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おしゃべり本棚。この時間は福岡のRKB毎日放送のアナウンサーによる朗読をお送りします。
江戸川乱歩作 算盤が恋を語る話
その2、ここでちょっとTのこの不思議な行為について説明しておかねばなりません。
すでに推察されたことと思いますが、Tは世にも内気な男でした。
そして、それが女に対しては一層ひどいのです。
彼は学校を出てまだ間もないのではありますけれど、それにしても30近い今日まで、なんと一度も恋をしたことがない。
いや、ろくろく若い女と口を聞いたことすらないのです。
むろん機会がなかったわけではありません。 ちょっと想像もできないほど臆病な彼の性質が災いしたのです。
それは一つは、彼が自分の要望に自信を持ち得ないからでもありました。
うっかり恋を打ち明けて、もし跳ねつけられたら、それが怖いのでした。
臆病でいながら一一倍自尊心の強い彼は、そうして恋を拒絶せられた場合の気まずさ、恥ずかしさが何よりも恐ろしく感じられたのです。
あんないけすかない人っちゃないわ、そういったゾッとするような言葉が、要望に自信のない彼の耳元で絶えず聞こえていました。
ところが、さしもの彼も今度ばかりは辛抱しきれなかったとみえます。
エスコはそれほど彼の心をとらえたのです。
しかし、彼にはそれを正面から堂々と訴えるだけの勇気はもちろんありませんでした。
なんとかして拒絶された場合にも、少しも恥ずかしくないような方法はないものかしら。
卑怯にも彼はそんなことを考えるようになりました。
そして、こうした男に特有の異常な必要さをもって、いろいろな方法を考えては打ち消し、考えては打ち消しするのでした。
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彼は会社で党のエスコと席を並べて事務を取りながらも、そして彼女とはさりげなく仕事の上の会話を取り交わしながらも、絶えずそのことばかり考えていました。
ちょうぼをつけるときも、そろばんをはじくときも、少しも忘れる暇はないのです。
すると、ある日のことでした。
彼はそろばんをはじきながら、ふと妙なことを考えつきました。
少しわかりにくいかもしれんが、これなら申し分がないな。
彼はにやりと快心の笑みを浮かべたことです。
彼の会社では、数千人の職工たちに毎月二回に分けて賃金を支払うことになっていて、会計部はその都度工場から回されるタイムカードによって各職工の賃金を計算し、一人一人の賃金袋にそれを入れて各部の職長に手渡すまでの仕事をやるのでした。
そのためには数名の賃金計算係というものがいるのですけれど、非常に忙しい仕事ですから、多くの場合には会計部の手すきの者が総出で、読み合わせから何から手伝うことになっていました。
その際に、貴重の都合上、いつも何千というカードを職工の生命の頭字で、いろは順に仕分けをする必要があるのです。
初めのうちは机を取り除けて広くした場所へ、それをただいろは順に並べていくことにしていましたが、それでは手間取るというので、一度赤さたな、はまやらわと分類して、その各々をさらにあいうえおなり、かきくけこなりに仕分ける方法を取ることにしました。
それを始終やっているものですから、会計部の者はあいうえお五十音の位置をもうそらんじているのです。
たとえば、野崎といえば、五行目、七行の第五番というふうにすぐ頭に浮かぶのです。
Tはこれを逆に応用して、そろばんにあらわした数字によって、簡単な暗号通信をやろうとしたのです。
つまり、のの字をあらわすためには、五十五とそろばんをおけばよいのです。
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それがのべつに続いていては、ちょっとわかりにくいかもしれませんけれど、よーく見ているうちには日ごろおなじみの数ですから、いつか気づくときがあるに相違ありません。
では、彼はエスコにどういう言葉を通信したか、試しにそれを解いてみましょうか。
十二億は、一行目あ行の第二文字という意味ですから、いです。
四千五百は、四行目他行の第五字ですから、とです。
同様にして、三十二万はし、二千二百はき、二十二もき、七十二千はみです。
つなわち、いとしききみとなります。
いとしききみ、もしこれを口にしたり文章に書くのでしたら、Tには恥ずかしくてとてもできなかったでしょうが、こういうふうにそろばんにおくのなれば平気です。
他の者に悟られた場合には、なあに偶然そろばんの玉がそんなふうに並んでいたんだと言い抜けることができます。
第一、手紙などと違って証拠の残る憂いがないのです。
実に万全の策と言わねばなりません。
幸いにしてエスコがこれを解読して受け入れてくれればよし。
万一そうでなかったとしても、彼女には言葉や手紙で訴えたのと違ってあらわに拒絶することもできなければ、それを人に不意調するわけにもいかないのです。
さあて、この方法はどうやら成功したらしく思われます。
あのエスコの素振りでは、まず十中八九は失望を見ないで済むだろう。
これならいよいよ大丈夫だと思ったTは、今度は少し金額を変えて、
六十二万五千五百八十一円七十一千と置きました。
それをまた数日の間続けたのです。
これも前と同じ方法で当てはめてみればすぐわかるのですが、日野山となります。
日野山というのは、会社からあまり遠くない小山の上にあるその町の小さな遊園地でした。
Tはこうして、相引きの場所まで通信し始めたのです。
そのある日のことでした。
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もう十分暗黙の了解が成り立っていると確信していたにもかかわらず、
Tはまだ仕事以外の言葉を話しかける勇気がなく、
相変わらず長暮のことなどを話題にしてエスコと話していました。
すると、ちょっと会話の途切れた後で、
エスコはTの顔をじろじろ見ながら、
そのかわいい口元にちょっと笑みを浮かべてこんなことを言うのです。
ここへソロバンをお出しになるの、あなたでしょう?
だいぶ前からですね。
あたし、どういうわけだろうと思っていましたわ。
Tはぎっくりしましたが、
ここでそれを否定してはせっかくの苦心が水の泡だと思ったものですから、
満身の勇気をふるい起こしてこう答えました。
ええ、僕ですよ。
だが情けないことにその声はおびただしく震えていました。
あら、やっぱりそうでしたの。
そうして彼女はすぐ他の話題に話をそらしてしまったことですが、
Tにはその時のエスコの言葉がいつまでも忘れられないのでした。
彼女はどういうわけであんなことを言ったのでしょう。
肯定のようにもとれます。
そうかと思えば、またまるで無邪気に何事も気づいていないようでもあります。
女の心持ちなんて俺にはとてもわからない。
彼は今さらのように短足するのでした。
だがともあれ最後までやってみよう。
たとえすっかり勘づいていても彼女もやっぱり恥ずかしいのだ。
彼にはそれがまんざらうぬぼれのためばかりだとも考えられぬのでした。
そこでその翌日、今度は思い切って
24億6,321万6,492円52銭と置きました。
けふかえりに
すなわち、きょうかえりにという意味です。
これでいちかばちか型がつこうというものです。
きょう車の帰りに彼女が日の山遊園地へ来ればよし。
もし来なければ今度の計画は全然失敗なのです。
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