オープニングと書籍紹介
こんにちは。 本茶本茶へようこそ。
毎回一つのお茶を味わいながら、一冊の本をきっかけに、生き方の問いを一つ持ち帰る時間です。
静けさのデザインとケアを通して、創造性の器を育む、スタジオスティルネスのFuyutoがお送りします。
毎週水曜日19時に更新しています。
今日ご紹介するのは、伊藤浅さんの書かれた、「身体の美学入門・感性から捉え直す人間の本質」という一冊になります。
また少しご無沙汰をしてしまいまして、一週間半ぐらいですかね、ちょっと更新ができなかったんですが、かなりちょっと最近バタバタしてしまっていて、
何とか本は週に一冊とか二冊とか読めてはいるんですけれども、ちょっと収録をする時間がなくて、少しご無沙汰の収録になっています。
今日取り上げるのはですね、伊藤浅さんという方、この方はですね、美学者、美しい学問ですね、美学の美学者の方でいらっしゃって、
東京科学大学の未来社会創生研究院のディレクターを務められています。
結構ですね、この身体ということと美学にまつわる様々な研究とか書籍も出されていて、
どもる身体とかですね、記憶する身体、手の倫理とか、あとは個人的に好きなのは身体は行くっていう本だとか、そういうものを書かれている方になります。
この本はですね、2ヶ月ぐらい前かな、中古新書から出ているものになっていて、
まさにこの伊藤浅さんが探求、研究のテーマとしている美学というものと、身体というものを通して理解をしていく、そんな内容の一冊になっています。
今回ですね、この本を選んだのは、結構前からこの美学っていうもの自体には興味があって、
鉄学の兄弟とか言われることもあるんだそうなんですが、いつかはポッドキャストで美学関係の本も紹介できたらいいなと思ってはいたんですよね。
以前ちょっと別の新書なんですけれども、古文社新書で青田真美さんという方が書かれた、
普通の暮らしを美学する、家から考える日常美学入門っていう一冊も紹介したいなと思っていたことがあったんですが、
なかなか美学自体の僕の理解が進んでいなくてですね、ちょっとお預けになっていたということもあって、
今回新しく伊藤浅さん、好きな著者の方なので本を出されたということで取り上げてみようかなと思っております。
とはいえですね、ちょっと今日も時間があんまりなかったりもするので少し短くなっちゃうかもしれないですが、
切り口としては2つ。1つ目が美学とは何か。2つ目がうっとりする経験ということを少し話してみたいと思います。
お茶の時間:丸久小山園の抹茶
その前にまずは一緒に楽しむお茶から。
今日はですね、久しぶりに抹茶をたててみました。
京都の宇治にある老舗の抹茶、マルキュー小山園さんというところの抹茶をいただいています。
今日もまだまだ暑くてですね、皆さんの住んでいるところはどうでしょうか。東京はまだ30度ぐらいあるのかな。
なのでガラスのお器ですね、ガラスのお茶碗に抹茶をたてて、氷をいくつか入れて冷たくしていただいております。
なかなか時間がなくてバタバタしていると一個一個があれですね、ちょっと雑になっちゃって落ち着かないとなと思いますが、
今日はちょっとこの抹茶を冷たくしていただきながら本の話をしていければというふうに思います。
それではここから本のご紹介に戻ろうと思いますので、皆様もお気に入りの飲み物と一緒にお楽しみください。
美学とは何か:感性を扱う学問
この本はですね、タイトルが身体の美学入門というふうに書かれているので、
まさに美学の解説、そしてそれを身体的に論じていくというような流れになっています。
特にこの本の中でいうとですね、第一章が美学、私の中の他者との出会いっていうタイトルで、
続く第二章が感性、この厄介で侮れないものというふうに、この二つを使いながらですね、美学というもののまずは基本的な話題から入っていきます。
そこで一つ目の切り口で美学とは何かというところから始めていこうと思います。
本当はですね、ここはもっと自分自身が理解してからわかりやすくお伝えできればよかったんですが、まだ僕自身もなかなかというところがあるので、
ちょっとこの本に書いてあることをかいつまみながらうまくシェアできるといいなと思っているんですが、
この新書ですね、一番初めにという出だしの章があります。
その中の冒頭の一文を引用すると、美学は感性を扱う学問です。
分野としては哲学の仲間、哲学というと言葉を使って物事を細かく分析していくイメージがあると思いますが、美学も同様です。
ただし美学の言葉に対する態度はちょっとアンビバレントです。
