2022-05-31 17:38

『手の倫理』#3

ユマニチュードケアから考える手の倫理/倫理的態度を伝達的コミュニケーションで伝えるのむずい/身体って人によって違うのありきだからいいよね/五感にまつわる記憶ってある?/「これはねー、微分できますね」

-- 本紹介 --

人が人にさわる/ふれるとき、そこにはどんな交流が生まれるのか。 介助、子育て、教育、性愛、看取りなど、さまざまな関わりの場面で、 コミュニケーションは単なる情報伝達の領域を超えて相互的に豊かに深まる。

ときに侵襲的、一方向的な「さわる」から、意志や衝動の確認、共鳴・信頼を生み出す沃野の通路となる「ふれる」へ。 相手を知るために伸ばされる手は、表面から内部へと浸透しつつ、相手との境界、自分の体の輪郭を曖昧にし、新たな関係を呼び覚ます。

目ではなく触覚が生み出す、人間同士の関係の創造的可能性を探る。

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10年、もっと前からあるのかな? 結構前からある介護の方法で、ユマニチュードケアっていうのがあるんですけど、
あれ、めちゃくちゃ触るっていうことを大事にするんですよね。距離をめちゃくちゃ近くして、その対象の介助者さんと。
一般的な介護とかに比べて、本当に顔と顔の距離がどのくらいだろう?本当にもう何十倍も近いみたいな。
顔の横に顔を持ってくぐらいの感じでやるんですけど、
そうすると、満足度ももちろん高いし、その人の妖怪ごとの改善だったり、認知の感じだったりが良くなるっていうことがずっと言われていて、
いろんな研究があるんですけど、この医療って基本的には道徳側のものなんだと思うんですよ。
生かすっていうのが仕事だし、血が出てたら止めるっていうのが正解だし、ガイドラインってものがあって、この病気のこの状態なんだったらこういう薬を使いましょうっていうのも、
ある種の道徳っていうものを医療現場で共有をしていて、そこに長く触れてきた人が介護に行くってことが多いわけじゃないですか。
そうなると多分倫理不足になるんじゃないかなっていうふうに思っていて、他人のこの正しいっていうのに、他人の道徳に任せてやってると辛くなるじゃないですか。
こうやって生きていくのがいいんだろうなーみたいなこと。自分がどう思うか脇に置いて、そういう医療の形があるからね、お医者さんお任せします、弁護士先生お任せしますっていう風になった後だと、
よりそういうマニチュードケアみたいな、ある種のこのあなたの感覚とか、倫理ってものを大事にする手の感覚とか身体制みたいなところに帰ってくると、
なんか不足が補われるっていう感覚があるんじゃないのかなっていうことはすごく思ってはいるですね。
一方で、みんないいよとかみんな正しいよみたいな、生き方は様々人によってみたいな、なんかすげー横行してくると、
これをやると絶対に儲かるみたいなものだったり、これからの時代はこうやって生きていかなきゃみたいな、ある種の社会全般じゃないけど限定的な道徳性みたいなものってあると思うんですよ。
そういうことを話してるトランプおじいちゃんだったり、過激系ユーチューバーだったり、そういうものが流行るっていうのが多分あって、
道徳と倫理っていうのはバランスがあるんだろうなっていう感じがするですね。
どっちもないとたぶん、どっちもないとしんどいっていう。
そうですね、その時私がたぶん倫理的態度でいればいいじゃない、道徳は置いといてみたいなことをたぶん本当は言いたいんだけど、
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倫理的態度でいいじゃないを伝達的に伝えるのって難しいなというか。
それはそうね、倫理的な態度を伝達的に伝えるというのはつまり、
その人にすごく個別的なすべきことや生き方みたいなことをミキさんの中にメッセージがあるっていう前提で、
相手の倫理にアプローチをしに行くっていうコミュニケーションすると。
それは超難しいっすね。
でもそれをなんで伝えたいかっていうと、倫理的な態度でもいいじゃんって言葉を共有できてない、
できてたら勝手にそういう生成的なコミュニケーションになるじゃないですか。
だけど私は倫理的な態度でいいじゃないってことを道徳にとられてる人に伝えたいから、
