朝
2023-02-25 16:36

022 230225 太宰治 朝 朗読:井口謙

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おしゃべり本棚 この時間は福岡のRKB毎日放送のアナウンサーによる朗読をお送りします。
太宰治
朝 私は遊ぶことが何よりも好きなので
家で仕事をしていながらも、ともあり遠方より来るのを いつも密かに心待ちにしている状態で
玄関ががらっと開くと、眉をひそめ口をゆがめて けれども実は胸を躍らせ
書きかけの原稿用紙をさっそく取り片付けてその客を迎える あっ、これはお仕事中ですね
いや、何 そうしてその客と一緒に遊びに出る
けれどもそれではいつまでも何も仕事ができないので 某所に秘密の仕事部屋を設けることにしたのである
それはどこにあるのか家の者にも知らせていない 毎朝9時頃
私は家の者に弁当を作らせ それを持ってその仕事部屋に出勤する
さすがにその秘密の仕事部屋には訪れてくる人もないので 私の仕事も大抵予定通りに進行する
しかし 午後の3時頃になると
疲れても苦しい人が恋しくもなるし遊びたくなって 頃合いのところで仕事を切り上げ家へ帰る
帰る途中でおでん屋などに引っかかって深夜の帰宅になることもある 仕事部屋
しかしその部屋は女の人の部屋なのである その若い女の人が朝早く日本橋のある銀行に出勤する
その後に私が行って そうして4、5時間そこで仕事をして
女の人が銀行から帰ってくる前に退出する 愛人とかなんとかそんなものではない
私がその人のお母さんを知っていて そうしてそのお母さんは
ある事情でその娘さんと別れ別れになって 今は東北の方で暮らしているのである
03:01
そうして時たま私に手紙をよこして その娘の縁談について私の意見を求めたりなどして
私もその候補者の青年と会い あれならいいお婿さんでしょう
賛成です なんて
ひとかどの苦労人の言いそうなことを書いて送ってやったこともあった しかし今ではそのお母さんよりも
娘さんの方が余計に私を信頼しているように どうもそうらしく私には思われてきた
キクちゃん この間あなたの未来の旦那さんに会ったよ
そう どうでした
少しキザねえ そうでしょ
まあでもあんなところさ それはもう僕に比べたらどんな男でもアホらしく見えるんだからね
我慢しな それはそうね
娘さんはその青年とあっさり結婚する気でいるようであった 千夜
私は大酒を飲んだ いや大酒を飲むのは毎夜のことであって何も珍しいことではないけれども
その日仕事場からの帰りに 駅のところで久しぶりの友人と会い
早速私の馴染みのおでん屋に案内して大いに飲み そろそろ酒が苦痛になりかけてきた時に
雑誌社の編集者が たぶんここだろうと思った
と言ってウイスキー持参で現れその編集者の相手をしてまたそのウイスキーを1本 飲み尽くして
これはもう吐くのではなかろうか どうなるのだろうと自分ながら空恐ろしくなってきて
さすがにもうこの辺で酔そうと思っても今度は友人が 席を改めて僕にこれからおごらせてくれと言い出し
電車に乗ってその友人の馴染みの小料理屋に引っ張って行かれ そこでまた日本酒を飲み
やっとその友人編集者の両人と別れた時には 私はもう歩けないくらいに酔っていた
止めてくれ 家まで歩いていけそうもないんだ
このままで寝ちまうからね 頼むよ
私はこたつに足を突っ込み 二重回しを着たままで寝た
06:06
夜中にふと目が覚めた 真っ暗である
数秒間私は自分の家で寝ているような気がしていた 足を少し動かして
自分が旅を這いているままで寝ているのに気づいてハッとした しまった
いけねえ ああこのような経験を私はこれまで何百回何千回繰り返したことか
私は唸った お寒くありません
とキクちゃんが暗闇の中で言った 私と直角に
こたつに足を突っ込んで寝ているようである いや寒くない
私は上半身を起こして 窓から照弁してもいいかねえ
と言った かまいませんわ
その方が簡単でいいわ キクちゃんも時々やるんじゃねえか
私は立ち上がって電灯のスイッチをひねった つかない
停電ですの とキクちゃんが小声で言った
私は手探りでそろそろ窓の方に行き キクちゃんの体につまずいた
キクちゃんはじっとしていた こりゃあいけねえ
と私は独り言のようにつぶやき やっと窓のカーテンに触ってそれを這いして窓を少し開け
流水の音を立てた キクちゃんの机の上にクレーブの奥形という本があったねえ
私はまた以前の通りに体を横たえながら言う あの頃の貴婦人はねえ
宮殿のお庭やまた廊下の階段の下の暗いところなどで 平気で照弁をしたものなんだ
窓から照弁をするということも だから本来は貴族的なことなんだ
お酒お飲みになるんだったらありますわ 貴族は寝ながら飲むんでしょ
飲みたかった しかし
飲んだら危ないと思った
いや 貴族は暗黒を厭うものだ
眼雷が臆病なんだからねえ 暗いと怖くてダメなんだ
ろうそくがないかねえ ろうそくをつけてくれたら飲んでもいい
09:05
キクちゃんは黙って起きた そうしてろうそくに火が点ぜられた
私はほっとした もうこれで
今夜は何事もしでかさずに済むと思った どこへ置きましょう
食材は高きに置けとバイブルにあるから高いところがいい その本箱の上へどうだろう
お酒はコップで 深夜の酒はコップに告げとバイブルにある
私は嘘を言った キクちゃんはニヤニヤ笑いながら
大きいコップにお酒をなみなみとついで持ってきた まだもう一杯分ぐらいございますわ
いや これだけでいい
私はコップを受け取ってぐいぐい飲んで飲み干し 仰向けに寝た
さあ もう一眠りだ
キクちゃんも おやすみ
キクちゃんも仰向けに私と直角に寝て そうして
まつげの長い大きい目をしきりにパチパチさせて眠りそうもない 私は黙って本箱の上のろうそくの炎を見た
炎は生き物のように伸びたり縮んだりして動いている 見ているうちに私はふとあることに思いたり恐怖した
このろうそくは短いね もうすぐなくなるよ
もっと長いろうそくがないのかね それだけですの私は目した
天に祈りたい気持ちであった あのろうそくが尽きないうちに私が眠るか
またはコップ一杯の酔いが冷めてしまうか どちらかでないとキクちゃんが危ない
炎はちろちろ燃えて少しずつ少しずつ短くなっていくけれども 私はちっとも眠くならず
またコップ酒の酔いも冷めるどころか五体を熱くして ずんずん私を大胆にするばかりなのである
思わず私はため息を漏らした たびをおぬぎになったら
なぜ そのほうが温かいわよ
私は言われるままにたびをぬいだ これはもういけない
12:01
ろうそくが消えたらそれまでだ 私は覚悟しかけた
炎は暗くなり それから
身もだえするように左右に動いて一瞬大きく明るくなり それから
じじっと音を立てて みるみる小さくいじけていって
消えた しらじらと夜が明けていたのである
部屋は薄明るくもはや暗闇ではなかったのである 私は起きて帰る身支度をした
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