なぜなら美学が扱うのは感性という言葉にしにくいものだからです。
言葉にしにくいものを言葉を使って分析する。
こんな風にですね、美学のことを紹介しています。
いくつかキーワードが出てきていて、美学というのは感性を扱う学問だということですね。
感性、感じるということ。
さらにはその感じるということを言葉を使って分析をしていく。
そんなようなことが美学なんだそうです。
その後ですね、第1章、第2章を通してこの美学について成り立ちから解説がされているんですけれども、
この美学というのはですね、今から250年以上前、18世紀半ばのヨーロッパで生まれた当時新しい学問領域だったようです。
この新しさというのが何なのかというとですね、
それまでメインだった知性、あるいは論理学のように知性という認識能力を扱うものに対して、
感性、これはですね、知性よりも下位、劣った認識能力であるとされていたのですが、
この感性というものを扱う分野として誕生したようです。
この美学というものが成り立った時から、何か識別できるんだけど説明できないような領域を扱うものとして生まれてきたというのはとても面白いところだなというふうに思います。
感性の働き:対象と主体の区別
やはりその論理的に説明をしきれなくても、感じること、あるいは何かその違いがわかることってありますよね、感覚的にというか。
そういうものを扱う分野だということと、もう一文ですね、これは面白いなと思った文を引用させていただくと、
感性的な際によって対象を区別する時、それは同時に感じる側を同じように感じる人と同じように感じない人に区別することになる。
感性には対象と主体の両方について違いを見出し、分ける働きがあります。
これは本文中ではですね、お米を例えに使われているんですけれども、
例えばお米だと炊飯器で炊いたお米、ご飯と土鍋で炊いた時のご飯の風味とか味の違い、
これって僕ら感じる、感性で捉えることができますよね。
どっちの方が美味しいとか、もしかしたらどっちの方が甘いとか、そんなような対象についての違いというものを感じる。
これが一つ目の対象の違いを見出すというもの。
もう一つ感性の面白い役割があるとすると、これは感じる側も違いを区別されるということ。
炊飯器で炊いたお米と土鍋で炊いたお米、どっちの方が美味しいかとか、どっちの方が好きか、
人によっては炊飯器の方を選ぶし、土鍋の方を選ぶ人もいる。
どちらかというと、その感じる主体自体も区別、区分をされていく。
こうした対象と主体の両方について違いを見出して分けるということがこの感性の働きなんだそうです。
ということと何となく感じたのは、この同じものを見ても違うように感じる、そういう感性の働きがあるということが、
この後の話の一つポイントになっていくのかなというふうに読んでいました。
そして続く第二章で、この感性、感じるということと身体の関係性に少し話が移っていくんですが、
身体と感性の関係:ルッキズムと規範
まさに先ほどお米とかご飯について感じたような違いというものを、
私たちはお互いの身体についても、そういった美的な判断というものをしてしまっている。
簡単に言うと、人は人を見た目で判断してしまう。
もちろんその見た目というのは見るだけではなくて、聞こえることとか匂いとか、
そういった互換で感じられるもの含めてだと思うんですが、そういうようなところがボトムラインにあるんだと。
もちろんこの時代ですから、人を見た目で判断するということはルッキズムになったり、
好ましくないことだという理解も進んでいるとは思いつつも、
そう頭では分かっていないし、自分はそんなことをしないと思っていても、
この感性というものは自分の信念と矛盾するようなことを続けてしまう。
あるいはもうそのように働いてしまう。
そのこと自身の良し悪しというよりも、そういう前提に立った時に、
身体と感性というものはどのように関係しているのだろうかというのがこの本のテーマになっています。
その後ですね、この本書の中では違いを感じるということのパワーであったりとか、
それがどのようにこの社会の中で使われてきたかみたいなことを紹介をしていくんですが、
一つ面白い点は、この感性の働きとして同じものを美しいと感じることによって、
集団の求心力を高めるという使われ方がする。
これは同じものを美しいと思う人たちと思わない人たちの差別化みたいなことですね。
もう一つは、排除すべきものを共に兼をすることで、集団の境界線を安定させるという使い方。
