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笑倍繁盛チャンネル、望月まもるです。本日もよろしくお願いいたします。
群衆に属する個人は、理性を失い、感情的、衝動的になり、個々の判断力や責任感が希薄になる、集団的無意識が生じる。
ギュスターブ・ルポン。この人ね、フランスの医師、心理学者、社会学者、物理学者の方なんですけども、
彼はですね、群衆心理の危険性と、操作される可能性を指摘するということですね。
ナチスドイツの成立の解説にも引用される群衆心理なんですけども、
現代人がですね、いかにテレビの一方的なプロパガンダによって、正しい自己決定権を失っているか、ということですね。
これ、今回のコロナ騒動なんかにも現れてるなと思うわけですよね。
今日はね、彼の著書からピックアップした、もうちょっとだけですよ、ちょっとだけピックアップした部分をお届けしようかなと思っております。
まず最初ね、群衆はほとんど無意識に支配されていると、その行為によって脳の作用よりも脊髄の作用を受けると言うんですね。
追考された行為は、その出来栄えから言えば完全な場合もあるけれども、脳ではなく脊髄反射しちゃうので、
個人は外部からの刺激の働きに任せて行動する、だから考えて行動しなくなっちゃうということだね。
そして下界のあらゆる刺激に翻弄される群衆は、その普段ですね、要は立つことのない変化を反映して、
もうずっと受け続けた衝動の奴隷となります。
で、群衆ではなく単独の個人も同じ刺激に身を任せるようになってくると。
だから群衆の従ういろいろな衝動というのはですね、刺激次第で寛大になったり残酷になったり、憂鬱になったり臆病にもなるのですということなんですね。
だからこれ脊髄反射ってことは考えずに行動しちゃうことなんで、思考しないとかね、感情や本能に流されてしまうと、これを危惧しているわけですね。
だからもう今、SNSだ、ネットだ、スマホだなんていう、いっぱい出てきますから、特に顕著だなというふうにも感じますね。
で、お次、群衆に暗示を与える刺激は多種多様であり、極度に動揺しやすいものです。
だから群衆は常にそれに従うのです。
群衆は容易に死刑執行人ともなるけれども、容易に殉職者ともなります。
群衆に属すると、いかなる主義にも偏らず中立的な立場を取る人であっても、多くの場合、何かを期待して注意の集中状態にあるため、暗示にはかかりやすいのです。
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一度暗示にかかると、観戦によって即座にあらゆる頭脳に刻み込まれ、即座に感情の転換を起こすのです。
群衆は絶えず無意識の境地をさまよい、あらゆる暗示に従います。
彼らは皆、理性の力が乏しい人々に特有な激しい感情、不安、恐怖、怒り、悲しみとか、こういったものに書き付けられます。
批判精神を書いているので、落ち着いて考えれば誰でもわかるような嘘でも、極度に信じやすい性質を示すのです。
群衆にとっては、およそ真実らしくないと考えられるものなどは存在しないのです。
世にも後頭無形な伝説や説話がどんなに容易に生み出されて復旧されるかを理解するには、このことを常に意識しておくといいでしょう。
結局、このバカバカしい話が何で信じられるのだという、そういうようなことですね。
この辺は心理操作とか思考誘導とか、集団心理学、社会心理学で研究され尽くされて、実行されているわけですよ。
そのうちお話ししますけど、マスコミは特に人の持つ恐怖とか不安を刺激しながら、どう切り取るかとか、どうピックアップするかとか、こういうので暗示にかけてくるんですね。
だから、その情報全般、疑ってかかるっていうのは、これはそうなんですけども、ある程度の、僕は疑ってかかるというよりは、ある程度距離を置いて理性的に扱うっていうことが必要なんじゃないかなというふうに思いますね。
で、お次、群衆の表す感情は絶妙なニュアンス、違い、違いのニュアンスに気付かず、物事を大まかに見てしまうので、
その目的が何か、なぜこうなっているかなどの推移の過程を知らないし、知ろうともしません。
なぜなら、群衆の感情は単純で誇張的、オーバーってことね、極端なので、疑問も持たずにすぐさま極端から極端に走るからです。
また、疑いを口にする者がいても、脊髄反射で異論の余地もない状況にしてしまうのは、群衆の誇張癖が感情無味に左右して、少しも知能や理性には作用しないからなのです。
