網野善彦『歴史を考えるヒント』は、大学に入って最初に教わった「辞書を信用するな」という言葉を思い出させる一冊です。説明や通説を鵜呑みにせず、言葉の使われ方や史料に立ちかえって考える、その姿勢は歴史研究だけでなく、AI時代の情報との向きあい方にも通じるように思います。
【言及した本】
・千野栄一『プラハの古本屋』(中公文庫、2025)
・網野善彦『古文書返却の旅 改版:戦後史学史の一齣』(中公新書、2026)
・網野善彦『歴史を考えるヒント』(新潮文庫、2012)
感想
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サマリー
本放送では、網野善彦氏の著書『古文書返却の旅』と『歴史を考えるヒント』を取り上げ、特に言葉へのこだわりと史料批判の重要性について深く掘り下げています。『古文書返却の旅』では、過去の資料収集における計画性の欠如と、それに伴う返却の遅延という問題点を指摘しつつ、網野氏の誠実な対応を称賛しています。続く『歴史を考えるヒント』では、辞書を鵜呑みにせず、言葉の本来の意味や使われ方を史料に立ち返って考察する網野氏の方法論を紹介し、これはAI時代の情報との向き合い方にも通じる普遍的な姿勢であると結論づけています。
書籍の復刊とその意義
本語り44回目です。 最近、復刊が相次いでいるなというふうな印象があります。
特に目につくのが、中古文庫でプラハの古本屋というものが復刊されておりますけれども、こちらはそれこそ私が若い頃に話題になった本だったよなというふうに思って、
いわゆる名著と言われるようなものが文庫で復活して、また今ね、売れているというのはなかなかいいことだなと思いますし、
そもそも文庫っていうのはそういう機能と言いますか、単行本で話題になったものを手軽な価格でみんなに読んでもらうという機能があるものですので、
それが時を隔てて、こういう形でまた手に入るようになるっていうのは嬉しいことだなというふうに思ったりします。
そして、それにいい意味で味を占めてくれたのか、中古新書は中古新書でも新書のいわゆる名著ですね、それをいろいろと復刊してくれております。
『古文書返却の旅』に見る資料収集の問題点
その中で、これは読んでなかったと思って私が手に取ったのが、阿弥野義彦の古文序返却の旅なんですね。
この度、いい機会ですから買って読んでみましたら、当然ながら読み応えがあって、何しろ読ませる文章でもありますので、興味深く読みました。
戦後ですけれども、水産庁の月島にあった水産研究所というところが、全国の水産関係ですね、そういった古文序を集めようというふうな計画が立ったわけなんですね。
そこで、その計画を渋沢圭造の作った日本城民文化研究所に委託する形、そして人を集めて、宇野周平氏ですとか、あるいは阿弥野氏もそうなんですけれども、宮本恒一ですとか、そういった人々を集めて、古文序全国、特に水産関係、漁村とかですね、そういったところから集めてくるという作業をしたわけなんですね。
その時、各地に赴いて、半年だか1年だかの期限を切って、借用書を置いて借りていくということをしたわけなんですけれども、それから先がね、ちょっと私が読んでいてモヤモヤとするわけなんですけれども、半年1年というのはすぐですけれどもね、結局集めるだけ集めておいて、すぐにそんなものを整理はできないってわかりそうなもんなんですけれどもね、とにかくどんどん集めるけれどもね、期限内に整理ができないということですね。
で、借りっぱなしになっているということなんです。
だけど結局、もう計画性がない集め方とも言ってしまいますけれどもね、返さないまま、ただただそれでもね、さらに借りてくるっていうことをしたらね、最終的には100万点にも及ぶような資料を集めたけれども、結局予算が尽きて、計画が破綻して、そのまま返さない資料が残ってしまったということなんですね。
本当にひどい話だと思います、これは。
そちらを人頭式をした、その宇野周平氏という人が再就職した大学に持って行ったり、あるいは返せるものは返したりしたわけなんですけれども、かなりの数のものが宇野氏が持って行ったりしていたわけなんですね。
