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博多にて 前編
2024-12-14 16:31

博多にて 前編

0116 241214 小泉八雲 博多にて 前編 朗読:茅野正昌
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おしゃべり本棚 この時間は福岡のRKB毎日放送のアナウンサーによる朗読をお送りします。
小泉薬も 博多にて
前編 人力車で旅行していてできるのはあたりを眺めることと夢見ることくらいである
揺れるので読書はできないし、自分のと連れの人力車が2台並んで走れるような道幅があったとしても、車輪の回る音や風の音がするので会話することもできない。
日本の景色の特徴にも慣れてくると、旅行の間、長い休憩の時を除けば、
強く印象づけられるような神奇な事柄でもなければ、もう見ようとしないのである。
道は、たいがいは水田や野菜畑、それに小さな村落を抜け、 そして限りなく続いている緑や青い色の丘の間を通っている。
時には、菜種の花の燃えるような黄色であふれた平野や、レンゲ花の紅紫色で覆われた谷を横切る時など、実にはっとするような色彩が広がっていることもある。
しかし、これらとて、とても短い季節のほんの一瞬の輝きに過ぎない。
広大な緑一色というのは単調で飽きてしまい、大抵はどんな能力にも訴えかけない。
おそらく、頬にあたる風に吹かれながら、物思いにふけったり、こっくりと居眠りするのが関の山だし、
たまさか余計な力のために人力車が揺れた時にだけ目が覚めたりする。
秋に博多へ旅行した時もそうであったが、やはり周りを眺めたり、夢を見たり、うつらうつらと居眠りをしていたのである。
トンボが飛んでいるのや、見渡す限り広がる水田のウネが限りなくつながっているのや、水平線の彼方に見慣れた山の峰がわずかに移りゆく様や、
万物の上にあって青空に浮かぶ白雲の変化する様を眺めたのだった。
が、一体何度九州の同じ景色を眺めなければならないのか。
03:00
また目覚めるようなすばらしいものがないと嘆かねばならないのか。
と自問する始末であった。
ふいに、しかしとてもゆっくりとある考えが浮かんできた。
それは、ありうべき光景の最もすばらしいものは、世界のごくありふれた緑の中に、
つまり生命の終わりなき出現の中に存在するのではなかろうかと。
古来、至るところで、緑の生物体は、目に見えない始まりから、柔らかい大地や固い岩から成長しているし、
人類よりもはるかに古くから、おびただしく、また沈黙して音を出さない種を形づくっている。
その目に見える歴史については、私たちは多くを知っている。
それらに名前がつけられ、また分類もされた。
葉の形、その果実の質や花の色の理由についても知っている。
なぜなら、地上のあらゆるものに形を与えている高級の法則のありさまについて、少なからず学んできたからである。
しかし、なぜ植物は存在しているのか。
これについて私たちは知らない。
この普遍的な緑となって現れようとする霊的なものとは一体何なのか。
それは繁殖しないものから由来しながら、永遠に繁殖するという謎である。
あるいは、生命がないと思われている無生物も、それ自体生命であるのか。
つまり、それはより沈黙した、より隠れた生命に過ぎないのか。
しかし奇妙で動きの早い生命体が地球上に出現し、風の中や水の中に生息している。
これは自分を大地から分離する霊的な力を持っているが、最終的には常に大地に呼び戻され、
自分たちがかつては捕食してきたものを今度は養うように運命づけられている。
それは、感じる、知る、這いずり回り、泳ぐ、走る、考える、そして数え切れないくらいの形態がある。
緑の緩やかな生命体は存在そのものを求めている。
が、この生命体は存在しないことと永遠に戦うのである。
06:05
その動きのメカニズムやその成長の法則について私たちは知っている。
その構造の最も内容で迷宮だったところも解明されている。
その感覚の領域も位置づけられて、名称もつけられている。
だがその意味についてはまだよくわかっていない。
どこからそれが来たのか。
あるいはより単純に、それは何なのか。
なぜそれは苦痛を知っているのか。
なぜそれは苦痛によって進化しているのか。
そしてこの苦痛の生命体とは、私たち人間のことである。
相対的には、それは見るしまた知る。
絶対的には、自分たちを支えているゆるやかな冷たい緑の生命体のように。
動物も無知であり、また這いずり回っている。
しかし、それはより上位の存在をまた支えている。
つまり、目には見えない生命体を限りなく活発にし、
またより複雑に育て上げているのか。
霊的なものの中に包み込まれた霊的なものが存在するのか。
無限の生命の中に生命が存在するのか。
他の宇宙に互いに浸透し合うような宇宙が存在するのか。
今日では、少なくとも人間の知識の限界はしっかりと固定されている。
これらの限界を遥かに超えてのみ、前述の問いに対する答えは存在する。
けれども、何が可能性のこれらの限界を決めているのだろうか。
それは、人間の性質そのものに他ならない。
この性質は、私たちの後に続く未来の人々の中にも、同じように限界づけられたままなのか。
彼らは、より高い感覚を発展させ、多様な能力を開拓し、また知覚をより確実にするということはないのだろうか。
科学は、この点で何を教えてくれるのだろうか。
おそらく、クリフォードの深遠な言葉が示唆するように、
私たち人類は作られたものではなく、自らを作っているのである。
これこそが、科学の最も意義深い教えである。
09:05
では何ゆえに、人間たちは自らを作り出してきたのか。
それは、病苦と苦痛を免れるためである。
私たちの種は、苦痛の圧力のもとでのみ形作られた。
苦痛が存在する限り、自己変革の終わりのない大変な仕事も継続する。
かつて太古においては、生命の必要不可欠なものは物質的なものであった。
今日においては、それらは物質的でもあり、また道徳的でもある。
将来のあらゆる必要不可欠なもののうちで、
宇宙の謎を解読しようとすることほど、
無慈悲にして、かつ力強く、また素晴らしいものはないようだ。
世界の最も偉大な思想家は、なぜ謎が解き明かされないかを語っているが、
また解決したいという熱望は継続しなければならず、
そして人間の成長とともに大きくなるとも言っている。
確かにこの必然性を単に認めること自体にも、希望の芽生えをそのうちに持っている。
知りたいと恋願うことは、将来の苦痛の恐らく最高の形式であるが、
現在は不可能なことを成し遂げようとする力、
つまり今は見えないものを知覚する能力の自然な発展を人類のうちに強いることにならないだろうか。
今日の私たちは、かつて存在しようと思い憧れてきた、
等の私たち自身に他ならない。
とすれば、私たちの事業の継承者たちは、
私たちが現在なりたいと望んだものに、
彼ら自身もなり得ると言えるのではなかろうか。
帯の織物の街、博多に私はいる。
ここには見上げるように高い街並みがあり、
驚くような色彩に満ちた素晴らしい小道がいくつもある。
私は正名という名の通りで佇んでいる。
というのは、そこには寺の門を通して、
私に微笑みかけている大仏の頭部、
つまり聖堂づくりの巨大な頭部があるからである。
この門は浄土宗の聖明寺というお寺のもので、
この頭部の像は美しかった。
しかし、頭部だけである。
12:02
お寺の境内の歩道の上には、
おびただしい銅の鏡が、
夢見るような巨大な顔の顎のところまで積み上げられて、
それを支えているのだった。
門の出入口の脇に建てられた案内板に、
その由来が記してある。
これらの鏡は、
夫人たちが仏陀の巨大な座像を
混流するために寄信したもので、
ゆくゆくは、それが置かれる大きな蓮の宛名を含めて、
およそ十メートルの高さになるはずで、
仏像全体は銅の鏡で作られるのだという。
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