オープニングとゲスト紹介
はい、こんばんは。
2026年の7月の23日木曜日22時00分8秒を回りました。
芸術法人シアターボンドのラジオ、本日もやりたいと思いますけれどもね。
今日はね、ちょっとね、いつもより緊張してるんですよね。
もうやっぱりあれですね、あのゲストをお招きするというね、大事な回でございますし。
あとはね、やっぱりあのこの、倉林誠一郎日記というですね、この名著ですよね。
倉林誠一郎という大人物がつなげてくれたご縁ということもあるのでね。
まあ、なんかそういうことも相まって、いろんな感情が今動いておりますけれども。
まあ緊張するよね、普通にね。
ちょっといつもの宮沢、いつもの宮沢ではないこうね、モードがちょっとガコンと入ってる感じがするので。
まあ、お聞き苦しい段は、あらかじめご了承の上ですね。
聞いていただければと思いますけれども。
ちょっと準備しておこうかね。
今日はですね、そのゲストをお招きするという、久々のね、しかもなしごれんメンバーじゃないゲストっていうのはね。
かなり久々なもんですからね、これ。
準備してきてる。
まあね、いろんな見方、感じ方、いろいろあるとは思うんですけれどもですね。
やっぱり私にとってもですね、倉林誠一郎というその人はですね。
言ってみれば手本というかね。
演劇制作者ってなんだっていうところを根本から教えてくれた人なわけですからね。
教科書みたいな人ですからね。
その教科書みたいな人の著作をですね、今日はね。
何冊か手元に持ってきてまして。
これをね、出しとくのを忘れました。
バックから取り出さなきゃいけない。
全部は持ってこらなかったんですけどね。
ちょっとね、私がね、もういっぱい書き込んだり、付箋紙を貼ったりね。
いろいろしたものをね、持ってきてますから。
今日はね、ちょっとそのお話の中でもですね。
引用というかね。
ちょっと取り上げながらやっていきたいと。
こう思っている次第でございます。
今日はね、珍しく時間の構成もね、ちゃんと考えておりますから。
いきなりオープニング行くよ。珍しく。
もうね、冒頭から言っちゃうよ。
はいと。
この配信は20年以上民間劇場で働き、劇場が閉館したのをきっかけに、劇場のことなら何でもプロデュースする会社に転職した私が、
そもそも論であれこれ考えて話すラジオです。
劇場はきっと答えをもらいに行く場所ではなくて、一旦立ち止まって問いを見つける場所。
この配信もリスナーの皆様にとって、問いを見つける場所になれればいいなと思っております。
学校法人、宗教法人、医療法人、社会福祉法人、劇場も劇団もそのすべての役割を担っているはずなのに、
芸術法人がないのっておかしくね?というわけで作ってみました。
芸術法人シアターボンド。
この空想が現実になるその日まで、
芸術法人シアターボンド代表宮沢の配信ラジオをどなた様もよろしくご引き。
この配信は、
鶴岡市民劇場、
藤枝市民劇場、
一般社南法人名古屋演劇館紹介、
稲沢演劇館紹介、
NPO法人町田演劇館紹介、
加藤県一事務所、
東京演劇アンサンブルの提供でお送りいたします。
町田演劇館紹介は、
1984年2月に身近な町田市民ホールで演劇を定期的に見て、
日々の生活の中に心の潤いを持とうという趣旨のもと、
18名で準備会が発足しました。
身の回りの人や各種団体に会の趣旨を根気よく伝え、
少しずつ賛同者を増やし、
同年11月に知人会、
総集スケッチブック、
会員数560名、
1985年1月には文学座マリウス、
会員数700名の両公演を成功させました。
そして1985年3月には会員数999名となり、
創立例会として劇団青年座、
どん底を数ステージで上演し、
同月の創立総会を経て、
正式に町田演劇館紹介が発足しました。
2016年2月には法人格を取得し、
NPO法人町田演劇館紹介として活動を行っています。
演劇を地元で見続けたいという会員の思いが会を支え、
40年以上にわたり、
多様なジャンルの作品と出会い、
感動を簡易相互で共有しています。
また、若い世代に舞台芸術の魅力を知るきっかけを届け、
将来の韓劇文化を支える仲間が増えていくことを願っています。
その取り組みとして、
高校生、中学生、専門学生などを無料で招待し、
若い世代が気軽に芝居に触れ合える環境を整えています。
町田演劇館紹介
はい、というわけで、本編入っちゃうからね、今日はね。
本日は32回目のラジオ配信でございますけれども、
ゲストとしてですね、
後藤隆貴先生に入ってきていただきたいと思います。
後藤さん、もしもし聞こえますか?
あ、後藤でございます。
どうもありがとうございます。
えっとですね、若干ですね、
予行演習の時とテンションが違いますのでご了承ください。
また戻っていただければ。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。ありがとうございます。
こちら声大丈夫ですか?
大丈夫です、大丈夫です。聞こえます。
宮沢の声はどうですか?大きすぎたり小さすぎたり。
いやもう本当に程よくクリアに聞こえています。
ありがとうございます。
まずはですね、後藤先生、後藤さんのですね、
ご紹介をさせていただきます。
後藤隆貴さんは、1981年生まれ、
静岡県沼津市ですね、出身。
立教大学大衆文化研究センター特定課題研究員。
日本演劇と文学と日本文化ですね。
それから立教大学大学院文学研究科、
それから日本文学専攻博士後期課程修了と。
主な著作として高康月光研究、
明治期京阪演劇の革新者、
それからロストインパンデミック失われた演劇と新たな表現の地平、
それから小劇場演劇とは何か、
あとは震災演劇を未来につなぐ3.11と表現の記録、記憶、
それからランプを探してというのが主な著作になっております。
よろしくお願いいたします。
よろしくお願いいたします。ありがとうございます。
まずはですね、自己紹介パートからいきたいと思いますけれども、
後藤さんって1981年生まれたんですよね。
そうですね。
そうなっております。
私より1個下っていうことなわけじゃないですか。
私1980年生まれましたけども。
先輩。
1個上の先輩。
もうタメみたいなもんですよ。
この年代になると。
そうですよ。
しかも静岡県沼津市出身っていうことは、
沼津市民劇場の遠藤さんとも実は親しくされていると。
親しくというかですね、
私が住んでいたとか、今親は住んでいるんですけれども、
団地が遠藤さんと同じ団地だということが、
ここ数年で発覚しまして。
発覚しまして。
発覚しまして。
私もですね、
日本全国にある演劇鑑賞団体の方からはですね、
ほぼほぼ私の演劇の人生における親戚とか親とかね、
お友達とか恋人とか、
いろんな感情を持っているわけですけれども、
沼津の遠藤さんに関しましてはですね、
前職で私が勤めておりました俳優座劇場にですね、
沼津市民劇場の遠藤さんの娘さんがずっとね、
私の同僚として約20年間働いていたので、
もう実家のお母さんみたいな気持ちなんですよ。
遠藤さんとはですね、
お芝居の好みがかぶってですね、
一緒に劇場にバッタリ出くわした際にはですね、
面白かったつまらなかったみたいな話から、
もっと深い芝居を見たいよねとか、
ああいう作品作ってよとかね、
いろんな深い話をさせていただいた方なんで、
なんかそれにもすごく縁を感じますし、
今回その、
倉林静一郎日記1947-1952のね、
作品というか著作で、
倉林さんを取り上げたっていうのもね、
何かの深いご縁を感じ取るわけですけども、
そもそもですね、
倉林静一郎日記を、
もういきなりガッツリ本編いっちゃいますけど大丈夫ですか。
今日はもう全て流れに身を任せていきます。
先ほどご紹介させていただいた、
立教大学の研究員でいらっしゃるということなんですけども、
後藤隆貴氏の経歴と演劇への関心
その辺の重たる研究対象というか、
なぜそういう研究をされたのか、
みたいなところから少しお話を伺いたいんですけれども。
そうですね。
いわゆるストレートにこう、
何ですかね。
いわゆる研究者として歩いてきたわけでもあまりない。
そうなんですか。
ですね。
大学院に、そもそも沼津から大学に入って東京に出てきたわけですけども、
それまでは演劇とかほぼよくわからなかったんです。
見たこともありませんでしたし。
そうなんですか。
いわゆる学校の演劇館紹介みたいなところで、
どこかに連れて行かせて見るみたいな、それぐらいでしたかね。
親が歌舞伎が好きだったので、テレビで歌舞伎の紹介とかはたまについていたりしましたけど、
意識的に見てきたわけでもなかったので。
僕高校のときもバンドやっていたので、東京に出てバンドをやるっていう。
それだけのために。
そのために大学に来たんです。
そうなんですか。
でも、学部生の時代から文学を専攻されてはいたんですか。
そうですね。とりあえず私は、理系の科目が全くダメなんで、
国語と日本史と英語で入れる大学ということで、
卒業していただいたのが、理系大学の文学部の日本文学科だったという。
でも、もともと文学は好きだったみたいな。
そうですね。昔から小説は読んでいてみたいな話だとかっこいいんでしょうけれども、
あんまり本を読んでなかったんですよね。
そうですか。別にそれほど文学っていう、文学文学っていう文学青年という感じでもない。
文学は全然ないですね。
我々の時代だとちょうど、大学1年生ぐらいの時代って、
誰だろうな。
村上隆。
そうですね。隆晴樹が。
ですよね。
前世というか、メインは村上晴樹、村上隆。
で、あとは、まだ東の敬語とかまだあんま流行ってなかったですよね。
でも文学って感じじゃないですしね。どっちかというとエンタメ小説みたいなね。
文学で、あれかな、蹴り対戦なんか。
綿谷梨沙とか。
そうですね、あの辺ですよね。
だから、綿谷梨沙、金原富士、島田梨央あたりの若い人で、
さっきの芸人の出舞台に上がっていくような時期でしたね。
そうでしたね。そこら辺はやっぱりちょっと気になってはいたんですか、学部生時代。
いや、特に。
本当に今日呼んでいただいて、何の身のある話もできない。
いやいやいやいや。
不安になるんですけど。
おもろいですね。そういう方が、そういう学部生が文学で大学院生になり、
そして修士課程じゃなくて博士課程に行き、どんどんどんどん文学の世界にはまっていったってことですよね。
そうですね。
いや、そんな日本でもないんですけれども。
そんなことない。
学部の時に、いわゆる授業で、芝居を見てポートを貸しなさいみたいな授業をとっていまして、
それで東京に出て初めて自分でいわゆる授業を買って芝居に行ってということをした。
あんまり面白いかもしれないなと思って、そこから始めたんですけども。
それが2001年の小松沢の闇に咲かなかったんですけども。
2001年、なんだった?
ごめんなさい、小松沢の闇に咲く花。
闇に咲く花を見たんですか。
あれを最前列だったんですけども、キノクニアホールで。
あ、そうですか。
それで井上久志は面白いなと思って、そこで井上久志の魅力を読むようになったんですね。
それでその授業の中で岸田邦夫もよく取り上げられていたので、
ちょうど文学座が、あれは何周年かの記念だったのかもしれないんですけれども、
岸田克保田万太郎、森本薫の連続上演みたいなのをやっていたんですよね。
やってました、やってました。
私も見ました。
で、それを見て、この辺の近代の絵作家の魅力っていうのは面白いかもしれないなというので、
その辺で特に文学座の一番印象的になったのが、岸田克保田万太郎の四人覚悟、
岸田克保田さんと栗田桃子さんの二人芝居だったんですけれども、
すごく印象に残って。
あれは日の組を踊るでしたっけ?
