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しょうばい繁盛チャンネル、望月まもるです。本日もよろしくお願い致します。
シャープ1474でですね、1474で健全不健全な自己愛と、こういうことについてお話ししましたけど、今日はね、また少し違ったね、説をね、お話ししようかなと思います。
あの、これ結構意外と被ってるところがあるんですけどね、ねえ、イマニュエルカントさんですね、は、あの義務や道徳ってことを徹底的に追求した哲学者の方なんですけどね、
ね、彼はですね、理性的自己愛という概念を提唱してるんですよ。で、これね、わがままとか快楽の追求としての自己愛とは一斉を隠す、関と哲学のね、独特の考え方でもあるんですけどね、
ああ、今日はですね、こんなお話したいのかなと思うんですけども、彼が言う自己愛はね、二つ大きく分けて考えてました。
一番目は感性的自己愛、情愛的自己愛といって、自分の欲望を満たして、不快を避けて快楽を得ようとする本能的な衝動反射ですね。
これはその時の気分や状況に左右される盲目的な自己愛と言われてますけども、個人的にこれは自己愛というよりは浄土的な自分の甘やかしではというふうには思うんですけどね。
で、二番目は理性的自己愛ですね。これ自愛。これは単なる目先の快楽ではなくて、理性に基づいて自分自身の人間としての尊厳を保ち、人格を完成させることを喜びとする自己愛だということなんですね。
だから健全不健全で言うとこっちが健全ですね。
カントは人間が理性的存在である以上ですね、単に本能に従うんではなくて、理性が命じる道徳法則、道徳ですね、これに従うことこそ真の価値があると考えたわけですね。
この道徳法則に従う自分を肯定して大切にすることが理性的自己愛の本質だとこういうふうに言うんですね。
カントの幸福論、幸福論を出してるんですけどね、重要なフレーズなんですよ。
道徳の目的は私たちが幸福になる方法を教えることではない。どうすれば幸福になる資格を持つもの、ふさわしいものになれるかを教えることにあると。
こういうんですね。だから幸福になる方法じゃないと。資格を持つものがふさわしいものなのよ。
だからカントさんに言わせれば、悪事を働いて手に入れた幸福には価値がないと。
だから我々がまず目指すべきは自分の欲望、要は一の感性ですね、感性的自己愛、反射ですね、これを理性の力で制御して義務を果たすことなんだよと。
なお、爬虫類脳のバイパスを立てて人間脳のバイパスを強めると、そういうことですわ。
しかしですね、人間は理性だけでなく肉体を持った存在ですから、義務ばかりでは疲弊しちゃうわけよね。
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だからそこでですね、道徳的に正しく生きている自分はそれ相応の幸福を受け取る資格が理にかなっているんだよと、こういう法則を信じて実践すると。
これが理性的自己愛を支える柱となっているわけですね。
だから資格があるよということなんだね。
なんとの倫理学にはですね、自分の意思の行動指針が常に同時に普遍的法則になるように行動せよという有名な一文があるんですけども、
これは言ってみればですね、ネイティブアメリカン、インディアンの方がですね、7代先のことを考えて1本の木を切るかどうか決めるみたいな、これにちょっと近いものがあるかなと思いますね。
理性的自己愛を持っている人はですね、自分の利益だけを考えて行動しないんですよ。
もし全員が自分と同じ行動を取ったら社会成立するかっていうね、この想像力を働かせるんですね。
例えば全人類が自分だけが楽をしたいってなったらこの世界成立しないですからね。
だから感性的自己愛というのは普遍化できないんですね。
自然の法則にならないんですね。
反ってないということなんですね。
ところが全人類が人間性を高めて誠実に生きることで自分を愛していこうというふうになったらどうでしょうかね。
自然環境とか、ちゃんと考えたりとか、ごみ水から片付けたりだとか、弱い人に手差し伸べたりだとか、自分もまた、他者もまた自分と同じ大切な人っていうですね、
こういう扱いをするようになった方が全人類に推奨した方がいい普遍的法則になりそうじゃないですか。
