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おしゃべり本棚。この時間は福岡のRKB毎日放送のアナウンサーによる朗読をお送りします。 江戸川乱歩作
お勢登場後編。不倫の妻おせいが恋人との往生から帰ってきたのは、その日の午後3時頃、 ちょうど角太郎が長持ちの中で、執念深くも最後の望みを捨てかねて、もはや虫の息で
断末魔の苦しみをもがいている時だった。 ただいま。お手伝いの答えを予期しながら、呼んでみたけれど、誰も出迎えなかった。
開け離された部屋部屋には、人の影もなかった。 第一、あのでぶしょうな夫の姿の見えないのが、いぶかしかった。
「誰もいないのかい?」 茶の前くると、かんだかい声でもう一度呼んでみた。すると、お手伝い部屋のほうから、
「はい、はい。」ととんきょうな返事がして、うたた寝でもしていたのか、一人のお手伝いが、はれぼったい顔をして出てきた。
「おまえ一人なの?」 おせいは、くせの勘が起ってくるのを、じっとこらえながら聞いた。
「あの、お丈どもは、うらで洗濯をしているのでございます。」
「で、旦那様は?」
「お部屋でございましょう。だっていらっしゃらないじゃないか。」
「あら、そうでございますか?」
「なんだね。おまえきっと昼寝をしてたんでしょう。こまるじゃないか。そして坊やは?」
「さあ、最前までおうちであそんでいらしたのですが、あの旦那様もごいしょでかくれんぼをなすっていたのでございますよ。」
「まあ、旦那様が。しようがないわね。」
それを聞くと、かのじょはやっと日ごろのかのじょをとりかえしながら、
「じゃ、きっと旦那様もおもてなんだよ。おまえさがしといで。いらっしゃればそれでいいんだから、およびしないでもいいからね。」
とげとげしく命令を下しておいて、かのじょは自分の居間へはいると、ちょっと鏡の前に立ってみてから、さて着替えをはじめるのであった。
そして、いま帯をときにかかろうとしたときであった。
ふと耳をすますと、隣の夫の部屋から、ガリガリという妙な物音がきこえてきた。
虫が知らせるのか、それがどうもネズミなどの音ではないように思われた。
それによく聞くと、なんだかかすれた人の声さえするような気がした。
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かのじょは帯をとくのをやめて、きみの悪いのをしんぼうしながら、あいだのふすまをあけてみた。
すると、さっきは気づかなかった、押入れの板戸のあいていることがわかった。
物音はどうやら、その中からきこえてくるらしく思われるのだ。
助けてくれ、おれだ。
かすかなかすかな、あるかなきかのふくみ声ではあったが、それが異様にはっきりとおせえの耳をうった。
まぎれもない夫の声なのだ。
「まあ、あなた、そんな長餅の中なんかに、いったいどうなすったんですの?」
かのじょもさすがにおどろいて、長餅のそばへ走りよった。
そしてかけがねをはずしながら、
「ああ、かくれんぼをなすっていたのですね。ほんとうにつまらないいたずらをなさるものだから。
でも、どうしてこれがかかってしまったのでしょうか?」
もしおせえが生れつきの悪女であるとしたなら、その本質は、
ひと妻のみで隠し男をこしらえることなどよりも、
おそらくこうした悪事を思い立つことのすばやさというようなところにあったのではあるまいか。
かのじょはかけがねをはずして、ちょっとふたを持ち上げようとしただけで、
何を思ったのか、またもともとどおりぐっとおさえつけて、
ふたたびかけがねをかけてしまった。
そのとき、中からかくたろうが、たぶんそれが精いっぱいであったのだろう、
しかしおせえの感じではごくよわよわしい力で持ち上げる手応えがあった。
それを押しつぶすようにかのじょはふたを閉じてしまったのだ。
のちにたって、むざんな夫殺しのことを思い出すたびごとに、
もっともおせえを悩ましたのは、ほかの何事よりも、
この長持を閉じたときの、夫のよわよわしい手応えの記憶だった。
かのじょにとっては、それが血みどろでもがきまわる断末魔の光景などよりは、
幾層倍もおそろしいものに思われたことである。
それはともかく、長持をもともとどおりにすると、
ぴっしゃりと板戸をしめて、かのじょは大急ぎで自分の部屋に帰った。
そして、さすがに着替えをするほどの大胆さはなく、
真っ青になって、タンスの前に座ると、
隣の部屋からの物音を消すためでもあるように、
ようもないタンスの引き出しを、あけたりしべたりするのだった。
子供を探しにあったお手伝いはまだ戻らなかった。
裏で洗濯をしているお手伝いも、家の中へ入ってきた気配はない。
早く、今のうちに夫の唸り声や物音が止まってくれればいい、
そればかりが彼女の頭いっぱいの願いだった。
06:01
