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#1739 宗教要りますか?
2026-10-06 23:49

#1739 宗教要りますか?

#1739 宗教要りますか?

宗教とは何でしょうか?
人間はなぜ権威に従うのでしょう?
真の自己認識とはどういった事でしょう?

先日、私は何故宗教が戦争や略奪、魔女狩りを行ったり、日本でも同じ仏教なのに宗派に分かれながら、ブッダの教えを違う解釈をし、好き勝手なことを言ってるのか?各信者さん達は従ってるのか?などに疑問を持ち、調べてました。

そして調べる中、キリスト教グノーシス主義やトマス福音書の内容と主流の大きな違い、また世界各宗教も同様の構造であること、日本の神社仏閣との向き合い方のルーツに至るまで調べ、考え、「あぁやはりそこに繋がるのか」というひと筋を見つけました。

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サマリー

宗教が戦争や迫害、植民地支配などに関わってきた歴史を振り返り、権威・聖職者・民衆という構造が恐怖や無知、同調圧力によって維持されたという見方を示す。キリスト教グノーシス主義とナグ・ハマディ文書、トマスの福音書を取り上げ、外部の権威ではなく自己の内側にある神や自己認識を重視する思想を説明する。日本の寺院制度や禅にも触れ、宗教には権威主義的な側面と本質を直接探究する側面があると論じる。宗教が人の弱さを組織維持に利用した可能性を批判しつつ、信仰が生きる希望や幸福を与える面は否定しないと結んでいる。

宗教と権威への疑問
笑倍繁盛チャンネル、望月まもるです。 本日もよろしくお願いします。
今日のお話はですね、ちょっとね過激に聞こえるかもしれないんですけどもね、なんかね、いろいろと調べていくとですね、これどうなんだろうって思うことって、まあまああるんですよね。
これがまた気の臭かったりだとかですね、人の都合だよなと思えるようなこともね、多々ございましてですね。
だからちょっといろいろと掘り返しながらですね、お話ししたいと思うのよ。宗教って何なのかなと思うんですね。
人は何でね、権威に従うのかなとか、真の自己認識とはどういうことなのかとか。
先日ね、私はですね、なぜ宗教が戦争とか略奪とか、魔女狩りとか行ったのかと。
日本でもさ、同じ仏教なのにね、宗派に分かれながらですね、仏陀の教え違う解釈して好きかって言ってんのかとかですね。
それからあと、廃仏希釈の問題もありましたしね。
各信者さんたち別にいいんですけども、何で従ってんだって。いろいろと疑問を持ってですね、調べてみたんですよ。
調べる中でですね、キリスト教の具能主主義とかね、トマスの副音書とかね、これと主流で言われていることの大きな違いであったりとか、また世界である各宗教も同様の構造であるとか。
日本の謝辞仏教とのですね、向き合い方のルーツとか、こういうところまでですね、見てですね、最後はやっぱりそこにつながるのかというですね、ところにですね、行ったわけですけどね。
ちょっと長いんですけどね、今日明日でお付き合いしていただければなと思うんですね。
キリスト教の迫害と権力構造
まずですね、キリスト教なんですけども、歴史を時系列で遡るとですね、例えば十字軍の遠征、1995年から1291年なんですけども、
イスラム教徒だとかユダヤ教徒がエルサレムでですね、大量虐殺されてですね、第4回十字軍で同じキリスト教都市のね、コンスタンチノープルとかも虐殺されたわけですね。
1231年に制度化された異端のね、異端狩りみたいな、これは拷問と火あぶりをやってるわけですけども、とにかくスペインではですね、これもう過剰だったわけですね。
で、この流れってのは16、17世紀ですね、魔女狩りになるわけですよ。
で、推定4万から10万人処刑されたって言うんですね。
で、これはもうカトリックだけじゃなくてですね、ルタ派とかカルバン派などかね、もう参加してですね、やったわけですよ。
で、植民地時代はさ、北米南米とかですね、新大陸に住む先住民のさ、に対してね、彼らが土着で信仰してる宗教を無理やり回収させたりですね、虐殺したりね、金とかね、宝石を強奪したりとね、土地奪ったりしてるのよ。
