ハト組ホームルーム
ハト組ホームルーム出席を取ります、みょうゆうさん。
そして、私、ヒューガー大輔。
このハト組ホームルームは、僧侶で看護師でいらっしゃいます、玉城みょうゆうさんと、
そして、マジシャンでインプロバイザーの私、ヒューガー大輔が、
カフェで二人喋っている様を、隣に座っていただいて、盗み聞きしていただいて、
ふんふんふんふんふん、なるほどね。なるほど、なるほど。そういう風に思うんだ、この人らは。
とか、なんとか思っていただくポッドキャストでございます。
なんかね、ポッドキャストの番組欄を改めて見直すとね、
息づらさを感じた人に聞いて欲しい、みたいなことが書いてあるわけですよ。
でも前回の内容がまたなんか、すごくこう、攻撃的には違うけど、
なかなかヘビーなことも一瞬あったりなんかして、
でもね、その息づらさを感じるって、いろんな側面があってね、
漠然と怠惰で、なんか不安だわ、怠惰な気持ちだし、
なんか物事うまくいかないわ、モニョモニョっていう息づらさもあれば、
本当に深刻な、どうしようって時もあるので、
番組のテイストもいろいろ変わりますわと、思ったなと。
ただただアホなことだけ喋ってた回もあったと思いますし、
でもそれも人間の一面じゃないですか。
僕ね、よく思うんですよ、歴史上の人物って、金の屏風とかに描かれて、
静かそうな顔してこう座ってる武将の人とかも、
絶対バカ話とかしてね、ゲラゲラ笑ってる瞬間も絶対あったと思うんですよ。
なんかついつい、お大臣、そういうお偉い方々とかね、歴史上の偉い方、偉人とかは、
気難しい顔して肖像画に収まってるから、そう思っちゃうんだけど、
絶対にしょうもないな、我々みたいな、そういう瞬間があったと信じたい。
いや、あったでしょう。
あと、戦時中とかもね、戦争中って言ったらもう暗黒の時代で、
日々毎日悲しみだけが支配していたって。
いやいや、そういう時代でも、絶対明るく、どうにかなるわよ、ゲラゲラゲラって言ってる人たちいたはずだと。
そういう瞬間があったはずだと、僕は思ってるんですけどね。
そうだと思う。 当たり前ですよね。
だってね、時代がっていうことになったらね、今の時代だって、他のところから見たらとんでもなく大変な、
よくこの時に生きてたよねってことの時代かもよ、今だって。
でもさ、その中で生きてる私たちってさ、やっぱり偉いこっちゃと思うこともあれば、
それと同じくらいさ、笑ったり楽しんだり夢を持ったりしながら生きてるじゃない?そういうもんなんだと思う。
だからね、本当に些細なことで、くすって笑えたりとかっていうことが人間なんだろうなって思うんですよね。
確かにね。
なんか一服の清涼剤じゃないですけどね、このハトグミホームルーム聞いて、はぁってちょっと力抜けたらいいなみたいな。
亡くなった人の誕生日祝うね。
誕生日祝うって素敵じゃないですか。
毎日は祝わないけど、誕生日祝うって素敵なことじゃないですか。
全然ありだと思うし、同じように誕生日をお祝いしているという方、これまでにも何人かにお目にかかりましたよ。
これがリリースされているのが4月の12日なんですね。つい4日前。
あの方の誕生日じゃないですか。4月8日。
そうやってお釈迦様の誕生日だって皆さんお祝いしているし、僕個人的には羨ましいなって思いました。
それはどっちの立場で?
