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            魚の序文 その1
2023-07-15 16:38

魚の序文 その1

042 230715 林芙美子 魚の序文 その1 朗読:本庄麻里子
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おしゃべり本棚 この時間は福岡のRKB毎日放送のアナウンサーによる朗読をお送りします。
林文子作 魚の序文
第1回 それだからといって僕は彼女をこましゃくれた女だとは思いたくなかった。
結婚して何日目かに、 一体君の年はいくつなの?と聞いてみて驚いたことであったが、
23歳だというのにまだ肩上げをしたのどかなところがあった。 その頃僕たちは郊外の墓場の裏に居を定めていたので、
はじめのほどは二人とも妙に心寒とした気持ちになって、 よく幽霊の夢か何かを見たものだ。
ねえ、墓場というものは案外美しいところなのね。 朝彼女は一坪ばかりの台所で関西風な芋がゆを作りながらこんなことを言った。
結局墓場は墓場だけのものさ。 別に君の言うほどそんなに美しくもないね。
ずいぶんあなたはしらじらとした物言いをする人だ。 そんなこと言わぬものだわ。
こうして背後から彼女の台所姿を見ていると、 ネズミのような気がしてならない。
だが彼女は素朴な心から時に、 僕にこういう歌を作って見せることがあった。
帰ってみたら誰もいなかった。 ひっそりした障子を開けると、片足の鶴が一人でくるくる舞っていた。
座るところがないので、私も片足の鶴と一緒に部屋の中を舞いながら遊ぶのだ。
で、まだ君は心の中が寂しいとでも言うのかね。 僕は心の中ではこの詩に感覚していながら、
ちょっとここのところが小賢しいと言えば言える腹立たしさで、 彼女をじろりと睨んだ。
ううん、墓の中の蝶珍を見ていたら、 ふとこんな気持ちになったんですよ。
03:01
別に本当のことなんか出やしないわ。 だってこんなの、まるで川のほとりに立って何か歌っているようなの。
ねえ、その気持ちわかるでしょう?
わからないねえ。僕は歌読みじゃないから。
そう、そうなの。 本当を言えば、はじめ僕は彼女を愛しているのでも何でもなかったのだ。
彼女だって僕と一緒になるなんぞ夢にも思わなかったろうし、 結婚の夜の彼女が、「すまないわ。」と一言漏らした言葉があった。
どんな意味で言ったのか、僕だけの解釈では、 僕以外の誰かにすまなさを感じていたのであろう。
僕は彼女を知る前に一人の少女を愛していた。 骨格が鋭く目は三拍眼に近い。名はユリコと言った。
歩くときはいつも男の肩に寄り添っていなければ気がすまないらしく、 それがこの少女の魅力でもあった。
とうとうお菊さんと結婚なすったんですってね。 サンキチさんもなかなか隅におけない。
黄昏の街の途上であったとき、ユリコはちらっと攻めるように僕を見てこう言ったが、
歩きながら例のようにユリコは肩を差し寄せて香料の匂いを運んでくる。
だがおかしいことには、再会するまでのあの切なさもふと行きずりにこうして並んでみると、
夫婦になってからもなお遠く離れて歩く菊子の方が、僕には変に新しい魅力となってきているのに気がつくのであった。
結婚して苔に沸く水のような愛情を僕たち夫婦は言わず語らず感じ合っていたのだが、
それでもまだ長い間の習慣は抜け切らないもので。
金が一銭もなくなると、彼女はおかしな風呂敷包みを作っては墓場の道を走って行く。
で、僕はひょうげてまるで下宿屋か何かの女でも呼ぶように、「お菊さーん!」と窓から呼ぶのだ。
すると白く振り返った彼女は一生懸命に笑った顔で、
「おつかいよー!」と答える。
06:02
「おつかいなんかいいんだ。帰っておいでよー。」
「だって、あんたいちごを食べたくないの?それを買いに行くの。」
何か目の中が熱くなってきて、墓場の上に赤いつぶつぶがパッと散って行くほど、
僕は僕の不甲斐なさを彼女に見せつけられたようだ。
で、僕はたまらなくなって裸足のまま墓場の道へ走って出た。