それってどうしても伝達的なコミュニケーションになるんじゃないみたいなことを思った。
ふーん、ふーん、なるほど。
伝達的なコミュニケーション、まあそうか、そうか、そういうことね。
になるのかな、たまってハグとかして手の倫理で伝えたらいいのか。
そうなんじゃない?ユマニチュードケアなんじゃない?
ユマニチュードケアってことなのかな。
そういう、私が普段倫理的な態度でいいじゃないとか言ってるときにうまく伝えてないモヤモヤみたいなものが、
ただのスポーツを体で翻訳するコミュニケーションとかではうまくできてる感じがしたっていうか、
倫理的な態度とか道徳的な態度とか置いといて、お互いの前提とか置いといて、
ちゃんと体と体で共有できてる感じがしたなっていうことかもしれないです。
なんか体のいいところって、一人一人違うよねっていうのが絶対的にわかるじゃないですか。
例えば感覚だったり考え方みたいなのがあったときに、
一人一人が違うっていうことは何となくそう感じはするけど、
ロジカルシンキングみたいな頭悪そうな言葉があったときに、
みんな同じ考え方をするとかっていう風になりがちな気がするんですよ。
身体感覚から始めると全員が違うのって当たり前じゃないですか。
そういうことから始めると、ここで言うと倫理に行き着きやすいんじゃないかなとずっと思っていて、
だからスポーツやってると、同じ教え方をすると同じようにうまくなるかっていうと全然そんなことなくて、
とある野球で言うと肘を使って投げましょうみたいなことを言ったときに、
うまくできる人とできない人がいて、それって身体感覚の大きな差?
だから肘を使って投げるっていうことをすべきこととして捉えたときに、
例えばA君はそれをやるとうまくいくからすべきことなんだけど、
B君はそれを意識しても全く良くならないからすべきことじゃないわけですよね。
意識すべきことでは少なくともないっていうのがありますと。
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身体に帰ってくると結局道徳っていうものは一般的にはあるんだと思うんですよ。
血が流れてるのはやばいとかあるんだと思うんですけど、
身体に帰ってくるとこの倫理っていうものはすごく個別性が高いものなんだって、
すべきっていうことは個別性が高いんだっていうのは、
なんかね、理解しやすくなる気がしますよね。
だから手の倫理っていうのはすごい良いタイトルですね。
手から倫理を考えるっていう。
そうですね、サッカーとかテニスの楽しみ方とかで、
スポーツっていうのは戦略的な競技だみたいな感じになって、
言われてることが多い気がして、
プロスポーツとかになっていくともうちょっとテクニックみたいな話になると、
そこはもう倫理とかではなくて道徳とか、
もうちょっとテクニック、ロジックみたいな話になってきて話が変わるのかなとも思うんですけど、
そういうアマチュア、誰でも楽しめるスポーツっていうのはそういうのがあるのかな。
うーん、うーん。
なんかもう何が、今日はなんかすみません、頭回ってない。
なんか何かしないといけないんですけど。
道徳を仮にルールってした時に、
やっぱりそれで強くなるチームと強くならないチームがありますよね。
このアルゴリズム的に、こういう状況になった時は、
必ずこういう風にしようっていう風にして強くなるチームってやっぱあると思うんですよ。
例えば野球でいうと、ノマドとランナー一塁だったら、
必ず送りバントをしましょうっていうチームが強い時もあれば、
あるいはなんかこう、うちのチームってなんかもうちょっとこう、
選手一人ひとりが伸び伸びでやりましょうみたいな。
それは倫理観っぽく、ルールじゃないんだけど、倫理っていう、
もうちょっと個々人に寄せたベースって動かすところもあって、
どっちがいいかは何に依存するんでしょうね。
でもどっちでも強いチームってやっぱありますしね。
プロ集団なるとそこはそこでプロ集団なりのロジックみたいな、
プロ集団なりの正解みたいなものを共有しているようなイメージがあったんですけど、
そういうわけでもないんですかね。
たぶん、道徳優位か倫理優位かみたいな話はあると思いますね。
監督の方針として。
何を言ってるかっていうと、