なので尊厳を持って自分と接して、希望を持って人間力とか人格磨いて自己成長を目指している人は結果としてそのまま自分以外の誰かも同じように扱えるものですから。
そういう人たちが増えればですね、要は優しさであふれるんじゃないかなって思いますよね。
だから現代はね、好きなことして生きようとか自分を甘やかそうみたいな、好きなことして生きようイコール自分を甘やかそうみたいな判断してるでしょね。
こういう風潮も強いですけども直上的だったりとか本能的な生き方がどうなんだと。
これがだからカントが警戒してた感性的自己愛、単なる欲望の充足っていうことになっちゃうわけですね。
だからね、そういう生き方にしてる人たちにですね、理性的自己愛っていうのはですね、この世に問いかけるわけですよ。
その選択は後で自分を嫌いにならない選択ですかと。未来の自分は後悔しないですかと。
その幸福は誰かを踏み台にして得たものではありませんか。卑怯ではありませんでした。そこに嘘なかったですかと。
こういうことなんですね。どう答えるんですかね。
後ろを見たくなったり聞こえないふりしたり自分は違うよとできてる顔をしてみたりとか。
放棄主論でいう偽りの領域の話と一緒なんよこれはね。
だから自分を理して義務を果たしたりとか、自分に胸を張れるように誠実に生きるとか。
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そうするとですね、結果的に自分自身への信頼を得られるわけですよね。誇らしく思えるわけですよ。
自分を裏切らないで誠実に生きているのをですね、近くにいる自分がですね、ずっと見てるからそうなんだね。
これを継続しているとドーパミンによる一時的な高揚感や贅沢や脅落でやられる一種の興奮ではなくて、
強くてですね、分厚くてですね、揺るぎない心の平安、これが手に入ると。
これこそ理性的自己愛の意義、目的、対価であるということなんですね。
この辺はいろいろなやっぱり宗教とかでも同じようなことね。
仏教とかでもやっぱり似てる部分っていうのがあるなと思うんですね。
ラストなんですけども、関東はですね、自分自身に対しても他者に対してもね、
人間を単なる手段としてではなくてですね、同時に目的として扱うようにと常にね、こういうふうに説いてるんですね。
自分に当てはめた場合、自分の何かの目的を達成するための道具、
例えばお金を稼ぐための機械とか、誰かに気に入られるための道具、こういうことにしないでですね、
唯一無二尊厳ある存在として丁寧に扱おうね、大切にしようねと、こういう意味なんですね。
これこそ理性的自己愛の極地なんですよ。
関東の理性的自己愛というのは、理性で自分を正しく導いてその歩みを自ら承認していこうと、
自己承認をしっかりと増やしていこうというですね、
自己愛形成、自己信頼を大きく育てる方法論でもあるんですね。
私は幸福になるにふさわしい生き方してるのかなって自分に問いかけて、
自分の人格を尊重して、時に利して、時に慈しみながら自分を育てていくと。
これがですね、関東が我々に示したですね、理性的で高潔な幸福への道筋なんですね。
この関東の哲学は一見やっぱり厳しめなんですよね。
でもその根底というのはやっぱり人間の気高さっていうね、ここへの深い信頼。
やっぱり人は誰しもが善性があるよと、理性的で誠実なはずなんだよというこの確信がですね、あるなというふうに思うわけですよね。
この冒頭でも話したね、シャープ1474での不健全な自己愛というタイトルでお話してましたけども、
あの時はね、関東の理性的自己愛いかがでした?
ここをもうちょっとね、この間の話をもうちょっと違った角度で掘り下げるような部分があったかなと思いますね。
先人、先人たちは後世の我々に深く考える時間を与えてくれるなってやっぱり思うわけですよね、関東さんもね。
だから彼らはね、後世の私たちにいつまでも刺激してくれる、今でも生きている素晴らしい命だなとこういうふうにも感じるわけですということで、
本日も最後まで聞いていただき誠にありがとうございます。
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さあ、今日も自分を誠実に育てていこうじゃないですかということで、また明日。バイバイ。