誠実に少しずつでも返せばいいのに、全然それが進んでいないという状況があったみたいなんですね。
そこでこの阿弥陀氏がどう関わっていたかと言いますと、阿弥陀義彦は誰かを挙げつらったりということは全くないわけなんですけれども、
宇野周平という人は私は本当にどうかと思うんですけれどもね、その返さなかったものをいわば尻拭いする形、まあ敗戦処理ではないですけれどもね、そういった作業を人生をかけてやっていくというふうな形なわけなんですね。
それこそ有名な話ですけれども、名古屋大学に勤めていたけれども、日本庶民文化研究所というものを研究所自体引き受けてくれるという条件があったので、神奈川大学の短期大学部に移るというね、
名古屋大学からそういうふうな形で移るというのは、完全に目的としてはこの借りっぱなしになっている古文書を返すという目的で移ったというのは大きな要因でしょうからね。
人生をかけて返していくということをするわけなんですね。本当に信用できる人だなというふうに思ったりします。
そうして返していくわけなんですけれども、津島ですとか霞ヶ浦ですとか奥野戸ですとか気仙沼とか出雲とかね、本当に各地に返しに行くわけなんですけれども、
そうすると当たり前ですけれども、返していった先には半年、1年の借りる契約で貸していたものが催促しても返さないということがずっと続いていたところをね、
まずは最初状況を聞いたときにね、実は昔こんなひどい奴らがいて古文書を盗まれたんだぐらいのことがあるわけなんですね。
それに対して阿弥陀師が、いや実は自分の所属していたところが借りて、これこれこういう事情で返却にあがりたいんですかということを言ってくるわけなんですね。
そうするとね、最初不審と怒りで満載だった所蔵者の方々は阿弥陀師がね、誠実にも返しに行ったらね、逆に信頼を得るということを何度も繰り返していくわけなんですね。
そうやって言ってみれば、研究者への信頼というものもね、ちゃんと阿弥陀師が取り戻してくれているというふうな感じが致します。
しかしそれにしても30年後、40年後に返すというのはどうなったんだというふうに思いますね。
古文書整理、私なんか古典籍の整理なんですけれども、それをやっていたら整理にかかる時間が膨大だということはちょっとやればわかるはずで、それがわかっていながら借りて返さないってどういう神経しているんだろうなということを思ったりしますね。
私が習った先生方というのは中村幸彦先生ですとか中野光敏先生の訓導を受けた人たちが多いですから、何なら持っている本をどんどん貸しまくった先生方が多いので、
また古典籍の整理に尽力された大先輩方が多いわけなんですけれども、その時の基本的なスタンスというのは資料はその場所にあるのが一番いいんだ、絶対に散らさないという思いで、何とか残そう残そうというふうな思いで整理とかされていますから、
水産研究所というやらを立ち上げて全国から資料を集めるという発想自体がちょっと違うんじゃないかというふうに思いますね。
やっぱり中央の発想ですよね、それはね。何かものを持っていっていくというね。
この発想を言ってみれば、その価値は私の方が分かるんだから、ちょっとお貸しなさい、あるいはくださいみたいな発想ですよね。
これは大変良くないと思うのが、例えばですけれども、欧米の研究者があなたたちにはこの文献の価値が分からないから、我々の方が分かるからちょっと私に貸しなさいと言ってね、
半世紀、一世紀、あるいはカリパクという形で持って帰った時にどんな気持ちがするかですよね。
そんなことを想像できないということが、中央の発想の恐ろしさと言いますか、貧しさというものを感じますのでね。
私が九州で学んで、地方の文献とかいうものを散らさないように、散らさないように、そしてそこで見られるようにというふうに整理された先輩方の背中を見て育ったというのはね、大変良かったなというふうに思います。
