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おしゃべり本棚 この時間は福岡のRKB毎日放送のアナウンサーによる朗読をお送りします。
江戸川乱歩作 日記帳
最終回 すると
おお! これはまあなんという意外な事実でしょう。
ろくでもない好奇心よ、呪われてあれ。
私はいっそすべてを知らないでいた方がどれほどよかったことか。
この雪江さんからの絵はがきの表には、 綺麗な文字で弟の宛名が書かれた脇に、
ひとつの例外もなく、切手が斜めに貼ってあるではありませんか。
わざとでなければできないように、 きちんと行儀よく斜めに貼ってあるではありませんか。
それは決して偶然の疎々なぞではないのです。
私はずっと以前、たぶん小学時代だったと思います。
ある文学雑誌に、切手の貼り方によって秘密通信をする方法が書いてあったのを、
もうその頃から好奇心の強い男だったと見えて、よく覚えていました。
中にも、恋を表すには、切手を斜めに貼ればよいというところは、
実は一度応用してみたことがあるほどで、決して忘れません。
この方法は、当時の青年男女の人気に投じて、ずいぶん流行したものです。
しかし、そんな古い時代の流行を、今の若い女が知っていようはずはありませんが、
ちょうど、ゆきえさんと弟との文通が行われた自分に、
宇野孝司の二人の青木アイザブロという小説が出て、その中にこの方法が詳しく書いてあったのです。
当時、私たちの間に話題になったほどですから、弟もゆきえさんも、それをよく知っていたはずです。
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では、弟はその方法を知っていながら、ゆきえさんが三月も同じことを繰り返して、
ついには失望してしまうまでも、彼女の心持ちを悟ることができなかったのは、どういうわけなのでしょう。
その点は私にもわかりません。あるいは忘れてしまっていたのかもしれません。
それともまた、切手の張り方などには気づかないほどのぼせ切っていたのかもしれません。
いずれにしても、失望などと書いているからには、彼がそれに気づいていなかったことは確かです。
それにしても、今の世にかくも古風な恋があるものでしょうか。
もし私の推察が謝らぬとすれば、彼らはお互いに恋しあっていながら、その恋を訴えあってさえいながら、
しかし双方とも少しも相手の心を知らずに、一人は板手を負うたまま、この世を去り、
一人は悲しい失恋の思いを抱いて長い生涯を暮らさねばならぬとは、それはあまりにも臆病すぎた恋でした。
ゆきえさんは裏若い女のことですから、まだ無理のない点もありますけれど、弟の手段に至っては臆病というよりはむしろ卑怯に近いものでした。
さればといって、私は亡き弟のやり方を少しだって責める気はありません。
それどころか、私は彼のこの一種異様な性癖を、世にも愛おしく思うのです。
生まれつき非常なはにかみ屋で、臆病者で、それでいてかなり自尊心の強かった彼は、恋する場合にも、まず拒絶された時の恥ずかしさを想像したに相違ありません。
それは弟のような気質の男にとっては、上人には到底考えも及ばぬほどひどい苦痛なのです。
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彼の兄である私には、それがよくわかります。
彼は、この拒絶の恥を予防するために、どれほど苦心したことでしょう。
でも、恋を打ち明けないではいられない。しかし、もし打ち明けて拒まれたら、その恥ずかしさ、気まずさ、それは相手がこの世に生きながらえている間、いつまでもいつまでも続くのです。
何とかして、もし拒まれた場合には、あれは恋文ではなかったんだと言い抜けるような方法がないものだろうか。
彼はそう考えたに相違ありません。その昔、大宮人は、どちらにでも意味のとれるような恋家という巧みな方法によって、あからさまな拒絶の苦痛を和らげようとしました。
彼の場合は、ちょうどそれなのです。ただ、彼のは、日頃愛読する探偵小説から思いついた暗号通信によって、その目的を果たそうとしたのですが、
それが不幸にも、彼のあまり深い用心のために、あのような難解なものになってしまったのです。
それにしても、彼は自分自身の暗号を考え出した綿密さにも似合わないで、相手の暗号を解くのに、どうしてこうも鈍感だったのでしょう。
うぬぼれすぎたために、とんだ失敗を演じる例は、世にいままあることですけれど、これはまた、うぬぼれのなさすぎたための悲劇です。
なんという本位ないことでしょう。ああ、私は弟の日記帳をひもといたばかりに、取り返しのつかぬ事実に触れてしまったのです。
私はその時の心持ちを、どんな言葉で形容しましょう。それが、ただ若い二人の気の毒な失敗を痛むばかりであったならまだしも良かったのです。
しかし、私にはもう一つの、もっと利己的な感情がありました。そして、その感情が、私の心を狂うばかりにかき乱したのです。
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私は、熱した頭を冬の夜の凍った風に当てるために、そこにあった庭下駄をつっかけて、ふらふらと庭へ降りました。そして、乱れた心そのままに、子達の間をぐるぐると、果てもなく巡り歩くのでした。
弟の死ぬ2ヶ月ばかり前に取り決められた、私と雪江さんとの取り返しのつかぬ婚約の事を考えながら。
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