トンコさんが羨ましいなって思っていて。
というのは、誕生日って、明日もそうですけど、その日はもう事実として動かないわけじゃないですか。
そうやってずっとそのお友達のことを祝ってきたっていうことがあったら、別にキザな言い方で言うつもりはないんだけど、その人はずっと生きているわけですよ。
生まれてトンコさんと友達になって、友達である日々を過ごして。
死ぬってなんだろうなっていうことをよく考えるんですけど。
実はですね、前にここで喋ったかわからないですけど、僕もお友達がいたんですね。
その方は僕にとってはすごく、僕を励ましてくれた人で。
僕も生きるのやめようかなって思った時に、生きろ生きろって励ましてくれた20個ぐらい年上のおじさんがいたんですね。
その方とLINEでよくやりとりしてたんですよ。
ただその方は忙しくて、なかなかリアルで会ってご飯食べようとかいけないんですよ。
家は近かったんだけど、大ちゃん今度ご飯行こうよとか言ってくれて。
行きましょう行きましょうって言いつつ、なかなか予定合わず1年が経ち、知り合って2年が経ちぐらいのところで。
たまにね、大ちゃん元気?ってLINEくるんです。元気にやってますよ。ご飯いつ行くんですか?また今度ねまた今度ね。
っていうやりとりが続くうちにふとある日、大ちゃん実はね、水蔵がんのステージ4って診断されちゃったよ。
って言われて。ステージ4っていうのはみょうゆうさんわかると思いますけど、かなり生存率低い段階に来ちゃってるんですね。
で僕その時に、え?ってしょうもないこと思ったのは、ご飯いつ行くの?って。会いたいよって。もっと話聞きたいよって思ったんですよ。
で、その後も定期的にLINEで元気ですか?どうですか?って言って、うんまだ生きてますってLINEくる。
で桜が見れるかわかんないけどねみたいな。一昨年か冬ぐらいに言ってて。
で年が明けて春になっても、まだLINE既読つくわ。生きてる生きてるって。
で、会いに行けないですか?って言ってものらりくらり顔される。
でなんか私のね、ふるさとの景色がこんなでね、とか私の友人がこんな寄せ書き遅れてね、とか送ってくるんだけど、会ってくれない。
で、元気ですか?生きてます。元気ですか?生きてます。元気ですか?
で既読がつかなくなったんですね。
でも、いつ既読つくんだろうなって僕は思って待ってます。
だって死んだってわかんないもん。死んだことなってないんですよ。
僕はその方の誕生日も知らないし、何だったら住所も知らないから、お線香あげに行くこともできないんですけど、じゃあ死んだことなってないじゃん。
まあそれは僕の勝手な解釈というかなんだけども、
ごめんなさいトンコさんの話からちょっとずれちゃったんだけど、
亡くなった人の誕生日祝うことどう思いますか?っていうよりも、亡くなった亡くなってないっていうことよりも、
その方がトンコさんの人生の中に確かにいて、祝ってあげられる対象がいるということ自体が、もうすごく価値があることだと僕は思うんです。
僕そのおじさんに対してLINEしか繋がってないから、何もできない。いつ誕生日なんだか、いつ命日なのかもわからない。
そうやって思いをここで区切りが毎年来て、誕生日という区切りが来て、その方に思いを馳せることができるっていうことは、
その方がちゃんとトンコさんの中にいるっていうことを確かめられるチャンスが毎年来るわけだから、僕は羨ましいなって思ったっていうちょっと長いお話でした。
そうかそうか。私もトンコさんがその方の誕生日をお祝いするの、どうもこうもないと思ってるのよ。
だって私たちがいいということでもないし、私たちがそれはおかしいよ自己満足だよっていうことでもないでしょ。
トンコさんがやりたいっていう気持ちでもってやっていることなんだから、トンコさんはどう思うんだろう他の人は。
これは自己満足って思われるんじゃないかっていう考え方をしなくてもいいと思う。
ご自身がやりたいという気持ちに基づいてやってるんだから、それはぜもひもないじゃない。
そうですよね。
もう一つはね、こういう言葉をもしくっつけているとしたら、それはいらないかもしれないなって思うのはね、もし彼女が生きてたら今年で何歳だってもしくっつけてるんだったら、それはいらないかもと思ったの。
それはね、今ダイさんがお話ししてくれたことと同じでね、お誕生日この世に生まれたことをお祝いするわけでしょ。
でもそこに、もし生きてたら何歳になったのにっていう言葉をくっつけると、いなくなったことを後悔する日になっちゃうじゃない。
だからなんか趣旨が変わっちゃうっていうかさ、こっちの気持ちがちょっと辛くなるというか。
だから純粋に彼女が生まれた日っていうことでいいんだと思うんだよね。
もしもしね、トンコさんがその言葉をどうしてもくっつけちゃうんだったら、それだけは排除してもいいのかな。消してもいいのかなっていうふうに思うけどね。
なんか僕、改めて今この文明を読み直して羨ましいなって思ったのは、
誕生日にね、そのお友達の雰囲気に合う花を飾って話しかけながら過ごすって、そんなに大事にできる友達がいたってことはめっちゃ羨ましいですよ。
だから、なんて言ったらいいのかな、本当に僕にそういう友人って何人いるだろうなって思っちゃったし、
それだけの友人との関係性作れてきたってこと自体がもう価値があって、それを毎年毎年できるっていうことを何度も言ってるけど羨ましいなって思わせてもらいましたね。
自己満足かもしれないとか、自己満足ってダメなの?全然良くない?って。
確かに。関係ないよね。
