かなえさんは原爆ドームって実際見たことあります?
ありますよ。1週間くらい周辺に滞在してたことがあったんで、
その時は毎日見てましたね。
印象とか思い出とかあります?
印象は、すごい正直に言うと、
遺跡のひとつみたいな感じで馴染んでる印象というか、周りに。
もちろんちょっと外壁とか崩れ落ちてる感じとかを見て、
ここで大変なことが起こったんだなっていうのもすごい感じたし、
けど、あそこの空間の中で、あそこだけすごい変わってるかっていうよりかは、
周りに、なんだろうね、難しい。
わかります。
なんて言えばいいのか、言い方ちょっと難しいんですけど、
でも、あれありきの広島というか、周辺なのかなっていう感じ。
そうですね。
でも、なんか私がすごくいいなって感じたのは、
やっぱりそこの場所の周辺で、日常的に公園があるじゃないですか、
お使ってる人とかがちゃんといて、
しっかりと原爆ドームっていうものと触れられる環境があるっていうのはすごくいいなって思いましたね。
確かに。結構生活に馴染んでますよね。
馴染んでたイメージというか、
こうやってみんな普通に周りで暮らしてるんだなっていうね。
確かに確かに。僕も多分っていうか、確か記憶が正しければ、
10年の時に付き合ってた彼女と、あそこの公園で普通に歩いた、
なんか全然普通にそういう昔のことを話すんじゃなくて、
普通にたわいもなく歩いた記憶があるので、公園としても馴染んでるっていうのはありますよね。
そんな原爆ドーム、平和記念公園も含めてですかね。
なんですけども、ご存知の通り1945年にですね、
人類史上初めて人の上に原子爆弾が落とされたという話が必ずくっついてくるんですけども、
人類の高級的な平和を願う記念碑として世界遺産に登録されております。
簡単にちょっとその触りの部分だけ、もう一回おさらいというか、できればと思うんですけど、
遡ること今から80年ですかね。
1945年8月6日の朝8時15分、人類史上初めて都市の上に原子爆弾が投下されるということで、
当時の広島市の人口が推定で35万人と言われてるんですけど、
どれぐらいの方が亡くなったかというと、即死者の人数はちょっとわかりません。
とんでもない数の方が亡くなっていて、データっていうものが出てないらしいですね。
ただその年の年末、1945年の年末までに亡くなった方が推定で14万人。
なので約40%の人が亡くなったと。
ほぼ半分ってことですよね。
そうですね。と言われています。
この半年間っていうのがちょっとミソでもあるんですけども、
結構原爆とか毎年夏のテレビ局の映像とかですごい猛威っていうか、
破壊力っていうのが映像で映し出されることが多いんですけど、
実はその後も猛威症というか起こるものが多くて、
原爆から放出された大量の放射線が人の細胞を破壊してしまうと。
これによって高熱、下痢、脱毛、
あと皮膚に青たんみたいな紫色の反転がつくらしいですね。
これが原爆症と言われるものの症状らしくて、
無傷でも数十年後に白血病だったり、
あとがんとかを発症する事例がすごく多いというふうに報告があります。
なんとなく投下された映像が多いから、
すごい破壊力がすごい一般的に浸透してるかもしれないですけどね。
猛威症というのも結構甚大な被害が人間に残してしまう。
映画とかドラマとかで見かけた方とかはそこも結構描かれているというかね。
喉が渇いちゃって、本当は飲んでいけないけど水飲んじゃったよとか、
とかもあったり、色々ありますよね。
自分たちが知らない部分もたくさんあるんだろうとかも思っちゃうし。
結構鎖骨とかもあったみたいですね。
結構仲間外れにされたりとか、
県庁の例で言うと被曝者は就職試験に行っても落とされてしまうという例だったり。
結構有名な話で、
張本一沢さんって知ってます?