で、またね、聖書を根拠に黒人奴隷制が正当化されてるんですよ。黒人の奴隷制っていうのは聖書が根拠っすよ。
現代だってさ、カトリック聖職者による組織的な自動性的虐待やってたりとか、これ世界規模で発覚してますからね。
で、もうカナダかなんかの教会で、教会の地下からもう伸び正しい数の子供の骨が発見されたとか、で、こういうのもね、教会はですね、長年にわたって隠蔽してきたんですね。
これはだから、悪魔のような行い、キリスト教でしょ、悪魔じゃんっつってね、犠牲者とエグイすからね。
で、この先ほど言った児童に対する子供に対する性的虐待はですね、アイルランドとかアメリカとかオーストラリアとかドイツとか、もう全世界で数万件以上報告されてるということだから、これあれだろうね、氷山の一角だろうね。
で、しかもマチカンとか教会組織が長年にわたって隠蔽してるわけですよ。
隠すわけだ。
で、カトリックとかプロテスタント、1930年から40年代、ドイツの多くの教会がさ、ナチズムに対してですよ、反対してたのかっつーと沈黙してた。
協力してたんですからね。
だからどういうことだっていうことですね。
カナダとかオーストラリアでさ、寄宿学校問題っていうのがあるんですね。
19から20世紀なんですけども、これキリスト教系の教会が運営したですね、先住民の子供たちの強制的な寄宿学校なんですけどね。
ここに回収させるためとかね、そういうことなんですけども、そこでは虐待とか死亡とか文化が消滅したということなんですね。
キリスト教は何にしてきたんだろうなって。
何なんだって、イエスキリストはこれ望んだのかというふうに思うわけですよね。
で、これね、調べてたらですね、意外とシンプルだったな、構造はっていう感じなんですよ。
それはね、神様は絶対的経緯にしちゃってですね。
で、聖職者ですね、間に入っている司祭だとかが代理人なんですよ。
で、民衆は服従するというふうになってるんですね。
でね、神の意思っていうのは反論不可能というですね、こういう構造になってるんですね。
でも神様は直接話しませんからね。
じゃあどうするんだと言うと、この代理人である聖職者がですね、神様の意思だよって。
これがね、神様はこう言ってるよって言いたい放題やりたい放題してるとできてきたということなんですね。
これは何でかと言うと字が読めなかったからよ。
式辞率が低かったでしょう、昔は。だからということが大きかったんですよ。
これは宗教って呼べるのかっていう話なんだよね。
で、あとはやっぱり一貫した権力構造っていうのがですね、ずっとあるなと。
例えば十字軍の実態何かと言うと、土地と富の獲得ですね。
政治的な覇権争いですね。
一貫神門はですね、別の宗教だとかわけわからないこと言ってるみたいな、財産没収ですよ。
それからあとは一貫ですからね、自分の敵を排除するってことですよ。
思想を統制するってことですね。
魔女狩りはスケープゴートと土地の集脱だとかやっぱり財産の没収ですね。
植民地での布教っていうのもその土地の征服とか支配を正当化するということですね。
奴隷制はですね、経済的利益をですね、神の名のもとの機弁で進めたものだということなんですね。
動機はですね、何かと言うと、でっかい煩悩と執着と暴力じゃないですか。
すごい世俗的だなと、俗だなと思うわけですね。
およそ宗教とは言い難い真逆のものなんですよね。
だから宗教はこれらの隠れ身のということは、隠れてないですけどね。
このようにですね、絶対的正義を持つ権威はですね、
なんでこんな傍若無人で残忍なことを堂々と起こるなってきたのに今でも存続してるんだって話なんですよ。
恐怖・無知・同調圧力で従わせる仕組み
これが悲しいかな。思考を停止した集団の存在ってことですね。
民衆が従ったんですよ。
なんでこんな従ったのって悪業ざんまいしてる教会なんだけど。
まずは恐怖なんですよね。
逆らえば異端とか魔女として告発されて、財産募集されて、処刑される可能性があったわけでしょ。
家族も巻き込まれる可能性もあったよね。
だからその当時は沈黙は生きるための手段で疑問とかね、