阿弥陀氏自体はね、大変誠実に人生をかけて返却していったので、全く当てはまらないわけなんですけれどもね、ここで挙げられている宇野周平氏、あるいは安倍良代氏というものね、安倍氏なんか古文書の山の中から自分に都合の良さそうな資料を抜いてね、自分の手元に持ってたって言うんですか、ちょっととんでもないことだなと思いますけれどもね、そういうことが研究者への不信感につながり、誰も見せてくれなくなるということになりますからね。
仮にそれによって良い研究になるものができたとしてもね、全体的には信用低下になりますから、全く良くないよなと思いますから、大変よろしくないことをしたもんだというふうに思いますけれども、阿弥陀氏が返しに行ったら所蔵者の方々っていうのは、今までの怒りがひっくり返ってね、そういうことか、良かった良かったって喜んだ上で、さらにそれならばこんな資料があるんだよってまた見せてくれるわけなんですね。
見せてくれて、こんなものがあったんですかという形でね、さらに研究が進展するというものが見えてきますので、結局こういう信頼関係によって我々の研究が成り立っているようなというのを実感すると同時になんですけれどもね、これだけ同じパターンと言いますか、返しに行ったら返って怒られるどころか信頼するというのが繰り返されてくると、何でしょうね、返す方も返したらまた見せてくれるという下心があるんじゃないかっていうことを思ってしまって、
まあそんなものはお首にも出してないんだけどね、アミノシ自体はただリーダーのやった尻拭いをしているだけだから非難される言われは一切ないんですけれどもね、全体としてなんかモヤモヤするものが残ってしまったなという気はするわけなんです。
『歴史を考えるヒント』:言葉へのこだわりと史料批判
それはそれとして今回取り上げたいのはこの本ではなくて、手元にあるアミノ・ヨシヒコの本で、そんな気持ちを上書きするために読み直した本を今日は紹介したいと思います。
それは何かと言いますと、アミノ・ヨシヒコ、歴史を考えるヒント、新潮文庫です。
もともと私、国文学の人間だったということもありまして、アミノ氏の代表作をすべて読んでいるわけではありません。
その中でもやっぱり手にすることが多い著者でしたので、これは素晴らしいなととりわけね、気に入っている本というのがこの歴史を考えるヒントなわけなんですね。
というのも、講演録が元になっているわけなんですが、その講演自体は歴史の中の言葉という題で、シリーズとして講演したものの講演録なわけなんですね。
言葉というものに注目していますので、文学をやっている人間として響いてくるものが多いわけなんですよ。
まず冒頭からなんですけれども、日本という国名というのがどこから始まったかというのも興味深い内容ですよね。
結論から言えば7世紀の清見原領というところだろうということになっているわけなんですけれども、7世紀頃に日本というのが定まってきたんだろうというわけなんですが、
今本当に単純に結論だけ言ってますけれども、非常に詳細に歴史的に検討するわけなんですね。
その時の基本的なスタンスというのが当たり前ですけれども、文献主義ですよね。
ちゃんと文献に基づいているということと、そしてその用語を言葉ずらだけあるから今と同じだという、そんな乱暴な話では全くなくて、その言葉をちゃんと吟味するわけなんですね。
その時の吟味の仕方というのが、何を軸にしてのネーミングなのかというところを非常によく考えているところが読みどころだなというふうに思うわけなんです。
それこそ日本というのは、日を譲るところという言い方もありましたけれども、要するに日の出るところ、日の没するところ、東と西という今の言い方になったらなってしまいますけど、何かを意識しての日を譲るところということなんですよね。
例えば今だったら、日本のことを極東と言ったりしますけれどもね、どこを軸にして東の端みたいな言い方をするんだという話ですよね。
どうかネーミングには軸があるわけで、その軸というものを見定めていくことで、その時の時代状況と言いますか、権力状況というものが見えてくるというものをね、丁寧に丁寧に描いているなということがね、やっぱり読んでいて、あ、そっかというふうに思わされますね。
