その度にね、ますますね良くなっていく菊之助というものにね、 加盟を覚えていたという状況なわけなんです。
その菊之助がついに、まだ7代目は菊五郎を名乗ったままなのにこんなことがあるんだと思いましたけれども、
8代目菊五郎を就命すると。 その就命披露公演が全国回っておりますけれども、
ついにこの博多谷にやってきて終わりという形になりますのでね、 その大鳥を務める博多谷公演というものも今回とても楽しみにしておりまして、
2026年6月博多座大歌舞伎ですね。 こちらにやってまいりましたので楽しみにしておりました。
さあそのラインナップを見てやっぱりね、一番これはと思いましたのは茨城ですね。 これはまさに土蜘蛛と同じような役柄と言っていいんでしょうかね。
だけどもうちょっとね、難しいと言いますかね。 この茨城というのはマシバというね、老女役で最初出てくるわけなんですけど、
これは茨城どうし、鬼ですね。 鬼が人間の老女に身をやつして現れてくるというね、状況なわけなんです。
ですので過去のね、上演記録見てみたらなるほどと思うんですけど、 歌えもんですとか、仙台の師官ですとか、あるいは玉砂風呂ですとか、
後世に名を残すと言いますかね。 家代の女方ばかりが勤めてきている役なわけですよね。
そんな中、この就命披露でね、菊五郎が披露するこの茨城っていうもの、どうなるんだというね、そこもドキドキするようなわけなんですね。
でもそもそもね、この茨城っていうのは菊五郎家の家の芸ではありますので、そういった意味でもね、菊五郎がどんな演技をするかっていうものは一番の見物だったわけなんですけれども、
期待値はね、嫌顔にも高まり、って言ってみればハードルが上がりきったような状態だったわけなんですけれども、
さあいざ始まってみると、そのハードルをやすやすと越えていく見事さだというふうに私は思いましたね。
真柴という老女の役なんですけれども、まあゆっくりなわけなんですよね。音楽やってる人なんかはわかりやすいかもしれませんし、他のどんなことをやってもそうだと思いますけど、
早いものはね、もちろん難しいんだけど、ごまかしが効くというところがあるんですよね。本当に難しいっていうのはゆっくりのもので、ごまかしが効かないので、正確に正確にできていないとゆっくりの芸っていうのはできないわけなんですよね。
で、この真柴の動きが本当に老女ですので、最初ゆっくり出てくるわけなんですけど、もうこれが、無駄が一切ない動きと言っていいんでしょうかね。
なんかあたふたすることもなく、ゆっくりゆっくり老女を演じてるんだけど、しかしやっぱりそこに例の妖気と言いますかね、妖怪の妖気ですよね。それが滲み出るような、これはただものではないっていうもの。
しかもその動き自体の無駄の無さっていうもので、なんかこれはとんでもないものを秘めてるんじゃないか、見せつけられてるんじゃないかっていうふうな感じですね。
演劇とかそういった芸術系のものっていうのは偶然に身を委ねて、何か突発的な、そこで起こる何かっていうものを見出していくっていう楽しみっていうのも当然あると思うんですよね。
その印象が残っているので、今回森鴎外の原作も含めて紹介しようと思っているわけなんです。
まず爺さん婆さんどんな話かというのは、もう完全に僕は忘れておりましたけれども、まず歌舞伎で見たときは、失礼な態度を取った同僚を殺めてしまった、
水戸いよりというね、侍がいるわけなんですけど、それがね、他国にお預けになっていたわけなんですけれどもね、仲の良い妻がいたわけなんですね。
夫がね、他国に預けになった時には、屋上中として宝庫に出るということをしていたわけなんですけれども、その夫がね、37年ぶりに許されて戻ってくる。
そしてこの妻、ルンという名前ですけれどもね、すごい名前ですよね。
他に見たことないんですけど、江戸時代ってルンって他にもいるんでしょうかね。
確か内田達郎の娘がルンでしたので、きっと爺さん婆さんからつけたんだろうなと思いますけれども、
そのルンと水戸いよりが37年ぶりに再会するというね、基本的にそういう話なわけなんですね。
まずはその劇の印象からしたら、謝るまでの敬意というもの、そして再会というところをたっぷりとしっとりと演じてくれてるし、見せてくれるわけなんだけど、