プロ野球選手で、一朗が抜くまで日本のアンダー記録を持ってた人で、
サンデーモーニングで勝つっていう人なんですけど。
広島出身なんですよ。
3000本以上ヒットを打ってる人なんですけど、
原爆経験者で、お姉さんを確か亡くしたのかな。
プロ野球に入ってても、ずっと被曝者ということを隠してプレーしていたと。
自分はどれだけ活躍しても次の日には原爆症発症するんじゃないかと、
すごく怖がりながら現役生活を送っていたというふうにおっしゃってました。
いわゆるこの人は続かないんじゃないかって思われるところで、
例えば会社とかも雇ってもらえないとか、ということですよね。
社会的にもそういう風潮があったのかもしれないですね。排他するっていうか。
ありそうですね。
そういう人を内側からも外側からも圧力をかけてしまうというものが原子爆弾の脅威なんですけども、
ということもあって、原爆ドームって当時の方からすると、
被曝を象徴する負の象徴物みたいなところがあったらしいんですよ。
本当に見るだけでトラウマになっちゃうから、見たくないっていう方が続出して。
1949年に世論調査をしたらしいんですけど、
保存を望む人が62%で、35%の方が取り払ってほしいと。
それぐらい負のイメージが当時は強かったらしいですね。
たぶんここに限らず、ちょっと規模感とか出来事は違うけど、
例えば、昔すごいしんどい思いをした学校とか、
習い事とかね、そういう場所とかも、きっと何年後とかに見たとき苦しくなっちゃったりするのもあるじゃないですか。
ありそうですね。
もちろん命にはかかることではないですけど、
それ以上に見るだけで苦しい思いをしてしまうみたいな人がめちゃくちゃいたんでしょうね。
そうですね。
ただ保存するっていうのも、やっぱ当時やけの腹じゃないですか。
市民ももちろん貧困にあいなんですけども、市政自体もお金がなくてですね。
保存するお金も余っていないということで、
なかなかそれをうまく残しておくっていうのは難しかったそうなんですよね。
ということもあって、
存じ保存という形で、いわばそのまま手を加えないで放置する形を市がとっていたと。
なんと戦後20年間も何もせずそのまま放置ておかれたそうです。
思っていたより長い間そのままだったんだなっていう印象がね。
建物に対する外償というかそのままの状態にしておくことで、
どんな影響があるのかとかどういうふうに変わっていくのかみたいなところまでは私はわかんないですけど、
よく保ってられましたよね。
そうですよね。何もしてないですからね。
すごいですね。そう考えると。
ただ景気というか、今保存されて平和の象徴物になってるじゃないですか。
ここに変わった一つのきっかけがありまして、
一人の被爆者の少女がきっかけだったと言われています。
その方の名前が梶山博子さんということで、
1歳の時に爆心地から1.2キロ離れた自宅で被爆されるんですね。
ただ外傷なくてすごく健康な状態でその後も過ごしたんですけど、
15年後に急性発血病を発症してしまって、
それからわずか4ヶ月後に16歳の若さで、
4ヶ月か。早いですね。
この世を去ってしまったと。
梶山さんが亡くなる1年前の8月2日、
病気発症前かなと思うんですけど、
その時に残した日記が残ってるんですよ。
その一節に、あの痛々しい産業奨励館、これ原爆ドームのことですね。
産業奨励館だけがいつまでも恐れるべき、
原爆を世に訴えてくれるだろうか。
という一節を残していて、
16歳の若さで亡くなった女の子が、
こんな言葉を残して亡くなってしまっているっていうことに、
市民がすごく振り起こされたそうなんですね。
これをきっかけにですね、
その梶山さんが亡くなった4ヶ月後に、
少年少女を中心に原爆ドームの保存を呼びかける署名運動が広がりました。
同世代の子たちが最初は運動をこうしたらしいですね。
もちろん最初は認められることもなく、
なかなか前進できなかったんですけども、
いろんな人たちを呼び込んでいって、
ついに1966年には広島市議会が動いて、
原爆ドームを永久保存することを決定させます。
この動きは市民だけじゃなくて、
広島県を越えて活動が広がっていくんですね。
当時の広島市長が東京に赴いて、
状態という寄付を募金運動を有楽町に市長が立ってやったそうです。
これによって資金が潤沢に集まって、
1967年に1回目の保存工事が始まると。
その後に2回目、3回目と続いていくんですけども、
いよいよこうなったら原爆ドームを世界遺産にしようじゃないかという機遇も高まってきます。
ただ皆さんご存知の通り、世界遺産に登録する上で、
法的にそれを保護しないといけないというお約束があったりするんですけど、