だが押入れの中の執念深い物音は、
ほとんど聞き取れぬほどに衰えてはいたけれど、
まるで意地の悪いゼンマイ仕掛けのように、
絶えそうになっては続いた。
彼女はあまりの恐ろしさに、
危うく決心をひるがえして長持を開こうかとまで思ったが、
しかしそんなことをすれば、
いっそう彼女の立場が取り返しのつかぬものになることはわかりきっていた。
一旦殺意を悟られてしまった今さら、
どうして彼を助けることができよう。
それにしても長持の中の角太郎の心持ちはどのようであったろう。
加害者の彼女すら決心をひるがえそうかと迷ったほどである。
しかし彼女の想像などは、
当人の世にも稀なる大苦悶に比して、
千分一、万分一にも足らぬものであったに相違ない。
おせいはそれほどの苦悶を想像しようはずはなかったけれど、
彼女の考えた範囲だけでも夫の門司を憐み、
彼女の残虐を食いないわけにはいかなかった。
でも彼女の運命的な不倫の心持ちは、
悪女自身にもどうしようもなかった。
彼女はいつのまにか静まり返ってしまった押入れの前に立って、
犠牲者の死を弔う代わりに、
懐かしい恋人の面影を描いているのだった。
一生遊んで暮らせる以上の夫の遺産、
恋人との誰はばからぬ楽しい生活、
それを想像するだけで、
死者に対するさばかりの憐みの情を忘れるのには十分なのだ。
彼女はかくて取り返した、
常人には想像することもできぬ平成を持って、
次の間に退くと、
唇の隅に冷たい苦笑さえ浮かべて、
さて帯を解き始めるのであった。
その夜八時頃になると、
おせいによって匠にも仕組まれた死体発覚の場面が演じられ、
北村家は上を下への大騒ぎとなった。
親戚、出入りの者、医師、警察官、
急を聞いて馳せつけたそれらの人々で、
広い座敷がいっぱいになった。
犬死の形式を略するわけにはいかず、
わざと長餅の中にそのままにしてあった角太郎の死体の周りには、
やがて係官たちが立ち並んだ。
深底から嘆き悲しんでいる弟の角二郎。
偽りの涙に顔を汚したおせい。
係官に混ざってその席に連なったこの二人が、
局外者からは少しの高圧もなく、
どのように首相らしく見えたことであろう。
長餅は座敷の真ん中に持ち出され、
一警官の手によって無造作に蓋が開かれた。
五十色光の伝統が醜く歪んだ角太郎の苦悶の姿を照らし出した。
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それにもかかわらず、
彼女はさすがにそれを静止することはできない様子であったが、
何の自白をもしなかったばかりか、
白々しい嘘八百を涙に濡れて申し立てるのだ。
やがて検視の手続きは別段の故障なく終わり、
死体は親族の者の手によって長餅の中から他の場所へ移された。
そしてその時、少しばかり余裕を取り返した彼らは、
初めて長餅の蓋の裏のかき傷に注意を向けることができたのである。
その中で、かき傷の画面からある驚くべきものを発見したのは、
当のお生徒角太郎の二人だけであった。
彼らは死骸と一緒に別間に去った人々の跡に残って、
長餅の両端から蓋の裏に現れた影のようなものに異様な凝視を続けていた。
おお、そこには一体何があったのであるか。
それは影のようにおぼろげにたどたどしいものではあったけれど、
よく見れば無数のかき傷の上を覆って、
一時は大きく、一時は小さく、あるものは斜めに、
あるものはやっと反読できるほどの歪み方で、
まざまざとお生の三文字が現れているのであった。
姉さんのことですね。
角次郎は業主の目をそのままお生に向けて低い声で言った。
そうですわね。
ああ、このように冷静な言葉がその際のお生の口をついて出たことは、
なんと驚くべき事実であったか。
むろん彼女がその文字の意味を知らぬはずはないのだ。
瀕死の角太郎が命の限りを尽くしてやっと書くことのできた
お生に対する呪いの言葉、最後の意に至って、
その一線を隠すると同時に文章を遂げた彼の申衆。
彼はそれに続けてお生こそ業主人である旨を
いかほどか書きたかったであろうに、
不幸そのもののごとき角太郎はそれさえ得せずして
先週の遺婚を抱いて干し固まってしまったのである。
しかし角次郎にしては彼自身善人であるだけに
そこまで疑念を抱くことはできなかった。
単なるお生の惨事が何を意味するか、
それが下主人を指し示すものであろうとは想像のほかであった。
彼がそこから得た漢字はお生に対する漠然たる疑惑と
兄が未練にも死に際まで彼女のことを忘られず
苦悶の指先にその名を書き留めた無惨の気持ばかりであった。
12:05
「まあ、それほど私のことを心配していて下さったのでしょうか。」
しばらくしてから現外に相手が己に勘付いているであろう
不倫を悔いた意味をも込めてお生はしみじみと嘆いた。
そしていきなりハンカチを顔に当ててさめざめと泣くのであった。