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おしゃべり本棚。 この時間は福岡のRKB毎日放送のアナウンサーによる朗読をお送りします。
山本周五郎作 嘘はつかねえ〈前編〉
新吉は裏ぶれたような気持ちになると、よくその柳屋へ行って酒を飲んだ。 彼はその横丁全体が好きだった。
両側の家に住む人たちは、どんななりわいをしているものか。 彼の行く自分には、どの家も雨戸を閉めて、隙間だらけの暴れ屋なのに、明かりの漏れる様子もない。
時たま赤子の鳴く声や、病人らしい力のない咳や、ガタン音、雨戸を開けたてする音などが聞えるほかは、みんな空き家のようにひっそりとしていた。
その横丁へ入って行くと、新吉は不思議な心の安らぎを覚えた。 そこにはつつましい落白と諦めのため息が感じられた。
絶望への恐襲といった風なものが、生きることの虚しさ、生活の苦しさ、この世にあるものすべての儚さ、病気、死、悲嘆、そんな思いが胸にあふれてきて、酔うような甘いやるせない気分になるのであった。
初めて柳屋へ行ったのは、二年前の冬のことだろう。酒も魚も安いだけが取り柄で、決してうまくはない。
無愛想な薄汚れた爺さんの様子も、普段なら眉をしかめるところだったが、そのときは新吉原の茶屋で友達と飲んで、そこで口論になって、ひどくやけな孤独な気持で飛び出した。
このまま旅へでも飛び出すか、いっそ見投げでもするかといったような気持だった。そんなときだったので、吉津で囲った屋台店も、まずい酒や魚も、よぼよぼした爺さんの様子も気にならなかった。
むしろ遠い親類の家へでも行ったような感じで、何か泣き言も言ったらしい。空の知らぬ自分まで乱暴に飲み続けた。それから時々飲みに出かけた。
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いつも客はあまりいないし、爺さんは無口で、こっちが話しかけない限りいつまででも黙っている。手弱で勝手に酔うことができるし、誰に気兼ねもなく邪魔もされず、いたければ朝までいられるし、自由に物思いにふけることもできた。
客は大抵がふと紛れ込んで来たといった風なものばかりで、長い馴染みらしいものはなかった。馬道の通りにも夜明かしの飲み屋がある。安くてうまい酒魚があって、急使に少女などを置いている店が、とびとびに四五軒はあった。
場所柄もあるだろうが、それらの店では客は大体馴染みが多く、客同士で話したり唄ったり、陽気に飲んで酔うといった風であった。しかし、柳屋の客はほとんどが一度きりであった。そして新吉が初めて飛び込んで来た時のように、それぞれが暗い重苦しい影を持っていた。
「親父、強いのはねえか。」
ブスッとそんなことを言って、どぶろくに焼酎を入れたのをとって、それをすぐには飲もうともせず、青黒いような疲れた顔をうつむけて、何かぶつぶつ一人で呟いたり、何度も深い吐息をしたりする。それから突然その酒を上織り、銭を投げ出して、暗い夜半の巷へ消えてゆく。そういったものが多かった。
「今の男は首でもくくるんじゃないのか。」
新吉は半ば冗談によくそんなことを言った。
じいさんはたいがい気のないあいづちをうつか、にやにや笑うくらいのものであるが、時には独り言のような調子で、
「なあに。めずらしかありませんや。」
などということがある。おそらくそんな経験がいくたびかあったのだろう。何かをじっと見通しているような言い方で、新吉は急に寒気のするような気持になったこともあった。
一度などは人を斬った侍が入ってきた。
残暑のころでもう東の空が明るみ出す時刻だったが、その侍は足音もさせずにぬっと入ってきて、酒を冷やのまま湯のみへ継がせ、続け様に三杯もあおった。
細かい白髪の肩びらに炉の夏羽織を着ていた。痩せた小柄なからだつきで目が血走っていた。
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「くだらないな。じつにくだらない。」
四杯目をのみながらそんなことをつぶやいた。
「世の中の人間も生きていることもみんなくだらぬたわけたことだ。」
侍はその血走った目で時々新吉のほうを見た。