原爆ドームって言っても近代建物なんで、建築なんで、
文化財として日本の法律を保護するにはちょっと年齢が近すぎるよという風に指摘を受けてしまいます。
そこで市議会中心に文化財保護法という法律自体を改めようじゃないかという運動を起こして、
ついに文化財保護法の概念が変わります。
結果として1996年、今からちょうど30年前、
世界平和を目指す活動の記念碑としてその価値が認められて、
メキシコメリダの世界遺産委員会にて世界遺産に登録と。
されました。
結構ストーリーがあるんですね、世界遺産登録までに。
確かに建物一つ残すとなったら結構いろいろ、例えば持ち主が変わったりとか、
その市区町村の方向性が変わったりすれば扱い方も変わってきたりもするしとかで、
やっぱりいろいろありますよね。
そうですね。
いつかな、長崎の話したじゃないですか。
第64回、潜伏キリシタンの件。
で、同じような原爆ドームにいた例で、
向こうの浦上天守堂っていう天守堂が原爆の被害に遭ったっていう例をちょっと挙げたんですけど、
同じような被爆建物だったんですけど、浦上天守堂は取り壊す形に決定したんですよね。
で、かたや原爆ドームは保存という形になった。
そこにいろんな要因があって分岐したと思うんですけど、
本当にこういった被爆建物っていわゆる廃墟じゃないですか。
それを残すって結構難しいことなんだなっていうのはちょっと、
振り返りながら。
確かに入れるわけでもないしとか、
現実的に考えたときにお金を落とせるわけでもないじゃないですか。
とにかく運営する側としては保っているだけでお金もかかるし、
でも外からお金が入らないですよね。
とかで考えると、確かに違う建物にして行ってもいいのかっていうね、
そういう声もあってもいいと思うし、
別にどっちが良い悪いではないとは思いますけどね。
そういうのはありそうですよね。
そうなんですよね。
本当に紙一重で保存か、それとも取り壊しかっていうのは、
判断が分かれるんだなっていうのを振り返りながら思ったので。
でもなんか、人は利用しなくても、
そういうところで、例えばこうやって教育の場として使い続けるとか、
将来を担うような子どもたちのための一部として、
話を話題に出したりとかっていう面では、
すごい存在感の強いものだと思うんで。
それを考えると、やっぱり寄付とか募金みたいな形で、
お金を落としてくれる人っていうのはめちゃくちゃいると思うんで。
確かにそういう人は必ずいると思うんで。
そうですね。
全然私もこのまま残っててほしいなって思うし、
ちょっと劣化はいつまで残っているのかって感じもあるけど正直ね。
そうですね。
いろいろ危ないですもんね、今。
そうですね。
地震があったり、自然の災害とかもいっぱいあるから。
原爆ドームって外から見ると、そのまま被爆建物できれいに外壁が残っているように見えるじゃないですか。
でも、塀があって中入れないですけど、
Googleマップで原爆ドームって調べて、そこを押してストリートビューにすると、中入れるんですよ。
そうすると、中から鉄骨が本当に痛々しいぐらい伸びているのが見えてて、
それ見ると、やっぱりちょっと危ないんだなっていうのを、
危ないっていうか、紙一重で残っているのかなっていうのがすごく。
本当ですよね。近代的な建物ですら崩壊しちゃったりするのに。
だから、そう考えたら、もしかしたら今しか見れないかもしれない。
30年後とか50年後とかは、もしかするとないかもしれないですもんね。
そう考えると悲しいけど、でもね、それはあり得ることなんだなっていうのも、ちょっと今思いましたね。
大会をしてもらいたいので、ぜひ皆さんもよければGoogleマップで原爆ドームって調べてもらってストリートビューにしてもらえば、
すごい生々しさが伝わってくるので、保存状態の参考にしていただければなと思います。
最後に、第1回目でもちょっとお話ししたんですけど、僕的にすごく大事にしているお話で、
原爆のこの像っていう像が平和公園内にあるんですよ。
ちょっとそのお話を、1回目ではしていない話でも含めて、改めてちょっと皆さんに紹介させてもらいたいなと思いまして。
すごく原爆っていうものがどういうものなのかっていうのをイメージしやすいお話かなと思うので、聞いていただければなと思います。
1943年生まれに、佐々木貞子さんという少女がいました。
被爆当時は2歳だったそうです。
爆心地から1.7キロ離れた自宅で被爆を受けると。
強烈な爆風で吹き飛ばされるんですけど、
火傷とか傷もない状態で、奇跡的に無傷だったそうです。
ただ、お母さんに背負われて避難している時に黒い雨に打たれます。
黒い雨って聞いたことあります?