でもね、なんか苦毒やりすぎてたらちょっと引いちゃうところもあるんだけど、それはやっぱ絶妙の淡いと言いますか、やっぱね、聞く頃が品があるんですよね。
そこがね、やりすぎなさ、そんなことしなくったって伝わる説得力というものが私なんかは感じられて、
そしてまたいろんなね、セリフなんかも印象に残ってるわけなんですけど、聞く頃の発したね、互いの苦労はもう言う前とかね、こういったものがなんかグッとくるような言い方でもありましたね。
そういうのがありました。
そんなのがあったんで、家に帰って、爺さん婆さんか、そういや森鴎外の原作だったな、昔読んだはずだけどどんなんだったっけ?ということをね、思ったわけなんですね。
そこで読んだのを探してみましたら、実はね、ちょうどちょっと前に、現在現役の新潮文庫の森鴎外のものって、何があったかなという形で全部買っていたんですね。
全部と言っても数冊しかありませんけれどもね、それを買っていたんですね。
なんで最近買うケーキになったかって言いますと、森鴎外の作品で一番好きなのは死霊仲裁でして、死伝物の類っていうものを結構読み直すこともあって、何か森鴎外読みたいなって言ったらね、だいたい死霊仲裁を読んでいたっていうことが多かったわけなんですね。
そういう状態が続いてたわけなんですけど、それこそつい先日ね、いろいろ考えてたときに、作品の内容を云々って歩くのもね、文体そのものが好きな作家って誰だろうなっていうことをね、ずっと思っていたんですね。
さあ木小太郎とかも好きだな、うんぬんとかいろんなことあげてる中で、あ、そういえば森鴎外っていうのは好きな作品、それほどでもない作品っていうのがいろいろある中で、
でもただただその人の文章を読んでるだけで好きな作家っていう点では森鴎外が筆頭にあげられるかもなと思ったときに、手元に文庫本で揃ってない、あ、そっか、新潮文庫でこんなにあるんだ、ちょっと買っとこうという形でね、買っておいたものがあるわけなんですね。
そこで手に取ったのがこちらです。森鴎外、安倍一族、舞姫、新潮文庫です。
こちらに爺さん婆さんも含めて全9編が収録されているわけなんですね。
このアンソロジーとして読むのは初めてなんで、この9編を読んでみました。
まずね、爺さん婆さんを先に読んだんですけど、全然印象が違いますね、歌舞伎とね。
なるほど、こんなんだったかと思ったわけなんですけど、それぞれ良かったですよ。
歌舞伎も良かったし、鴎外のやっぱり文体とこの書きぶりと言いますかね、この余計なものを廃してね、でも残すものは残すっていうね、この感覚。
そこは何かね、聞く頃の懸念味でどうこうするんじゃなくって、無駄を廃して伝えるものは伝えるっていうスタイルは何か通じるような印象もあるわけなんですけれどもね。
とはいえ、脚本と原作っていうものはね、時系列も含めてだいぶいじってるなってことを確認できました。
爺さん婆さんって上演記録見たらかなり演じられてる作品なんですね。人気と言っていいと思いますけれども、そういうものとしてね。
それになるほどなぁと思ったのが、上手く歌舞伎化してるなぁと思ったんですね。
その第一はやっぱりね、これ辛抱立役という言葉がありますけれども、立役主役を演じるものがね、絶えて絶えて絶えて最後にね、もう我慢の限界と爆発するっていう辛抱立役っていう役割がありますよね。
それはね、僕正直一つも見たことないんですが、高倉健が主役のヤクザ映画なんていうのは全部このフォーマットだっていうことを聞きますけれどもね。
やっぱりね、日本人が大好きなんで、こんなに好きになったのは歌舞伎の伝統があるおかげだと思いますけれどもね。
そういうね、主役がずっと絶えてきて、そして爆発させるっていうのがね、一つのポイントになるわけなんですね。
これを生かすために、脚本によって原作を変えてるわけなんですね。
というのが、この元々の原作の爺さん婆さんというのは、いきなり再開のところから描くわけなんですよね。
再開して、なんだこの仲のいい爺さん婆さん、適度な距離感を持って不思議だなと思っていて、実はこんなことがあったんだって過去に描いていくような。
で、過去に描いていった後に最後にね、ズバッと終わるようなね。
おお、こんな描き方っていうことをね、久々に歌舞伎の印象が強い中で読んだら、こんな構成でしたか、こんなに描かなかったもんかねっていうぐらい描いてないものなんですけれどもね。
