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こんばんは、ほかひびとラジオのTaitoです。
普段はアート業界で働きながら、夜は下北沢を拠点に新聞を作ったり、ラジオを撮ったりしています。
はい、今ぐるぐる散歩しているんですけどね。
なんか前回ね、ぼつ貝を撮ったんですよ。
ぼつ貝をね、あげたんですよ。
このね、なんだろうな、ずるさっていうのはね。
あの、ひどいですよね。
まあまあまあまあまあ。
なんかね、自分から出たものっていうのをね、定点観測しておきたい。
そんなの自分で抱えておけよって話なんですけども。
まあまあまあ、ある種自分にこう、責任を負わせるみたいなところもあってね。
一旦公開しましたけれどもね。
あの、何が言いたかったんだろうな。
まあ、要するに何かに回収されないような何かでありたいっていうことなんだろうなっていうか。
何かを作りたいんだろうな、何かばっかり言ってるけど。
何なんだよ、それはっていう感じはしますよね。
まだここにないものみたいなね。
いや違うな、何か言ってたな。
ジンガー、ハンター、ハンターのよく出てきますけど。
今ここに目の前にないものみたいなものをね、何かいつも探しててね。
気づいたらね、足元すくわれてるっていう感じなのはね、僕の人生なんですけれども。
簡単に言うとね。
いやー、本当に。
分かりやすくね、僕子供の時サッカーやってたんですけどね。
あの向こう逆サイドにね、バーッとオーバーラップしてね、走ってる人間が見えるんですよ。
それに自分がこう、完璧なスルーパスを出す、何だろうな。
分かんないけど赤い線みたいなのがね、見えてるんですよ。
それで、分かんないけどグラインダーのゴロみたいなのだったりとか。
アウトサイドのカーブでクーンってね、めちゃくちゃいいパスでね、試合を大展開してるようなパスが出せることが見えててね。
その後も一回僕がバーッと真ん中に上がっていってね、センタリングを決めれるようなビジョンがね、見えてるんですけれどもね。
足元をすくわれるっていうかね、足を振り上げた瞬間にパッとボールを取られるみたいなね、そういう感じのことが多いですね。
何が言いたいんだろうって感じだけども。
まあまあ、きっちり足ついてないってことなんだろうなっていう。
それが他意味とっていうことだから、そういう人間の心のありようみたいなのもね、喋っていければなと思うんですけれども。
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なかなかね、人前に出せるようなもんでもないからね。
まあまあ、なんでもいいんだけど。
いやー、何かね、何を考えてたんだろうな。
いろいろ考え事をしててね、自分のプロジェクトとかをガーッとまとめてしてたんですけどね。
あまりにもまともに金になってないけど、続けてるってことがね、続けようとしてるってことがね、多すぎてね。
自分の生活の配分っていうのはね、もうちょっと考えなきゃいけないなということは思ったんですけれどもね。
ある種、それを自分がやりたいと思うことを続けるために支払うべき代償みたいなのもね、別に普通に自分は完全に避けてるわけではないし。
まあまあまあまあ、それはいいなと別に思うんですけど。
何が言いたいんだ?
前回の感じとかもね、言いたいことを回避すぎて、何を伝えたいか全く分かんないっていうか、何を自分が吐き出してるか全く分かんないっていう感じに、口から出まかせとはこのことって感じでしたけども。
まあそれでいろいろ捜索、何かをね、並べて自分の関心事を並べたときに、なんか自分の中で一つ見解が生まれまして、別にそれは新しく生まれたっていうよりは前から思ってたことなんだけど。
なんかちょっとあれだな、話し変えるとここでみたいな感じですけど。
結構僕が、いつぐらいかな、大学、何年か前から好きな本でね、日常的実践のポイエティックっていう本があって、ミシェルド・セルトーっていうね、あの人が書いてるんですけれども。
セルトーはね、進学者でもあったんですけれども、僕の捉え方だと、いわゆる大きな物語みたいなのが解体するきっかけになったというかね。
なんか文化人類学的なものの走りっていうか、そういうことなのかな。
ああいうのって何て言うんだっけな。
とにかくその人はね、これまで書かれなかった歴史っていうことをね、紡ぐっていう仕事をしたんですよね、その本の中で。
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日常的実践のポイエティックっていうのはね、ある種、日常的実践の中に何かしらの制作っていうかね、創作活動っていうかね。
ポイエティックって何なんだろう。
詩学じゃないよね。
そういうものがあるって言って。