これは見にくいものとか違いみたいなものを多捨化に使っていく。
こんなような感性の身体的なものに対する使われ方をいくつか事例を挙げながらこの後説明がされていきます。
例えばですね、先進国において太っている人は自己管理ができないとか、わがままで頑固だというネガティブな見られ方をしてしまうファットフォビアというものについてであったり、
あるいは1960年から70年代にアフリカ系のアメリカ人が起こしたブラックアーツムーブメントという芸術や文化をツールとして使いながら、
このアフリカ系アメリカ人に対する身体の魅力というものを取り戻そうとする運動、そんなことが語られていきます。
うっとりする経験:逸脱的な感性
ちょっとそのあたりもぜひ本書でお読みいただきたいと思うんですが、少しその後の部分で二つ目の切り口、うっとりする経験というものをご紹介したいなと思います。
これはですね、感性というものには二つの側面があるというところからスタートするんですが、その二つというのが、規範的な側面と逸脱的な側面というものです。
規範的な側面というのはですね、その社会において好ましいとされているものを好ましいと感じたり、好ましくないとされているものを好ましくないと感じる、
無意識的にもそういう共同体感覚を取り込んでしまう、一つそれをジャッジの基準にしているというようなものが挙げられるんですが、
一方で、この感性にはそれだけではない逸脱的な側面というものがあるんだそうです。
一文用すると、一方、感性の逸脱的な側面が現れるのは、私たちが対象に魅了されている時です。
対象固有の魅力に気づき、捉えられ、圧倒される時、社会において規範的とされる、好ましい、好ましくない、の基準はどこかに吹き飛んでしまう。
それは一言で言えば、うっとりするという経験です。
うっとりは、日常を覆っている規範的な感性の働きに穴を開け、対象固有の魅力に奉仕するような例外的な状態を作り出します。
ちょうど先日、この著者の伊藤浅さんが話される講演を聞いてきたんですけれども、
そこで話されていた伊藤浅さん自身の体験がすごいこれに近い、あるいは当てはまるなと思ったので、ちょっとご紹介したいんですが、
すごい小さな小学生とか、もうちょっと前ですかね、子供の頃、伊藤さんが講演かどっかで遊んでたんですかね、
とした時に、友達がすごい綺麗な泥団子を作ったんだそうです。
ありますよね、泥団子がすごいピカピカに磨かれて、もう本当に鉄の玉みたいになっているのをご覧になった方がいるかもしれませんが、
そういうものを差し出してくれた時に、思わずそれにもううっとりとしてしまって、
パッと手に取って食べてしまったと、一口パクッと噛んでしまった、なんかそんなような経験があったんだそうです。
これってまさにそのうっとりとする経験、逸脱的な感性が働いたということなのかなと僕は推測するんですけれども、
おそらく、基本的な感性の場合は、その泥団子っていうものに対して、無意識的にちょっとバッチそうだなとか、なんか汚そうとか、
そういうような感覚を思い起こしてしまうみたいなことかもしれないですが、
この個別の、その目の前に差し出されたものに対しては、もうそれを超えて、とにかくそこに取り込まれちゃう。
うっとりして思わず自分の行動が変わってしまう。圧倒されてしまう。
そんなことがですね、この感性の働きっていうものにはあるんだそうです。
そして、こういった逸脱的な感性の使われ方、発揮され方というものが、まさに人間らしい人間性の在り方なのかもしれないというふうに閉じられていきます。
まとめと感想
なかなか全部をお伝えすることはできなかったと思うんですが、とてもこの美学というものの成り立ちとか、あるいは前提を理解することができたのと、
この感性っていうものの働きですよね。
基本的に同じものを美しいと感じるから、吸心力が高まるとか、排除すべきものを一緒に嫌悪することで境界線が安定するみたいな使われ方もしつつ、
ただそれだけじゃなくて、思わず目の前のものに対して魅力にとらわれてしまう。うっとりしてしまうっていうような要素があると。
何かもう少しこの辺を深掘ってみたいなというふうに思ったと同時に、自分自身の感性、どういうものにどんなことを感じるんだろうかということに興味が湧いてきました。
今日はマルキュー小山園の抹茶をいただきながら、伊藤阿佐さんの書かれた身体の美学入門、感性から捉え直す人間の本質をご紹介しました。
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それではまた。