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花宵 その3
2025-05-24 16:45

花宵 その3

0137 250524 山本周五郎 花宵 その3 朗読:武田伊央
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おしゃべり本棚。 この時間は福岡のRKB毎日放送のアナウンサーによる朗読をお送りします。
山本修吾朗作 花宵
第3回 母の稲は向き合って座ってからもしばらく何も言えない様子で黙っていた。
まだ夜の残っている暗い部屋に、 揚げたばかりの仏壇の灯明が瞬いていた。
お前は今、 母がお前を憎んでいるとお言いだった。
兄様は叱らないで、お前ばかり叱るとお言いだった。 稲はやがて低い声で言い出した。
そうお言いだったけれど、 お前は
自分が悪いのではないかと、 自分で一度でも考えてみたことがありますか。
それは、 兄様よりもお前の方に厳しくしているのは
本当です。 なぜなら、
兄様はこの森脇の家を継いで、 一生母のそばにいる人です。
けれどお前は、 成人すれば他家へ養子に行くか、
または分家して一家を建てなければなりません。 いつかは母のもとを去って、
他人の世界へ行く人です。 そうなってしまえば、
もう、 母は面倒を見てあげることができないのです。
悲しいことも、嬉しいことも、 お前は
自分一人の力で耐えていかなければならない時が来るのです。 母親は言い刺してそっと目を拭ったが、
すぐに涙を隠して続けた。 聖之助はあの通り元気で性質も明るく、
一人でどこへ話しても安心だと思いますけれど、 お前は
幼い頃から気の弱い子でした。 少しのことにも感じやすく、すぐ自分と人を
比べて考える癖があります。 昨日の清垣もその通り、
03:04
お前は良い点を取って兄様に勝とうという気持ちでいる。
それではいけないのです。 それでは良いお点を取ったところで、
行き止まりになってしまいます。 学問でも武芸でもみな一生の修行ですが、
それは掛川藩のため、 引いては
お国の役に立つのでなければダメです。 俺がという自分だけ偉くなる気持ちでは、
どれほど学問武芸に抜きんでたところで、 少しも値打ちはありません。
兄様に勝つことよりも、 お国の役に立つ立派な人間になろうと努力をするのが、
誠の武士の道ではありませんか。 お前はもう11です。
自分ばかり叱られるとか、ママの子ではないかなどという、 めめしいことを考えるのはおやめなさい。
母はこれからも叱ります。 けれどそれは、
お前がいつか森脇の家を去って、 波風の荒い世間で独り立ちになる時のためです。
その時、 世間から未熟者と笑わせたくないから叱ります。
お前の本当の母だから叱るのです。 ごめんください。お許しください、母上。
エイサブローは拳で目を押しぬぐいながら、 さっきとはまるで違う嬉しさのあふれる声で言った。
よくわかりました。私が悪ございました。 お許しください。
本当におわかりですか。
はい、ママの子だなんて言って申し訳がございません。 ごめんください。
彼は涙でぐしょぐしょに濡れた顔をあげ、 泣き笑いをしながらじっと母を見つめた。
でも母上、エイサブローは安心しました。 もう、いくらお叱りを受けても大丈夫です。
嫌なエイサブローですね。 叱られて大丈夫だということがありますか。
母親はそう言いながら思わず笑い出した。 けれど、
本当の母だから叱るという一言が、 こんなにも我が子を喜ばせたかと思うと、
笑いながら目の裏がじっと熱くなるのを感じた。
さあ、この五本は返してあげましょう。 立ち上がった母は、
06:05
夕べ持ち去った蘇我物語を取り出してきて渡した。 これからは、小袖越えばかり読んではいけませんよ。
どうしてそれをご存知なのですか。 母は答えずに、ただそっと微笑した。
さあ、兄様が待っておいででしょう。 早く午前にして、お稽古へおいでなさい。
春の夜には珍しい、青白く冴えた月が宵空にかかっていた。 庭の桜に吹く風もなくて、
