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こんにちは、またはおはようございます。
もし、この放送を聞いているあなたが今、過ごしている時間が夜であれば、こんばんは。
イカ市川、第236回目の放送が始まりました。
私はですね、このイカ市川のパーソナリティーのノスタルジー鈴木です。
いつも一緒にお送りしているもう一人のパーソナリティーである稲村ジェーンさんはですね、
先ほどまで、この収録に参加したいというすごい強いですね、意気込みを見せていたんですけれども、
ちょっと私が収録の前にですね、いろいろと雑務をこなしているうちにですね、
あまりにもその雑務にかかる時間が長かったものですから、
稲村さんがちょっと痺れを切らしまして、いなくなってしまいまして、
仕方なく私が今、こうして一人で収録しているというわけでございます。
イカ市川第236回目の放送は、西暦2025年7月16日に収録しております。
このイカ市川ではですね、イカ市川というこのポッドキャストではですね、
市川市にまつわるあんなこと、そんなこと、こんなこと、いろんなことを話しているわけですね。
素敵なサムシングについて話していたり、あんまり素敵じゃないサムシングについて話していたりしますけれども、
今日はですね、市川市のというわけではないんですが、なくというか、市川市を超えてというか、市川市にあまりむしろ関わりがないんじゃないか、
日本全体でですね、非常に注目度の高いある人物のお話をしたいと思うんですが、
その方はですね、千葉県の桜市出身なんですね。
千葉県の桜市出身、そしてなんですけれども、知る人と知る市川市で、
市川市でのですね、若き日の活動がその後のその方のですね、
花開いていく大いなる飛躍に関わってくるというですね、市川市での若き日の知られたる活動がその後の大いなる活動に関わってくるというわけで、
そんな話をしたいと思います。
というとですね、ちょっとこの音楽が好きな方なんかは、
さくら出身のバンプオブチキンというバンドが、もとやわたのライブハウスで、若き日にですね、
ライブを重ねて経験を積んで人気を博していった、実力をつけていったという、そんなことを想像したかもしれません。
もちろんそれについてもですね、いつか語れればなと思っているんですが、
それについて語るのであれば、私よりもですね、
ノステラジアンドルミエルという市川市の小さな楽団を標榜するバンドがあるんですが、
そのバンドでドラムを叩いている、とりあえず&さん、またはギターを弾いている、やむを得ず&さん、
この2人のどちらかにお話を伺う方がよっぽどですね、厚くそして深く、濃いお話が聞けるんじゃないかと思うんですが、
今日はですね、バンプオブチキンではなく、同じくさくら出身なんですけれども、
実は今年2025年の6月の3日ですかね、89歳で亡くなった、長島茂雄さん。
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野球選手、そして野球の監督、野球人の長島茂雄さんですね。
この方のお話をしたいと思います。
この方についてはもう、私があれこれ語るという、語り尽くせるわけがないですし、
本当にその、さまざまな角度から語られ尽くしてきてはいる。
そしてまだ語られていない、語り足りないこともたくさんある方だと思うんですが、
今日はですね、市川市に関わるところでお話をしたいと思っているんですね。
実はかつて、これもちょうど3年ぐらい前ですね、
私が所属するまちづくりNPOのフリースタイル市川のウェブサイトの方にですね、
かつて連載していて、今ちょっと休んでいるんですが、市川ちょっと話、
本当は市川スモールトークなんていって、市川市に関わるちょっとした話、
あまり多くの人はその話を知らないかもしれないけれども、
知るとちょっと市川市への関心が少し湧くというようなですね、
そんなタイプのお話を連載していたことがありまして、
その確か連載の第1回で取り上げたのがこの長島重男さんでした。
この時の記事はですね、市川ちょっと話、市川で誕生したサード長島という、
そんなお話、タイトルだったんですけれども、
実はこの長島重男さんというと選手時代はですね、
4番サード長島、インベールジャイアンスの主力打者として、
というか日本を代表する打者として活躍されましたけれども、
4番バッターということもあるんですが、
その守備位置はですね、ポジションはサード、サンルイッチだったわけですね。
彼についてよく知られていることで言うとですね、
守備範囲が広くて、そしてド派手なプレーを見せると、
トンネルなんかもしてエラーもするんですが、
ショートの方に飛んでくるボールもですね、
ショートのポジションの人が取る前にボールを奪い取ってですね、
奪い取ると言うと異変ですけれども、味方同士なんで、
取ってですね、そして生きる意味にあるような装置を投げて、