自分がね、なんかね意見があっても口にすること自体がですね、命がけだったということですね。
2番目は無知なんですね。
これ先ほど言いましたね。識字率の問題ですね。
そもそも聖書というのはラテン語で書かれてから一般庶民には読めないんですよ。
でもこれは偶然じゃなくてですね、教会が意図的に神の意思の解釈をする権利、これをですね、独占するためにあえてやってたという説があるんですね。
だから聖職者という名前の神の代理人の起源一つ、解釈一つですね。
神社さんたちに伝えて、嘘だろうが適当だろうが信じ込ませることができたわけですよ。
もし疑問を感じたとしても、神社さんは反論できないんですよ。
怖いし、言語も知識も概念も与えられてないからということですね。
あとは次、同調圧力ですね。
さらにね、村とか地域ってここなんですよね。
個人が異論を唱えるとですね、その地域社会においてですね、死を意味するわけですよ。
だってもう村ごと焼かれるかもしれないみたいなことになるわけだもんね。
だからこういう真理もですね、匠に利用されてたということですね。
で、あとはお金ですわ。
結局報酬とか利益ですね。
いろんな人をですね、キーマンをこっちに来たね、帰国家に取り込んだりもしてたと。
異論を唱える者とか境界に不利になる人たちをですね、
異端者とか魔女とかとして密告したらですね、
募集した財産の一部をもらえる仕組みもあったみたいですね。
だから民衆を被害者であると同時に加害者の側に引き込むと、これでシステムが稼働してるんですね。
これ統合するとさ、民衆はですね、単純に騙されたんじゃなくて、
従わざるを得ない仕組み、システムの中に入れられてたという側面もあったんよね。
好きでそうなったわけじゃないんですよ。
恐怖、無知、不安、お金、依存。
これもう最も俗な自我というやつですね。
この辺が組み合わせちゃうと悲しいかな、人の良心とか理性というのがですね、
ほとんど無力化されていくということですね。
これは中世の話じゃなくて、条件が揃えば現代にも起こり得るということを歴史は教えてくれてんだよというところなんですね。
グノーシス主義とナグ・ハマディ文書
このようにですね、権威主義的な主流と対極に位置したのがですね、
これ明日ちょっと詳しく話しようと思うんですけど、キリスト教の具能質主義ってやつですね。
具能質派はですね、神の知識は外部の権威、
例えばキリストとかではなくですね、自分の内側にあるよと、私の中に神はいるよと、こういう立場ですね、スタンスを取っていたわけですよ。
これしっくりくるね。
これはだから聖職者という仲介者を不要とするわけですね。
個人が直接神様とつながることが可能だという思想なんですね。
というか私が神なんだから、その神と直接つながり、自覚をしろということですからね。
あんなのは当時の権力にとってですね、脅威邪魔ですよね。
なのでどうなったかというと、2から3世紀ぐらいにはですね、この思想的な抹殺というものが行われたらしいんですよね。
325年ですよ。まだ本当にね、早い頃にですね、具能質派の文書は所持するだけで危険だよと言ったんですよね。
こういう認定されてですね、橋に追いやられたんですね。
この時はですね、もうやっぱりこのエジプトの修道士たちはですね、
具能質派の修道士たちは身の危険を感じてですね、大切な文書を壺に収めて砂漠に埋めたんですよ。
これがですね、1945年に発見されたんです。
これはナグハマディ文書って言うんですけどね。
この貴重な文献はですね、約1600年間ですよ。
砂の中で生き延びたんですよ。
この生き延びたというところが何か一つの必然を感じませんかって僕は思うわけですね。
この具能質主義なんですけども、結局ですね、この300年ぐらいから始まってですね、
12から13世紀にですね、事実上もう壊滅されたという風になって、
だからもうこの時に思って権威的な主流はキリスト教のね、本流になっちゃったということなんですね。
だからもう千年かけてもう徹底的に迫害されたということなんですよ。
まあこれは理由が明確で、神様はあなたの外じゃなくてうちにあるよと、
これはもう聖職者とか教会とか儀式とか権威のすべてをですね、不要にしちゃうでしょ。
