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笑倍繁盛チャンネル、望月まもるです。本日もよろしくお願いいたします。
仏教において苦しみとか迷い、その根源にあるものとして説かれるのが、無明、明かりがない、無い明かりなんですね。
文字通り明るさがない状態で、すなわち闇を指すんですが、我々は普段自分の目で世界を見て、自分の頭で考えて、自分なりに正しく生きているつもりではいますよね。
ところが、仏教の視点では、その日常こそが深い霧の中、あるいは闇の中を歩いているような状態だぞと、全然見えていないんだぞと警告しているわけですね。
なぜなら、闇の中にいる者は、自分が闇の中にいることさえ自覚できないからなんですね。
じゃあ、闇の正体って一体何なんだということなんですけども、それは単に知識がないということではないんですよ。
ここで言う闇とは、ありのままの真実を見ようとしない、あるいは見ることができない心の癖、性質を指しているんですね。
具体的には、この3つが闇の正体なんですけども、一番目は執着ですね。
これ盲目になるんですね。
私たちは、これは自分のものだとか、こうあるべきだという、こういう強い執着を持っているわけですね。
信念と言われているものなんて、実は信念とかこだわりと言われているの、これ執着ですからね。
この執着が強ければ強いほど、視界は狭くなるんですよ。
執着の対象以外は見えなくなるんですよ。
だから、自分の過ち、誰かの痛み、あるいは物事ですね、物事のうつろいやつさ、諸行無常という、この現実を見過ごしたり、見えなくなってしまう、見えなくしてしまうということなんですね。
で、2番目は自己中心性ですね。
自分は正しい、自分は悪くないというね。
この自己中心性はですね、自分を正当化するため、自己正当化する闇になるんですね。
この闇に覆われていると、知らず知らずのうちに、誰かを傷つけていたりとか、あとは罪を重ねていてもですね、私は何も悪いことをしていないと平然と言い放っちゃうわけですね。
で、闇は自分の醜さをですね、自分に見せないための隠れ身のになってしまうということですね。
で、3番目はですね、根源的な無知ですね。
これはですね、知識とはちょっと違うんですけども、このような仕組みみたいなもんですね、仏教で最も重要視されるのは縁起ですね。
すべてのものは繋がり合っているというこの概念なんですね。
あとは空ですね、空、空って書いて空、固定的な実態はないよと、世の中もずっと動いていて、あるように見えているものはないよと、この世界の真理ですね。
闇ってのはそれらを知らないことなんですね。
我々は私という個体が独立して存在していると思い込んでいるんですけども、その私を守るために誰かと争ったり何かに執着したり、苦しみを増産し続けるわけですよ。
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この根本的な勘違いこそが最も深い闇の正体ということですね。
だからこそ、暗闇の中にいると人は自分が泥道を歩いているのか、崖っぷちに立っているのか、こんなのがわかんないですよね。
じゃあどうすればいいのかと言うと、必要なのは光なんですよ。
光があって初めて闇が明確になるんですね。
眩しい光に照らされたら、我々はどうなるかと言うと、自分の服は汚れているとか、足元に深い穴が開いているとか、こういうことに気づけるんですね。
それと同様に、智慧という光に照らされて初めて、自分はこんなに執着していたのかとか、こんな身勝手な考えで人を傷つけていたのかという、自分の罪や過ちを自覚できるわけですね。
この気づきこそが救いの第一歩なんですね。
闇を闇として認識できると、その瞬間からもう闇、逃れられるということになるわけですね。
これが自灯明・法灯明ですね。
自らの内に灯を灯す、明かりを灯すということなんですけども、
これは自灯明というのは、他人に頼るんではなくて、自分自身を拠り所として、自らの内なる光を信じる、自分をちゃんと信じていくということですね。
法灯明というのは、これは仏教的なお話なんですね。
法、仏法ですね。
普遍的な真理を指針として闇を照らすと。
これは自然の説理とか法則だとか、こういうふうに置き換えても、僕はいいかなと思ってます。
これはだから外側に救世主を求めるのではなくて、自分の中にある知恵を磨いて、それを明かりとして歩んでいきなさいと、こういう意味なんですね。
自分の内なる知恵が働き始めると、それまで自分を苦しめていた執着とか迷いという、この闇は自然に消えていくわけですよ。
これね、キリスト教とか聖書でも同じような一説があってですね。
私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つと。
これはヨハネによる福音書なんですけども、一見するとこれは神という外部の存在に依存するように聞こえるかもしれないんですけども、
宗教の本質的な解釈に立てば、これは神聖とか仏教、
これは人間が本来持っているものなんだよと、自分の中に神とか仏教はいるのよと、
だからそれを輝かせなさいよと、それで生きていきなさいよというふうにも取れるんですね。
光に従うというのは、外側にいる誰かの後ろを歩くことじゃなくてですね、
自分の中にある光輝く真実の心、これを無視せずに生きろということなんですよね。
この光を灯して歩む道にはですね、迷いとか恐れという闇が入り込む余地はないからなんですね。
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だからこの闇っていうのはね、我々の外側にある不運や災難のことじゃなくてですね、
内側にある真実を見ようとしない心そのものなんですね。
ところがですね、闇がどれほど深くて長く続いていたとしてもですね、たった一つの灯し火があればですね、
その瞬間から闇消えるわけですよ。
何千年もね、暗闇だった洞窟でもね、マッチ一本の光で明るくなると一緒、一緒、それと一緒。
なので、自分の過ちに気づいて執着を手放そうとする智慧の力ね、
これを自分の中から発する、自発することによってですね、
我々はですね、私は何も悪くないっていうですね、この自己正当化という暗闇から解放されてですね、
生かされてるんだな、自分はと。こういう真実の姿に出会えるんですね。
自らを灯し火として、真理を灯し火として歩いていくとですね、
我々は暗闇の中をさまよう迷い人ではなくなって、自らの手でですね、未来を照らす光になれるということなんですよ。
この時はさ、もう闇ってのはもはや恐れる存在じゃないよね。
自らのね、内から放つ光をさ、よりね、鮮やかにね、輝かすキャンバスになったりもするかなと思います。
ということで、本日も最後まで聞いていただき誠にありがとうございます。
さあ、今日も素直に正直に自分の命を輝かせよう。
じゃあね、また明日。