いや、アトリエだったと思う。
違ったらごめんなさい。
ちょっと調べようか。
いやいやいや。
アトリエだったと思う。
岸田邦夫とか、それから久保田万太郎、四字文録、森本薫的な、
そういう、いわゆる劇作家って感じの日本の近代文学みたいな感じと、
それから井上久志との出会いみたいな。
あんまりでも重なってるというか、
そんなには同じ世界ではないように感じますけどね。
そうですね。
そもそもそこで芝居の面白さに触れたというか。
なんか面白かったんですよね。
なんで面白いのかがよくわからなくて、
なんで面白いのかなって思って、ちょっと勉強し始めて、今に至るみたいな。
自分でやろうとかっていう感じではなかったんですか。
いや、もう時効だから。
時効でもなんでもないんですけれども。
劇団を作って演劇をやろうとは思わなかったんですけれども、
自曲を書いてみようということを。
で、実は僕、青年劇場の何周年かの総括技曲賞みたいなのを出して、
叩くもらったことがあって。
えーすごい、そうなんだ。
そうだったんすか。
確かに技曲賞的なやつをやってましたよね。
多分僕は学校の4年の頃だって、
審査員の人たちさんとか栗山さんとか、
学校の青年劇場の方々もいらして、
なんかよくわからないですけど、
何かよくわからなくないですか。
家作ってくらいがちゃっちゃもうね、
それはしっかり作られたんだと思いますけど、
ちょっと読みたいですね、それね。
福島パイセンに言ったら喜びますよ、それ。
あの、言いました、言いました。
覚えてなかったですけど。
覚えていらっしゃらなかったです。
そうですか、へー。
へー、そうだったんですね。
じゃあ、ちょっとこう。
賞金ももらって。
ありがとうございます。
その、作ろうっていう感じと、
それから見続けようっていう感じと、
なんかその、どっぷりではないけど、
自分で出ようとか劇団作ろうではないけど、
でも、ちょっと関わりを持ちたいなっていう、
そういうこう、演劇に対するこう、
何か初期衝動みたいなものを持ったってことですね。
まあ、確かに多分、
そこはもしかしたら、
演劇についても、
一方向に興味を持ったっていう方が正確だったのかなと、
今思えばですけど。
演劇の現場で関わって、
ここで芝居を作ってみたいなことではなくて、
僕っていうと、
ひとつの文学の表現形態に興味があった。
っていうのが、
多分過疎時計ですけれども。
あ、そうですか。
なんかそんな気がします。
へー、今にして思うと、
それはその文学というか、
文字で記された何か、
芝居の現場から見ると、
劇局っていうのは少し小説とか、
詩とか、
そういう文字だけで成立するものではなくて、
やっぱりどっちかっていうと、
上演を前提とした図面というか、
パーツみたいな、
そこでそれをよすがに、
いろんな芸術家たちが集まって、
いろいろと出し合って、
ひとつの芝居を公演にしていくみたいな、
そのひとつのきっかけというか、
全部が描かれてる。
そこで全てが終わってるわけじゃなく、
そこが始まりみたいな感じがあるんですけど、
その辺のところって感じられてました?
それとも、
話し言葉がわーって書いてあるものが、
とにかく面白かったとか、
そっちなのか、
それとも、
ここから立ち上がっていくんだって、
ダイナミズムを感じたとか。
たぶん立ち上がっていくダイナミズムの面白さは、
もちろん、
思ってはいたんですけれども、
なんでこの舞台に立っているというか、
赤の他人が書いた言葉を喋ってるんだろうっていう。
面白いな。そうですか。
そういう疑問はずっと持ってましたね。
じゃあ実演芸術に対する何か、
音楽もそうでしょうけども、
楽譜を見ても、
音楽が成立してるわけじゃなくて、
楽譜はやっぱり一つの目安であって、
完成品は別のところに発生するみたいな、
そっち系にすごく魅了されてたっていう感じはありそうですね。
そうですね。それもありましても、
やっぱり二足団体として、
セリフが連なっていくことで、
一つの作品が成立されていくことが、
すごく面白かったんです。
三文とは全く違う表現ですので、
そのあたりはやっぱり、
いわゆる岸田周辺の威力を呑んでた、
井上さんの作品とかも、
もちろんタイプは少々異なってますけれども。
どうですか?
いろんなジャンルの、
だって岸田邦夫と別役の三宅では、
全然世界観は全然違うというか、
同じものだと思えないぐらいっていう、
井上久志もしっかりですけれども、
それぞれの世界がありながら、
ギキョクそのものにどんどん魅力を感じてくれた、
ということなんですけども。
それっぽく言えばですけど。
あとはもう就職活動するの忘れて、
惰性で進学したっていう、それだけの話。
いやまあでもね、
「新劇」というジャンルと演劇研究の道
これは我々世代特有だと思いますけど、
もうね、スタートラインからして、
もう就職っていう選択肢というか、
そういうものがすごく狭かったじゃないですか。
ひくて余ったとか、いろんな、
何かこの先にこういう社会が繋がってるみたいな、
イメージよりも、
腕っぷし一本で何か作っていくとか、
自分で好きなことを見つけて何かやっていくっていう方が、
かっこよかったみたいな、
なんかそういう世界観だった気がするんですよね。
もっとこう、別に大学に行ったからってみたいな。
なんかそっちの方が強かったって感じがするんですけどね。
私も日大芸術学部行った時に、
就職課のところに、
掲示板があって、
テレビマンユニオンが一枚ペラッと貼ってあるだけだったっていうね。
もうこの4年終わったからって別にどっか入れるわけじゃないんだなって、
入学の時から思わされたっていう。
氷河期どころの騒ぎじゃねえぞこれはって。
何か自分で掴んで、
自分で何か行動して、
みたいな、
なんかそっちだったような気がするんですよね。
じゃあ、演劇の特に、
文学としての議局みたいなところに魅了されていきながら、
文学の研究に入っていく、
後藤さんなわけですけども、
陰性になったのはどういう、
そのままもっともっと研究したいよって感じだったんですか。
今お話ししたように、就職活動をうっかりしていて、
何かのときに卒業論文の指導教授に、
後藤くんどうすんの、どっかあって卒業になってんの?みたいなことを聞かれまして、
ああ、まだですね、みたいな。
大学院に来るみたいなことを聞かれ、
いいんですか?みたいな話をして、
入試を受けたっていう。
本当にしょうもないんですよね。
いやいや、そこで普通だったらというか、
あんまりこの人、素養ないなっていう人には声かけないわけですから、
そこは何かやっぱり先生の敬願というか、
後藤くんだったら何かやるだろうっていう、
それはその先生に直接話を聞かなきゃわからないですけども、
何かがあったんですよ、そこは。
そうだね。
ここまで来ちゃっていましたし。
そこで主に研究されてた作家とか、何かジャンルとかあったんですか?
陰性に入るよってときに。
卒業論文は井上さしだったんですね。
そうなんですか。
井上さしの音楽劇としての特徴みたいなことを書いたんですけれども、
それで大学院に上がって、
中止の研究宣言が何をするみたいな。
こんな話で大丈夫ですか?
もちろんもちろん。
蔵林さんの話をする前に。
そういう人が蔵林さんに出会うまでをすごく興味があるので。
わかりました。大丈夫なら。
全然面白いですよ。
それでもう少し井上さしの演劇が作られてきた原点を探るために、
浅草オペラの話をやろうかなとか、
いろいろ考えていたんですね。
森本香るとかも好きだったので、
いわゆる劇作派の劇作家を扱おうかなとか、
いろいろ考えていたんですけれども、
井上さしが最終的に新劇のようなポジションに行くんですけれども、
一応、井上さしがデビューした頃も含めて、
新劇に対するアンチテーゼを掲げていろんな人たちが、
演劇活動をしていたと思うんですが、
結局は常に前世代のアンチが繰り返されてきているわけですし、
井上さしの芝居もだんだん中高級になっていくと、
いろいろな歴史とか政治的なものが前に出てくる中で、
この人たちの文学としての技術なり演出なりを考えるために、
さかのぼっていかないと、なぜこれがこうなって、
今この状況なのかわからないなと思ってさかのぼっていったら、
ネジにたどり着きまして、
なるほどー。
推移論文は河上哲郎の周辺みたいなことをやって、
ちょっとお茶を濁した。
お茶は濁ってたんですよ。
いや、ものすごい濁ってたんですよ。
そこで高谷津月光に行くわけですか。
そうですね。この推移論文の中で、河上哲郎が高谷津月光という作家の、
ほぼ日本で20人くらい知ってるか知らないかみたいな作家ですけれども、
高谷津月光のいわゆる江戸城会場のところを描いた江戸城明け渡しという作品がありまして、
それを河上が上演してるんですね。
っていうのを、少し濁ったお茶の中にそれが入っていまして、
なんかちょっとそれ、面白い作家なんだけど、
全然研究されてないなと思って、
その収支が終わって、高谷津月光に上がってから、
いろいろと石の波紋をされたり、
石の波紋された。
本当に真面目になったんですね。
同時代だなっていうふうに思うのは、
我々のというかね、無理矢理くくってしまいますけども、
1990年代後半から2000年代全般の演劇状況って、
ほぼほぼ新劇っていうのは境外化していて、
しかも衝撃状演劇って言われてる人たちも、
前世紀を過ぎて、
で、ちょっとこう玉石混合というか、
何見ていいんだかわからないし、
どこがメインだか、何なんだかわからないっていうような、
もうなんかすべてがもう一回終わってるというか、
盛り上がりがわーっと、
一番最初の新劇ブームがわーって盛り上がって、
その後、これは千田昭彦さんのね、
日本演劇の潮流でしたっけ、
なんかね、そこの歴史館ですけれども、
アングラ演劇がわーって盛り上がって、
その後、塚耕平の時代が来て、
で、第三部隊、野田秀樹、小上隆寺ね、
というところがわーっとなって、
それでスーッと、スーッと静かな演劇が来て、
そこの一発目の盛り上がりも、
なんかなんとなく終わっていてみたいな、
で、お芝居見出した時にはもう、
商業演劇なのか、
それとも自分たちの演劇運動をしっかりやろうとしているのか、
何なんだかよくわからないところからもう、
お芝居の感激体験というのが始まっているっていうのが、
宮沢の印象なんですけどね、
大学時代、かなりいろんな芝居見に行きましたけど、
だいたいもう商業化されていて、
何か志を持って何かを変えようとしている人たちってのは、
もう一回終わっているというか、
そんな印象だったんですけれども、
そんな中で新劇のとか、
井上幸の源流をとかって、
踏み出すのって結構辛くなかったですか?