投げ終わった後も非常に華麗になるスタイルで、
お客さんからパッと見てすごく華やかな守備を、
プレーを見せるということで知られた長島さんなんですが、
これもやっぱりサードというポジションならではのですね、
彼にぴったりだったポジションを獲得したということがあったからこそ、
プロでも大いに活躍できたということ、
活躍できたというか人気を博したということですね。
もしこれがライト長島とかファースト長島とか、
場合によってはショート長島だったらですね、
同じようなまた違う形の長島選手、
選手としてアスリートとして超一流であることに間違いはないと思うんですが、
やっぱりサードだったからこそみんなが魅了されて、
あの守備を真似したという人も多かったんだろうなと思っています。
さて、この長島さんがですね、
今この記事のタイトル、3年前に私が書いた記事のタイトルが、
市川で誕生したサード長島という、
そんなことを書いた記事にしたんですけれども、
実はですね、1953年ですね、
長島さんが高校生だった頃、高校で野球部に入っていたわけですけれども、
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実は市川市東菅の4丁目の市立市川高校、市川学園の高校のグラウンドで、
サード長島は誕生したということなんです。
実は2013年6月11日の毎日新聞地方版にそういうふうに書いていました。
1953年正月28年6月14日、市川市東菅の4の市立市川高グラウンドで、
サード長島は誕生したということなんですね。
どういう経緯があったのか、この新聞記事からちょっと、
毎日新聞から引用しましたと、このように紹介されています。
華麗なフットワークで3塁ごろを裁く長島さん。
オールドファンド目に焼き付いているシーンだ。
だが中学2学から高校3年の6月までは遊撃手だった。
遊撃手というのはショートですね。
ショートの守備一。3塁の隣のポジションですね。
3塁と2塁の間も持っている選手なわけですね、ショート。
長島さんは高校3年の春、毎試合のようにエラー。
正面のゴールを補給するたびに下半身を低くしなければならないのに、
3年生になって身長が177センチに伸びて姿勢が腰高になっていた。
守備の悩みから打撃までも不審になった。
4番で首相の守備位置を変えるのは賭けだ。
チームと本人への影響が大きい。
加藤さんは悩んでいた。
加藤さんというのは多分監督さんなんですかね。
そして53年、1953年ですね。
6月14日、市川高グラウンドで練習試合があり、
長島さんは1試合目の県立船橋高校で4失策。
1試合で4つのエラーをしたと。
ショートで4つのエラーもしたということで。
チームも2対5で破れてしまった。
ちなみにですけども、県立船橋高校というのは、
千葉県で船橋高校というと、
一律の船橋高校というのがスポーツですごく強いことに知られて、
サッカーなんかでも有名ですけど野球も強いということなんですが、
この時に対戦したのは千葉県立の船橋高校だったと。
ちなみに私のセロリー・スズキはこの県立船橋高校出身です。
野球部の部員ではないんですけども、
船橋高校の出身であるという、
そんな豆知識も、豆知識にならないかな。
それも言い添えておきたいと思いますが、
新聞記事に引用を続けますと、
チームも2対5で破れてしまった。
限度だ。この限度というのは我慢の限界だということでしょうね。
加藤監督、ついに決断し、25分後に始まった2試合目の市川戦から、
聖都の長島さんとサードの鈴木さんを入れ替えたというわけなんですね。
長島さんがいては、県立桜一高、現在の県立桜高校ですね。
千葉県桜市にありますが、
この日、市川高校とそれから県立船橋高校の3校での練習試合に参加していたと。
変則ダブルヘッダーの桜一高対船橋高校で、
聖都長島はクビになって、
次の桜一高対市川高校の試合が、
サード長島のスタートになったというわけなんですね。
この日2試合を行われた、1試合目で4つのエラーをしたということで、
監督がもう限度だと。
限度だということで、鈴木さんという選手と長島さんを入れ替えたと。
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サードとショートを入れ替えたというわけなんです。
ちなみにですね、またその記事から引用を続けますと、
ちょっと意外な事実がありまして、
長島さんは他の遊撃手より1メートルぐらい深い位置に、
深いというのはホームベースから見ると遠い位置ですね。
深い位置に立っていた。そこは農道で、農道ですね。
そこは農道で、牛が通ったから、
何度グラウンド整備してもイレギュラーバウンドしたんですよ、というふうに、
市川高校のセカンド、ニル氏だった小坂徹さんは意外な証言をした、
ということらしいですね。
太平洋戦争終戦からわずか8年、
今ではですね、市川高校のグラウンドの周辺は住宅地なんですけど、