1回読んだはずなのに、あ、そうだったそうだったと新鮮に思えることが多いわけなんですけれどもね、関東という言葉、関西という言葉ね、もちろん関東は機内を中心にしての言葉だったわけなんだけど、
それもそんなざっくりとした言い方じゃなくて、いつからその用語が使われるのかということをね、ちゃんと吟味して紹介していくということですよね。
関西という言葉が生まれてきたということはね、権力が東に移ってからですよね。
地名に見る中央集権的発想と地方の視点
それでね、中国ってのはやっぱり面白いですよね。
私も小学生の頃は中国って言われたとき、なんで日本なのに中国なのっていうのを思った記憶をよみがえりましたけれどもね、案外留学生の人なんかもね、中国地方って言ったらね、え、どこって戸惑うっていうのは聞いたことがありますけれども、
この中国っていうのが言ってみれば、機内から見て九州の間にあるから真ん中の国ということで中国っていうふうに言われるんだっていうことなわけなんですけど、
私、広島にいたことがあるんですけど、そのときなんか自虐的に友人なんかと話してたんだけど、何かのコンサートがあったらね、東京公演があって、大阪公演があったら広島をすっ飛ばして福岡に行くというね、
なんでこの通過点みたいな扱いはみたいな形で自虐的に話していたのを思い出しましたけど、
この中国っていうネーミング自体がね、機内と九州の真ん中みたいなね、間みたいな言い方で軸になってないところがね、
ああ、なんかネーミング化してそうなっているのかっていうね、今山口県に住んでいる私としてはちょっと苦笑してしまいましたけれどもね、
ああ、そうかそうかっていうことを思ったりすると、言葉に敏感になるわけなんですよね。
言葉のニュアンスと歴史的考察
網野由彦の方法論において、あるいは網野由彦だけではなくて、優れた国文学者も歴史学者も敏感だよなっていうことを思ったりするわけなんです。
例えばそれこそ、普通の人と言いますか、一般の人を何と称するかっていう用語で、人民とか国民とか庶民とか言うと、それぞれやっぱり色がついてますよね。
それぞれの用語に色がついてるけど、じゃあ歴史的に見たらどうなんだ、現在はそんな風に見えるけど歴史的にはどうなんだっていうことを言ったりすると。
例の城民というね、山口卓人夫なんかが使う言葉なんかがどっから来たんだっていうのを見たときに、
朝鮮半島で使っている言葉を流用したような形なんですよね。
現在のニュアンスもそうですし、あるいは当時、初出時のニュアンスというものもしっかりと抑えていくっていうところが発見が多くて魅力の多いものです。
辞書を信用しないという学問姿勢
そもそも私が大学に入ってから古典学を学ぶときに本当に最初に学ぶのは何かって言いますと、こういうことなんですよ。
辞書を信用してはいけないっていうことを一番最初に学ぶんですね。
どういうことかっていうと、世の中だと逆にね、工事園に載ってますとか、日本国語大辞典に載ってますってことしてね、堂々とね、その①の意味では高校で、②の意味では高校で、
だから今回は②の意味で使われてるみたいなことをね、私はちゃんと辞書を引いてますよって顔で言うことが多いと思いますけれどもね、
あの態度っていうのは我々は絶対やらないですよね。やってはいけない態度なわけなんです。
どういうことかって言いますと、結局辞書っていうのは限られた用例の中の一般的にはこう使われてますっていうものを列挙して、辞書を編纂した人がね、こういう意味ですよっていうことを定めた説明なわけなんですよね。
誰かの説明にのっとってその語彙を説明するっていうのは、国文学をやる人間の姿勢じゃないというわけなんですよ。
辞書ってじゃあ何で引くかって言いますと、用例を知るために引くんだというわけなんですね。
用例というのは実際の文献でこんなふうに出てきましたっていうことがついてますよね。
だから用例のついてない辞書はもう辞書じゃないっていう言い方になるわけなんですけども、用例を探すために辞書を引くんだと。