全然辛くなかったですね。
なんで?みたいな。
なんでそこに?みたいな。
周りはすごい言われました。
今さらパッパンのトジロやったし何も出てこないよみたいな。
本当に近代文学の、
本当に優れた先生方がいらっしゃったので、
そういうことを言われたんですけれども、
自分がちょっと座を濁して調べていく中でも、
本当にこんなまだまだ研究者とも言えないようなレベルの大学院生が、
少し同時代の、いわゆる明治時代の資料を、
新聞なんかしながらちょっと調べてきただけでも、
今まで言われてないことが結構見えるじゃないかっていうのがあったので、
でもそれだけの近代文学の大御所の先生に、
今そんなことやってももうやり尽くされてるだろうって言われたことで、
この人たちがやり尽くされてるって言うけど、
まだ自分には山穂でやれることがあるって言うふうに見えるってことは、
あなばじゃんって思って。
隙間産業なんですけど。
やっぱり自分にしか見えない世界があるって思ったってことですよね、そのときにね。
そうですね。
そこで終わらせてる場合じゃないよって。
自分で問いを見つけられたってことですよね。
まあ、かっこよくまとめていただくとそうなる、そういうことに。
大事ですよ。それが大事なんですよ。
ありがとうございます。そっか。
こちらこそありがとうございます。
なるほど。
で、その後、どんどん明治期の演劇の状況みたいのを触れていく中で、
倉田さんに会ったんですか?まだまだそこには何か。
まだまだ全然つかないので、心配になってるんです。
そっか。じゃあちょっとね、もう少し倉田さんに入るまでに時間があると思うんですが、
『倉林誠一郎日記』の出版と資料整理
いきなりつなげるようで申し訳ないんですけれども、
この倉林一郎日記、1947年から1952年、
制作者から見た戦後演劇の記録という、この隊長を私にね、
それを送っていただきありがとうございましたけれども。
いやいや、どんでもない。
いやここですね。
やださに送らないで誰に送ったっていう話ですからね。
光栄です。ありがとうございます。
ありがとうございます。これは全482ページの隊長なわけですけれども、
この1947年から1952年までの5年間の倉林一郎さんの毎日の日記帳を、
翻刻された、復刻されたというね、隊長なわけですが、
前書きの部分と、それから会題でですね、
後藤先生の論評というか、解説が載っておりまして、
特に会題の方の、倉林一郎とは何者だったのかというね、文章がね、
すごくね、すごく、お世辞抜きでめちゃくちゃ面白かったんですけれども。
本当ですか。ありがとうございます。
この、明治期とか、それから街とか風景とかにすごくこう、
後藤さん、こだわりがあるのかなというふうに思ったのは、
倉林一郎が生まれたときの東京の何か風景、みたいなものを。
あれですかね、佐々木由加くんの周りの話ですかね。
そうですね。吉原の話とか、それから沖谷さんだったときの話とか、
あと駄菓子屋さんだったときの話とか、
かなり詳しく論評してくださって、
そういう時代の中でこれは書かれて、倉林一郎っていうのは生まれていき始めたんだっていうのがね、
すごくね、勉強になったんですけれども。
なんかその、先ほど伺ったお話の中では、
どっちかというと、研究対象の作品とかセリフみたいなところに注目されてたっていうようなことがあったんですが、
研究者としては、その時代背景とか街の風景みたいなものっていうのは、
やっぱりこだわりがあるんですか。
そうですね、こだわりと言いますか、
まずはその演劇って、さっき一郎君が読んでいたという時期ももちろんあったんですけども、
作品だけが自立しているものではない。
今こんなの社会に成功ですけれども、
演劇っていうものに関しても、演劇って言ってあるだけが自立しているわけではないですよね。
その周辺を隣接する領域のいろいろな分割の関わりの中で作られているものですし、
その同時代の社会の状況であるとか、それが上演された場所のことであるとか、
作品の話であればどういう場所かみたいになっていて、
そこはどういうことでどういう、それこそ、
新派とかもよく見ているので、
下流界みたいなものが舞台として多くなったときには、
そういう社会風俗というか、どういう土台の上にこの演劇が成立しているのかということは、
基本的に考えていることだったんですね。
なので、倉林さんのことを調べるときに、
年表はもちろん、御著書の中で書かれていて、
作品のこの年表の細かい、ちっちゃい、さりげなく書かれていることを、
これいつのかじみたいなのとか、そういうのをほじくるのが好きなんです。
なので、それをほじくっていたら、結構特定できたっていう。
確かにかなりシリアスな話だったんだなってね。
江戸期質なのか何なのかわからないんですけど、
倉林さんってあんまり大きなことなはずなのに、
世間的には大きなことなはずなのに、そこはさらっと言って、
むしろ自分目線のところをすごく語るっていう印象が、
この日記を読んでても思うんですけども、
だって今、選挙家なんでしょ?とか、
GHQの株組織のCIEでしたっけ?の人と話してて、
こういうお芝居やったらどう?とか言われてるみたいなところはさらっと流して、
それよりも劇団員の悩みを聞いて、それに対して悩んでるみたいな、
そっちの方がすごく描写があるような方だから、
幼少期に出会ったカジの話もものすごい、
その後、海大で後藤さんが詳しく調べてくださってるのが、
すごく大きな背景になってて、
人間倉林誠一郎を立体的に見えるような気がしたんですけども、
後藤さん率直に言って、この新劇っていうのが結構実はややこしくて、
私も新劇のど真ん中である俳優座劇場に20年間いたわけですけども、
結局新劇って何なのよって言われると、
あばばばばってなっちゃう部分が結構実はあって、
別にセリフ劇とかリアリズム演劇だけじゃなくて、
そもそもスキジショー劇場の一番最初の作品は表現主義の作品で始まってるわけですし、
後藤さんが考える明治期から始まった新劇、
ジャンルとしての新劇、運動としての新劇ってのはどういうものだと思われてますか。
すごく大きな、大きいですね。
わかんないんですよ、私。
全然新劇のこと知らない人に、
新劇でこういうことなんだと思うんですけどって説明するとかね、
あとは学部生の皆さんに、
例えば新劇ってのがありましてって言ったときに、
どういう説明をされるのかなと思っても気になると。
そうですね。なかなか難しいんですよ。
難しいですよね。
特に学生に説明するってことになると、
歌舞伎はギリギリイメージできるんですよね。
見たことがなくても、
ああなんとなく日本の伝統的な古典言語ですね、みたいな。
それも若干どうかと思いますけれども。
そこに明治時代に進化っていうのができてね。
進化っていう時点でもう9割脱落です。
9割どころじゃない、100%を脱落しますね。
むしろ新劇のほうがまだわかるみたい。
進化ってなんですかって感じに。
でもどこかこの歌舞伎と相対的に考えると、
進化と新劇ってちょっとそれこそ何か似通ってるというか、
双子じゃないけど何か共通するものがあったりするようなとこもないですかね。
それが明治時代からの流れを考えると、
これはもうおととしの歌舞伎は明治時代からありまして、
川端博史郎が実は新劇の大物を作った、
っていうふうに川端博史郎はずっとおっしゃっていて、
それもわからんじゃないという感じがするんですね。
学問の登場がわからなくなっていて、
女優を使っているというところもそうですけれども。
女優さんの登場は大きいですよね。
そうですね。
あとは文学作品を扱うというか、
脚本を重視していって、作家を重視していっているところ。
いわゆる今につながっている進化、歌舞伎がベースになっています。
そうですね。
歌舞伎もその難しいものも、
その中で演劇といわれるものが、
明治の終わりぐらいに出てきたというふうに言われるんですが、
話の歴史だけはその流れを見ていくと、
もちろん扱っている作品ですとか、
それこそまた、演劇家の思想で分かれていく部分もあるんですけれども。
思想でね。
あと、思想の影響をどう受けたかという問題と、
集団のトップに立っている人の
イデオロギーというか、思想の方で分けさせていくところが、
そこに多分進化はどちらかというと、
明治時代の風俗に入っているので、新劇は思想の方に入っていく。
なるほど、新劇は思想なのか。
学生にすごくざっくりと説明するときなんですけれども。
すみません、急に大きな質問をぶち込んでしまいまして、失礼しました。
すみません、これすぐちょっと真面目に考えちゃったよ。
いや、でもね、私ね、俳優座劇場にいた頃もそうです。今もそうなんですけれども。
何かこう、くっきりはっきりとした、
売りって言うとちょっとね、売り買いの関係じゃないと言われますけれども、
新劇ってこういう良さがあるよとか、
例えばじゃあ、アンダーグラウンド演劇と言って、
テントを張ってね、外へ外へ、劇場の外へ出ていった人たち、
あとは、もっともっと情動だとか、情念だとかね、
あと身体勢だとか、何かそういう、
もっとお芝居っていうのはこんなに広がるんだっていう風に出ていった人たちから、
始まって衝撃場の運動っていうのが、
一つのブームにまでなっていったっていうのがあると思うんです。
かたやパラレルワールドみたいな感じで、
新劇っていうのはずっと何かを追い求めていって、
で、じゃあ今2026年の、今バッて見た時に、
その、新劇は何かね、細々だけども、
確実に繋がってるなっていう印象があり、
そこはね、何かちょっと売りというかね、
売りって言うと、だから売り会社の関係じゃないんだって言われるけど、
でも何かこう、確固たる新劇らしさというか、
新劇はここが大切だと思ってるって、
今でもそうやって思ってる人たちがたくさんいるんだよっていうのを、
世間の人に言いたいわけですよね、何か。
もう伝統芸能になってもいいから、
そのね、新劇は新劇でこういうところが大事で、
こうやって生きてるんですっていうことは、
はっきりと言いたい。
クラシック音楽とはこうですとか、
ジャズとはこうですと同じように、
新劇とはこうなんですっていうのをね、
何かクリアに、こう、
表現したいなというふうに思うわけです。
その辺いかがですか。
それは本当にそう思います。
やっぱり日本の新劇にすごく大きな特徴って、
前の世代のジャンルと言っていいかわからないですけれども、
それが消えないで、上書きされないで、
重層的に重なってきてることだと思う。
西洋であれば、シェイクスピアっていう作家の作品は残っているけれども、
シェイクスピアの作品をかつて上演していた演劇としての景色っていうのは、
一応なくなっていく。
女優がいなかった時代のシェイクスピアっていうものは、
意図的な演出として、
性別を変える、あるいは異性相の問題を持ち込むとかっていうことは、
だんだん出てきたと思うんですけれども、
当たり前のように、いわゆる女方が生き続ける芸能、
そして歌舞伎があるとかっていうのは、やっぱり日本だけですし、
表現もなくなっていく。
古いっていうと言い方があれですけど、
かつてあったものが上書きされて更新されるんじゃなくて、
同時に、さっき宮沢さんがパラレルに存在するって言い方されてましたけども、
そういうふうに常に同時に存在していることの面白さってすごくあって、
その中でもやっぱり新劇っていうのは、
すごく、はっきりと定義するって本当に難しいと思うんですけれども、
ちゃんと過去とはジャンルとして生き残って続いているっていうことが、
とても大きい。
で、それの基盤になっているのが一つ劇団だと思うんです。
劇団。やっぱり劇団ですか。
劇団、そうですね。もちろん分裂したり、分かれたり、だんだん引き続けて。
演劇なんてそんなもんですよね。
学生時代だともう、喧嘩して分かれたり崩れたりしながら、
中途半端に御秀さんしているのがたぶん演劇だと思いますけれども。
そうですね。
でもその、反対側に劇場っていうものがあることで、
それが保障されていたと思うので、
僕は本当に俳優たちに言うことは本当に残念に近い。
ねえ、すいません。
もうすいません。
いやもう、違うんですよっていう。何様だって感じ。
でもそうなの。
やっぱりプリンクス化劇場だけの劇場っていうのは今、
あんまりないですね。ビルの中に立っていたりとか。
でもその時間の蓄積っていうものが、
ひとつのジャンルを形成していると思うので、
今残っている、いわゆるその劇に取り分けてきた劇団が、
残ってそこでその人たちが演劇を作っているたびに、
それは新劇だと思います。
ジャンルは取っ払って全部現代劇、演劇だと言ってもいいと思うんですけれども、
それでもある種の時間の蓄積が、
さっきおっしゃったように繋がっているってことは大事なんだろうなと。
そうですよね。やっぱり人から人に繋げてきてるってことが多分大きいんだろうし、
それはやっぱり建物がただあるだけじゃなくて、
劇団が先輩から人から人に喧嘩したり、
いろんな衝突を繰り返しながらも何とか生き残っているっていうのが、
新劇のすごいところだよなっていうのは、
とても今お話を伺ってて思いました。
そうだよな。ありがとうございます。
じゃあちょっと、
倉さんにちょっと話を急に振りますけれども、そんな後藤さんが、
倉林さんとはどういうふうに出会うわけですか。
倉林誠一郎日記というのをやってみようかなと思うので、
俳優座劇場が閉館する直前に東京人、雑誌東京人のインタビューで、
岩崎カネコさんのインタビュー、劇場の舞台を使ってやられるっていうときに、
劇場に来ていただいた。
私との出会いのきっかけなわけですけども、
あのときすでに倉林誠一郎日記やり始めてましたよね。
そうですね。初めてはいましたね。
当時の支配人と私と二人で、そんなことやってるんですかって、
二人でわーってなったのをすごく覚えてるんですけども。
僕もそんな反応。
それはそうだよなと思いながら、俳優座劇場だったよと思いながら、
何のご挨拶もしてなかったよってすごく反省をしたんですけども。
後藤さんがそのまま、そうですかってお話を伺った後に、
いわゆる酔いどれ支配人だったものですから、
終わった後も、俳優座劇場もなくなっちゃうよっていうのもあったので、
その劇場事務所でね、ちょっとプシュっていうものを線を開けながらね、
その日も語り合ったんですけども、
まさかね、そういう本を、というか倉林誠一郎をメインでね、
そうやって研究されている方がいらっしゃるなんてね、
って言って話をした覚えがあるんですよ。
しかもおそらく宮崎と同世代ぐらいじゃないの?ってね、
なんか変わり者がまた一人増えたねなんてね、なんかね。
なんかすごい言ってた記憶がね、今思い返ってきたんですけども。
なかなかそういうのをね、研究するなんてのはね、
これは珍しいよなんて言ってたんですけど。
なぜまた倉林誠一郎二期だったんですか?
そうですね。
それもたくさん、4時間かかるんですけども。
基本的に僕は、先ほども申し上げたように、
一応本当の専門でやっているのは明治大正ぐらいの日本の、
研究文学の周辺の文化が、
いわゆる専門、専門は何ですか?