書かれたことっていうのは例えばね、残るけど、歴史っていうのはね、階級が上な人というかね、少数が書いてきたわけですよね。
そういうものじゃなくて、人種が残したもの、それは会話だったりとか、読むっていう消費の中にある制作を。
読む、消費の中にある制作みたいなことを。
ポイエティック気になってきて調べたくなっちゃった。
書いた人でね、街を歩くことっていうことだったりとか、
喋るってこと、聞くってこと、書くっていうこと、全部すべていろいろ含めて、
なんだろうな。
日常的実践っていうものをね、つまびらかにしたと思ってるんですけどね。
僕はその本を結構、断るたんびに読み返して、もうボロボロになってるんですけれども。
生み出すこととか作ることとか、そういうポイエシスってギリシャ語であるけど、
そういうことを言ってるんだろうなと思ってて。
僕はその考え方がすごく自分の中に入っていて、
何かをこう、生産するっていうこと。
生産っていうものが、ある種人生の質を作るっていうことに対して、
経済的に還元されない、回収されないようなね、
生産活動っていうのがあると思ってるんですよ。
それが読むっていうことだったり、街を歩くっていうことを見るっていうことだったりとかするんですけれども、
その中に記憶だったりとかね、そういうものが宿っているって思っていて。
面白いなと思ってたのは、文章っていうものを読むっていうことの中にはね、
ものすごく能動的な関わりがあって、
映画とか、
映像作品とかを見ると、バーっとその、
ある種自動的な状態っていうのはね、続くと思うんですけれども、
絵画とか文章を読むっていうときには、ものすごく能動的に自分が注視する視点を変えたりとか、
時間軸をねじ曲げたりとか、自分の記憶と照らし合わせながら文章を追ったりとか、
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途中で止まっちゃったりとかって、いろいろあるわけじゃないですか。
映像でももちろんあるから、
映像を引き合いに出すっていうのはフェアじゃないと思うんですけど、
僕なんて映画とか見ながら、本当にいろんな別の考え方をバーっとしてたりとかって、いろいろするし、
作品となったものとか、書かれたものとか、
自分の外側にね、固着されたものっていうのを、
読み取って自分の中にこう、
一つの記憶を生産するっていうのはね、
消費の中にも生産活動があるってことだと思っていて、
何回も読み返すような文章とかがあったりするんですよね。
ミシェルド・セルト自身もね、
読むっていうことの中に、
住まうっていうね、住むっていう概念を重ねている箇所があって、
厳密にどういうことを言ってたか、正しくは引けないですね。
僕がことあるごとに、その本を参照したりとか、
ある文章を読み返したりするってことはね、
そのテキストとか本の中にね、
僕の何かしらが住んでるってことだと思うんですよね。
だから僕が住んでるんですよね、そのテキストの中に。
だからたまたま帰りたくなるみたいなところがあって。
そういう自分の外の人間、自分以外の人間が作ったものの中に、
自分を寄生させるというかね、
自分の記憶を仮住まいさせるっていうことは、
何かを作るっていうことの本質だし、
作品を見て自分を見つめるっていうことの本質だと思うんですよね。
仮住まいなんですよね、仮住まい。
その人の言葉なんだけど、ある種自分が住みかを作ってしまうっていうね。
そういうものを作りたいなっていうのは浅はかながら思いますね。
何でもいいけど、誰かがもう少しだけ仮住まいできるような、
1文字でもいいし、2文字でもいいしって言うとさすがに足りないか。
ものすごい狂騒住宅だ。
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テキストだったり文章だったり他作る何でもいいけども、
何ならこういうしゃべり言葉の中に共感するみたいなことでも
もしかしたらいいのかもしれないんですけども。
それは聞くっていうことを通じた自分の中の生産行為っていうかね、
解釈の幅があるわけで、
それを自分が思っているように受け取っているわけではないだろうし、
そこには必ず自分のフィルターが入っているわけですよね。
他人のフィルターがね。
そういうものの全般を、
僕はなんか、
生産って思いたいし、呼びたいし、
制作だと呼びたいし、思いたいし、
生成だと思いますね。
なんか、仕事とプライベートは分けるみたいなのもあるじゃないですか。
当然、自分の経済的なポートフォリオの中に
稼ぎというものと勤めというのが分かれていても別に、
それは健全だと思うんですよ。
それは松岡聖後も言っていたというか、何なら受け売りなんですけれども。
なんか、回収されないものというものを抱えながら、