どこか近くの屋敷から、小唄いの歌とつずみの澄んだ音が、 のどかに聞こえてくる。
どうするんですか兄上。 夜桜を見るのさ、いい月だぞ。
青之助を先に、その後から衛三郎がそっと庭へ降りて、 桜の花かげへやってきた。
ややよく冴えているなあ。まるで冬のようじゃありませんか。 もっとこっちへ来ないか。
ここのほうがよく見えますよ。ちょうど花の枝とあいだで、 いい眺めです。
なあ衛三郎、青之助が低い声で突然なことを言った。
我々はいい母上をもったなあ。 えっ
お前、そう思わないか。
衛三郎は振り向いたが、兄がじっとこちらを見つめていたのでまごついた。 青之助の目は泣いた後のように光を帯びていた。
けさ、お前が母上に叱られているのを、 俺は襖の影からすっかり聞いていたんだ。
どうしてそんなことをしたんです。 ママの子という言葉が聞こえたからさ。
青之助はずばずばとした調子で言った。
いつか老人の客が、まるで本当の兄弟のようだと言ったのは、 俺も覚えている。
けれども、お前がそれを自分のことだと考えていようとは思わなかった。
兄上もあれをお聞きになったんですか。
お前でさえ聞いたものを、二つも年上の俺が聞き逃すと思うのかい。
しかも、俺にとっては自分のことなのだぞ。
兄上。
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びっくりして衛三郎が何か言おうとするのを、 青之助は静かに制して続けた。
嘘ではない。
あの老人の客というのは江戸屋敷にいる瀬川淑美という人で、 俺のためには母方の祖父にあたるのだ。
俺の母は森脇家へ越し入れをして、 俺を産むとすぐ亡くなったんだ。
その後へおいでになったのが、今の母上なんだ。
でも、でもどうして兄上がそれを知っているんです。
瀬川のおじいさまがすっかり話してくだすったんだ。
そして、けれどもお前は今の母を本当の母だと思え、
仮にもまましい考えを起こすようでは、 武士とは言えぬぞとお言いなすった。
俺は驚かなかった。
だって、今の母上のほかに母上があるなどとは想像もできやしない。
ただ、父上が亡くなってから。
瀬戸助はそこでちょっと言い淀んだが、 すぐにいつもの活発な言葉つきで、
お前にだけ母上が厳しくおなりなすった。
お前は自分の叱られることを悲しがっていたが、
俺はかえって、叱られるお前が羨ましくてしょうがなかった。
生まれて初めて、
俺はママの子だから叱っていただけないんだと考えるようになった。
そして、どうかして叱っていただけるようにと思って、
お前に意地悪をしたり乱暴をしたりしたんだ。
俺は、自分が恥ずかしくて涙が出た。
そして、こんな単純なお情けさえわからず、
あべこべに母上をお恨み申していたかと思うと、
まったく自分がいやになった。
そうです、永澤郎もそう思いました。
俺たちは、と青之助はため息をつくように言った。
俺たちは、これまでにもどんなにたくさん、
母上のお情けを見逃しているか知れないんだ。
それを忘れぬようにしようぞ、永澤郎。
これからは常に母上のお心を見はぐらないようにな。
兄上、永澤郎は立派な武士になります。
そうだ、母上のお望みはそれ一つだ。
掛川藩のため、ひいてはお国の役に立つべき物の婦になるんだ。
やろうぞ。
そう言って弟の肩を叩くと、
12:00
弟もまた涙に潤んだ目で力強く兄を見上げた。
青之助はお庭ですか?
披露宴のほうで母の呼ぶ声がした。
二人は急いで目を拭きながら振り返った。
はい、ここにおります。
永澤郎もいますか?
私もおります、母上。
何をしておいでです?
夜桜を見ておりました。
青之助が大声に叫んだ。
そして、ちらと弟に目配せをしながら、
母のいるほうへと駆け出した。
永澤郎もその後を追って走って行った。
どこかの小歌いの歌と、
澄んだつづみの音とは、
まだのどかに聞こえていた。
お問い合わせご予約は、スタービル博多祇園のホームページからどうぞ。
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