だから根本を覆しちゃうんですよ。
だから自分らにとっての恐怖、脅威だったんですね。
だからこの権力構造、権力機構っていうものがもう存在してますから、
その意義をですね、真っ向から否定するわけなんで、
だからこんだけね、千年かけて必要に徹底的に排除され続けたという風に言われてるんですね。
だからこの必要に、先ほど言ったこの1945年に見つかった砂漠の中で見つかった長浜理文書はね、
この具能主義の文書や文献というのがですね、それまで確認できなかったんですよ。
だからそんだけもう徹底的に消されてたということなんですよね。
でね、この長浜理文書をですね、司会文書とも言われてますけども、
これはですね、コプト語っていうので書かれてて、書かれたのは1世紀の後半から2世紀初頭と推定されているわけですね。
だから制定福音書とですね、ほぼ同い時期とか一部はそれより古いという風にも言われてるんですね。
でも通常の要は、いわゆる今ね、留守されている福音書と根本的に異なるトマスの福音書なわけですね。
その福音書はですね、イエスの生涯だとか奇跡とか受難とか復活なんていうものが一切書かれてないと。
でもですよ、これちょっと面白いんですけども、そのすべてはイエスキリストの言葉だけが羅列された語録のみで構成されてたというわけですよ。
厳密に言うとさ、ヨハネの福音書もキリストの言葉だと言われてるけども、内容真逆なわけですね。
だってね、自らの中に神がいるなんて言葉はないわけだからね。
だからトマス文書の冒頭にはですね、これらはいけるイエスが語り、ジュジューモスユダトマスが書き記した秘められた言葉であるっていうからなんですね。
これはね、イエスが何をしたかって話じゃないですよ。
イエスは何を言ったかと、これを記録した文書ということですね。
しかもこれはね、万人向けの公開文書じゃなくて、自分のまたさイエスのように内側をちゃんと内的探求するための文書、マニュアルとか手引きとして位置づけられてたものなんですね。
ヨハネの福音書なんですけどね、これもキリストの言葉だっていうふうに主張するんですけども、
こちらの方はね、神様はですね、私私私ってやたら自己主張してるんですね。
この言葉としてですね、言葉の使い方というものがですね、まずどうなんだっていうところがあるわけですよね。
このですね、気づいてない状態とかっていうのはですね、これは盲目だとか貧困とか暗闇だとか、そういうことなわけですよね。
で、目覚めた状態は光とか富とかね、生きるとかね、王国って、トマスの福音書はですね、こんなふうな言葉の違い、表現をしてるんですよね。
自己認識による救済と宗教の本質
でね、思うんだけども、1600年間砂漠に埋められてたこの文書かよ、1945年でまあだいぶ前ですけども、発見されたのは単なる偶然なのかということですね。
僕はやっぱ必然じゃないかというふうに思うわけですね。なぜならば聖書では神は再び再臨するって言われてるんですけども、してるわけですよ。
だからトマスの福音書が真実だって知ったらですね、現在のこのキリスト教信者たちはどうなんだろうというふうにも思うわけよね。
まあ人はそれまで熱心にやってきたことを信じ込んで、逆のことを信じようとしないね、心の防衛規制、合理化とか参加コスト効果とかがあるんで、なかなか難しいんですけども、
で、この文書がね、だから現代に与えた衝撃ってのがめちゃめちゃ大きくてですね、多くの研究者や哲学者がですね、ユング心理学とか禅、仏教の禅ね、
ベータ哲学ですね、インドのね、こういうところの類似性を指摘してるんですね。特にやっぱり自己認識イコール救済ですね、自己救済ですね。
自分を認識することが自分を救うことだっていうね、これはですね、結構一致してるわけですね。
だからこのね、自らのこれまでをですね、劇的に転換させるのは儀式とか告白とか聖職してるわけないですよ。ただ自分の本質を直接認識することなんだっていうことをですね、このトマスの福音書は一貫して語ってるということですね。
ここのね、あの経緯主義的な主流とね、グノーシス的なですね、この本質的な宗派はですね、キリスト教に限らないんですね。どんな宗教にもですね、経緯と本質でですね、実は分かれてたんですよ。