関係ないですよ。
そのあたりね。自分が満足すればいいんじゃない?そんな気がするし。
あと、そのお手紙の中で、救ってあげることが、助けてあげることができなかったみたいなことをおっしゃってたような気がするんだけど。
そこね。
これ、自身に限らずね、ご病気でもそうだけれども、残ったものってどうしてもそう考えちゃうんだよね。
特にね、トンコさんみたいに親友だったと。これだけの間柄だから、ものすごく近かったんだと思う。
そうであればあるほど、なんで私助けてあげることができなかったんだろうって思う気持ちはわかる。
思うと思う。それは人として。当然のことながらね。
でもね、だからそれを良い悪い言うつもりはないんだけど。
世の中のね、断りとしてね。世の中のそのルールとしてね。
私たちがどうにかできることなんてね、ないです。
ない。
ないです。家族が病気にならないようにすること、できないです。
お友達がそういうような選択をしないようにすること、できないです。できないんですよ。
そんなに私たちにはね、力がない。力がないから努力することはできるかもしれないよ。
そうならないように気を配ることはできるかもしれない。
でも結果そうなったことについての責任を負うほどの能力はないんだよ。
そこはね、従順にわかっていただきたい。
まあね、後悔をしてしまうのは仕方ないですよね。生まれますよね、そういう気持ちはね。
そう。そしてね、その後悔から私たちってまた成長していくのよ。
全然後悔しない生き物だったら前進まないでしょ。
まあ確かに。
毎回同じ失敗するんだよ。毎回同じ失敗するんだ。毎回同じ穴に落ちるんだって話になる。
後悔するから、なんであそこで落ちたんだろう、何が悪かったんだろうって言うから、次はあの穴を避けるわけじゃない。
そうですね。
後悔っていうのはね、成長の一つのプロセスなのよ。
だからそれは絶対するよ。
高等動物だし、私たちはね、そういう能力をもらった。後悔する能力をもらった。
でもそれは、そういう意味であってね、次にも同じ失敗をしないためであって、失敗したことを何とかしようというのを維持くれということではないのよ。
そうですね。
ましてやね、だから自己自分がトンコさんが、私は何もできなかった、彼女に何もしてあげられなかったって思って自分の価値を下がったように感じる人は全くないわけでしょ。
全くないし、そこに責任というかね、もっと何かできたんじゃないかというところに留まる必要はない。
それは思うよ。もっと何かできたんじゃないかと思うよ。
でもその後悔がトンコさんをもっと、なんていうの、豊かな、もっといい人間に多分していくんじゃない。
だからね、自分に何かできたんじゃないかってね、課題評価してないと思うよ、トンコさんは。
してないと思うけど、でもそういうふうにしがちだから、私たちにはできることはないんです。
なんか面白いですね。課題評価っていうとね、ある種の傲慢というかね、私にはもっとできたことがあったはずだって。
いやいやいや、もう本当に人間なんて砂粒でできることは、自分の本当にすぐ横のことしかできないみたいな。
すぐ横のことだってしないじゃない。でしょ。何を言ってますのってことじゃない。
電車でさ、おじいちゃんをよだってしてんのにさ、よろけてんなみたいに見てさ、ぐらいでしょ。すぐパッと立ってさ、助けに行くってなかなかできないじゃない。
確かにね。
見えている範囲、手の届く範囲のことですら、できてないのが事実だと思うよ。
まあそんなもんなんだよ、人間って多分ね。だからこそ努力するんだよ。
気を配るんですよ。
でも素敵だなって思ったのはね、このトンコさんの文面で、この日だけは悲しさを解放して思う時間を持ちたいと思いましたって。
で、誕生日の日に、やっぱり誕生日なのに、やっぱり彼女はいないんだ、悲しいじゃなくて、ただ思うって。
友達としてね、純粋にただ思えるっていう、時間と場所、時間と相手がいるってこと。
そこはもう逆に一生の宝棚じゃないかなって思います。
今後ね、そういうお友達が何人また、トンコさんがね、素敵な方であろうと思いますんで、またお友達増えると思うんですけど。
でも何人も何人もね、そういうお友達ばっかりになるとも限らない。
なので、ある種もう、こんな言い方するとあれだけど、不謹慎だけど、もう二度と死ぬことはないお友達がいるわけですよね、そこには。
二度と死ぬことはない、ちょっと言い方変。
もう関係性が変わらないってことね。
変わらないってことですよ。
永遠にね、この関係性でいけるんだもんね。
そうなんですよね。
なんか話がちょっとブワーッと抽象化しちゃうんですけど、
多分そういうものの本とかには絶対書いてあることですけど、人が生きてきた記憶、個々の記憶とか、世の中で起きたことって、全部何かしら世界に影響を与えてるわけじゃないですか。
空気の流れなのか、何かの遺伝子に刻み込まれるのかとか、
そういった全部の記憶みたいなものは世の中に残っていって、それが大いなる流れになって、我々がどうしようもないような流れができてるんじゃないかなって思うことがあって。
細かい例で言うと、身近な人が亡くなって。
ということも自分に絶対少なからず影響を与えているし、そこに思いを馳せること自体は。
子供の頃はあんまりそういうのがピンとこなかったですけどね。
でもいろんな人が言ってるよね。ユングのいうところの超真相心理じゃない?そこはもう全部繋がってますよっていうし、
それから仏教ではアラヤシキがそこじゃない?それから今で言うたらアカシックレコードなんでしょ?