専門の時代はどこですか?って聞かれると、
大体明治大正が、
明治大正ですって覚えてますよね。
明治大正ですっていう感じが始まったんですけども、
なんかこう、いる場所、場所で、
その時々でいる場所とか、与えられた仕事とかによって、
研究対象がどんどん変わって広がっていってしまうんですね。
へー。
その結果も、私は幕末から2020年代までです。
って言うんですけども。
なので別に、研究対象が変わっていくことに何の抵抗もないですし、
方法を変えることに全く抵抗はないので、
その時々目の前にあることをやっているわけなんですが、
その中で倉林誠一郎という人に関しては、
まず一つは、倉林誠一郎に出会う前には、
新劇年代記という非常に大きな仕事を残されていて、
まずあれは絶対に手元に。
その件も、戦後の日本の、特に新劇のことを少しでも勉強しようと思うと、あれは必須だったんですね。
倉林さん本当にたくさん本出されてますけど、そこまで細かくは、
昔は全部の本を読むにはいってなかったんですけども、
倉林さんのことを本当に、
書物としての新劇年代記ではなくて、倉林誠一郎という存在を意識したのは、
私が2019年度から3年間、早稲田の園芸博物館に勤めていまして、
たぶん2019年のどこかで、
当時芸団協にいらした米谷直子さんと会って、
お話ししているときに、
お父さん、倉林誠一郎の資料とか整理しない?みたいなこと言ってたんですよ。
もうちょっと言い方はとても穏やかに丁寧だったと思います。
こんな粗雑な言い方はしてないと思いますけれども。
なんかナンパされたっぽい感じに聞こえましたが、今。
あれもナンパだったと思いましたね。
すみません、ちょっと米谷さんに聞かれたら怒られちゃいました。
そうだったんですか。米谷さんきっかけだったんですね。
確か2019年の米谷さんってことは、演劇は仕事になるのかを執筆されたぐらいですよね。
出て、その雑誌版が2、3回ありましたよね。
ちょっと差し挟んでもいいですか。
もちろんもちろん。
実はですね、2019年前後にですね、私も米谷さんと話すことがありまして、
実は芸団協に蔵林誠一郎さんの手記とか、そういう資料が山のように保管されていて、
劇場には引き取れませんよねって聞かれてて、
しかも、いやーちょっとこんな感じなので場所はなくて、みたいなそうです。
一泊に声かけてうんうんとか言ってて、
で、その次またお目にかかった時に、
はい。
宮沢さん、倉林さんの件なんだけど、
ちょっとね、できることをちょっとね、
封を開けてちょっとやれることになったからって言ってた時を今思い出したんですけど、
あ、たぶんそれです。
お父さんがいらっしゃったんですね。
それです、はい。
すげーな米谷さん。
そうだったんですね。
最初はその、一泊にっていう形よりも、
お父さん蔵林誠一郎の資料は興味ないみたいな感じで、
個人的にナンパされたんですね。
もちろん興味はあるけれども、
たぶん一人でそんな興味を得るものもないので、
園芸博物館として資料の分量とか内容を調査した上で、
博物館として受け入れるってことは可能だと思いますっていう話をしたんです。
本の前書きでもその辺りの経緯を書いたんですけども、
最終的には、
当時の館長の岡村美奈子先生とか、
今館長になられてる小田丸先生ともお話をしまして、
園芸博で受け入れようか。
ついては、
僕は近現代の日本の演劇の担当ということで、
園芸博にいましたので、
直接嫁屋さんからやるって言っちゃったので。
新劇年代期ぐらいの認識しかなかった後藤さんが、
嫁屋さんきっかけでクラブワイド資料に当たるってなったところまで分かったんですけど、
じゃあ実際、やったみるって言って着手したのはどれくらいだったんですか。
その翌年ですね。
2020年の、
実際にコロナでいろいろ止まっちゃったので。
確かコロナでしたよね、ちょうどね。
2020年の夏ぐらいに、
自分が書いたのを読めばいいんですけど、
夏ぐらいに、
コロナのときって書いてありましたね。
一応、演劇博物館の障害担当の専任職員と、
学芸員と、師匠と、
担当研究者ということで、僕と数名で行って、
まずどんなものがどれくらいあるかをちょっと下見しようって書いていったんです。
はいはいはい。
ひとり、
あれ、あ、ひとり様じゃないや。
5本の中から引用させていただきますが、
2020年、倉林誠一郎のご遺族から芸団卿に預けられ、
長く保管されていた資料群について、
芸団卿から演劇博物館に寄贈整理の相談があったと。
これが米谷さんですね。
すごくマイルドに書いてましたね。
コロナ禍に見舞われた年だったが、感染状況の落ち着いた時期を見計らって、
演劇博物館関係者が8月18日に下見を行い、
9月15日から芸能家電車で整理を開始したというところですね。
そうですね。
芸能家電車にあったんですね。
あったんですよ。本当にもうひどくて。
何階かの一番奥の、もともとはトイレだったっていう。
会議室に使われてるけどもともとトイレだったっていうお部屋。
たぶんご存知だと思います。
芸能家電車っていうのをご存知ない方のために補足いたしますけれども、
もともと小学校だったんですよね、芸能家電車。
それを芸団協が、演劇センター構想っていうのがあって、
あそこを一つの演劇の何か傾向ができたり、
それから新国立劇場の養成機関を使ったりだとか、
あとはいろんな芸能関係の統括団体の事務所が入ったりしながら、
運営されている一つの施設が今ありますけれども、
あんまり一回さらちにして作り直すんじゃなくて、
もともとの小学校の施設をうまく言い方をきれいに言うとリノベーションというか、
ありていに言えばそのまま使っているっていうようなね。
廃坑の利活用みたいな感じですよね。
そのおトイレだったところ。
もちろんきれいになってましたけれども、
廊下にワーッと段ボールが積み上がっていて、
そこから屋上に繋がっていく階段のところにもワーッとあって、
踊り場にもあって、みたいな。
写真をお見せしたいぐらいですけれども。
ご本によると、段ボールで約130箱分の資料が、
重複地資料と仮名などなど書いてあるんですか。
そうですね。大体130ぐらいの段ボールがあったので、
その中から本当にいろんなものがあったんですね。
だから1箱ずつ、他の施設の方とか、
僕一人じゃどうやってできる仕事ではなかったので、
何人かで開けて、
これは本、これは雑誌、これは何とかみたいなのを分けていく作業をして、
特に本とか雑誌の場合、
すでに営業客が持っている本とか雑誌もたくさんあるので、
重複資料と分別。
それは主に師匠の方にやっていただいたんですけれども、
一応どんなものがあるかという仮名も。
すごいなあ。
僕はあんまりそういう細かい作業はやらずに、
ただ横で別の仕事をしてたんですけども。
でもそうですね、シーズンとしては、
だから2020年の8月に下見されて、
9月から着社ってことは、
まあまあ真夏ですよね。
そうですね。
しかも9月の真ん中あたりで、
しかも確かあのコロナの時期の9月も、
とてもむしやすかった印象が。
むしやすかったですね。
学校とか仕事がなかなかできない状況だったので、
ずっと家とか劇場とかにこもってたわけですけれども、
まあむしやすい印象しかない中。
いや本当に。
中に1日2日ぐらい、
もちろん博物館のほうの本部もありましたし、
当時はまだ早稲田自体が出校率を、
在宅と出校の割合がまだそんなに
出校率が上がっていなかったはずで、
その中で1日をある程度積極的にやっていて、
まあ何人か。
最終的には僕を入れて3人でやってたんですけれども。
すごい話だ。
本当に覚えているのが、
最初に資料がたくさんある、
大変だねみたいなことを四年さんと、
あと芸団長の宮下谷外郎さんと、
笑いながらもう、大変だこりゃみたいな話をして、
大変だこりゃっていうか、
大変だよみたいな。
大変だよってなりますわね。
なりましたね。
でも絶対に大事だとは思ったので、
エンパクトで受けるならやりますみたいな感じではあったんですが、
その中でも日記とかに関しては、
ちょっと別のところに四年さんたちがきちんと保管されていて、
関係に関してはご遺族からも、
とりあえず開けないで、ダンボールに封をしたままで、
いわゆる大綱の許可が出ていなかったらしいんですよ、それまで。
でもちょっと細かいご遺族とのやりとりに関してはわからないんですけども、
エンパクトが受け入れてセリフ調査をやることに決まったことが、
もしかしたらきっかけだったのかもしれないんですけども、
それも封を開けてもいいという指示をいただいて、
そしたらむしろ下見の段階だったんですけども、
当時一緒にいたエンパクトのスタッフと、
県単供から四年さんと谷川豊さんがいて、
もう宝箱を開けるみたいな感じでした。
これには日記とかが入っているっていうことは、
県単供のほうでもわかっていたので、
それだけは大事だよとは思ったんですけども、
緊張感と、
かたずを飲む。
かたずを飲んで、出てくるわ、出てくるわ、これが日記かよみたいな感じで、
本当にすごいの出てきました。
どうします、みたいな感じで。
いやでもやりましょう、みたいな話をして、
本格的に調査に入る前手で、
たぶん四年さんと谷川豊さんとあらわらの関係者さんでは、
簡単なことをしてくれていて、
それが今回発表した全国の女子チームから、
なかなか受けられていない。
そのご遺族がそれを開けたら、
開けるのはちょっとやめといてねっていう箱があったってことですよね。
そうらしいですね。
それはなんでなんだろうね。
日記は開けてくれるなみたいな感じだったような気がするので、
たぶんそこのプライベートな部分がということだったのかなと、
想像はするんですけれども。
じゃあその箱はもう全部が日記帳だったんですか。
そうです、その四年さんたちが別に避けていた部分は日記で、
それ以外の廊下とか階段のドライバーに置かれて、
日に焼けて、ネガフィルムとかも開けてるみたいな。
すみません、今のカットできないです。
パンフレットとかチラシとか、
そのとき買った新聞の切り抜きの記事とか雑誌とか、
そういう倉林さん自身が収集されたものと、
それから執筆されたもので分かれてたってことですね。
そうですね。
具体的に、禁じられた箱を開けて出てきたものは具体的にはどういうものだったんですか。
日記の解読と倉林誠一郎像
大学ノートだったんですか。
えっと、いわゆる市販の日記帳みたいな。
なんていうんですか。
黒川の手帳ですか。
一応資料を書いたのによると緑色の手帳だったんですけども、
本当に最初の頃は少しサイズがバラで、
また手書きだったり、
実はですね、私も劇場にいたときに、
私は俳優座劇場とは何の関係もないのにって言ってしまいますけれども、
そのヨイドレ市販員がですね、
とても倉林さんご自身とお仕事をされている期間が長かったので、
しかも支配人で貸し勘担当だったものですから、
お芝居作りの制作者じゃなかったんですよね。
かつ一番歴が長いというか、
ずっととても若い時代から俳優座劇場にずっといた人だったので、
今もいますけれども、劇場なくなっちゃいましたけど、
なので、倉林さんとすごく、
あり程に言えばめちゃくちゃ怒られた期間が非常に多くて、
ただお亡くなりになった後は、
劇場に残っている資料みたいなものを、
その支配人が整理してた部分もありまして、
やっぱり同じですね、
倉林さんがお仕事上を集めた資料だとか、
外部のものをたくさん収集する収集壁がものすごくある方だったので、
いろんな資料が山のように出てくるんですけども、
その中で、倉林さん自身が書いた日記帳みたいなものが無数に出てくるわけですよね。
しかもその酔いどれ支配人が言うには、
倉林さんって飽き性なのか知らないけど、
ノートの半分まで使って、あと真っ白とか、
あと、ページの途中まで書いて、
もう何も書いてないやつとか、
一冊全部使い切らないでどんどん新しいノートに、
しかも、とても自由な経営の使い方をして、
縦書きで書いてたかと思ったら、
急に後ろ拍子を開いて横書きに書き始めてるとか、
かなり自由な書き方をしている中で、
今、その当時倉林さんが考えていた、
この次のお芝居の構想みたいな、構想メモみたいなものが、
わーっと書かれているものが一冊出てきたので、
宮沢くん、これ何かの参考になると思うからって言って、
渡されたことがあって、
もうガタガタガタって、ガタブルですよ、
あーって、えーってなって、
それを1ページ1ページめくっていくと、
確かに自由な書き方してあって、
今日見た芝居はこれで、
こういうキャスティングは良くないと思うとか、
私だったらこういう風にして、
こういうキャスティングで、
こういう予算立てでやるとかって書いてあって、
その次のページ見ると、
縦書きで、
今日誰々と会って何かを話したって、
全然ジャンルの違うことが書いてあったりして、
しかもものすごい癖地だったんですよね。
だから、読み解くのにめちゃくちゃ時間かかって、
その資料は私、
ヨイドレ支配人に戻したのかな。
退職するときに、
これは私は持ってられませんって言って、
後輩に預けたかな、
なんかして出てきてしまったんですけれども、
その箱から出てきたものも、
実際そうでしたかね、やっぱり。
そうですね。
非常に読むのが大変。
自由な感じだったんですか、やっぱり。
でも、
普通としては、
横書きのノートを縦に使っているみたいなことはありましたけれども、
そこまでのフリーな感じではなかったかなと思います。
一応変年帯になってたんですか、やっぱり。
そうですね。
ここから自由度が増していくのかもしれないですけれども。
そうだったんだ。
これじゃあ大変ですよね、それをね。
あの、
報告っていう言葉はあんまり聞かないですけれども、
学術の世界では当たり前なのかもしれませんが、
そういう手書き、
しかもクセ字資料を一つの活字のきれいな形にまとめることを報告というふうに言うらしいですが、
そういうことって結構後藤さんにおやりになってるんですか、日常的に。
そうですね。
ものすごくたくさんやってますみたいなことでもないんですけれども、
書書館の手紙とか、
実質資料を扱うこともありますし、
そういうものをできるだけ読める形にして、
公開して、
自分が書いていれなくても、
あとの実際の研究者の参考になればと思うので、
そういう資料を報告してたったりはしてますね。
そうですか。
その中、倉さんのノートってどうでしたか。
やっぱり難しかったですか。
いやー、読みづらい方ですね。
読みづらい方ですか、やっぱり。
はい、ランポの物理言語とかも結構やってたんですけれども。
江戸川ランポの。
江戸川ランポの、はい。
すごいな。
また違ったクセですね。
なんですかね、いわゆる報告するっていうと、
江戸以前の、いわゆる崩し字と言われる。
繋がってる字ですね。
そうですね、それを本日していくことを言います。
それが多いと思うんですけども、
ある程度の崩し字ってルールがみんな決まってるし、
いわゆる崩し字典とかを見ながらやっていくと、
そこそこ読めるんですね。
あ、そうなんですね。
崩すにもルールがあるんですね。
そうだし、もともとたとえば漢字がひらがなになっていく過程、
プロセスがあるみたいなこともあるように、
この崩し字も、たとえばひらがなとなるアであれば、
いくつかの漢字から崩れていく、崩していってひらがなになっていくので、
そのパターンがいくつか整理されているので、
なんとなくちょっと勉強していると読めるようになるんです。
ただ、特に明治以降、
崩し字っていうよりも、
手癖で崩れていく字を書く人たちがたくさんいるので、
これは結構大変ですね。
黒林さんの日記も、
一番最初の報告作業をしてくれたのは、
僕が遠北にいたときに、
僕の下で仕事してくれていた大学院の院生だったんですけども、
読めないし、
とにかくここからここまで一回字にしてみたいな感じで、
あとで見直して修正はするから、
とにかく一回試しに字にしてみたいな、
姉ちゃんのことをお願いしたんです。
でもその院生が本当にブルドーザーのようにやってくれたのは、
すごく大きいことになって、
その後はそれをチェックして、
もちろん勢いでやってるから、
手書き読んでる人もたくさんありますので、
それを潰していくみたいなところも結構時間がかかったというのはありますけれども、
この蔵橋説一郎日記を実際に配読していくとですね、
いわゆるママって書いてあるね。
原書のママって書いてあるところがすごい多くて、
どういうことかというと、蔵さん自身が書き間違えてるとか、
そうですね。
なんでこんな間違いするんだろうというようなところも独特ですよね。
例えばアンサンブルをアンサンプルって書いてたり、
送り仮名を全然違う送り仮名で書いてたり、
結構そのルビーでママってなってるので、
これこうやって蔵さん書いてたんだなっていうのもすごく面白いというか、
生々しいというか、
多分書いていながら別のことを発想してたのかなとかね、
なんか想像するんですよね。
それが非常に公式的に書かれた文章じゃなくて、
もう本当に自分が思ったことをバーッと書き留めてたんだろうなっていう、
リアリティにつながってるなというふうに思うんですけども、
でもそれをこう再現するのっていうのは本当に大変だっただろうなって思いますし、
あとこれ多分当時の演劇の人たちの特徴なのかもしれないんですけど、
あだ名が多いですよね。
村山友義さんのことトムって言っていたり、
うのじゅう吉さんのことうのじゅうっていうのも何度も出てくるし。
そうなんですよ。
本当は3枚細かい文字に注釈みたいなのを付けると煩わしいなと思ったんですけれども、
うのじゅうがあと書かれて、そのままにしておくと、
読んだこっちが父を入れ忘れたと思われるのが困るので。
やっぱりちゃんとね、そこはちゃんとしてるなと思って。
ちゃんときちって入れてるなと思って。
これ大変だっただろうなって。
本当は作品とかも付けたかったんですけれども、
ちょっとギリがないのとさすがに、
本当に偏在で恋しした田宮真明先生が、
この辺のことも見ればわかるみたいな、
本当にすごい方なので、
その構成でも、これ誰ですか?