回収される自分を食わすものみたいなのがあるというのは全然悪いことでもないし、
悪いことじゃないって、なんか偏りすぎか、
いいことだし、というか何でもないと思うんですよ。
良くも悪くもないと思うんですよね。
なんですけど、
例えば自分の身を立たせるみたいなことの仕事の中に、
自分の欲望を住み込ませちゃいけないかって言われたら全然そんなことなくて、
だから、なんだろうな、ある種自分の中の野望だったりとか、
なんだろうな、
関係性の中であるリソースみたいなものを借りていると思うんですよね。
なんか、日常的実践のポエティックっていう本の中では、
そういうことを密流って言ってたんですけど、
密流する感じっていうのはね、
僕はありますね、正直に言って。
でもそれはなんかこう、
テイカー、ギバー、テイカーみたいな話って言うよりは、
なんか自分の何か成し遂げたいこと、考えたいことっていうものの中に、
たまたま偶然仕事だったり人間関係だったりっていうものがあって、
その中に自分っていうものを仮住まいさせて、
なんかこう、要は分類箱じゃないけど、
少しずつ分散させていく。
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自分の環境の中に自分っていう、
なんか一つの要素みたいなものを分散させていくっていう中で、
育ってくるものっていうのを収穫していく。
そういう感じの関わりっていうのは別に健全だと思うし、
なんか、その何かしらこう、
満たしたっていうものに対して、
満たした、その自分の欲望を忍び込ませたってことに対して、
後ろめたさを感じる必要もないし、
そこから得たものを、なんか別の何かだったりとか、
まあその人どの人でもいいんですけれども、
その人っていうかその社会というか会社というか、
人間というかね、何でもいいんですけど、
そういうものを別の何かに生産し直せばいいと思うんですよね。
基本的に要は再生産することっていうのがね、
僕は制作すること生きることだと思っていて、
制作することの定義がめちゃくちゃ増えてる気がするけど、
自分が本当に歩いていて感じた景色みたいなものを、
何かの例え話に出してもいいし、
創作物から自分が何かを感知するように、
自分の環境の中から何かを感知して、
それを別のものに変換していくっていう作業そのもの、
それを続けていきたいと思うし、
なんかそれは、いわゆる消費者って言われる人っていうか、
そんなヒエラルキーみたいなのがなくって、
なんか僕はオープンマイクっていうイベントでもずっと行ってるんですけれども、
表現をする人と観客みたいなもので、
そういう人に限りはないって思ってるんですよね。
ボーダレスっていうか。
そういう、なんだろうな、
全員何かを制作してんじゃないっていうのが、
ことに気づくっていうことが、
創作と表現を介した共同体のあり方を考えるっていうことでもあるし、
すごい、最近言い慣れてんのか、流暢になりましたね今。
まあいいやそれは。
ミシェル・ドー・セルトーが言ってた日常的実践のポジティブっていうね、
一つの生成のあり方だったりとか、
新聞とかね、
自分のプロジェクトを通して、
なんか無名の人間っていうか、
別に特別な人間じゃないっていう人たちの生成過程とかね、
生というか営み方とか、
営みというか、そういうものを残していくっていうのはね、
やりたいなと思ってるんですよね。
そこに僕の何かが住まうわけだし、
それを続けていけばいろんな人の何かが住まうわけだから、
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そういう僕が出した新聞の中の一つの詩みたいなものに、
僕の何かを代弁する、
何だろうな、
詩声みたいなものが宿ってていいわけで、
僕はそういうものを探しているところがあるんでね。
何か思い出作りって言ったら、
本当に急に分かりやすくなると思うんですけれども、
思い出作りなんですよね。
まあ、日常的実践のポイエティックのビブリ業界でしたね。
面白いよ、この本っていうことです。
あ、一個全然違う本もあって、
僕が好きな若林圭さんっていう編集者がいるんですけれども、
その人がブラックスワンっていうレーベルみたいなのをやってて、
コンテンツレーベルをやってて、
その中で朗読のあれがあるんですけれども、
本を朗読しててね、
廃地革命のことを朗読してたんですよ。
これ何の話かって言うと、密漁っていうことの話なんですけどね。
僕はこの話がすごくいいなと思ったのはね、
黒人奴隷たちがね、
いや、これちょっと長くなりそうだな。
まあ、それも聞いてみてください。
生産停止です。
喋るということをやめました。
ちょっと詰め込みすぎたかな。
一旦ここで終わりにします。
ありがとうございました。