00:00
おしゃべり本棚 この時間は福岡のRKB毎日放送のアナウンサーによる朗読をお送りします。
林文子作 魚の序文
第3回 僕は1、2年前の大学生活の中に、かつて一度も生活の不安を感じたことはなかったはずだったが、
いや、生活のことを考えるのが恐ろしかったのかもしれない。
薄暗いコーヒー店の片隅で考えることは、愚にもつかない外遊の空想などばかりであった。
僕はまた壁の帽子をかぶって、彼女の嫌がるステッキを持った。
墓の中の散歩を試みるべく、僕もまた彼女の去った墓の道へ出てみた。
熱くてたまらないと言った風に、スズメたちがコロコロ地べたを転がるように飛んでいる。
なるほど、彼女が言ったように、新しい墓には草のように花が備えてあった。
もう苗掛けたのなどもある。30歳、15歳、19歳。
みな若い仏たちであった。
その中で一つ、僕の目をとらえた、紀伊大禅師と書いてある墓標があった。
墓標の裏には、レニエかなんかの、「浮世には思い出もあらず。」と記してあったが、
この言葉は、今の僕の心をひどく温めてくれるものがあった。
28歳としてあるが、どんな女性だったのだろうか。
僕と同じ年齢で亡くなった、この新しい墓の主の墓標の言葉に、
僕は全く口笛さえ吹きたくなったほど気持ちが軽くなった。
浮世には思い出もあらず。
なんとすがすがしく言い放ったものであろう。
灰色の墓藁の向こうに、この僕の心に合わせて、誰か口笛を吹いて通るものがある。
帽子の釘に一緒にぶら下げた電気に火が入ると、
03:00
彼女は風呂敷を米でハリボーズのように膨らまして帰ってきた。
「五十銭もらってきたのよ。」
「ちぬこさんたら、あんまり上手じゃないわね、っていうの。」
「あいつ、お前の縫った着物を着たら、体が腫れ上がってくるだろうさ。
ところで、きょう墓の中でいい言葉を見つけてきたよ。」
「どんな言葉?」
「いや、別に改まるほどじゃないが、
明日またどっかへ花を持って行くところはないかね。
グラジオラスやチューリップがたくさんあったよ。
その墓の主ならとが目立てはしないだろう。
浮世には思い出もあらずと書いてあったのさ。」
「浮世には思い出もあらず。変に気取ったやつね。
あたしだったら、うらめしいと書いてもらうわ。」
「え?うらめしいか。なるほどね。
こましゃくれたやつだ。
彼女は米さえ買ってくると消化が上手になる。
一粒の栗矢は活気を呈して、
イワシを焼くにおいが僕の生唾を誘った。
たった五十銭の収入で驚くべき生活の飛躍だ。
僕も慌ただしく机へ向った。
今は黄色くなって古びたりといえど、
風手金の役に手を入れてみるべきだ。
彼女は十日かかって五十銭の収入を得てきている。
そうして彼女の消化は実に可憐だ。
僕は膝をただして地引きを食ったが、
地引きの冷たさは僕をまた白々しいものにする。
地引きを売って魚に変えたほうがマシだ。
イワシの匂いは懐かしい匂いであった。
さあ食べましょう。
実に久しぶりに。実に実に。
私、アーメンと言いたくなるわ。
あなたのよく言う、
食べるだけなのかい人間ってやつはっていうのやめましょう。
さあいらっしゃいよ。
玄関の食卓には墓場から取ってきたのであろう
桃色の灼薬が一輪コップに刺してあった。
二人は夢中で食べた。
実に美しくつつましい食欲である。
彼女は犬のように満ち足りた目をしている。
06:03
今日はね、帰りにまた平井さんのところへ寄ったの。
あなた、野蛮って職業嫌かしら。
野蛮?
ええ、野蛮なのよ。
野蛮って?
とてもお金持ちのお屋敷ですって。
女ばかりなんで書生さんが欲しいんだとかで、
平井さんが三吉くんどうだろうって言うのよ。
食べて三十円ってちょっといいと思ったから。
二人で行けるのかい?