それを当初のままかどうか知らないけど、現在残っている演出としては、本当に最初のシチュエーションからね、ゆっくり描いてくれているわけなんですね。
これはまあ原作通りではあるんだけど、もともと短期であった、寒借持ちであった主人公の水部いおりというものが、ルンと結婚したおかげで落ち着いた性格になったというふうな設定でもあるわけなんですね。
ルンと一緒の仲のいい姿っていうものをね、歌舞伎ではしっかりとまず最初に見せてくれるわけなんですね。
そこに、仇役というんですか、いおりが斬りつける相手っていうのは下島っていうものなんですけれどもね、
これ中村企画が演じていて、憎々しい感じを上手く演じてくれていました。
ちなみにルンはジャクエモンで、これもやっぱり見事でしたけれどもね。
下島っていうのが、原作では主席のその場だけの言いがかりで斬られるっていう感じで、その場の言いがかりもまあ嫌なやつはあるんだけど、
それだけだとやっぱりね、短期差っていうものが際立ってしまうような構成になってしまっているわけなんだけど、
歌舞伎においてはね、結構前段階で嫌な感じでね、嫌がらせのようなことをやってくるような、また性格悪いようなことを示してくるわけなんですね。
それに前々からね、まあまあっていう形でね、なだめるような形でね、立ち回りをしているわけなんですね。
そういう前段階をたっぷり描いて、ずっと辛抱している様子を描いているからこそね、
観客もね、下島嫌なやつだな、よく耐えてるなっていうのがあって、しかもまた主席の場でもね、憎々しい感じでよく演じてくれてるわけなんですね。
それがあるからね、この馬鹿するっていうものにね、説得力を持つわけなんですけれどもね、結構原作ではね、
おや、なんかいきなり切り上がったなって感じの印象も無きにしてもあらずなわけなんですね。
武士が侮辱されたらどうするかっていうのは、当時の価値観としては、あれくらい刀を抜くのも普通なのかもしれないというのも一方では思うわけなんですけれども、
ただ、近代に入ってからの演出においてはね、これくらいたっぷり嫌味なところを、その場だけではなくてね、前段階から見せとかないと通じないだろうなっていうことを感じましたんで、
これはこれで歌舞伎としての説得力を増してるなっていうふうなことも感じました。
歌舞伎としては、その後の再会のシーンが感動なわけなんですので、ここを最初に済ますようなことはしないわけで、
年が経ちようやく会ったっていう、その会った瞬間に気づくことですね。
最初もね、実はね、おじいさんばあさんが遠くで見合ってね、目が悪いっていうのもあるんだけど、誰かよく分かんないっていうシチュエーションがあるんですね。
そんな中にね、知っている夫の癖、ちょっとね、鼻をね、触ってしまうような癖っていうのを見て、
あって、あなたってね、分かるようなね、シーンがあって、久々の再会を果たすっていうところをね、しっかり描いてくれるんで、
これまさに劇的と言いますかね、その効果を表すように描いていて、
なるほど、こうやって脚本って描けるもんなんだなというふうな印象を得まして、それぞれのね、良さがあったりしました。
原作を読むと思ったんだけど、再会した時ってのは、キクゴロウはね、腰も曲がった老若役にね、しっかりなっているわけなんだけど、
原作を見たらね、歳をとっているけど腰が曲がっていない凛とした感じのね、ことを絵が描いているから、
ここはやっぱり劇として見たときに、急に老けた方がね、印象の頃から描いているんだなってことをね、思ったりしましたね。
だけど、共通するのは原作も歌舞伎においても、芯があるね、筋が通っている点ではね、通じているから、
場面場面の細かな調整っていうのはあるんだけど、肝心なところはちゃんと抑えているので、原作の良さっていうものを活かしているものになっているなってことをね、読んで思ったりしましたね。
面白かったのが、原作の中でね、例えばなんですけど、石川の屋敷は水道橋街で、今、白山から来る電車が、お茶の水を置いてくる電車と行き違う辺りの門屋敷になっていた。
しかし、井織は番庁に住んでいたので、うんぬんっていうふうな形でね、当時の鴎外が生きている時代の風俗と言いますか、電車がうんぬんってこともね、描いているところが、逆にこれって今読んだら面白いですもんね。