その用例というのが、それこそ日本国語大辞典なんかは諸室主義ですので、一番最初に出てきた用例は何かっていうことを挙げてくれてるから、それはとてもいいわけなんですけどもね。
その用例を見つけたら、この時代にはこの言葉がもうあったんだとか、諸室ではこういう文脈なんだっていうものを見つけたら、またそれを辞書からその用例をただ引くだけだったらただのまごびきですので、そうではなくて、元の文献をたどって、どういう文脈かっていうのは辞書に書かれているところではない、前後もちゃんと確認するという作業を絶対に欠かしてはいけない。
当たり前ですけども、用例があるから説明があるわけで、説明は参考にしてもいいけれども、説明だけ読んでこういう意味があるなっていうのは、国文学やる人間の姿勢じゃないっていうことを最初に徹底して習うわけなんですね。
ああ、そういうもんかというふうに思います。
ですので、何かの資料をちゃんとして読み解くっていう時なんかは、用例をとにかく探してくるわけなんですね。
その探し方っていうのも、結局、その文献を調べるってなった時には、その文献に近い時代のもの、あるいは同じ作者のものから、我々根性引きと言いましたけども、頭からその資料を読んでいって、この言葉が使ってあるっていうことを言って、それをわっと上げていって、その上でこういう使い方をしているんなら、ここはこういう意味で使っているんじゃないかっていう作業を重ねていくわけなんですね。
ここで初めてその言葉の意味が定まってくるというわけですので、辞書があるから言葉が定まる、言葉があるわけじゃなくて、言葉が先にあって辞書ができてくるんだって考えてみれば当たり前のことなんだけれどもね、そういう作業をしていくわけなんですね。
AI時代における史料批判の重要性
おかげさまでと言いますかね、これは非常にありがたいことで、今ね、それこそAIでね、ハルシネーションと言って、嘘が混じってるっていうふうに言うじゃないですか。
堂々と抜け抜けと嘘をつきあがるので、AIっていうのは困ったもんなんですけれどもね。しかし、じゃあそれがダメかって言いますと、そんなこともなくて、そもそも我々はインターネット上のもの、デジタルのものに限らず、辞書ですら信頼してないわけですから、自分で見た文献、自分で調べた要領しか信頼してないわけですから、しかし全部信用しないと何もできない。
それこそ僕の習った先生方は、我々が辞書を信用してはいけないと言ったら、最近の若いものは辞書も引かなくなったから困ったもんだって、辞書を引くなという意味ではなくて、聞いてもいいけどそれをまんま信用するなという意味で言ってるんだけどなって嘆いてましたけれどもね。結局我々がやっていることっていうのは、暫定的に信用しているっていう作業で、本当にそれを信用するためには自分で確認しないといけないっていう作業を、あらゆるもの、新聞とかあるいは本とかも含めて全部その作業でいるわけですので、
今更AIが出てきたところで、そんなものはじめから信用するわけないじゃないかっていう風な姿勢でいますので、ある意味それがわかった上で暫定的に便利な部分は使えるっていうこともできるわけなんですね。そういった意味で今更ぐるっと回った国文学というもの、あるいは歴史学の資料批判も同じことをやっていると思いますけれどもね、というのは現代におけるリテラシー教育という面においてはとっても役に立つと言いますか、
今こそそういう基礎学というものをやったら、このAI時代に役に立つというふうに思いますので、ぜひぜひこういったことは言っていかないとなーということを思ったりするわけなんですね。そんな教育を受けてきたわけなんですけれども、それは私が学んだものが特殊なわけではなくて、真っ当に文献を扱う国文学、国語学、昔は国史といった歴史学ですね、そういったところでは当然のようにやっている作業ですのでね。
網野善彦の方法論の結晶:百姓という言葉