これはね、みたいな感じですぐに出してくださったところもすごかったです。
それはね。
でもやっぱりそこは書籍の正確づけというか、
これは研究書、学術書であって、
一般的に読まれる本ではないみたいな、
この編集方針みたいなのが決まってるからこそ、
ここまではやらなくていいだろうとか、
一般向けだったらもう少し客注が必要だろうとか、
あるでしょうね。
もうそもそも倉林英一郎、
こんな言い方したら失礼ですけど、
倉林英一郎は誰が読むんだっけ?
ところから始まっているところもありますし、
わざわざこんな本書く読む人は、
ここまではわかるだろうみたいなところも当然ありますので、
それは学術っていうよりも、
演劇、特にシーン劇に関心があっている人であれば、
ここまでの著作にとどめても、
ある程度はわかってくれるだろう。
その塩梅が非常にいいなと思うのは、
とはいえひじかたって書いてあったら、
だいたいひじかた良しだってわかるんですけど、
でもちゃんと良しって入れてくださってるじゃないですか。
そこがね、
なんかやっぱり苦労されたんだろうなっていうね。
ひじかたでわからない人は倉林英一郎の本を読まないかなと思いつつも、
でもしっかり書いてくださってるっていうのはね。
そこはね、すごく親切な感じを思ったんですけれども。
ありがとうございます。
やっぱりどこまで著作入れるかっていうのは、
結構迷います。
迷いますよね、と思いますよね。
すごい話が行ったり来たりで申し訳ないんですけども。
すみません、大丈夫ですか。
大丈夫ですよ。私は大丈夫なんですけども。
禁じられた宝箱をこうやってあげて、
倉さんの直筆の資料というか、
日記帳が山ほど出てきたっていうところまでお聞きしたんですが、
そこからこの占領家の5年間にフォーカスしたというか、
あえてそこを取り上げたっていうのは何か理由があるんですか。
そうですね、まず一つは、
資料の整理がひと段落して延期に受け入れたのが2021年の3月31日なんですよね。
もうほとんど何かですね。
その頃にはちょうど僕たち2021年の結果的に6月1日に、
5月開幕になるんですけども、
本当は5月中に明けるはずだったこのドクトミンパンデミックというのは、
コロナと日本の文化芸術に関する各県のフォーカスセレーションもやっていたので、
もうそっちにほぼ書かれきりになっていて、
むしろ家電車に行くなんて言ったら、
担当が副衛院から叱られるみたいな感じだったので、
もうその最終的な整理は本に名前を挙げてますけれども、
当時師匠だった方と僕の下についてくれていた大学院生の2人に、
本当にごめん、何かあったら連絡してくださいみたいな感じで、
最終的には投げて、
フォーカス展示の準備の方に入っていたんです。
まあでもコロナ禍でしたからね、
あの時、舞台芸術界隈はもうね、大変な状況でしたもんね。
今、倉さんよりもやっぱりちょっと、今は、
野田秀樹さんのコラムもありましたけれども、
演劇そのものがなくなってしまうんじゃないかとか、
もう二度と劇場のドアを開けられなくなってしまうんじゃないかみたいな怖さ、
隣り合わせでしたもんね。
俳優座劇場はずっと閉じたままでしたから、
そんな中、倉林さんのっていうのはね、なかなか難しかったと思いますね。
やるべきではあったんですけれども、
演劇をやるっていうことになってしまったので、
外れられなかったということもあるんですが、
その後に、夏まで演劇をやって、
その後、2021年で初期企画展をやりました。
企画展でやったんですね。
同じ年の秋に企画展で、僕が審判の展示をやることになっていたんです。
立て込んでんな、結構。
結構、しかも振れ幅ひどいみたいな感じで、
どんどん上級で一生懸命してなかったので、
ダメだこれは、みたいな。
僕は2021年度が演白の人気の最終年度だったということもあって、
めまぐるしく、あっという間に人気が切れるみたいな感じで。
でも、蔵林さんの資料に関しては、
ちゃんと整理する機会を作らなきゃダメだと思って、
演白は離れるけれども、資料が伝えるようにということで、
蔵林さんの日記を通して、戦後新劇を考えるというテーマで課研費を取ったんです。
ごめんなさい、何を取ったの?
課研費。科学費。
課研費?
はい。いわゆる研究の助成金を取ったんですね。
ここに書いてあるやつですね。
そうです、最後に。
最後に書いてあるやつが。
はい。それで研究費が幸い採択されたので、
それでちょっと細々と時間を作りながらやり、
それでも終わらず、ようやく今年本の形になったんですけど。
なお、本研究はJSPS課研費、
早稲田大学演劇博物館演劇映像学連携研究拠点のテーマ研究課題、
蔵林一郎急増資料の調査研究、
および戦後新劇の調査研究の成果の一部であると書いてあります。
これですね。
そうですね。
なるほど。そういう何か継続させていくっていう制度があるわけですね。
これわかんないな。
個人でやるには、さっきも言いましたけど、
とても手に負えないので、
ある程度のチーム、
チームってもそんな個人マリとしたチームでしたけれども、
作ってプロジェクトとして形をきちんとしておくことで、
ちゃんと蔵林一郎っていう名前も、
世間的にも表に出るようにするということと、
そういう研究プロジェクトの中できちんと資料を扱っていくということを、
両方やっていく必要があると思ったので、
そういう形を取ったんですけれども、
僕質問に対する答えになってない。
ああ、そっかそっか。
僕何の質問わかる感じだっけ。
で、占領家の5年間にまとわしたというのは、
その研究の中から得られたテーマ性だったんですかね。
とにかく日記がまず分量が多いことで、
ある程度は活字に、どういう形であるのかを活字にはしようとしていたんですね。
それで日記は一番最初からやるというのも当然だったんですけども、
ゴールをどこに設定するかということがわかったときに、
当然その1980年代、90年代とかは、今も元気な方もいらっしゃるでしょうし、
ざっと見た感じ、結構悪口がいっぱい書いてあるので、
各方面に差し障るだろうというところもまずあり、
戦後すぐなら事故だろうみたいなところが一つ大きい理由としてはありましたね。
占領家の演劇の研究はだんだん行われてはいるんですけれども、
他の映画とか文学とか音楽とか美術とか、
他の領域に比べるとまだまだ、
個別にはもちろん大田装塩さんとか、大きい仕事をされてる方がいるんですが、
もうちょっとフォーカス的に、
戦領家演劇の研究がされていないということもあって、
そこにはやっぱり資料がないということも多くいるんですね。
なので、この日記をきちんと整理して読めるようにすることで、
今後戦領家の演劇に関する研究が進む役に立つだろうということもあって、
戦領家にまずは絞ったんです。
後藤さんから見て、この戦領家における劇団俳優座及び倉林誠一郎というのは、
何か特徴的な何か戦領家だからこそみたいな部分ってありましたか?