結構、昔テレビとかでよくやってたじゃないですか。
今ちょっとテレビ見ないから、やってるのかもしれないけど。
その時に、ちっちゃい時に見た記憶がありますね。
そうですね。よくドラマとかでも描写があるんですけど、
放射線を含んで雨が黒く液化するものですね。
最近だと、ゴジラマイナス1とかでもそういう描写がありました。
本当に木銃を垂らしたような。
黒い雨で放射能を大量に含んでいると。
その黒い雨に浴びてしまうということですね。
ただ、貞子さん自身はすごく元気な子で、足が速くてスポーツ万能ですごい明るいキャラクターですくすくと育っていったそうです。
ただ、被爆から10年後の12歳になった時にですね、ちょっとした風邪。
本人的には体がだるいなとか、そんな症状だったんですけど、
風邪のような病気のような症状を感じてしまいます。
貞子さん自体も12歳なんで、中学校進級マジカルだったんです。
学校がすごい好きな子で、将来は体育の先生になりたいと。
すごく勉強を熱心になったらしいんですけど、
進級を控えたタイミングで風邪のような症状に追われると。
ただ、全然その風邪の症状が治らなくて、
首だったり耳のあたりに腫れができて、その腫れもどんどん進展していって、
しこいのようなものになっていくと。
イメージ的には、小田吹風ってあるじゃないですか。
小田吹風に感染したような感じで、腫れ上がっていったそうです。
で、その時にですね、左足の方に紫色の斑点が見え始めます。
冒頭に伝えた通り、原爆症の兆候ですね。
このタイミングで出始めたということですね。
ただ当時は、それが原爆症の兆候ということがわからなかったので、
風邪だと思っていろんな病院を渡り歩くんですよ。
ただ原因不明という感じで、てんてんと病院を回っていったところを、
とある病院で、白血病だと診断されてしまいます。
当時突き沿いした佐渡さんのお父さんに、
余命は長くとも1年ですという、余命宣言がされてしまいます。
ということで、被爆当時は何もなかったんですけど、
10年後に原爆症として急に発症してしまうというケースがあるんですね。
結構厄介ですよね。
そうですね。潜伏が結構長いイメージはありますけどね。
今でこそ、潜伏して発症するっていうのが過去からわかるけど、
当時ってなんでなんでっていう感じだったんでしょうね。きっとね。
多分。どうなんだろうね。
でも私はあの時あそこにいたしな、みたいなのをよぎったりもするんですかね。
どうなんだろう。
でも、不安はあるんじゃないですか。生きている上で。
いつ何が起こるかわかんないっていう不安はあると思うな。
確かに。冒頭のプロ野球選手の張本さんも、
明日に怯えながらプロ野球生活を送ってたっていう。
周りもね、どんどん亡くなっていく人がいたりっていう環境だと、
多分自分もそうなるかもしれないって思いながら、
なんじゃないかなと思いますけどね。
そんな感じでですね、嫁宣告されてしまいます。
春になって、さだこさんがずっと待ち合わせた進級を果たすんですけど、
当然学校へには通えなくて、
8月6日の日に特別に外出許可を得て、
平和記念式典に家族で向かおうとしたらしいんですね。
ただ、向かう途中に歯茎から出血が出て、
速攻で病院に行ったと。
たくさんの同級生が見舞いに来たんですけど、
もうその頃には片足に紫色の斑点があったのが両足に広がっていて、
確実に原爆症の症状が進行していたそうです。
そのタイミングで、名古屋の同世代の子たちから、
オリズルが病院に送られてきたらしいんですよ。
で、1000羽おれば願いが叶うっていう話を聞いて、
佐々木さだこさんは、願いを叶えたいという気持ちと、
生きたいという思いをかけて、鶴を織り始めます。
紙がなくて、時には薬の包装紙で織るんですけど、
平和記念資料館にあるんですけど、こんなちっちゃい鶴を織ってるんですよね。
ピンセットで織ったんじゃないかっていうぐらいの、
実際、佐々木さんが織った鶴が展示されてるんですけど、
そうしてですね、1ヶ月後に1000羽織るんですけども、
1000羽を越えても、体が動く限り、佐々木さんは鶴を織り続けたそうです。
ただですね、その後、佐々木さんの白血球は急激に増加して、
次第に自力で歩けなくなってしまいます。
薬ですね、最初の症状が現れて、ちょうど1年後ぐらい、
1955年の10月25日、白血病という診断を受けて、
8ヶ月後、長い闘病生活の末、家族に見守れながら、
この世を去ってしまったというお話があるんですね。
この話が広島市内に広がって、
いろんな人が佐々木さんのために鶴を織ったりですね。