なんかねオカルト的な文脈で使われること多いけど、どの宗教とかどの哲学でも本当に言われていることを人間の脳みそ1個なんて、
微小なものごときでは計り知れないぐらいの、何て言うんですかね、集合記憶というか。
あるような気がするよ。だって発明ってさ、必ず同時打発するもんね。
一緒にやってるわけではないのに、誰かが気がつくとさ、あっちでもこっちでもポンポンポンって出てきたりするじゃない?
だからね、数学の世界でもそういうのがあって、ニュートンっていう人、あのニュートンと
あのリンゴが怒ったって人ね。かじって歯茎からっていう。
急にそんな歯茎の健康話にはならないんですけど。
ニュートンさんっていう人と、あとライプニッツっていう別の天才がいて、ニュートンはイギリスの人ですよ。
ライプニッツは多分フランスかどっか、ドーバー海峡を隔てて、2人天才が同時期にいたんだけど、2人とも同じこと思いついたって言って。
微分析文みたいな。だから今のに微分析文の記号の書き方が2通りあるんですよ。数学の教科書。
お二人同時たはずだったから。
ニュートンの書き方。ライプニッツの書き方ってあって。
面白い。
なんか時代の流れでね、必要なものがポポッて同時に生まれたってことが起きてるんですよね、実際ね。
前ダイサンさ、クマもそうだって言ってなかったっけ?
クマ?
あれ?ダイサンじゃなかったか。最近ほらクマ被害が出て、クマが街に降りてきて食べるじゃない?
食べ物をね。
いろんなものをね。
あれってクマが学んでるわけなんだよ。あ、そうか、里に降りてこういうふうにやったら食べられるじゃんっていうの。
で、そのやったクマがお隣のクマにこういうふうなやり方があるよって言うんだったらそっから電波するじゃない?
ところが全然違うところで同じことをするクマが出てくる。
っていうのは、クマってどっかで要するに超真相心理でつながってて、嫌な同時多発だけど、そういうことも起きてる。
あれ?ダイサンじゃなかったっけ?これ言ってたの。
どうだったろう。クマの話は結構しましたけどね、ここのポッドキャストでも。
だからそういうふうに言葉でメディアとかを持ってないね、クマ。スタイル主弾を持ってないクマでもふわってそういうふうに同調するみたいなことが起きるから。
人間は逆に言葉が便利すぎるから、それによって点と点でつながって分かった気になってるっていうのもあるけど、
でも人間の中でもそういうこと起きるだろうなっていう。
感覚としてね。
感覚としてね。
そうだよ。
なんでこんな話になったんだ、トンコさんの話。
僕が話そらしちゃったんですけど。
そらしてない。
だからトンコさんがお友達の誕生日をお祝いするっていうことは深いところでつながっているんだよっていうことだよね。
そういうこと、そういうこと。
だからお友達の生存するというか存在する形は変わったよ。
肉体っていうものはなくなりましたけども、でも深いところにはいるんだよ、しっかり。
生きていたという事実は変わらないし。
今もいると思うよ、私。
いわゆる幽霊がいる、いないっていう議論がしたいわけではないんだけど、
でも生きていたことが必ずトンコさんとかその周りの方に影響を与えて今があるっていうのは間違いないと僕も思いますね。
ということでトンコさんのお便りに結構たくさん話題を広げさせていただいたこと。
言ったらそのお友達の影響が我々にもあったわけじゃないですか。
本当だね。
本当だ本当だ。