倉さんの個性が強すぎて、戦領家じゃなかろうが何か引っ張られていく感じが。
そうなんですよね。
もちろん一番大きいのは、いわゆる戦劇、あまりお金がなくて、
非商業の演劇であるみたいな定義もよくされますけれども、
そういうところもある。あるいは芸術性の問題とかもあるんですが、
倉林さんもそういう演劇観みたいなことは、
比較的よくある新劇の理想を掲げるようなところも大きいんですけれども、
現実としては非常に商業資本とも深くつながろうとしてますし、
投稿ともよくつながっていますし、
特に映画との関係も非常に強いのは、この時期ならではというところも。
めちゃくちゃ金を稼いでるんだ、この人たちっていうところもあります。
あと少し劇場の問題というのもだんだん表現化してきて、
ここからこのあと赤いウザ劇場がまだにできていくわけですけれども、
そういう点で戦後のある時代性っていうのはもちろん見えてくるんですが、
戦後効果ならではみたいなところが、
社会的な風物の問題とか、社会状況の問題とかって、
そこまでおっしゃるように全面に出てこない気がするんですよね。
例えば、闇市みたいなものとか。
闇市の話出てこないんですよね。
そういう社会的には暗めな部分。
暗めと言うとあれですけれども、あとは最終的な部分。
それこそ、戦略家の配信情報なんて、非常にストリップショーですとか、そういったものがたくさん。
そうですね。エログローランセス。
歌舞伎よりもキャスが入ったって言われるぐらいですけれども、
たぶん肌パイレビューを見たけど、本当にあれがキャスが入ったのかみたいなことがちょっと書いてあったぐらいで、
あんまりそういう方面に行かないんだなっていう印象がすごくあったんですね。
そうですね。
学部辞書の話とかもチラッと出てきますけど。
チラッと出てきて。
でも見に行ったか行ってないのかわからないようなことが書いてあって。
ちょっとふんわりしてるんですけどね。
それよりもやっぱり劇団をどう維持するかみたいなところの、この放送ぶりみたいなものがすごいですよね。
金作と劇場探しで走り回ってる姿が。
やっぱりいわゆるこういう製作、本人は演劇製作者というふうにおっしゃっていますけど、
製作者あるいはプロデューサー、昔で言えば工業士みたいな部分かもしれないんですけれども、
演劇研究の中でこういう立場の人の研究って本当にないんですよね。
ないですよね。
ないんです。
イメージ対象ぐらいのことで、ここ12年ぐらい少しずつ始まったようなところはあるんですけども、
それ以降は、やっぱり歌舞伎がベースになって、
映画とかいわゆる近代以降に起こった演劇に関して、製作者に関する資料もないですし、
研究もそれは進むわけもないんですが、
でも実際に現場を動かして、
やっぱり日記を見てると、本当にこういう日常の積み重ねで、
こういう日常の作り方で、
これを読まれて、感触とか印象っていうのを、ものすごく見てみたい。
山本さんの作品の中で、
もうね、私なんかはね、演劇製作者だったわけですから、今はね、ちょっと距離を置いてしまいましたけれども、
今までは倉林誠一郎っていうのって、神様みたいな、本当にもう天上人というか、活字の人というか、
1940年代の新劇製作者の第一人者で、しかも苦労してお金を貯めて、
いろんなお膳立てをして、先生たちが前に出るようにしながら、
その裏付けを作っていって、っていうような伝説として残ってる、倉林誠一郎っていうイメージがあったんですけども、
この倉林誠一郎日記をすべて読んで思うのは、もうね、肩をグッと組んでね、酒を組み交わしたい、本当に。
よくやったよねって。
一つの演劇人としての仲間みたいな、勝手にですけどね。
勝手にそんな言い方、倉さんってね、頑張ったねっていうね、そういう感じですよ。
すごく距離感が近くて、しかもリアルな人間像の倉林誠一郎っていうのが、よりきめ細やかに分かったっていうのと、
あとこれ、読み終わってちゃんと調べて思ったんですけど、倉林誠一郎さんって1912年12月28日生まれなんですけれども、
12月28日は必ずね、倉林さんのお墓参りに毎年毎年行ってるんですけども、
今はね、劇場職員は必ず劇場の大掃除を28日にやって、それでその後、六本木と近いですから、お墓参り行くっていうのが年中行事だったんですけども、
1912年生まれっていうことは、
この1947年から1952年の5年間って、35歳から40歳なんですよね。
それをね、読み終わってから、この年齢感を見ると、マジで若いじゃないですか。
若者なんですよ。
しかもちょうどね、パイセンたちですよね。劇団のちょい上のセンダーコレアさんを中心として、
ちょい上の先輩たちが、言葉を選ばずに言えば、勝手なことを色々とね、広げていくわけじゃないですか。
これをやりたい、あれをやりたいとか、君はこうだとか、そうじゃない、こうだとかって言い合ってるところをうんうんって聞きながら、
なんとか自分、凡人である、いい意味で凡人である、普通のクラさんが、
あ、なるほど、先生が言ってるのはこういうことか。じゃあこういうふうに動こうとかって言って、必死で走り回ってるっていうね、
この35歳から40歳の若いクラさんみたいなのをね、すごくこう目の当たりにして、
いやー頑張ったよクラさんっていうね、すげーなお前って、すごい言いたくなる。
よく頑張ったよねって、もっともっと話聞かせてみたいな、すごい友達になる時が、勝手にですよこれはね。
ありがとうございます。
それってやっぱりこう、今まさにそういう時期に差し掛かっている演劇制作者の人たちにやっぱり届いてほしいなっていうね、
もっともっとすごいことを走り回りながらお金をすごい稼ぎながら、なんとかそれを実現した一人の制作者がいたんだぞっていうのをね、
何か構成につなげていかなきゃなと思いますし、やっぱりそれに、そういうことにとってとても大切な仕事を後藤先生は終わりになったなっていうのがね、
改めてこの凄さにね、感動したわけですよ私はね。
すごいなクラマイザーっていうか。
いやいや、それをだってやっぱりあの癖地とね、自由な、
多分書けないこともこれは書いてあっただろうなっていうところも含めて。
あとね、ちょっと気がかりだったのが、
共産党との関係性ですよね。
おそらくこの5年間の中に共産党のことに関する記述っていうのはそんなにはなかったんだろうなと思いつつも、ちょうど、
入党したっていうところから、たまにその分子、細胞か、
出てくる用語は共産党系の。
共産党系の用語が出てきますけど、細胞会議とかね。
でもそこまで思想的な何かっていうのはないと思うんですけども、
ただし、日本の歴史的な背景を見ると、
逆コースみたいな、再軍備みたいな方向に向かっていく、
時代じゃないですか。
だからおそらくクラさんの中にもとか、あと周りの人たちにとっても、
戦線強強とすることとか、
すごい大激論が交わされてたんだろうなみたいなのは、
ちょっと想像するわけですよね。
多分この先の、この俳優座劇場会場5のクラさんの日記の中には、
きっとそういうことも出てくるんだろうなみたいな。
出てくると思いますね。
はい。
そこら辺のところも、多分マイルドに記述されてるのは、
ここら辺くらいまでなのかなとかね。
いろいろ考えました。
戦後演劇の時代性と倉林氏の役割
そう思いますね。
すみません、もう12時になってきてしまいましたので。
本当だ、ごめんなさい。すみません。
全然大した話ができなくて。
いやいやいや、面白かったです。
じゃあ最後にですね、最後にでもないですけど、
実はこの配信の告知にですね、
コメントをいただいてまして、
まずですね、これは、どこ行っちゃったかな。
すぐコメントがどっか行っちゃうんだよな。
こっちで見ればいいのかな。
出しとかなきゃ本当はいけないんだけどね。
わかんなくなってるんですよ。
ちょっと待ってくださいね。
私この動画で全然言えないっていうね。
この二重区本当に。
結構ね、告知を山ほどしたもんですからね。
その告知の中に書いてあったので。
田中ハヤトさん、いつもありがとうございます。
ヘビーボンドです。
この著作と宇野さんの本を照らし合わせて読みたいと。
この田中ハヤトさんというのは、
民芸推しなんですよね。
とにかく劇団ミッキー。
このミッキーはちょっとあれですね。
あれなんですよ。
どうやら田中ハヤトさんがキャッチされた情報によると、
宇野住吉さんを水砲劇団から追い出したのは、
福良さんなんじゃないかと思ってるらしくて。
そこら辺のところはそれぞれ研究されて、
真実をつかんでいただければなと思うんですが、
ただ、後藤さんの印象では、
いわゆる水砲劇団系の人たち、
それから心境劇団の人たちのコメントみたいなものもたくさん書いてあったと思うんですが、
関係性というのはどうだったと思いますか。
宇野住を中心にしているんですか。
滝沢さんとか。
関係は別にそんなに悪いとは思わないんですけどね。
まあすごい批判は多いですよね。
そうなんですよねー。
すごくミゲを好きな方にはとても不愉快な。
刺激的な。
刺激的なことかもしれないですけど、
やっぱりその滝沢さんに対する批判の仕方とかっていうのは、
それこそ海外で神山県でも書いてありましたね。
滝沢さんの御時代的な演技みたいなものに周りの人がついていってなくなってくる。
でも滝沢の御時代の演技をリアリズムだと言ってしまうところに対して、
クラバイザーの表の目っていうのはものすごく鋭いと思うんですよね。
それが滝沢さんの演技が意味悪いっていうことではなくて、
滝沢さんのこういうお芝居みたいな名人系の圧倒的な力っていうのは当然あると思うんですよ。
もちろん僕は見られているわけではないんですけどね。
でも、それを周囲の人のアンサンブルに欠けてしまっているという指摘であったりとか、
それを前提にして滝沢さんのリアリズムというのは素晴らしいみたいなことを言ってしまうことの危険性みたいなことは、
やっぱりクラバイザーの目の鋭さだと個人的には思うので、
そうですよね。
個人的な人間関係みたいなところはまだ踏み込んでいないですし、
宇野十一さんに関しても別にそんなに積極的なことを言っているわけでもないと思う。
そうですね。今回のクラバイステージ論・筆記の中では、
宇野十一さんについては批判というよりは心配をしてますよね。
心境劇団の中の宇野十一への何かみたいな評判と、
宇野十一に対する批判みたいなものに対して、
とても不安だとか、そんなことが書いてありましたね。確かに。
一番人間性まで批判しているとしたら、
まああれでしょうね。
ホンダ・エンザブローでした。
いや、ホンダ・エンザブローとのバトルはすごいですよね。
これはね、むしろおもろいっていうかね。
いやー。
ディスり合いっていうかね。フリースタイルダンジョンじゃないけど。
いや、ほんとに。これは。
ヒップホップのビーフみたいな。
あっちこっちでまた出てきたみたいな。
またやってんだみたいな。
どんだけやってしまったんだみたいな感じが。
どんだけやってしまったんだみたいな。確かにそうですよね。
ホンダ・エンザブローさんとのバトルは見物ですよ。
でも、後藤先生おっしゃるようにですね。
同じ表現者というか、同じ新劇仲間同士での
この表現とその意思とか、
そういうものに対する批判は
とても多分言い合ってたし、
同じ仲間だからこそ、
ちゃんと芝居を見に行って、
その結果、俺はあれはそう言ってるのに
それはできてなかったと思うみたいな。
一つのリスペクトを込めた表現のやり取りみたいなものを
すごく感じるんですよ。
滝沢さんに対しても、
滝沢さんはこういうふうにおっしゃるけど、
でもそれが実現できてなかったよねみたいな。
本当はもっとこうあるべきなんじゃないかみたいな。
演劇陣同士の激励の試合みたいなね。
そんな感じを受けるので、
ちょっとなんか水穂劇団から云々っていうのは
分からないですけども、
いわゆる今の炎上みたいなとか、
あとはこの短絡的な泥試合、
SNSにおける泥試合みたいな、
そういう感じじゃないような気がするんですけどね。
そう思いますね。
あとはやっぱり自分たち俳優さんの
プロフェッショナルであるっていう自分みたいなものは、
それはもう当然強く持ってくる。
ありますね。プラスの中にめちゃくちゃありますね。
それは例えば文学者に対して、
文学者の待ち合わせに対して素人くさいみたいなことが
はっきり言ってますね。
はっきり言いますし、
女の一生もいわゆる新劇審判みたいなことを言っていて、
文学者が審判くさいみたいなことは
別にみんなが言ってることですし、
そっちじゃねえだろみたいなこと言われるよね、すごくね。
でも文学者と審判は近いので、
別にそりゃそうだろうと思うぐらいなんですけれども。
でもそういう意味で言えば、
今お話を伺ってて思うのは、
熱かったんですね、たぶんね。
お互いの表現とかやりたいことに対してね。
それも一つ大きな時代性というか、
本当の意味で切磋琢磨してる感じが
なんかいいなというふうに私は思いますね。
ありがとうございます。
それからですね、横浜2020さんという、
これもまた私のラジオの常連さん、
ヘビーボンドなわけですけれども、
先日倉林栄一郎日記を購入して
読みふけている最中ですと。
ありがとうございます。
僕が書いたわけじゃない。
賢者の後藤隆貴さんがどんなお話をされるか
ワクワクして待っていますという。
本当にすいませんでした。
それとですね、もう一つ後藤さんへのコメントでですね、
昨年、同じ横浜2020さん、
昨年文学座の花岡聖州の妻講演時に
立教大学大衆文化研究センターから
勧告された大衆文化第33号を講読しています。
いけなかったシンポジウムの座談会が活字化され、
後藤さんの花岡上演史が面白く何度も読んでいますとのことです。
ありがとうございます。
すいません、なんか、僕の昔話とかなかったほうが良かったですか。
いやいやいや、そんなことないですよ。
いや、聞きたかったんですよ。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
花岡聖州ね。
花岡聖州は去年面白かったですね、正直。
ねー、ちょうどね。
しかも、奈美の栗子さんの交番でまたね、
小野陽子さんがペッと入るみたいだね。
そういうなかなかない状況でしたもんね。
はい。小野陽子さんが出るときがたぶん僕が読んだシンポジウムでしたね。
いやー、すごいじゃないですか、すごい。
あ、でもたぶんこれちょっと言っちゃダメやん。
カットしてくださいね。
すいません、だいぶなんでカットできませんから、ごめんなさい。
はい、ございません。
ありがとうございます。
じゃあ、最後にですね、
ちょっと倉林一郎2期から離れてですね、
はい。
お父さんの。
もう離れちゃって大丈夫ですか、すいません、なんか。
他のお仕事で、これだけはちょっとね、言っておきたいというふうにおっしゃってた、
リスナーコメントと演劇界への提言
震災演劇を未来につなぐという著作のお話なんですけれども。
すいません、はい。
これね、私ね、ちょっとまだ配読してないものですから。
いえいえ、すいません、すいません。
これはどういったご著書なんですか。
東日本大震災が起きて3年間ぐらいに絞って、
震災が演劇に、同時代につながった影響みたいなことを書いたんです。
それは特に震災が起きてすぐぐらいからに
ちょこちょこ調べたり、福島に行ったりって書いていたものを、
一回、やっぱり忘れることはいけないと僕は思わないんですけども、
それにしてもどんどん記憶から消えていくんだろうな、
っていう感じがするなっていうのは思うこともあり、
それは東京に住んでいるから思うことで、
実際に福島の人たちが被害を受けたりとかは、
そんなことは起こってないのはもちろんわかるんですけども、
やっぱり時間とか空間が離れてしまう、
人が離れることを教えるっていうところもたくさんあるとか、
なんていうんですかね。
なんか目次によるとですね、
いわきの高校生たちの演劇とか、
あとは青年劇場の、
あ、違う。
飽きたうじゃく!ひじかたよしきねん!青年劇場!