市川高校とか、そのグラウンドのですね、今は学校は移転しましたけど、
当時は梨畑で、ニル氏とサンリーの後方を農道が走っていたと、そのグラウンドの。
農機具を引いた牛が毎日朝と夕方に行ったり来たりしていたと、往復していた。
なので加藤さんはですね、長島さんのエラーというのは春先から続いていて、
イレギュラーのせいじゃないというふうに言ってはいるんですけども、
でも市川高校のグラウンドにそういう牛が通ったことでですね、
デコボコしていて、長島さんがエラーを許しやすかったということがあったということですね。
だから監督は牛のせいとは言っていないけども、
牛も牛がそのきっかけを与えたという可能性があるということらしいですね。
あとですね、そんな感じで、
サードの守備については長島さんはそこから見違えるように素晴らしい守備を連発したということなんですね。
その後のことはもう、わざわざここで言うまでもないほどのことなんですが、
もてあやたというか市川市にですね、なじみのある、さっきミュージシャンということで、
さくら市出身のバンプ・オブ・チキンがもてあやたのライブハウスで、
武者修行というか、若い頃に、10代の頃とかにですね、そこで活動を活発に行っていたという話をしましたけど、
市川市にゆかりのあるミュージシャンでですね、しかも野球関連の書籍の出筆者でもあって、
しかもメジャーリーグにめちゃくちゃ詳しいという人がいまして、
その方、何という方かというと、岡本モビー拓也さんというですね、スクービードゥというバンドのメンバーなんですね。
この方がですね、この方が今のその、中島さんの市川高校との試合の2試合目からサードの趣味についたという話をされていて、
この方がですね、モビーさんが南式野球部だったというわけなんですね。
公式野球部ではなかったんだけど、使っていたグラウンドも同じだったということなんで、
使っていた当時とグラウンドは同じだったということで、歴史的な中島市川さんがサードの趣味についたきっかけとなったその場所で、
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その後にですね、モビーさんもそういう野球に汗を流したというようなことで、
まあ感慨深いみたいなことをブログに、本人がブログで書いてました。
そうですね、モビーさんのブログ、モビーのブログというところに、
2013年11月2日のブログ、母校での伝説っていうようなタイトルをつけて書いてました。
というわけで、モビーさんみたいな野球に造形の深い方なんかはこの話を知っていたりするのかもしれませんけど、
なかなか市川市の野球ファンは知っているかもしれませんが、
市川市の、このイカイチカのリツダの方とかはですね、あの中島さんが市川市、
一つの市川市での出来事が、しかもこの失敗、中島さんって面白いのがやっぱり大きな、
失敗も派手なんですよね。
プロ野球のデビュー戦ではですね、当時の、当時のというか歴代でもナンバーワンと言ってもいいような、
すごい投手、カネヤンというですね、カナダ投手の前に四三振ですよ、空振りで四三振をしたと。
デビュー戦で四三振するという選手もほとんどいないわけですね。
実はもう一人いるんですけども、中島さん以外に。
まあでもそんなド派手な負けから始まった。
で、あのサードについたのはショートの守備で一試合に四つ、これもまた四つというですね、
中島さんといえば3という数字に必要に縁がある方ですけど、
4というですね、四三振とか、四つのエラーとか、そういう不吉なものもあったりして、
そこから復活して、復活というかもう大逆転してですね、
すごい活躍を見せていくというのも非常に面白いかなというふうにも思いました。
そんなコーナーで市川氏に、市川氏がちょっとその中島さんのサードというポジションを、
まあいずれですね、エラーをこんなに消していたらどっかのタイミングでサードについたかもしれませんけど、
ついたのかなと時間の問題だった気もします。
ただ必ずしもそのコンバートする先がですね、ショートからサードだったかどうかは分かりませんよね。
鈴木選手という人が当時守っていた、高校では守っていてですね、
もしかしたらセカンドとかですね、ガイアとか違うポジション、キャッチャーとかはあまりないかもしれませんけど、
まあこの時サードというポジションをゲットしていたというのも非常に面白いことだった。
もし仮にそこの時に違うポジションについてそこでまた活躍してですね、
したとしたらプレー入りして、そこのシビーチでまた違うようなプレーを見せていたらですね、
夜晩何とかの中島っていうその違うポジションでの中島選手というのが人気を博していたら、
花形のポジションというのがサードじゃなくて、どっか違うところだった可能性もあるのかななんていう風にも思ったりしますけれども。
はい。
そんなわけで、1回1回は第236回目の放送はこの辺りで終了したいと思います。
それではまた次回お目見に帰りましょう。
野崎須貴でした。