だから案外、歴史的なものを書くときにも、その現在の風俗というものをね、書き込んでいくっていうものは、後世から見たら、それはそれでまた面白いシチュエーションになっているなってこともね、書きぶりとして感じたりしたものでした。
せっかくこの本を手に取ったのに、じっさんばあさんだけだったらあれなので、全体読んでみましたんで、その感想もちょっと簡単に言いたいと思いますが、
まずね、舞姫と歌方の木もずいぶん久しぶりに読み直しましたね。
特にこの文豪のね、2作品の印象はね、若いということなんですよ。恋愛ものっていうこともあるんですけれども、それを抜きにしてもね、あ、なんか若いなっていうことを思いました。
僕の昔の印象としてはね、浪水したような印象があったけど、全然ですよ、ストルムントドランクと言いますかね、ドイツで言うならば、そんな若さあふれる作品に思いましたね。
実際まあ、若書きですけどね、この2作っていうのは。
そうか、こんな書き方してたかと思った表現なんですけれども、会話文も文語で書いてるんですよね。
読み本で馬琴とか読んでる、あるいはもっと言えば人形本とか古形本とかの会話になったら、もっと相当砕けてますので、こんな堅苦しい会話使っとったかっていうのがね、印象としてあります。
例えばですけど、エリスの言葉として、
ふるさとよりのふみなりや、あしきたよりにてはよも。
こんなこと誰も言わねえよみたいな、まあ文語文ってそういうことなんですけどもね、こんな話し方するわけないですもんね。
それに対してのね、いな、こころにな、かけそ、
おんみもなおしるあいざわが、だいじんとともにここにきてわれをよぶなり、
いそぐとえば、いまよりこそ。
こんな話し方するやついねえよって感じのことですよね。
それは大河もわかってるはずなんですよ。
だって、イターセックス・アリスでしたかね、あそこなんかで、
馬琴教伝を読んでしまったあとは、他の読み本を読んでも面白くないので、あとは随筆を読むしかないみたいなね、そんなフレーズが確かあるくらい、
当時の教養としてね、馬琴教伝は誰でも読んでいるものですし、
人形文とかね、国境文とかも当然目にしたでしょうから、会話文としてもっとね、生き生きとした言葉は使えたはずなんだけれどもね、
まだこの段階では、逆にその文語文としての統一性というものを持たせている表現をとっているんだなってことを思ってね、
そこら辺の妙な硬さというのも面白かったですけれども、ちょっと意外な読み味ではありました。
でもね、そんなことも含めてなんだけど、なんか若さというものを感じたりしましたね。
あと、鶏という作品、これ全く僕印象なかったんですけど、小倉時代の経験を元にして描いているのも、
いい作品だなあって言いますかね、鴎外の応用な感じが出ててよかったんだけど、
そこであったと思ったのが、主人公の石田っていうのが、金だらいでね、体を拭くっていうのをやるんですね。
これは実は、つい先日、鴎外追想というね、山並物語から出ている鴎外のことを追想した文章を集めたアンソロジーというものがありまして、
それを読んでいたときに、いろんな鴎外のことがそこで分かってくるわけなんですよね。
鴎外っていうのは、ある段階からもう風呂に入るのやめちゃって、金だらいを用意して、
その金だらいの中でね、お湯とかでね、体を拭くっていうのを1日2回するっていうのを2日にしていたんだっていうことをね、書いていたわけなんですけど、
どんな風にするんだろうと思っていたら、鶏の中にその具体的な使い方って言いますかね、それが書いてるんですね。
なるほど、こうやって経験をそのまま利用してるんだなっていうこともあって、面白いもんでした。
ちなみにこの鴎外追想の中では、本当にいろんな人がね、鴎外を慕って書いていることがね、よく分かって気持ちがいいものでしたけれどもね、
鴎外の生身のことなんかを僕はあんまり調べたことがなかったんだけど、大変なショートスリーパーなんですね。
睡眠時間4時間以下っていうもの、あるいは芋ばっかり食ってるとかね、あそこにいたら芋食わされるから嫌だみたいな感じの感想なんかも書いてあったりして、
これはこれでとても面白い読み物でした。
これまた久々読んだけど面白かったのがね、蚊のようにですね、そっか、こういうのあったねと思いましたけれどもね、