警戒するのでもなく相手を求めるのでもない。
新吉を見はするが、じつは新吉を見るのではなく、心はまったく別のほうにあるという目つきだった。
「馬鹿なものだ。馬鹿なものだ。」
そんなつぶやきもほとんど無意識だったろう。酒を五杯飲むと途方もないほど多額な金を置いて、来たときのように足音もさせずに出て行った。
ふられてきたというかたちだね。
新吉はそういった。じいさんはにが笑いしただけであるが、それから間もなく役人が来た。
「いま車で人を三人斬った侍がある。仁相風邸はこれこれだが見かけなかったか。」
こういうのを聞いて新吉はあぶなく声が出そうになった。
役人が去った後、新吉は侍の血走った目や取り留めのないつぶやきを思い返しながら、じいさんが店を片付け始めるまで沈んだぼんやりした気持で飲み続けた。
松という男に初めて会ったのは北風の吹き荒れる寒い晩だった。
色のさめた継ぎはぎだらけの桃引き飯店に、わらじがけほっかむりで、腰には弁当の殻と見えるのを小風呂敷に包んでくくりつけていた。
年は自分で三十七だといったが、五十以下とは思えないくらいふけて見えた。
もうどこかで飲んできたのだろう。いい気持ちそうに鼻歌などやりながら、つよいのを一杯とって、
しばらくだったなあ、親父。おめえ生きててくれて、おらありがてえ。生きてせえ、そりゃまた会えるってよ。こんなありがてえことはねえや。
したったるい調子でしゃべり出した。彼は自分の名や年や、妻と子供が三人あることや、今は人足に雇われていることなど、二度も三度もくり返して、そのたびに、
嘘はつかねえ、と念をした。
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ガキは三人よ。みんなかわいいちくしょうだ。かわいいちくしょうだが、暮らしは楽じゃねえ。楽じゃねえさ。
こちとら人足のひやといせんにまで、おかみのうんじょうがかかるってんだから、文句をいうわけじゃねえが、おかみっていっても、どんな心持ちでいるものかさ。
その夜はひどい伊手だった。夕方までかなり強い小枯らしが吹いていたが、それがやむと急に気温が下がりだして、道など酔いのうちに凍ってしまった。
わけもなく気の沈む晩で、暗い絶望的なことばかり頭に浮かび、酒もむやみにまずかった。
柳矢野は安酒の中の安酒で、いつもはそれが一種のわびしい魅力だったのだが、その夜はそんな気分のせいか、二本ばかり飲むとやりきれなくなり、いっそよそへ行って飲みなおそうと思った。
そして財布を取り出そうとしたとき、松という男が入ってきた。
「よう、生きてたな、親父。ありがてえありがてえ。」
彼はよろよろと台板へのめりかかった。
「人間、生きて生するや、こうして会えるんだ。あら、これがうれしくってしょうがねえ。このまた会えるってことはよ。そうだろ親父。ありがてえありがてえ。」
そして強いのを注文して、ふと新吉を見つけて、鈍狂な声をあげた。
新吉もその声にすぐ答えた。
古い友達にでもめぐり逢ったような不思議な親しさが感じられ、出るのを思い止まって彼も強いのを取った。
「あら、旦那のことは覚えてる?」
「嘘はつかねえ。ちゃんと覚えてるよ。男は哀れなもんだってねえ。」旦那はそう言った。
「それはお前の言ったことだろ?」
「へえ、ご冗談。ふざけちゃいけねえ。」
松はその番は社会批評抜きで、いきなり彼の本論を持ち出した。
新吉を女房に甘い男だといい、新吉に限らず、一般に世間の男は女房に甘くて、そのだらしのなさは見られたものではないと言った。
「旦那は本気にしねえかもしれねえ。」
松は強いのを一口飲んで続けた。
「だがねえ旦那、俺がこんな式をやるにゃ、それ相当な訳があるんだ。人間が酒を飲んで酔うには酔うだけの訳があるように。」
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「嘘はつかねえ。俺はねえ、俺のちゃんでそいつをよく見たんだ。俺のこの目で酔う。旦那、俺はこれだけは旦那に言わずにゃ、いられねえ。」
×少女隊の春のキーナと
アオイリルマです。
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