広島市が佐々木さんを移動して、原爆で亡くなった子どもたちの霊を慰めて、
平和を築くための像を作ろうという運動が始まります。
今ちょうど原爆ドームの前に川が立っているんですけど、
その川の向こう側に長細い像で、少女が織鶴を掲げている像があるんですけど、
これが原爆の子の像という名前で、今もですね、
そこに多くの方が集まって織鶴を提供していると。
すごいですね。国内外から集まるらしいんですけど、毎年1000万羽、
重さにして約10トンの織鶴が届けられているそうです。
というふうに、原爆というものがもたらす事例として、
そういう像が建ってあるんですけど、
僕も結構このお話は幼い頃から聞いていて、
結構1回目のキセカで取り上げた時に反響が多かったので、
ちょっと5年という節目でもう1回皆さんに聞いてもらいたいなと思ってご紹介しました。
今は直接体験した人がどんどんなくなっちゃってて、
継承というのが本当に難しくなっているんですよね。
私も被爆はないけど、
実際に戦いに行っていた人とかに関わったりしたことはあったんですけど、
でも、そういう方がいなくなっても、教育としてはわりと東京都内とか、
北海道ももちろん私、生まれ育ったんでわかるんですけど、
戦争の教育って結構あるんですよね。
北側ってわりと遠いんで、そういうイメージないかもしれないけど、
わりと本当に何度も何度もやってきたりとか、
最近は本当に東京都内でも小学校、中学校とかでやってるんだなっていうのも知った出来事があったんですけど、
だから、別に知らないとかはいらないかなとは思うんですよね。
こういうところでこういうことがあってとか、多くの人たちが亡くなっちゃってとかもあると思うんですけど、
ただ、私も正直そこにいなかったからわかんないし、
その人の気持ちには正直なれないんですけど、でもちゃんとこういうことがあったんだなって理解をした上で、
大事なのって、日本でこういうことがあったってやってるだけじゃなくて、
たぶん、今私たち普通にこうやってありがたい環境で生きてるわけだから、
ちゃんとそこを充実させて頑張って生きるとか、
あと、日本は戦争やってないけど、世界中ではやっぱり戦争やってる国ってたくさんあったりとか、
戦争してなくても、日本でも糖尿生活が起こってる人とかもいるじゃないですか。めちゃくちゃね。
だから、そういう人のこともちゃんと考えながら生活するっていうことにつなげるっていうのが、
私はこういうふのいさんっていう教育を通して一番大事なことかなって思いますね。
その通りですね。
なんかね、こういうことがあったあったじゃなくて、やっぱり自分たちは今生きてるわけだから、
次にちゃんとつなげて、一生懸命生きるっていうだけでもいいと思うんですよね。
そうですね。
って思うな。
ほんとその通りですね。
僕からも、原爆ドームっていう世界遺産を通して、
あとは自分自身が受けてきた平和教育とかを通してなんですけど、
やっぱり多くの方が広島にすごく集まってて、
毎回毎回帰省するタイミングで、こんなに人狂いになったんだなっていうのをすごく感じるんですよ。
もちろん平和記念公演とか、原爆資料館とか原爆ドームの前にもたくさんの方が、
海外からも国内からもいっぱいいて、年々増えてる実感をすごく感じてるんですけど、
もしね、行かれる場合は、やっぱね、結構ショッキングな展示とか多いです。
多いし、ずんと来るんですけど、
結構ね、涙流されてる方とかもね、いらっしゃるんですけど、
ぜひね、話だけの感情じゃなくて、いろいろ考える時間を作ってもらいたいなと思って、
実際こういうことが80年前はあった。
で、それを繰り返さないために、日本だけじゃなくて、
どういうことが必要なんだろうっていうのを一人一人が考えるようになったら、
この世界遺産でもある原爆ドームが本来の役割を果たしていることになるのかなと思うので、
僕も含めて、ちょっとこの帰省したタイミングで、ゆっくり考えながら回ってみたいなと思いました。
はい。
ちょっと今回は、ちょうど5周年だったんで、原点回帰を含めてお届けしました。
ということで、今回の世界遺産は、日本から広島平和記念碑原爆ドームでした。
ありがとうございます。
ということで、これから6年目に入っていきます。
そうですね。6年目か。
で、8月は、いろいろイベントもあるじゃないですか。
公開収録イベントも来、今週か。
今週末に控えていて、今頃も多分申し込みは終了しているのかな。
一旦、そうですね。終了しているのかなと思います。
と思うんですけど、ちょっとね、いろいろやっていきたいですね。
いろいろ?