日本の歴史を書こうとしていて、外国に留学してある若者が戻ってくるわけなんですけども、主人公ですね。
それが結局当時の時代状況として、書こうと思っても書けなくなっちゃって、迷ってしまうわけなんですね。
結局、神話と歴史というもの、それが無分別の状態、歴史的に見るとその後に広告史観というものが出てくるわけですから、
この思いというものはかなり切実ではあると思うんですけれどもね、神話は神話、歴史は歴史という形でね、
分けて、事実と神話を分けて書くというのが本来の歴史観のあり方なわけなんですけどもね、
それができないような状況というものがあるわけなんですよね。
それにどうしたらいいんだろうということを迷ったときに、結局ドイツでこんな方法があったかということで目を開かされたというのがね、蚊のようになわけなんですよね。
すなわち、ある蚊のようにということですよね。
神話っていうのは本当に歴史なんですかって言ったらね、冷静な目で見たらね、そんなものはないというふうに断じるのが普通な感覚なんだけれどもね、
それをある蚊のように振る舞うことによってうまくいくって言ったらちょっと変ですけどもね、やっていると。
それは当時留学したドイツっていうのは、キリスト教的な歴史観というものもある中で、
それをあんなものは嘘ですよっていうことではなくて、ある蚊のような形で科学と接続するという部分、工夫が取られていると言いますか、
あるいはそこを突き詰めないでうまいことやってるっていうふうな、ちょっと雑な言い方で恐縮ですけどもね、
そういう方法論がこれがあったかというふうに思うわけなんですね。
ですので、蚊のようにという方法を取ればいいんじゃないかっていうことをね、思っていくところ。
一方でそれに対してまた別の登場人物がね、ダメダメって形でね、そんなんじゃダメっていうことをね、言ったりもしてるので、
全然一筋縄じゃいかないんですけど、この議論自体がとても面白かったわけですね。
これは32回目で言ったトマス・アクイナスでね、述べた信仰と知の関係というものにも関係してくると思いますし、
あるいは神がある蚊のように振る舞う。
いるかどうかわかんないけれども、ある蚊のように振る舞ったら見えてくるもの、うまく収まるものがあるということ。
ここら辺のことはね、クイーン派云々が背景にあるアメリカの状況とかも含めてね、
全然今でもホットな問題だなってね、そんなことも昔はありましたねでは全くないね、
現代的にもね、まだまだホットな話題だなってことを思ったんで、
ちょっと今は簡単にしか触れませんけれどもね、蚊のようにっていうもののね、凄みを感じました。
また安倍一族ですとか、堺事件というのもね、入っているわけなんですけれどもね、
安倍一族堺事件なんていうのを読んだ時に、武士の世界ですよね。
なるほど、鴎外ってやっぱ軍医だなと思いましたね。
藩主の店員の家に生まれてますので、代々医者の家系ですよね。
で、侍と身近に接している、しかし医者というね、この絶妙な立ち位置が、
まさに鴎外の経歴見たら、軍医としてずっとね、出世していくわけなんですけれども、
医者とはいえやっぱ軍に従属しているわけなんで、いわばその侍の論理というものをね、
もうリアルに感じるわけなんですよね。
前線には出ているかどうか知らないけど、それでもね、やっぱり軍隊についていくっていうこと、
軍隊組織に属することっていうことはそういうことで、
でも属していながら絶妙な距離感というのがやっぱ軍医でもあると思うんですよね。
それが遺憾なく発揮されているように思いました。
この安倍一族境事件というもの。
腹を切る云々の話っていうものは、江戸時代の作品を読んでたらもう何本でも出てくるものなんですよね。
私が鎮瀬由美早月を訳したときに、いろんな人の感想としてね、
命が軽すぎるっていうことを言ってきて、まあ本当その通りだと思いますけれどもね、
どんどんどんどん人は死んじゃうわけなんですよね。
こんなことで死ぬの?っていうことで死んでしまうわけなんですけど、
でもこんなことで驚いてたら再確読めなくって、
再確なんていうのは罰金の日じゃないぐらい命が軽いわけなんですよね。
どんどん死んでいくわけなんですね。
こんなことで死んでいいのかって感じなわけなんですけど、
しかしそこには我々とは違う理屈というものがあるわけなんですよね。
武士の理屈があると。
