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「名前の大事さ」
2026-09-21 16:38

「名前の大事さ」

アイデンティティーの話

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サマリー

名前は個人を識別するだけでなく、自己認識や他人との境界にも関わると話す。親や先祖から与えられた本名に対し、自分で決めた「ハイアツー」という名前には大きな意味があると語る。SNSの名前やプロフィール画像の選択にも、自分をどう捉えているかが表れる可能性があるという。自分で決める力を持たず他人に委ねすぎることや、逆に他人を自分の一部のように扱うことの危うさにも触れ、互いの違いを尊重しながら人と距離を取る大切さを述べる。

名前は誰が決めるのか
おはようございます。はやつです。しゃべ練になります。 今回のテーマは、「名前」です。
名前について、僕の考え方というか、俺も話をしておくんですけれども、
あらかじめ言いたいこととしては、
決してですね、これをこう、こわらかに、そうじゃなきゃダメだというふうに言いたいということでもなくてですね、
ただ、一方ですね、あまりにも無自覚、あまりにも意識しなさすぎ、しなさすぎというか、
もうちょっと意識してもいいんじゃないかなと思うことが時々あるなっていうぐらいの感じでテンションでしゃべっていきたいと思っています。
名前ですね。極端に言えば、その状況においてですね、
人間の個人を識別することができれば何でもいいと言えば何でもいい。
その必要さえなければ名前なんてなくてもいいということもわかるというか、そう思う時もあるわけですけれども、
それを踏まえての名前についての思うところという話をしようと思います。
僕は日本国籍を持つ人間です。
名前は苗字と名前。名前なのに名前っていうのも変ですけども、英語で言うところのファーストネームとラストネームがある状態ですね。
日本国籍を持つ人で苗字を持たない人もいるという話を聞いたことがあるような気がしますが、私はそういう人ではなくて、
ファーストネームとラストネームがあります。
まずラストネームはファミリーネームというかになりますね。
ファーストネームは舌の名前という感じですけれども、舌の名前は基本的にご両親、親がつけた名前ということになるのかなと思います。
他のもしかしたらおじいちゃんとかゴッドファーザーとかがつけたかもしれないですし、別の人がつけたかもしれないですけども、
少なくともご両親が拒否はしてないという感じで、でもそれがいいと思ったからつけたっていう感じになっていることが多いんじゃないかなと想像します。
が、がじゃない。なので、その名前はですね。
僕が重要だと思っているポイントとしては、その名前をつけたのは自分じゃないということですね。
さらにラストネーム、ファミリーネームというものは親がつけたものでもない。
親の親の親の親の何世代か何十世代かわからないですけども、前にいる人が決めた。
決めたというよりはなんとなく、なんとなくでしょそのっていう感じのものもなくはないような気がしますけれども、
名前ってなんでこんな決めなあかんのみたいな感じの空気の中で決めることになったんじゃないかなっていう気もしなくはないですけども、
そんなインディシーンに決まった、これもまあそういう意味では自分が決めた名前じゃない名前ですね。
自分でつけた「はやつ~」の意味
っていうものですね。この2つの要素をもって日々生活していると思います。
それについて、ニックネームというかハンドルネームというか、そういうのがある人はあるわけですね。
僕の場合はこれははやつ~として今ここに存在しているわけですけども、
このはやつ~というのはすごく大きなポイントがあると思っていて、
それは自分でつけた名前だということですね。
これの意味の大きさはとてつもなく大きいというふうに思っています。
まあとはいえ、僕の今のこのはやつ~はそんなにさっき言った2つの名前と似たようなもんやみたいなという感じはありまして、
そんななんだろうな、胸を張って言えるような感じでもないと言えばないですけども、
それにしても全く一緒ではないし、それを自分でこの名前で名乗りますということを決め、そして名乗っているということにはとてつもない意味があると思っております。
SNSのアイコンと自己認識
ちょっと話が変わりまして、例えばSNS、Twitterとかいいですけども、
Twitterの自分のプロフィールアイコンに分類学的なものがあるような雰囲気を感じますね。
インターネットね、どこまでリアルな情報をインターネットで公開するかというのは今も悩ましい部分がありますけれども、
昔はもっともっと悩ましくて、ネットに個人情報とか自分の顔とか出すとかということは相当なハードルのある行為だった。
今よりもさらにさらにハードルがある感じだったような気がするんですけども、そんな時代でも顔を出すのは有名人とか芸能人とかそういうクラスの人であって、
一般人がそんなの出すって意味わからんみたいな感じの空気の時代もあったんじゃないかなと思うんですけども。
Twitterでも自分の顔をプロフィールに入れる人というのもいらっしゃいますよね。