ざっくり。
まあ、なんか分かんない。まだちょっといろいろ、今後何するかとかは詰めてないですけど、
なんかでもしたことないような、方向性とかの人と関わっていったりとかもしたいなとも思うし、
まあね、ちょっと世界遺産ってすごい広いんで、どこに絞るかっていうのもすごく難しくなってしまう。
けど、なんかでも最近すごい気をつけたいなって思うところが、
気をつけたいな。
気をつけたいなっていう。配信で特に。
やっぱ、いろんな世代の人たちに聞いてもらってるから、
そもそも私たちが普段使ってるワードとかも、分かんない人とかもいたりするのかなって感じるようになった。
ポッドキャストって、めっちゃ広くなってるじゃないですか。
前は意外とポッドキャストは、すごい専門性があってとか、
とにかく、コアな人にすごい好かれるんだよみたいな感じだったと思うんですけど、
最近学生とかも利用するようになってて、
なんとなくポッドキャストの扱いというか、立ち位置変わってきてる気がするんですよね。
だから、いろんな世界遺産もなるべく皆さんと距離の近い立ち位置で、
かつ分かりやすく分かりやすいワードで、
気をつけてやっていきたいなみたいなのは、ちょっと意気込みとしてありますね。
私個人的になんですけど。
僕もちょっとダジャレの量を減らしたほうが良さそうですね、それは。
ダジャレね。ダジャレすいません、私も拾えないんですけどね。
暴走したいんだったら全然オッケー。暴走しててオッケーっていう感じだったら全然いいですよ。
全然それは私は大丈夫だと思う。
油断にいられてますね。
一番困るやつですね。
難しいですからね。でも、めっちゃ世代は広くなってると思います。
確かにそうですね。
この間、どこかで話したんですけど、インタビューか何かで話して、
結構10代とか20代の方からお便りいただく機会が増えたじゃないですか。
言うても全体の層で言うと、多分5%もないと思うんですけど、
ただ、5%ほどしかない10代20代の生きせかリスナーの方って、
めちゃめちゃ自分の意見をお便りだったりコメントですごい残す方が多くて、
すごい濃厚な層だなって感じてます。
もしかするとその人たちが周りの人に広めてくれて聞くきっかけになったりするかもしれないんで、
なんとかその人たちにこの番組いいな面白かったなって思ってもらえるように、
どんどん層を広げていきたいですね。
なので、その辺もしっかりこういうワードっていいのかなとか、
最近アラダメで確認するときがあるというか、そうなんですよね。
今の確かに私のこの歳だからわかるけど、
学生のときってこんなワード聞いてもわかんなかったなとか自分で話すことで結構あったりするんですよ。
だから、そういうのも勉強していきたいというか、言い回し?ボキャブラリー?
私はないんで、すごく。
その辺は記さえて6年目頑張っていきたいと思いますね。
5年やって、最初30歳生ぐらいだったのが、今じゃ考えられないぐらい成長して、全然イメージできなかったですけど。