はい。
必ず本名を言うようにしております。この配信では。
飽きたうじゃく!ひじかたよしきねん!青年劇場!の臨界幻想を取り上げてらっしゃいますよね、確かね。
そうですね。
藤田アサヤさんね。千田コリアさんの演出。
はい。
例えば、
現代劇の劇場の中で取り上げられる作品は、
そんなに僕たちには必要ないだろうと思うんです。
ちょっと語弊があるかもしれないですけども。
やっぱり現在でも、そんなに臨界幻想とか、話題には多少劇場はもちろん出ていましたけれども、
話題にはなってたんですけれども、そこからさらに発想を深めるようなことってなかったですし、
劇団式のことも書いてあるんですけれども、
研究自体もないですし、
あとは福島の高校生の話を書いているんですが、
東京の主要な演劇ジャーナリストみたいなものは、
取りこぼしているものをちゃんと書き残したいというのを書いていたので、
それをずっとここに認めよう、まとめようと思いながら。
これもまた大事なお仕事ですよね。
もう本当にタイだなと。昔の場所になっている。
あっという間に震災から15年も経って。
確かにこれをきっかけに、私これちゃんと読みたいなというふうに思うんですけれども。
今回の配信のためにちゃんと読んでなくて申し訳なかったんですが。
いや、そんなことないです。日本なんかも。
いずれ形を変えて失われてしまうかもしれない震災をめぐる記憶ということで、
演劇は様々な表現は数値等では測定できない。
その時々の個別の感情や感覚や記憶を何らかの形で世界に留める装置であり、
それ自体が一つのメディアとしても機能すると。
それらが上演される劇場空間は演劇を通して不特定多数の人々が自体を共有し得る場となると。
そこではどう震災が伝えられ、それはどう未来に伝える足掛かりになっていくだろうか。
演劇を愛するすべての人にということですね。
付録として震災関連の演劇上演年付が書いてある。
2011年3月11日から2013年12月31日までの演劇上演年付が付いてるんですね。
これはもう完全に、それこそ倉林さんとのつながりで取り付けたようなかもしれないんですけど。
いやいやいや、そんなことないですよね。
でも本当にそんなことなく、倉林さんの演劇年代記のようなものを残すべきだと思ったんです。
それは震災に少なからず何かしら関連するような表現として上演された演劇作品を、
もちろん僕は全て見てるわけじゃないですけれども、資料とか当時のメディアとかから拾って、
できる限りそれを即する新聞記事とか劇場とかも覚えて、ある種のクロニクルをきちんと残しておかないと、
後の時代も振り返るときにちょっとわかんなくなっちゃう。
そうですよね。
そのあたりは本当に今思いついたわけでもなく、ちゃんと演劇年代記が一つ自分の中の手本にあったんです。
それがちゃんと本にも書いてあるんですけど。
倉林さんのすごさって、この戦病化の劇に関しては日々の記録としてすごくリアルに飛んでますし生々しいですし、
これそのものが本当に貴重な資料でもあると思うんです。
この後に俳優座劇場に入ってきて、また次の展覧に入っていくというところはまたもう一段面白くなっていくところなので、
この作業は続けるつもりで。
すごい、そうですか。
いつになかなかないですけれども。
めちゃくちゃ楽しみだわ、それ。
そうですか、これ続きがありますか。
続きは、たぶん…
何年分ぐらい生きてるかわからないですけど。
でもそうですよね、確かに倉さんの人生にとっても、この先の1953年から数年間って、
おそらく一つの倉林誠一郎という人を作ったというか、確立した数年間なんじゃないかなと思うんですよね。
もちろん、この1947年より以前の倉林さんで、とても波乱万丈な人生を送られているので、
東京大空襲でね、お母さんとか、まだ見ぬ娘さんをお亡くしになったとか、すごい人生を送ってますけれども、
そこから戦争が終わって演劇の世界に身を投じてからの、
本層たるやものすごいっていうのが、今回の倉林誠一郎日記1947から1952だと思うんですが、
ここからもう少しすごいところまで飛んでいくぞっていう、この先の倉さんっていうのも、やっぱり味わいたいなっていう気はね、ものすごいしますけれども。
そうなんですよね。
たぶんこの先の日記、僕もちょっとバラバラとまだ読んでるぐらいなんですけれども、
たぶんここから倉林さんは、結構意識的に日記を書くっていう作業を自分に化していくと思うんですね。
それは、やっぱり新劇年代記を作るっていうことが、
新劇年代記を執筆し始めるんだ。
大きい目的としてあって、そのためにも自分の日々の記録を残しておくっていうことが、何よりも大事になるっていうことを日記の中にも書かれているんですけれども。
いやー、すげーなー、そうか。
たぶんちょっと倉林さんの中でも、日記を書くっていうことに対するモチベーションであるとか、書く内容みたいなのも、
変わってくるわけですね。
全部読んでみないとわからないですけど、たぶん変わっていくだろうというふうに思いますので。
それから、劇団の主人になって劇場を開場させて以降の倉林さんって、
視点が劇団の、劇団制作者っていうことだけじゃなくて、劇場の経営者とか、それから一つの劇団だけじゃなくて、
いろんな業界の人たちをつなげて、例えば芸団協をつくるとか、それから中劇場協議会を立ち上げるとか、
新劇経営制作者協会をつくるとか、なんか職業化、演劇の職業化みたいなところにも足を踏み入れていきますよね。
そのたぶん、よすがになるところがたくさん出てくるんだろうなっていうのが、また読みたいな。
41歳以降の倉さんってどうなったんだろうなって、とても気になるところでございますけれども。
そうなんですね。この先っていうのも、きちんとやらなければいけないなとは思って。
はい、もう期待しつつお待ちしております。
ちゃんと5本の内容を言ってなかったまま始めてしまいました。大変失礼いたしました。
6月25日発売。
倉林聖一郎日記1947から1952、制作者から見た戦後演劇の記録ということで、有残格出版より税込み7700円で発売中でございます。
この有残格出版の話も触れたかったんですけどもね。
大正期からある、超名門だったんですね。知らなかった。
歴史は。
歴史めちゃくちゃ古いんですね、この出版社ね。
日本最大級の学術専門書出版社となっておりましたけれども。
そんな名門から出ている名著だとは思いませんでしたが、ありがとうございました。
ちゃんとリード文読ませていただきますね。
明治期の演劇の舞台裏、新劇士の表に描かれなかった戦後があると。
戦僚化、良心の演劇の裏で制作者は何と戦っていたのか。
劇団俳優座主持として戦後の新劇を制作面から支えた黒林誠一郎が残した日記から、
戦僚期の1947年から1952年を本国と。
理想の裏側で、金と欲望で動く演劇人たちに翻弄されつつ、
懸命に公演用の劇場を確保し、金作に奔走する演劇制作者の姿が、
激動の社会状況とともに浮かび上がってくる貴重な時代の裏面紙であるという内容でございます。
全国書店、それからインターネットの書店で購入可能でございますので、
ぜひこのラジオを聴いて、やっぱり読まなきゃダメだと思った方は、
お読みいただきたくよろしくお願い申し上げますということでございます。
あと、宮沢の勝手な感想を後藤さんに伝えて、
今日のラジオは終わりたいと思いますけれども、
後藤さん、めちゃくちゃいい本で、しかもめちゃくちゃ勉強になって、
明日からまた頑張らなきゃっていうのを心から思ったんですけれども、
一点だけね、私ね、これはちょっと宮沢の課題だなというふうに思ったんですが、
解題のですね、先ほどちょっとチラッと話が出てきましたけれども、
解題の中でですね、後藤さんの文章、とても勉強になったんですが、
それに続くですね、神山昭氏のですね、文章、解題も読まなく読ませていただきましたが、
この神山先生って、新劇嫌いすぎませんか?
なんかめちゃくちゃ新劇のことを言うやんって書いてて思ったんですよ。
よくこの先生がね、倉さんの日記に関わったなーって思ったんですよね。
嫌いすぎますよね、この人ね。
そんなことないですよ。
あ、そうですか。
そんなことないですよ。
めちゃくちゃ言うやんって思ったんですよ。
これでね、ただね、これはね、一つの新劇に対するなんかね、
なんていうかな、かわいがりじゃないですけど、挑発というかね、
そういうことなのかなと思ったのが、374ページでございます。
ちょっと引用させていただきます。
以上、見てきたパトロン講演者、劇場建設などなど、
工業や劇団経営に係る膨大な金の記述で、
倉林だけでなく、当時の演劇陣の現で感心し気概と意気を感じるのは、
昨今の演劇陣のように、国や自治体に自分たちのやっていることは立派な文化事業なのだから、
金を出せとか支援しろとか要求しないことである。
金はパトロンを探し、映画やラジオで働いて自分で稼ぎに稼ぐ。
新劇陣の偽善的な現地や過剰な使命感嫌いの私でも、
これには偉いと声を上げたくなると書いてあるんですよ。
たぶん新劇の最もらしい理想論というか、
そういうところじゃなくて、もっと具体的に金と、
それから気概を持って新劇をもう少し具体的に盛り上がっていかなきゃダメだろ!