このように、個人が群衆に加わった瞬間から、その知的水準は著しく低下するので、暗示された意見や思想進行は大雑把に受け入れられるか拒否されるかの二択です。
白黒ってことですね。
そして、それらは絶対的な真理とみなされるか、これまた絶対的な大間違いとみなされるかのどちらかでもあるのです。
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これが二極思考で対立を生み出すということですね。
しかし、群衆は真理あるいは大間違いと信じることには、何らかの疑いも持たずに突き進んでしまう。
だからそうなると偏狭を偏って狭い、偏狭かつ横暴でもあるのです。
個人ならば筋が通った返答や難しくてややこしいディベートを受け入れられますけども、群衆はそれらに応えられないのです。
これだから感情優位ですね。感情優位だと知性が劣ってしまう、精神力が劣ってしまうと。
こういうふうに言われるゆえんかななんていうふうにも思いますね。
だから群衆イコールみんなと一緒で安心ということでしょう。
これは防衛本能ではあるんですけども、それが先ほども言ったように同時に思考力を手放しながら極端な二極論とか白黒思考ってこういうことになるんだなと。
盲目的にそうなっていくということですね。暗示ですからね。暗示をかけられているわけですから。
そういうふうなことを意味しているのでしょうねということですね。
支配する上で手っ取り早いのは民衆同士を戦わせるのが一番いいというこういう支配構造があるわけです。
自分に目を向けられないですからね。
管理している側とかこれを仕掛けている側には目を向きませんから。
だから民衆同士でですね、群衆同士で対立させるのが一番手っ取り早いんだなっていうね。
そういう社会心理学のお話もありますからね。
だからやっぱり引いて冷静に魅力ってことが大事でしょうね。
次、群衆の奴隷根性ってやつですけどね。
群衆は弱い権力には常に反抗しようとしますが、強い権力の前では卑屈に屈服するものです。
権力の作用が一定感覚であるときは強く、またあるときは弱く働くと、
その極端な感情のままに従う群衆は無政府状態から連続、要は奴隷ですね、状態に。
連続状態から無政府状態へと交互に移行すると。
なので群衆の反抗心、破壊心は感情的なものなので常に一時的だと。
群衆はあまりにも無意識に支配されているので、これに従い続け、
何百年も受け継がれてきた影響を極度に受けているため、極端で保守的な態度を示さざるを得ないのですと。
また群衆はそのまま放置、放任されていても、やがて自分の中で混乱状態が起きて、それにまた飽きて、
本能的に連続状態、奴隷になる方向に自ら赴くのですと。
奴隷に対してあなたは奴隷だよとすごく抵抗するのは、ずぼしをつかれているからなんですね。
無意識のうちに奴隷になっていると、どうなるかというと奴隷であることに安心感を抱くので、
やめられないんですよね。
プライドは傷つくんだけどやめられないというやつですね。
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権力者はこの辺をよく理解しているから、
太古の昔から今に至るまで群衆をコントロールできるんでしょうねということなんですね。
そうは言っても、自由を求めれば求めるほど、自分の不自由さも色濃くなるものなんですよ。
だから私も個人的にも、自ら好んで群衆の中に入るのは危険だなというふうに常々思っていました。
そこにいれば安心だとか、みんなと同じなら大丈夫だとか、
こうなっちゃうと考えることをしなくなるし、
姿勢としてもいずれ自分をなくしていっちゃうんだろうなという危険性を感じていたからなんですね。
とはいえ、私だって数多くの人と接して、ある意味では群衆の中の一員でもありますから、
無意識のうちに偏りながらもそれを正解としているでしょうし、
それ自体、自我とか個性というふうに思い込んでいるのかなというふうに思うわけですよ。
だからそうですけど、こうした先人が得意一説を読みながら、私自身も自問自答してるわけですよ。
偏ってんなつって思うわけですよ。
ということで、本日も最後まで聞いていただき、誠にありがとうございました。
今日の一説ですけどね、群衆というところなんですけども、
あなたはどんなことを感じましたか?ということで、また明日お楽しみにしてください。
じゃあね、バイバイ。