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おしゃべり本棚 この時間は福岡のRKB毎日放送のアナウンサーによる朗読をお送りします。
林文子作 婚期
後編 その安波を迎える夜が来て
杉江の家族はみんな客前集まってテーブルを囲んだ
富子は白いブラウスに紺のスカートを着ていた。
安波もこれが与田先生に見せてもらった写真の姉の富子なのかと紹介されてしみじみと挨拶を交わしている。
落ち着いていて杉江のように艶やかなところはなかったけれども、安波は長い間このような品のいい女性を求めていたような気がした。
偏屈で無口で過微なことの嫌いな娘だと与田先生は富子のことを話していたものだ。
重長だったが顔は程よく小さくて目が一座の誰よりも美しく輝いている。
時々思いがけない時に非常な素早さで千万の言葉を語る熱情をその目はたたえていた。
唇は引き締まっていて口尻がいやしくなくエクボのように引っ込んでいる。
父親の顔によく似ていた。
杉江は今日は花模様の派手な服を着て盛んに出たり入ったりして働いていた。
富子は安波を写真よりもいい人だと思った。
写真を見ないで最初に人間同士会っていたら案外安波とめでたく結婚をしたかもしれないと思った。
運命の神様は面白い巡り合いをお作りになるものだと富子はふっと残り惜しい気持ちで安波の皿の上にあるかまぼこを何気なく箸でつまんだ。
一瞬の出来事だったので富子は箸でかまぼこをつまみ上げたままうろうろした気持ちだったけれど
人の皿のものを取って自分の皿の上に置くのもどうかとふてぶてしく思い切って
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板焼きの厚く切ったかまぼこを富子は自分の唇へ持って行って一口に頬張った。
早い出来事だったので誰も富子のこの不作法を見ているものはない。
ただ安波だけは自分の皿からつまみ上げられた一片のかまぼこの行方をよく見ていただけに
心は穏やかではなく知らぬ顔をしてかまぼこをもりもりと食べている富子の横顔をあきれて眺めていた。
杉江が安波にとついで二年の歳月が夢のように過ぎた。
その二年の間富子はどういう回り合わせなのかいい相手も見つからず
いたずらに青春の月日をむなしく過ごして
毎日中国語を勉強することと相変わらず漱石を読むこと
その他には禅を少し研究し始めたことくらいが生活の変化で
時々は女らしく台所に出てごもくずしを作ってみたり
父の好きな団子汁を作ったりして淡々とした歳月を過ごしていたのである。
もう二十六にもなると父も母も何も言わなくなり
勝手にしたらいいだろうといった調子で
中学生まで時々オールドミスと姉をからかったりするときがあった。
何と言われても富子は平気で千円は霞み
人生すべて悲歌の境地で悠々と自分の生活は
自分で誰にも侵されないように固く殻を守っている。
上海へ行った杉江が二年目に排血症で亡くなり
思いがけなく富子は母と二人で上海へ旅立つことになった。
家中でも一番元気だった杉江が亡くなったと聞いて
さすがに母は一番可愛かった末娘だけに
自分が行って骨を拾ってきたいと父にせがんで
お供役に富子がついていくことになった。
さて話には上海というところを様々に聞いているけれども
いざ現実にそこへ行ってみることになると
富子は上海についてだんだん不安なものを感じてきてもいる。
秋で中国の気候としては一番いいシーズンだったので
心配をしたほど寒くもなく
安波が取っておいてくれたブロードウェイマンションの8階の部屋に
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富子親子は落ち着くことができた。
時々母親は思い出したように杉江は亡くなってからも高校で
私は杉江のおかげで中国へ来たようなものだと
冗談まじりに言う時があった。
富子はすっかり上海が好きになり
何か職でもあったら2、3年とどまって働いてみたいと思ったけれど
1ヶ月ほどして杉江の遺骨を携えた安波と
去年の冬生まれた赤ん坊等を抱えて
富子は母と町へ戻ってきた。
安波は杉江の弔いを済ませるとまた
一人で上海へ戻っていったけれど
それからまた1年は無意に過ぎてしまった。
ある日与田先生が興奮したような表情で
富子を訪ねてきて
安波が富子をもらいたいという手紙をよこしたけれども
あなたはどう思いますかとやぶからぼうに聞きに来た。
とてもいい手紙なの
安波さんはぜひ富子さんをもらいたいんですって
よかったら言ってあげてください
えーでもまた私が排血症になって倒れるんじゃ
心の中では安波のところなら遠慮がないし
遠い思い出の人として心に残っている人だったので
行きたいとは思いながら
富子はまたこんな意地悪を言っている。
与田先生は無気になって怒って帰っていった。
富子は与田先生の帰った後
自分の部屋に入ってしばらく考え込んでいた。
考えがうまくまとまらないので
押入れに入って布団の上へ這い上がると
しばらく横になってみた。
肩の骨、腰の骨がなんとなく固くなっている。
気安く若さというものを見くびっているようだけれども
自分は安波に値しない女になっているかもしれないと思えた。
安波のためならば
たとえどのようになってもお嫁に行きたいと考えるのだけれど
年齢の臆病さなのか
富子は迷ってばかりいるのだ。
いっぺんよく会って話をしたいと思った。
手紙を出して一度帰ってもらって
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それから話をしようと思った。
富子が手紙を出してから間もなくである。
安波は飛行機で戻ってきた。
三年以前とは安波もだいぶん厳しく風貌が変わってきていた。
富子の両親は
富子さえ行く気持になってくれればという意向であるらしく
富子には何も面倒なことは言わなかった。
二、三日して安波の落ち着いた様子を見ると
富子が安波を散歩に誘った。
明治節でどこの家にも国旗が出ていてきれいな街である。
小春日の暖かい日が街の後ろの山脈を銀色に照らしつけていた。
富子は安波にこんなことを言った。
私はもうおばあさんですよ。
安波はびっくりしたように振り返ったが急に歩みを止めて
じゃあ僕が杖になってあげましょうと言った。
あら、もったいない杖ですのね。
杖になってもらうつもりではなく
私はもう歳をとっているから
あなたの奥様になる資格はないのですというつもりだったのだ。
安波は富子のそばへ寄ってきて
富子の右腕を取った。
腕を取られて富子は心の内で
恥ずかしさにうんうん唸っている。
胸に激しい動機が打ち始め
なんだか歩くことができないほど
荒々しい感情にとらわれてきた。
一体どこからこんな激しい思いが湧いてくるのか。
自分にもこんな思いが湧いてくる。
火の蔵があったのかと富子は不思議だった。
僕は何も言う資格はないかもしれないけれど
安波はそう言って
一番最初の二人の絆を言い出しかけたようだったが
なんとなくわざとらしく考えたのか
話を途中で切ってしまった。
富子が真っ赤になり
腕をブルブル震わしているのが自分の胸に伝わり
もうそれで富子の心もわかったようで
安波は安心したように右の手で
垣根の草をむしりながら
日本の民家の垣根っていいものだな
こんなさっぱりしたものに少しも気がつかないで
石の塀ばかり
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僕は長い間見て暮らしていたんだから
富子はそっと立ち止まると
一度目を固くつぶって
自分に問い聞かせるように
いつでも私行きます
早く式を済ませてくださるように
母さんにあなたから言ってくださいね
とぽーっと大きく目を見開いて
小さい声で言った
寺の五十の塔のところで
昼間の電気がキラキラ光っていて
子供たちが騒々しく騒いでいた
聞きたいラジオ番組何にもない
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