で、その武士の理屈というもの、
まあちょっと今罰金と再確はフィクションかもしれませんけれどもね、
武士の理屈というものは、あるいは軍隊の理屈というもので、
戦う組織の理屈というものは鴎外は分かっているわけなんですね。
で、分かっているから江戸時代は大罪にとっても、
ものすごい解像度で書けるわけなんですよね。
で、しかし昔の再確罰金と同じ、
武士とはこういう理屈で動いているというものが分かった上で書いているけど、
解像度が近代に入ってめちゃくちゃ上がってますんで、
特に真鍮表現とかの解像度が上がっているからね、
そこに内包する違和感というものも我々読んだら、
すごくね、確かにこういうシチュエーションだったらそんな風に考えるんだろうけれども、
ちょっと引いてみたら、おいおいどうなんだって感じのが見えてくるわけなんですね。
理不尽さと言いますかね。
それをね、やっぱり描き出しているという点で、
面白かったなという感じがしましたね。
それで思い当たったわけなんですけど、
よく創石派、鴎外派と言いますよね。
最近はね、創石派が推しているというか、
昔からずっと推しているかもしれませんけど、
もちろん私や両方ともね、大いに尊敬する作家なわけなんですが、
突き詰めてどっちかと言われたら、やっぱり僕は鴎外派なんですよね。
なんで鴎外派なんだってことはね、
文体が好きっていうことが一番に挙げられていたわけなんですけどもね、
文体っていうのは、文体だけで成り立っていないって言ったら変な言い方ですけど、
やっぱりその人の生き方をよく表しているものなわけなんですけどもね、
突き詰めて考えたらやっぱり創石っていうのはね、
組織を離れる強さなんだなというふうに思ったりしましたね。
そして鴎外っていうのは、組織に留まる強さなんだなと思いましたね。
それは両方とも安々やっているわけじゃなくて、
苦悩して苦悩して離れていてまた苦悩すると。
で、鴎外も苦悩して苦悩して留まりまた苦悩していると言いますかね。
その葛藤、でもそれはね、表には見せてない部分はあるんだけど、
ちゃんとそれは感じていると。
そこをなんかね、越えていっていると言いますかね。
この両者は苦悩している部分は同じなんだけど、
組織に留まっている苦悩っていう部分が、
私もね、勤めにそして働く点でね、創石のように出ていけないと言いますかね。
やっぱり僕はサラリーをもらっていきたいと思うタイプですので、
そういった意味でもね、組織に属して、
その中での何か自分のできる自由というものを追求したいという感じがあって、
だからこそね、義務というものも生じるし、
それはちゃんと返していかないというふうに思ってくるわけなんですが、
その点で、組織は離れて自由になるというよりも、
組織にいながらどうできることをやっていくかっていう点を追求した点でね、
鴎外の生き方というもの、義務へのね、向き合い方というものがね、
私にグッと来ているのかなということをね、思ったりしました。
またね、ちょっと長くなってしまいますけれどもね、
やっぱ鴎外になると、まあ歌舞伎のことを話したこともありますけど、
長くなっちゃいますね。やっぱ好きなんですね。
観山実徳っていうのもね、最後入っていたわけなんですけれどもね、
これも思い出すのが、観山実徳、これ高校だったかな、
多分中学じゃなかったと思いますけれどもね、教科書に載ってたんですよね。
これ最初読んだ時にね、全く分かんなかったんですよ。
本当に分かんなくて、なんだこれはっていうことを思って、
まあそれは禅の知識がないと分かりませんよね。
ようこんなもん教科書に載せたなと思いますけれども、
しかし今改めて読んでみたら、もちろん禅の知識は全然更新されていませんので、
分からないと言えば分からないわけなんだけど、
面白かったですね、これは。
面白さの源と言いますか、昔よりほんのちょっとだけ分かった気になったのが、
かのようにね、触れていた問題と通定するあること、
すなわち、字の文の中で言ってるんですけど、
道とか宗教に対する態度っていうのはね、
三つあるんだってことを言ってるわけなんですよ。
それは一つは、自分の職業とかに気を取られて、
日常生活を送っていくことで、宗教とかいうものを
帰り見ないっていう日々を勤めている人がいる。
これ一つだと、無頓着の人だと。