あとは風景だったり、自分のペットだったり、ちょっと権利的なところがドキドキしますけれども、
好きなキャラクターだったり、アニメキャラとかね、例えばですけども、そういうのをやったりするっていうのはあります。
これをですね、ちょっとあんまり短絡的にズバズバっと決めつけで分類するっていうのはちょっと違うと思いつつですね、
そのやんわりとした大雑把な傾向みたいなのがあるようには感じられますね。
ちょっとあんまりそこを深く堀りするのが今回の話の趣旨ではないので、
なんか言うとやっぱり占い的な血液型占い的な感じになってしまって、
あんまりちょっとという気持ちがあるので、ぼんやりと言いますけどね。
自分のリアルフェイスを写真をプロフィールにする人なのか、ペットとか、
これもさらに物議を醸す余裕でありますけれども、自分の子供の写真とかをプロフィールにする方とか、
キャラクターですね、自分の好きなキャラクターとかをやるとか。
そして僕とかがそうですけど、このリスにおいてはイラスト的な人間でありますけど、
結構ロボットのアイコンを使いがちなんですよね。
自分のことは比較的言いにくさが少ないので、もう一歩突っ込みますけれども、
ロボットを自分のアイコンにする人のメンタリティというか、
ちょっと違う言い方ですと、自己認識と言ってもいいかもしれないですね。
SNSという中で自分のパーソナリティを表すアイコン画像として何を選択するのかっていうところで、
自分のそんなにややこしく、そんなに深く考えてませんという声も、
なんとなく心の声が自分の中で聞こえてきつつ、要素が100と言わなくても10とか20とか、
そういうそれなりのパーセンテージで多少含まれているような気が、僕としてはしています。
言いにくい話には続きますが、何とかしゃべりたいんですが、
こういうのを、SNSの画像もそうですけれども、
名前ですね。名前の部分をどうするのか。
今日の主題は名前の部分の話なので、
名前と他人との境界
名前をどういう名前なのかということによって、青がなんとなく感じる雰囲気の話をすると、
自分を自分として、自己認識というところで、自分は自分であり、他人とは違う存在である。
そして他人には自分は自分の存在をすごく大切にするし、大切にする権利がある。
それと同様に他人が自分を大事にする権利があるし、他人は他人のことを尊重する権利がある。
あまり固まっていないという感じだと、2つの傾向があるような気がしていて、
1つは自分をしっかり持っていない、持てていない。
2つは自分がない、人に言われるがままに生きてしまう。
自分で決めることをしないで、自分で決める筋力が衰え、人に決めてもらう方が楽。
これも程度の問題なんですけど、程度の問題がすごく大きいですけども、
それによって人を任せに来て、その相手がいい人だったら別に何の問題もないような気がするんですけども、
場合によっては悪い人というか、人に支配されてしまうという傾向、状況が生まれるかもしれない。
もう1つは他人との境界が、自分は、先ほどの自己認識のところが、
これも1つの、ちゃんとは限りしていないということになるんですけども、
今度は逆に他人を尊重しない、他人には他人、自分は自分、他人は他人でそれぞれが大事にして、
その上でコミュニケーションしていくということではなくて、
他人も自分の一部みたいな感じの感覚を持ってしまうという関係性というのが大きいかなと思います。
ちなみに余談ですけれども、自分と血のつながった表現があるんですけども、
自分のDNAのパターンを半分ぐらい持っている存在というのが現れれば、
それが自分と一体感のある存在だと思うんじゃないかなと思います。
ただ、それは新しい存在が年を減るごとに、そこが変わっていく、変わっていかざるを得ないということもあるのかなと思います。
ただ、その程度も時代によってだいぶ違うんで、
100年前とかと今ではだいぶまた違う時代になっていると思いますし、
違いを尊重して生きる
100年前は問題がすごくあって、今は問題が少なかったと言える局面もあると。
その一方、100年前はそんなに問題なかったけれども、今は新たな問題が出ている。
先ほども言ったように、いろんな人にもいろんな人がいる中で、
こういうパターンの人にとっては生きやすい時代になったけれども、
こういうパターンの人にとっては生きづらい時代になったみたいな、
そういうこともあるかもしれないなというふうに思います。
にかわくば、いろんなパターンの人がいて、
それぞれのパターンなりにいい感じで生きていける社会になると、
理想的ではあるかなと思います。
僕には僕のパターンがありまして、
僕のパターンと比較的噛み合わせの良い方もいらっしゃれば、
そうでない方もいらっしゃる、
いろいろな方がいる世界だと思っていますけれども、
比較的噛み合わせの良い人たちと距離を近めに、
そうじゃない人と比較的距離を遠めに置く中で、
比較的いい感じにやっていけるといいなと思っています。
だいぶ話が浅瀬の方向に行ってしまいましたが、
何が言いたかったかというと、
よく考えよう、名前は大事だよということが言いたかった回でした。
ということで今回のしゃべりは以上です。
ではまた次回。
16:38

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