大人3人で分担しました。
私は主に料理担当でしたんですけども。本来三田さんを見守ることが高原さんと私の務めでしたから、ずっと多愛のない話をしたりですね、三田さんが好きで取りためていたスポーツのビデオをみんなで見たり。
どっか張り詰めてるんですけれども、平穏えいじっているようなですね、そんな日々でした。ある夜ですね、三田さんがテープを選び間違えたのか、家族で撮ったビデオをダビングしたやつを再生してですね、ここに生前のさっちゃんも写ってました。
高原さんと私は慌てたんですけれども、三田さんはあれこれ話しながらしばらく見てました。でも三田さんも動揺してたと思います。その後はもう見ることはありませんでした。
とはいえですね、一つ下の階では福岡からの応援記者も加わってごった返してましたし、隣の警察署からはですね、あのパトカーのサイレンが聞くと胸に響くんですね。
何よりお兄ちゃんが学校にも通えない生活はすぐにやっぱり限界が来てですね、三田さんは転居を決めて、私局から離れた暮らしでようやく少しずつ日常を取り戻して、三田さんはもう心配しなくていいと、大丈夫だからって高原さんと私に帰るように言ってですね。
12:02
それで男4人の合宿生活みたいな生活は終わったんですけれども、時限から1ヶ月余りが過ぎてたかなと。ちょっと本当に記憶がはっきりしないですけども、とびとびでごめんなさいね。
あれから20年で、実は私には一つ痛恨の思いがあってですね、これは下野お兄ちゃんのことです。事件直後からそばにいながらですね、私たちの目は三田さんの方に向いてて、当時中3だった彼の痛みには寄り添ってあげられなかったことをですね。
当時佐世保市局員だった河野掃除記者の本で、僕と僕妹の命が奪われたあの日からなどで知りました。
今月2日毎日新聞のインタビューに応じたお兄ちゃんはこう語ってます。
事件発生後中学校に迎えに来た三田さんは顔色を失い、別人のようだったと。それでこう言ってるんですね。
父まで失うんじゃないかと急に怖くなって、安心させるためにお父さんの前では笑顔でいようと決めた。
その後はできるだけ気丈に振る舞うように勤めた。妹の同級生には心のケアが必要だとカウンセリングを受けるように案内されたけれども、
実の兄である自分にはそんな声はかからなかった。周りの大人に晴れ者扱いされていたように感じた。
その大人の一人が間違いなく私です。
実は昨日あの当時のことを妻に聞く中で、妻がこの話したんですね。
あの日私が佐世保に向かおうとした時、子供たちも一緒に食って聞かなかったと。
あっちは大変だから残ってって言ったら、その2番目のお兄ちゃんの名前を言って、〇〇はどうするんだよって。大人ばっかりじゃないかって。
それで連れて行ったんだっていうのを初めて聞きました。
当時子供たちが気づいていたことに私は気づけなかったということでですね。
本当にいつかお兄ちゃん会ってですね、ちゃんと謝らなきゃいけないなって心から思ってます。
すいません、長々話しましたけれども、
あくまで本当に話したら何時間でも足りないんですけども駆け足で、
私が見えていた事件当時をお話ししましたけれども、
三田雷さんとお兄ちゃんの今の思いはですね、これも本当に読んで欲しいんですけども、ぜひ毎日新聞デジタルで、毎日新聞三田雷で検索できます。
15:04
ようやく最近、さとみちゃんの遺品整理に手を付けられるようになった三田雷さんは、
そのインタビューの中で、事件と自分との執着点は今も見えないが、
息子二人の家族が穏やかに生活できれば、俺は幸せだって話しています。
だからそう言えるための20年だったのかもしれないなと、この20年の節目に私も思っています。
それにとって辛い経験、もちろん三田雷さんはご本人ですから、またお兄ちゃんもそうでしょうけども、
それを支えた中の、畠中さんの辛い思い出というか、思い出と言ってはいけないね。
もうちょっと話を聞いているだけでも、こっちも切なくなるような。
なかなか伝えられない。報道されていない部分でも、被害者の。
報道する側の人が被害者になるということも、逆に言うと経験されたということで。
これは本当に、畠中さんがおっしゃるように、毎日新聞デジタルで検索して、私も記事を読ませていただきたいと思います。
今日はどうも、畠中さんありがとうございました。
ありがとうございました。
どうもありがとうございました。
元三田毎日編集長、畠中修一郎さんでした。
18:02

コメント

スクロール