「バカ、俺はそんなにしてまでいちごなんぞを食いたかないんだよ。おかえり、帰ったらいいだろう。」
彼女は風呂敷包みをまるでアンパンか何かのように子供らしく背後に隠して、しぶとく立っていた。
そのしぶとさが余計胸の中に来ると、僕は彼女の髪を引きつかんで、まるでデイギョのように地べたに引きずって帰ってきた。
「君がこんなひとりがてんをするから前の男たちも君を殴ったんだろう。僕だって小刀のひとつも投げたくなるよ。
墨田原に入れられて、一日あげ板の下へ押し込められたことがあったって君は言っていたことがあったが、
前の男の気持ちだってなんだか僕にはだんだんわかってきたよ。」
彼女は涙もこぼさないでしおれていた。
風呂敷の中からメリンスのクジラ帯と、結婚の時に着ていた胴抜きの長襦袢が出てきた。
「こんなものを気に入ったって仕方がないじゃないか。」
ふと彼女を見ると、僕の学生時代のモスのへこ帯を探し出して締めているのだ。
なんだかくすぐったいものが身内を走ったが、僕は恋に真剣な表情を構えていた。
君が腹の満ちた格好でひとつのものを夫に与えるのは、それは昔の美談だよ。
ひとつしかなかったら、ふたつに割って食べればいいだろう。
何もなかったら二人で飢えるさ。これは素敵にいい言葉であった。
僕は僕自身のこの言葉にひどく英雄的になったが、
彼女にはそれがどんなにか詫びしく答えたのであろう。
急にまるでカッパの子のように目のところまで両手を挙げて、しくしく声を立てて泣き始めたのだ。
この泣き方は実に面白い。
09:00
まるでネヤを共にする男へなんぞの色気は大嵐の中へ吹き飛ばしたかのように、
自分一人で涙を楽しんでいるふうなのだ。
子供のように泣きながら泥の上を引きずられてきた汚れた手で足の裏を時々ガリガリやりながら思い出したようにしゃっくりをする。
そのしゃっくりの語尾はまるで羊が鳴いているように、
メーッと聞こえた。
なんだ子供みたいに。
もうこれからこんな余計な算段はやめたほうがいいよ。わかったかね。
僕は窓にぶら下がっている濡れタオルを彼女に取ってやって、
一人窓の外の花の咲いた霧の梢を見上げた。
じつに青々とした空であった。
僕は何でもいいからつくづく働きたいと思った。
働いてこのカニの穴のような小さな家庭を培っていきたいと思った。
僕は急に久しぶりに履歴書をまた書きたくなって、
すずりに左右を入れ、霧の窓辺に机を寄せて、
いっとき端座してみた。
うつむいていると身のしが薄く白いので、
窓の外の雲の姿や霧の梢の紫の花の色まで染みて映りそうであった。
もはや息つくところまで行った風景でもある。
彼女はもう泣くことにもあいたのか、
5月のひやびやとした畳の上にうつぶせになって、
小さいアカアリを一匹一匹指で折っては殺していた。
「ねえ、あたしお裁縫の看板でも出したいけれど。」
「へえ、君に裁縫ができるのかね。」
「たいしたことはできないけれど、
袴も重ねも習ったには習ったんだから。」
「だって君、習ったことと商売とは違うよ。」
「まあ待っているさ。毎日俺も町へ出かけているんだから、
なんとか方法はあるだろう。
学校を出てすぐ五六十円にはなるだろうと思えば、
ただ大学は出たもののだよ。そうだろう。」
「ええ、だけど知った人に縫わしてもらったっていいでしょ。」
「知った人って、みんな貧乏じゃないか。」
「森本千鶴子さんはどうでしょうか。
あの人はとても羽振りのいい芸術家のところへお嫁にいらしたっていうことですわ。」
12:05
「バカ、食えなかったら食えないで仕方がないよ。」
それより僕は机に向かって、
何か就職の口はないかと遠い友人に手紙を書いた。
今となって職業の好みもなく、
また田舎住まいでも幸福だといった意味を長々と述べて、
彼女にも安心のいくように音読してさえ聞かせてやった。
物事は当たって砕けろさ。
俺たちだけじゃないよ。こんな生活は山のようにあるんだから。
恐れることはないだろう。
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