これはお叱りだと思っております。
ここは宮沢にとってかなり刺激的なところでした。
神山先生も、新劇の人たちには嫌がられるだろうなって思って、
わかってやってますので。
今まで歴史として語られてきた新劇というものが、
たぶんあまりにも、武装を掲げる部分であるとか、製品などの製品欲。
いい記憶も悪い記憶もある。
松本カッペの新劇貧乏物語みたいな。
そういうところが前面に出過ぎて語られ過ぎている。
松本カッペさんもそうですけれども、なんとなくそれを前に出している。
やっぱり蔵林さんのこういう裏というか実態を見ていくと、
そんな綺麗事だけではないでしょ。
ちゃんとこういうふうに努力作やりながら、
仕事を取ってくるし、金も取ってくるし、それで劇場も建てちゃうし、
っていうところを、もっと語られるべきだと。
っていうのが僕の本門ですね。
そういう実践理論とかだけではない、
生々しい新劇誌というものが、もっと語られるべきであろうと思いますし、
ちょっとフリが乗っちゃったんだろうなって思うところもありますけども。
そうなんすよね。
ただやっぱりね、これはもう明らかに神山先生はね、
わざとおやりになっているだろうなと思うのは、
分かっていると。
その新劇が目指す非商業主義や徹底した反戦平和みたいな、
この大前提みたいなものがありながらも、
それだけじゃなくね、
頑張っている人たちにももう少しフォーカスを当てなきゃいけないよねっていうイメージも今、
後藤先生が言ってくださったように、
それだけで生きてるわけじゃなかったでしょうと。
そこはもう少し一緒に見ようよっていうね。
実を取る部分って大事だよなっていうのが、
いかにもこの蔵林誠一郎日記の大前提とか書籍が目指しているところを、
はっきりと言ってくださるみたいな感じがあって、
そうなんです。
製作者ってそうやって頑張ってんだからっていうね。
そこにこうやっぱり、
それをね、しっかりと書いてくださってたっていうのはね。
ただその巨大資本だとか、
商業主義だとかをすべて肯定して、
そこに行きたいわけじゃないのはわかってる。
新劇はやっぱり新劇なんだから、
そうじゃないところを目指している演劇運動であることは、
もちろん間違いないんだけれども、
ただそれだけでは生き残れないぜと。
どう思ってんのっていうね。
もっとしっかりやれっていう感じがすごく見て取れました。
ありがとうございました。
はい、ありがとうございます。
倉林誠一郎の著作と現代へのメッセージ
先ほど楽しみなお話いただきましたけど、
この先の蔵さんはどうなっていくのか、
今後期待っていうところで今日は終わりたいと思いますけれども、
最後に何か告知事だとか、
何かお知らせしたいことだとか、
音声に残しておきたいこと、
この配信を後で録音配信で聞いてくださる方もたくさんいらっしゃると思いますので、
一言よろしいでしょうか。
こんな話で大丈夫でしたかっていうのが、
なかなかと失礼いたしました。
そうですね。
でもやっぱり僕は演劇を一応研究する上で、
いわゆるドクラブラスというところの演劇制作者という形での人の仕事を
きちんと編集をしないと、
それはちゃんとした後の時代においても、
本当の意味での演劇研究にはならないと思うので、
やっぱりそういう意味でも、
蔵林選挙といった大きさを改めて、
この本を作る作業を通して、
僕には垣間見えたとしか言えないんですけども、
やっぱりこういうもの、
それこそ演劇制作者というものはいろんなものにつなぐ存在だと蔵林さんもおっしゃってますけども、
もうちょっと研究の部分、
アカデミーと演劇の現場とか、
加強されてもいいんだなとは思うんですね。
そうですよね。
今回この本を作って、
皆さんがこういうふうに反応してくださって、
こういう形で取り上げてくださったってことは、
ものすごく僕はありがたいなと思って。
いやいやいや。
本当に誰が読むんだ。
こんなものしか買わない本みたいな感じで、
本当に作り始めたうちに、
本当に誰が読むんだっていう。
でもやっぱり今の、
実際に現場に立っている方、
演劇制作をずっと続けてらっしゃる方に、
蔵林誠一郎という人の、
本当に80年ぐらい前の仕事が響くっていうことも、
やっぱり尾上さんのお話からすごく感じますし、
そういう仕事があって、
この本を出すっていうことができたことも、
とても大きな意味だったのかなと今改めて思っているところです。
間違いない。
蔵林さんに感謝しかないですね。
ありがとうございます。
最後にいいお話をしていただきましてありがとうございました。
この蔵林一郎日記のプロモーションと言いますかね、
今後の展開、
いろいろまだまだね、
実は予定されていることもあるかと思いますが、
私ですね、
もう全面協力で何でもやらせていただきますので、
ぜひまたね、
蔵林一郎話を含め、
何かお話できる機会がありましたらですね、
宮沢のことは使っていただいてですね、
ぜひ語り続けていきたいと思います。
よろしくお願いいたします。
はい、よろしくお願いいたします。
かなり長い配信になってしまって申し訳ございませんでした。
私もね、話を聞きたがりなんですからね。
もう2時間、35分になっちゃいました。
いや、すいません、僕が喋るのは上手くないんです。
いえいえいえ。
というわけで、
蔵林一郎日記、1947年から1952年、
1952年、
制作者から見た戦後演劇の記録を編集、
報告していただきました。
後藤隆之さんでした。
どうもありがとうございました。
ありがとうございました。長々と。
ありがとうございました。
長々、大変失礼いたしました。
それではごめんください。
ありがとうございました。
どうもありがとうございました。
今日も長い配信になってしまいましたけれども、
ここらで終了したいわけですけれども、
最後にですね、
私もね、蔵林一郎さんについてはもう思うことが
たくさんありすぎましてですね、
この配信をきっかけにもう1回ですね、
いろんな本を手に取ってはパラパラとめくりながら、
ああ、この文章もあった、あの文章もあったつってね、
蔵林一郎日記だけじゃなくてね、
もう1回蔵林本をね、
開いてはいろいろと思い出してたんですけれども、
ご存じない方のためにちゃんとね、
紹介をさせていただきますが、
蔵林一郎の著作というのはですね、
結構いろいろとございまして、
蔵林さん自身がとてもこう文章をね、
たくさんお書きになる方でしたので、
先ほども後藤先生からご紹介ありましたけれども、
まずは代表作としては、
新劇年代記という作品がありまして、
これが新劇の戦後、戦中、戦前と、
そこで上演されていたお芝居の細かなね、
記述がたくさん変年帯で書かれている大名著がありまして、
これによって蔵林さんは、
演劇制作者の現場の人だけじゃなくて、
記録する人というか、
一つ文章を書き記しながら、
演劇の状況をまるっと
後世に伝えていく人の一人になったということがございます。
それから、
劇団は生きているという著作、
それから演劇制作者という著作、
あとはこれ、
私これね、
今日も結局2冊持ってきちゃったんですけれども、
これ好きなんですけどね、
演劇、私の覚え書きというのと、
演劇、私の覚え書き2という2つのね、
これも蔵林さんがいろいろと考えながら、
壁にぶち当たりながら、
それでもこういうことがあったとか、
ああいうことがあったということを、
俳優座劇場の機関紙広場に伝採をしたものとか、
あとは、
新劇という雑誌がありましたけど、
そこに原稿を載せたやつを、
書籍化した本もございます。
やっぱりね、
宮沢が一番好きなのはね、
あと、
移行集になった、
新劇、
落ち着け宮沢。
戦後演劇のやつもありましたね。
やっぱりね、
演劇制作者という本が大好きなんですが、
この配信を締めくくるために最後にですね、
蔵林さんのことを紹介して、
この演劇制作者から
言葉を紹介して終わりたいと思います。
ちょっと長くなりますが、引用いたします。
後書きからですね、
演劇制作をやっていて、
近年、世代後退期を迎え、
演劇を取り巻く情報化社会の中での、
それの生き方の難しさを
痛切に感じている。
一つ筋を通そうとすると壁にぶつかる。
他の道を開こうとすると、
またそこに壁が現れる。
いろいろな壁が私たちの仕事の
遂行の前に立ちはだかっている。
芸術的な目的なり思考があって、
劇団を結成した。
はじめはそれなりの共同体だった。
芸術的生活的共同体だった。
時の流れとともに組織が膨張した。
次の年代の養成という
課題があって、
若い人が毎年入団してきたし、
個性の多様さも必要だったので、
劇団員が増えていった。
そこから共同体の維持の難しさを
生んだ。
その上、劇団を取り巻く社会状況が複雑
多様化し、それが劇団活動への
強烈な影を投げかけた。
そして劇団の構成員の
すべてへの配慮がかけ始めた。
共同体的意識が日を追って
薄れていったのである。
その個々の生活は個人の
責任になっていった。
劇団に所属して生活的成立の
測れているのは特定のものに
限られていったのである。
だからその他の多くの俳優は生活のために
芸術から離れたアルバイトに
時間を取られた。
これでは芸術家としての成長も
測れなくなってきた。
またそこから自分自身の
成長と生活のために
目は外へ向け始めるものが出てきた。
それで劇団演飾が
気迫化したし
対談するものも出てきた。
一人になって生活のめどは立ったが
新劇はやらなくなった。
我が国の現代演劇を
創造し推進する役割は
劇団が背負っているのだが
それが今の世の中で十分に
その任務を果たす行動を
とっているかといく度も問われたりした。
試行錯誤も
対立も生まれた。
劇団の運営がますます難しくなっていった。
そうしたこともあって
連帯すべき観客の組織との間にも
亀裂が生まれた。
組織側にも情報化と
高度経済成長の中で
演劇への趣向の変化が生まれて
その溝がなかなか埋めにくくなった。
そして
世代交代期に入った。
強力な指導性が薄らいでいった。
劇団創立の意思を
継承する意識が気迫になって
その行動の基準さえ
曖昧になりかねなくなった。
こうしたことから
それが内外に影を
影響し合い
肥大化した集団の運営の
難しさを増してくる。
お互いの信頼感や活気さえ
気迫化することにもなりかねなくなっていく。
恐ろしいことだ。
ここから集団としての
俳優としての
芸術的継承や蓄積も衰え
豊かな舞台創造への
影響をもたらすこと
豊かな舞台創造への影響をも
もたらすことにもなってきた。
それよりも個人として
今どう生きるかへの
目も
個人として今どう生きるかの方へ
目が向けがちになると。
行動の基準が曖昧だから
そこから混乱も生まれ
統一がなくなりかねない。
危機的状況といっても言い過ぎではないような気さえする。
その上生活的基盤が激乱にないとすれば
問題はなお深刻である。
ところが内外の状況は
激乱に重要な問題を突きつけている。
創造上の諸問題もある。
具体的な公演活動の問題もある。
また将来的展望に関係ある
問題も出てきている。
その一つ一つに対応するだけでも
難事だと。
行動の基準が明確でなければ
その方針が出ないことになるからだ。
こうした状況の中での
芝居作りである。容易なはずがない。
こう考えると現状に
期待が持てず諦めてしまうか
個人的殻に閉じこもってしまうという傾向も生まれる。
ともかく今は
いわば創造的基盤
土壌が貧困化しているとでも言おうか。
作品や演出関係スタッフから
俳優の生まれ育つ
社会的文化的基盤が脆弱で
そのために
芸術的困窮さが深まり
そこから優れた豊かで香り高い作品が
生まれるわけがない。
といって
芝居作りをやめるわけにもいかないので
その中で何とか良いものが生まれるか
と期待し思い続けているのが現状だろう。
そんなことから
こんな愚痴や悪態に
満ちた文章を書き連ねた
とも言える。
嫌味を言うのも何か
今の貧困の状況下で力を合わせて
新しい党を広げたい思いからである。
そのためには
今、芸術団体
創造団体のありよう
生活をもう一度点検し直すことが必要だと思う。
それでこれに関連する問題を
ここで取り上げ考えてみたわけである。
これを機会に
新しい在り方をみんなで考えてほしいのだ。
この意味で今は
重大なキロに立っていると言えるのではないか。
そして基本的には
政治的に文化を保護・育成するという
文化政策
育成するという文化政策へ
大転換しない限り
現在の諸状況は変わらないだろう。
そのためには演劇に関わりのある
もののすべてが
観客を含めた文化政策の大転換のための
運動を起こさねばならないだろうし
これなくしては日本の演劇は
衰弱の道をたどるだけである。
最後に私事だが
昨年、女房が亡くなり
全く一人になったので
私の過去を正確に記録しておかないと
誰も知らない
経歴を作ってみた。
これをある人が見て
ぜひこの本に載せろと言われて
少し重はゆい思いもあったが
添付したわけである。ご了承いただきたい。
1993年3月という
倉さんらしいですね
熱い言葉と
愚痴と
これからね、俺はもう一人になっちゃうけど
それでもね、やり続けなきゃね
っていうね、倉さんらしい
前向きな言葉で締めくくられていますけれども
この
1993年の状況って
ものすごくこう
バブルが間もなく
弾けますよぐらいの時だと思います。
今までのやり方では
演劇は衰退の意図を辿ってしまうんだと
大きくなりすぎたことによって
いろんなハレーションが起きているという
状況で、倉さんは何を考えていたかというと
みんなで団結して
この状況をとにかく話し合おうぜと
点検し合おうぜって言ってたんですよね。
これってものすごく大事なことだなと
私は思っております。だからこそですね
1993年から
30年
33年が経った
またびっくりしますけどね
93年なんて最近のことのように感じますけれども
93年3月から考えたら
33年が経った
2026年の現在でありながら
倉さんが言ってたことっていうのは
何も変わってないなと
むしろ組織とか
それから会社とか
劇団とかいろんなことが
規模が大きくなりすぎていって
何かこう
初めの共同体だった時の
厚さとかね
共通の理念とか
思いとかそういうものがどんどん薄れていって
バラバラになっていき始めてる時だからこそ
今までやってきたことを
具体的に点検し合って
もう一回話を始めようってね
この倉さんの指摘っていうのはね
今でも生き続けていると思います
だからこそのね
倉林静一郎日記の仕事っていうのが
とても意義のあることだなというふうに思いますし
みんな倉林静一郎日記を
もう一回読み合ってですね
そんなことがあったんだとか
この時の倉さんはこう思ってただろうけど
多分その先にもっと違う考えが
あったんだろうなとか
我々演劇陣ね
あえて言いますけど新劇陣特有のですね
想像力を駆使してですね
この懇命した状況を打破していきたいよね
というふうに思っているわけでございます
最後に編集好奇的なね
あとがき的なことをね
言わせていただきましたが
これにて今日の配信は終わりたいと思います
エンディング
一応ね
ラジオだからね
エンディングなんつうものも
ちゃんと用意してるんでね
毎回やってるんでねやらせていただきますよ
エンディング曲
用意しとけつね
これだ
今宵のお話いかがでしたでしょうか
クラさんはすごいかもしれない
というのが今日現在の結論ですが
異論反論参戦反対いつでもお待ちしております
劇場は人間そして人間とは思って話し合って
考えて忘れてまた思う生き物
劇場とくっつける劇場にくっつける劇場でくっつく
これからも社会と劇場をくっつける
ボンドの時間を続けます
芸術法人シアターボンドのラジオお相手は
法人代表の宮沢でした
今日はねえ
豪華なゲスト
また次の配信でお耳にかかります
それではおやすみなさい
この配信は
鶴岡市民劇場
藤枝市民劇場
一般社団法人名古屋演劇館紹介
稲沢演劇館紹介
NPO法人町田演劇館紹介
加藤圭一事務所
東京演劇アンサンブルの提供で
お送りいたしました
長かったね
最後までありがとうございました
それではおやすみなさい