そこまで聞かなかったわ。
ほんとね。
なんだ、それじゃつまらないじゃないか。
俺はなんだってするよ。
もうこうなったら机の前に端座している気持ちなんかないんだから。
彼女は口いっぱい飯を頬張ったまま、
引っ込みのつかないような顔で大粒な涙をこぼし始めた。
実際広い屋根屋根の下にはこうした人生の変幻が
あっちにもこっちにもあるのだろう。
それで三十円くれるというのは本当のことなのかね。
飯を頬張っているので彼女はこっくりをしてみせる。
僕は地引きを待ちで金に変えて、
平井の紹介状を置くところにその郊外の屋敷へ行ってみた。
武者窓でもつけたら侍が出てきそうな古風な土塀をめぐらした大邸宅で
屋敷を囲んで早々たる大樹が茂っていた。
ピアノの音が流れてくる。
もうそれだけでも変に臆病になってしまって、
僕は何度か大名風な門前を行ったり来たりしたが、
ふとまた浮世には思い出もあらずの言葉に
急に血潮が熱くなるような思いで
僕は足音高く案内をこうた。
出てきたのは十六七ばかりの桃割れの少女であったが、
変につんつるてんな着物を着ている。
僕はまず大節間に通され、
ここで約一時間ぐらいも待たされた。
ゆとりおばりの油絵が一枚、
投げしに赤い槍が一本。
六角形の窓の向こうには、
水のとまっている大きな噴水があった。
その噴水のまわりには、
あざみの花が草むらのように咲いていた。
素敵だなあ。
09:00
なんとなく感嘆してしまえる静寂であった。
やがて僕は未亡人だという、
この家の主の部屋へ案内されたのだが、
一体お手伝いさんが何人いるのか、
僕はまるで履礼のように、
次から次のお手伝いさんへと渡されて、
夫人の部屋の外まで来た時は、
逃げ出したいほど、
何かもやもやした気味悪さを感じた。
夫人は二人の看護師に寄り添われて、
熱い紫の布団の上に座っていた。
山田は新宿の生まれだそうですね。
僕は一も二もなく参ってしまった。
夫人も新宿の生まれだというので、
ここでは新宿の山の話が出た。
今日は部屋をずっと見て回って、
なるべく早く来るようにしてください。
給料の話と妻の話を持ち出そうとすると、
もう看護師がえしゃくするのだ。
おとぎ話にだってこのような大名生活はないだろう。
彼女に見せてやったなら、
どんなことを言うであろうか。
年配のお手伝いさんが、
次々と五十いくつかの部屋を見せてくれた。
十九歳を頭に礼状が四人、
お手伝いさんが十八人、
事務員が二人の、
全く女ばかりの王女体で、
男といえば風呂滝のじいさんと
末のぼっちゃんだけだということであった。
この二宮というのは、
天下の二宮と言われた貴都商人で、
一時は全く極実の勢いにあったという一家だということだ。
さすがに風格も堂々としていて、
五十いくつかの部屋を見終わった時の僕の頭の中には、
ただ壁だけがぐるぐる回っていた。
お手伝いさんは僕を玄関へ送り出すと、
お荷物を早くお送りなさいまし、
女手が多いのですから片付けておいてあげます。
僕は僕の部屋になるのだという書生部屋もさっき見た。
高窓が一つ、
壁の上には販毒するに困難な字が書けてあった。
あの洗い流したように古びた畳の色など、
僕にはもう縁なき手錠であるかもしれぬ。
前にいた書生さんはこの高窓からばかり、
12:01
カチカチカカチなんて拍子銀を打つんでしょう。
そりゃあおかしい人でしたよ。
自分が怖いんで、
近所の野良犬を五六匹も集めたりしていたんですの。
聞きたいラジオ番組何にもない。
そんな時間はポッドキャストで過ごしませんか。
RKBでは毎週40本以上のポッドキャスト番組を配信しています。
あなたのお気に入りの声にきっと出会えるはず。
ラジコ、スポティファイ、アップルポッドキャスト、
アマゾンミュージック、ユーチューブミュージックで
RKBと検索してフォローしてください。
RKBオンラインのポッドキャストまとめサイトもチェック。