うちのチームにおける絶対的な前はこれであるっていうのをもう、
ある種の共有をして、それから外れてるとめちゃくちゃ切れるっていう。
道徳と倫理の差分として、
道徳の方は非難することと強力に結びつくっていうのがある一方で、
倫理は必ずしもそうではないっていうのと同じように、
プロの監督でも、
いやもうそんな言ってることと全然違えじゃないかっていうのを、
ゴリゴリに言いながら詰めていく。
それで強いっていうチームももちろんありました。
一方で、もうちょっと我々ってこうすべきだよねみたいな。
それをどう実現するかは個々人で考えてみたいな。
個々人とかあるいはポジションとか、
ちっちゃいチームとか、
そういうので考えてっていう人もいて、
なんて言うんでしょうね。
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なんだろう。
どういう関係性にあるかわからないですけど、
ディシプリンみたいなものは共有してる人は多いかもしれないですね。
私っていうのはこういう存在だからっていうのは、
多いのかもしれないなぁとは思ったんですね。
全然プロのスポーツプレイヤーじゃないかわかんないですけど。
はいはい。
でもテニスの大会とかで結構いいとこまでいってるから。
いやいやまだまだ全然これからですね。
ゴールデンウィーク中も頑張んないと。
頑張ってください。
頑張るっす。
なんか最後に、
今回は触覚にフォーカスが与えた本で面白かったんですけど、
それを別の友達と話してる時に、
その本の話というか別の友達と話した時に、
あーって思ったのが、
友達は記憶を嗅覚、
何かを思い出す時に匂いが甦ってくるっていう人がいたんですよ。
それは全然関係ない。
それは生ぬるい午後に校庭を見るとプールの匂いが甦ってきて、
小学校の時のプールの思い出が甦ってくる。
それはまず匂いから入ってくるみたいな。
絶対記憶を匂いで保存してるんだ、自分はって言ってて、
そこにプールがあるわけじゃないのに、
プールの匂いがするみたいなことがすごくあって、
自分もそういういろんなケースで、
これとこれを見るとこの匂いがするみたいなたくさんのケースがあって、
匂いと嗅覚っていうものはかなり結びついている。
で、それを他の人はどういうふうに記憶を保存しているのかっていうことが
すごい気になるって言ってる人がいて、
で、伊藤旭さんの本でも手の感覚で思い出すのが、
自分が寝てる時に、
普段は結構親子関係がそんなウェットじゃない母が、
かなり愛情深く自分を撫でてくれていたことをすごい思い出すみたいな
エピソードがどっかにあったなって思ってて、
嗅覚が自分の記憶とすごく結びついて覚えている。
体験該当さんの中にもあるんだなって思って、
私なんかそういう感覚がないなっていうか、
友達は嗅覚だし、記憶をどの感覚で保存してるんだろうっていうことと、
多分その嗅覚と同じくらい嗅覚とか、
他の感覚も倫理があるんだろうなってことを思ったんですよね、その時に。
なるほど。
はい。
なんかのぞみさんってそういう何か、
触覚に基づく記憶っていうのありますか?
触覚というか触覚、五感に基づく記憶ってありますか?
五感に基づく記憶ね。
リストばっかりなんですよね、私。
なんか単語かな?
単語を見るとこれどっかで見たなって思い出すっていう。
この単語を多分初めて見たのってあの時だったなみたいなことを思い出すっていうのはすごくある。
が、この糸浅さんがある、
撫でられてる時に幼少期に電車の中に乗られていって、
お母さんの膝の上でみたいな、
触覚は全くないんじゃないかなと思っていて、
ただ全部じゃないけど一個だけ思い出すのは、
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私高校の時数学がすごく苦手だったんですけど、
担任のすごくいい先生がめちゃくちゃいい先生で、
数学の先生だったんですけどその人。
授業中に机の滑らかなちょっと丸みのある角を手で撫でながら、
いやこの机はですね微分できますって言ってたのがすげー印象深くて。
その時微分っていう概念、
数人をやった方であれば微分ができるってつまり、
関数として連続しているってことじゃないですか。
キュッキュッって曲がってないみたいな。
ガツガツって曲がられちゃうと微分できないんですけど、