その手つきの見事な結晶として現れているのが、このアミヌ・ヨシヒコの著作なわけなんですね。文献を読み、そして語彙を考えるという作業を徹底してやっているわけで、それが一番有名なと言っていいかもしれませんけど、例の百姓ですね。百姓というのは農民じゃないというね、大変有名なものですけれどもね、これも結局そういった作業の積み重ねから生まれてきたわけで。
さらに言うならば、古文書返却の旅を読んで思いましたけれどもね、あそこで返却に行った、あの文書に載っていた、あの言葉がここで役に立っているんだ、この経験が生きているんだということをね、改めて重ねて両者を読んだらね、分かったりしましたんでね。まさに用例がそこにあるわけですよね。
辞書的な、あるいは通説としてはこう言われているけど、いやいや当時の資料、文献、文書を見たらそんなこと書いてないじゃないかということがわかるわけでね。この強さがやっぱり網の詩学の強さだろうなというふうに思ったりしますね。
で、この百姓が農民じゃないっていうのも、結局これもさっきの地域名の用語のネーミングを考察するところでも同じですけれども、軸をやっぱり考えているわけなんですよね。農業が軸というふうな見方で、そういう思想に基づいて見ていると、そんなふうに見えちゃうけれども、実はそうじゃないっていうね。
そうすると、農本主義と重商主義の対立って言い方をしますけれどもね、そんな一面的な見方はできないっていうね。言葉を取るっていうことは結局そのベースとなっている考え方を通っているんだっていうことまで見えてきますのでね。
非常にコンパクトな文庫本なんですけれどもね、そういったことまでね、気づかせてくれる。本当に名著だと思いますのでね。改めて読んでよかったなというふうに思ったりしました。
「無縁」と「自由」の言葉の逆転
久々に読んだときに、あ、そうだったと思ったわけなんですけれども、面白かったのが、無縁という言葉と自由という言葉ですよね。
これあの面白いのが、現代と言ってみればひっくり返っているような印象なわけなんですね。自由というのは今本当にフリーダムの訳語として今使っておりますのでね、自由でいいという言葉で言いますけれどもね。
実際に古い言葉と言いますか、当時中世なんかで使われている自由というものを見ていったらね、わがままというふうな意味で使っているわけなんですね。
逆に今、無縁社会とか言ってね、いろんな人がね、孤立しているっていうことを戦場的に掻き立てるような言葉で無縁というネガティブな意味で使ってますけれどもね、逆にアミノ・ヨシヒコからしたらね、無縁っていうのは現在の自由というふうなニュアンスで当時はあったんだって言い方してますので。
言ってみれば結果的に逆転しているような言い方があるわけですよね。面白いなと思いますけれども、無縁と自由っていうのは似たような状態を指していながらニュアンスが全然異なってくるわけですので、これもね、言ってみれば現実の見方っていうものを言葉の付け方によって変えているっていう考え方もできるわけなんですよね。
よく孤独死という言い方をしますけれどもね、それの何が悪いというふうに思う向きもあるわけなんです。私はどっちかというとそれも共感するわけで、人はみんな一人で死んでいくんだから、一人で死ぬことをね、孤独死、孤独死と言って何か寂しい状態のことを言うけれどもね、逆に先輩の方なんかね、私は孤独死がしたいんだって痩せ我慢ではなくね、本当におっしゃってるのを聞いて、孤独死がしたいのにね、勝手に孤独孤独ってね、構ってくれるなみたいなことをおっしゃってる人がいてね、なるほどなと思ったりしますけど、
これも無縁と自由、孤独というもののニュアンスですよね。それをどう捉えるかということと無関係ではないと思いますのでね、実際の状態というものと言葉というものを考えていくことによっていろんなものが見えてくるっていうことはね、いろんな分野で同じですのでね、
なんかこういう本を読むとね、ちょっと油断していると言葉に無自覚であったりする自分というものは反省したりしますのでね、折に触れて読み返しておくのは大事だなというふうに思ったりした久々の再読でした。
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