ユダヤ教もイスラム教もですね、ヒンドゥ教もですね、仏教なんかもですね、そうなんですよね。仏教なんかは厳格な戒律を遵守するとね、それからね、三がですね、お坊さんの集団のですね、規律を維持っていうですね、日本のお寺制度をですね、経緯主義化するとね。
例えば日本はこの制度によってですね、すべての庶民はいずれかの寺院の団家と誘われてたんですよね。これによってですね、お寺っていうのは幕府の支配体制の一部に組み込まれたんですよ。
で、住民を管理するすごい大きな権威と権力を持つようになったんですね。団家さんは寺院にですね、お寺にですね、葬儀や供養を独占的に委ねてですね、奥政とか経済的支援を行う義務を負ったわけですね。
で、一度登録されると改修ですね、他の宗家に行くのが困難で、事実上そのお寺に拘束される仕組みだったわけですね。
というこれらに対して、例えば禅ですね、禅寺ですね。これ不流文字。
真理は文字や言葉では表現できず、師から弟子へと心で伝える一心伝心。心で伝えるものであると。こういうのが根本的な考え方なんですね。
あとは直視忍心というですね、直視忍心ですね。直、指、人、心ですね。これは修行している人自身の本来の心ですね。
これは仏性とか本性と言われているものですね。心我でしょうね。これを直接見つめて悟りを開くことを目指す禅の根本思想なんですね。
で、経典とか儀式とか権威を全て超えた直接体験、要は体験ですね。体験と境地ですね。これを重視したわけですね。
この中でなかなか過激なものに仏にあったら仏を殺せって言葉があるんですけども、それはですね、権威への依存そのものを断ち切るという姿勢ですね。
悟りの瞑想中に現れるのがブッダであっても耳を傾けないでちゃんと進めろと、そういう意味なんですね。
だから、自分にちゃんと向き合い、自分の中に入り込み、自分の内側のみなんだよと悟りなんていうのはね、っていうことを言ってたわけですよ。
宗教の功罪をどう考えるか
こんな感じでですね、結局ですね、人の弱点っていうのを各宗教はですね、権威的主義っていうのは人間の弱点ですね。
恐怖、欲望、怠惰、執着、煩悩、無知、依存を正確に把握した上で、信者が持つそれらの苦しみなわけですね。
これを解消するんではなくて、自分たちの組織を維持、強化するためにですね、強くするために活用してきたんですね。
例えば、恐怖には従わなければ地獄とか罰とか破門があるよって言うし、怠惰には考えなくていいよって、従えばいいよって言って。
執着には救済とか永遠の命約束するって言えばいいし、特に永遠だから、無知とか依存にはですね、聖典の解釈は我々に任せて祈りなさいって言ってきたわけですね。
だから、こういったですね、いろんな側面というかですね、背景だとかね、歴史紐解いていくとですね、うーんって思っちゃうわけですね。
なので、本来は本質的にというか、この世のですね、やっぱり法則的にはどうなのかっていう、ここから何かこの宗教というものを考えてみるとですね、実はそれどうなの?みたいなところっていうのが結構出てくるかなと思います。
で、僕はですね、だからちょっと今回調べた結果ですね、これどうなんだろうっていうふうに感じましたけども、またね、別の意見、例えばそれがね、生きる希望になったんだよとかね、信じることでね、すごく幸せに生きていくことができたんだよとか、これもちろんね、こういう側面もあったりするんで、そこはなんか僕はですね、そこはそこで否定はしません。
ただ、やっぱり口座があるなということぐらいはですね、なんかそういう価値観になっておきたいなとも思うし、いずれにしてもなんか偏っちゃったりするのもどうなのかなということで、一つちょっと違ったね、見え方、見せ方ということで、今日はですね、僕はちょっと調べたお話をしてみました。
これまだまだあるんですけどね、このぐらいにしとこうかなと思います。ということで、本日も最後まで聞いていただき誠にありがとうございます。また明日お会いしましょう。それではバイバーイ。
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