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刺繍 第二回
2024-05-25 13:51

刺繍 第二回

087 240525 島崎藤村 刺繍 第二回 朗読:本庄麻里子
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おしゃべり本棚。この時間は福岡のRKB毎日放送のアナウンサーによる朗読をお送りします。
島崎東村作 刺繍第二回
中の庭に向いた廊下のところで、白い毛の長い丸が主人を見つけて駆けてきた。
おせんのいる頃から飼われた、ちんだ。なりは小さいが、性質の賢いもので、よく人になれていた。
二人で外からでも帰ってくると、一番先におせんの足音を聞きつけるのは、この丸だった。
そして彼女の裾にまといついたものだ。大塚さんは、この小さい犬を抱いて可愛がったおせんが、
まだその廊下のところに立っているようにも思った。食堂へ行ってみた。
そこには、おせんがいたときと同じように、大きなケヤキ作りの食卓が置いてある。
黒い六角形の柱時計も同じように掛かっている。大塚さんはその食卓のそばに座って、
コーヒーでも持ってくるようにと、お手伝いの娘に言いつけた。廊下を隔てて、勝手の方が見える。
働き好きな婆さんが、上通りの音をさせている。娘は婆さんの孫にあたるが、
おせんの行った後で田舎から呼び迎えたのだ。家には書生も二人ほど置いてある。
しかし、おせん時代のことを知っている者は、主人思いの婆さんより他になかった。
婆さんは長く奉公して、主人が食い物の嗜好までもよく知っていた。娘はコーヒージャワンを運んできた。
婆さんも牛乳の入れ物を持って勝手の方から来た。その後から丸もついて入ってきた。
丸も年をとりましてございますよ。この節は風ばかりひいて、くしゃみばかり致しております。
こう婆さんが話した。大塚さんは、その日別れた妻にあったことを、誰も家の者には言い出さなかった。
03:13
丸はしっぽを振りながら主人のそばへ来た。
大塚さんが頭を撫でてやると、白い毛の長く覆いかぶさった額を向けて、
ちんらしい目つきで彼の方を見て、うれしそうに鼻をくんくん言わせた。
こうして家の中を眺め回した時は、おせんらしいおせんは、一番その静かな食卓の周りにいるように思われた。
おせんは夫を助けて働ける女ではなかったし、ことに客なぞのある場合には、
もう少し細君らしい威厳を備えていたら、と思うことも多かった。
奥様はあんまり愛嬌がありすぎるんでございますよ。
誰にでもよくしようとなさりすぎるんでございますよ。
と婆さんまでが言うくらいだった。
でも食卓の周りなぞは楽しくしたほうで、
よくその食堂の隅のところにコーヒーをひく道具を持ち出して、
自分で言ったやつをガリガリとひいたものだ。
香ばしいコーヒーの匂いは、すぎ去ったほうへ大塚さんの心を連れて行った。
丸を膝にのせてその食卓に向かい合っていた時の彼女の軽い笑いを、
まだ大塚さんは聞くことができた。
毛糸なぞも編むことが上手で、青と白とで作った円形の花瓶式を敷いて、
良い香りのする薔薇でその食卓の上を飾ってみせたものだ。
花は何に限らず好きだったが、木な薔薇はことに汚染が好きな花だった。
そして自分で目を細くしてその匂いを嗅いでみるばかりでなく、
それを家のものにも嗅がせた。丸にまで嗅がせた。
まだ大塚さんはその食卓の上にのせた彼女の白い優しい手を見ることができた。
その薔薇を花瓶のまま持って夫にすすめた時の彼女の呼吸までも聞くことができた。
庭へ行ってみた。食堂から奥の座敷へ通うところは回廊風にできていて、
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その間に静かな煎材がある。かなり広い植木の多い庭が煎材続きに座敷の周りを取り巻いている。
古い小さな庭井戸に近く毎年のように花をつける桜の若木もある。
他の植木に比べるとその細い幹はずんずん高くなった。
もう赤く膨らんだ蕾を垂れていたが、明け方の暖かい雨で咲き出したのもある。
そこは汚染が着物の裾を帯の間に挟んで、派手な模様の長襦袢だけ出して、
裸足に庭下駄を履きながら草むしりなどを根気にしたところだ。
大塚さんは春らしい日のあたった庭土の上を歩き回って、
どうかすると彼女が子供のように快活であったことを思い出した。
そうだ、優しい前髪とすらりとした女らしい背と思った。
子供だった。
彼女が片付いてきたばかりの頃は、大塚さんは湯島の方にもっと大きな屋敷を持っていたが、
ある関係の深い銀行の破産から人に貸してあったこの根岸の家の方へ移り住んだのだ。
そういう時になると、汚染は何をしていいかもわからないような人で、
自分の串箱の始末まで夫の手を煩わして、丸を抱きながらそれを見ていたものだ。
それほど子供らしかった。
ああいう時には大塚さんはもうため息してしまった。
でも、この根岸へ移って落ち着いてからは、春先になるとよもぎの芽を摘みに行くところがあると喜んで、
軽々としたみなりをしては出かけて行って、その帰りにはスミレの花などを植木屋から買って戻ってきた。
その無邪気さには、また憎むこともどうすることもできないようなところがあった。
こういう娘のような気でいつまでもいて、時には可愛くて可愛くてならなかった汚染が、
次第に大塚さんには、見ても飽き飽きするような人に変わっていった。
彼女と別れる前の年あたりには、大塚さんは何でも彼女の思う通りに任せて、
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万事家のことはうっちゃらかしてしまった。
小言ひとつ言わなかった。ただ彼女を避けようとした。
そして自分は会社のことにばかりで歩いた。さもなければ会社の用事にかこつけて旅にばかり出かけた。
そんなことをして名のつけようのない悲しみを忘れようとした。
汚染と同棲して5年ばかり経った時の大塚さんは、何とかして彼女と別れる機会をのみ待った。
機会が来た。しかも絶えがたい形でやって来た。
それを大塚さんは考えた。
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