その曲がっている局面っていうのは微分ができるんだっていうことを、
すごく如実になろうと思った瞬間があって、
そこからすげー数学得意になったんですよ。
微積分だけじゃなくてベクトルも複素数平面も全部得意になったんですけど、
だからあれは自分なりの数学っていう世界と、
触覚が結びついた瞬間だったと思うんですよ私なりに。
微分っていうものがグラフの中で線として描かれていて、
数式があってっていうものが、
机の局面をこうやって手でなぜるっていう感覚と結びついた。
それがすごくエポックメイキングな自分なりの感覚だったんだと思うんですよね。
いい話ですね。
先生はいい先生、いい先生だったんだと思うんですよね。
いいなー、そういうだけ私も欲しいな。
そういうのが聞いてみたかったんですよ。
よかったよかった。
行ってた高校がめちゃくちゃいい先生が多かったんだと思うんですけど、
語幹に紐づけて話す人が多かったなって今ミキさんに聞かれて思って。
例えば古文の先生とかは漢文古文とか出てくるじゃないですか。
そうすると漢文のここに描かれている街は中国の何とかっていう街で、
行くとこんなものが見えてこんな香りがするんですよみたいな話をその人するわけですよ。
オタクなんで中国歴史オタクなんですけど。
みたいな話をされると、
漢文の五言絶句みたいな五文字が四行並んでるっていう漢詩を読んでも、
全然感覚が立ち上がる感覚がすごくあって、
あれは文字資格に頼らざるを得ない教科書、大学受験のレクチャーっていうものを、
感覚に転換していくプロセスだったんだろうなっていうことを今改めて思ったんですね。
いいですね、いいな。私この本読んで友達のその話も聞いたから、
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しかも今需要期がちょっと限界になってるはずだから、
この先でどっかでこの感覚から何か思い出すみたいなこととかできたらいいなって思いながら最近過ごしています。
なるほど、それはいい本からの学びですね。
本当は私にもそういう体験があるはずって信じて、
ちょっとまだ見つかってないんですけど、
ちょっとしばらく過ごそうと思っている感じです。
あるはずですね。
いいですね、のぞみさんもパッと出てくる、なんか幼少期の体験があって。
そうね、あれはいい経験だなって思いました。
ありがとうございました。
というわけで、手の倫理すごく素敵な本でしたね。また適時的に読み直してしまいそう。
ね。
鼻の倫理とかも目の倫理とかもあるのかな。
あるでしょうね、ありそうですね。
耳は明確にありそうだもんな。
確かに。
口と目はありそうですね。
次はみきさんおすすめの、みきさんご推薦図書。
そうですね、また古い本に戻ろうかなと思って、幼少期に読んで、何も覚えてないですけど、
カート・ボネガッタのスローターハウス5っていうSF小説を選んでみました。
私の時はまだこんなカジュアルなやつじゃなくて、とさつば5号っていう、スローターハウスってとさつばってことだから、とさつば5号っていうタイトルって嘘だったのか、こんなカジュアルになってって思って、
そのことを最近知ったので、ちょっと選んでみました。
カート・ボネガッタとなんか、島の話を何かで読んだな。
このガラパゴスの箱舟っていうのを読んだんだよな。
へー。
それ読んだことないです。ガラパゴスの箱舟。
ガラパゴスの箱舟。
子供の時ですか?高校生とか?
いや、最近2年ぐらい、1年か2年ぐらい前に読んだんですよね。
そう、なんかね、不思議な作品でしたよ。
へー。
読語感がとにかく不思議だったってことしか覚えていない。
わかります。
私はスローターハウス5を読んだ時はかなり背伸びして、
ちょっとこういうのとか読んでたらイッキちゃんぐらいの気持ちで無理して読んだ感覚だけ覚えています。
その懐かしさを。
はい、ちょっとその背伸びした感覚を今だったらどうなるか、
ちゃんと面白く読めるのかっていうことも含めて。
そうですね。
はい。
じゃあそんな感じで次はこのスローターハウス5で。
ハウス5で会いましょう。
はい、ではでは。
本日はありがとうございました。
ありがとうございました。
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