サウナでの体験
こんにちは、英語指導メンタリストのはじめ先生です。
このチャンネルでは、思考を変えることによって、英語力と人生を劇的に好転させる秘訣についてお伝えしています。
今日のテーマは、またまたサウナで悟ってしまった人間の本質、というお話です。
まず、告知です。
昨日、3月11日午前10時からのオンラインイベントが終わりまして、
今日、3月12日夜8時から、スピリチュアルエキスポというイベントで、またまた意気についてお話をいたします。
昨日とテーマ的には同じになるのですが、扱うテーマは、
運命の流れを読み解き、直感力と判断力を磨く、成功に導く開運・疫病活用法というお話です。
昨日は何せ、昼間だったので参加できない方も多かったと思うのですが、
今日は夜20時からとなります。
また、僕は後半の登場となりますので、少し遅い時間になると思いますが、
もしご都合つくようでしたら、今からでも間に合いますので、概要欄のURLからお申し込みをして、ぜひご参加ください。
というわけで、今日のお話ですが、仕事が早めに終わったので、またまたサウナに行ってきました。
サウナの流儀というのは、経験している人ならわかると思いますが、
サウナに入って、水風呂に入って、外で休憩して、またサウナに入って、水風呂に入って休憩して、
それを何巡化するのですが、それをして、整うみたいになるわけですよね。
整うみたいなのは、サウナ道というドラマがあって、ネプチューンのタイゾーさんが主人公なんですが、
そのドラマの影響で整うみたいな言葉も流行ったし、サウナ自体もブームになったというのもあるわけです。
これを本当に何度かやっていくと、だんだんメンタル的にほぐれてくるんですよね。
本当に僕はサウナって大好きなんですけど。
今日は、外で休んでいるときに、何となく目を閉じていたんですよね。
そしたら、露天風呂があって、そこにお湯がジャージャージャージャーと出ているわけですよ。
自己認識についての考察
その水音がザーッとしているんですよね。
その水音に耳を傾けていたときに、フッと自分が完全になくなるというか、自分の存在が消えていくような感覚に襲われたんですよね。
肉体はあるんですよ。風が吹くと冷たい感覚はするんだけど、それしかないというのがある。
いろんな思考もなくなって、感覚しかなくて、風の感覚しか今ここに存在していないみたいな感じになったときに、
この瞬間って何も他にないなと思ったんですよね。
仕事のこともないし、過去のこともないし、現在のこともないし、
その前に記憶喪失になったらどうなるみたいな話をしたんですけど、それに何かある種近い感覚を覚えたんですよね。
この露天サウナですから、すっぱだかなんですけど、すっぱだかで椅子に座っているこの自分というのには何もないわけですよね。
ただ肉体があって、思考も空っぽになっていると何もなくて、この瞬間、体は生命体として生きているんだけど、
例えば同じことを隣で、例えば王様がすっぱだかでいても、ただのオッサンが裸でいるだけですよね。
逆に社会的に違う立場の人が同じように裸でぼーっとしていても、それも同じ時間なんですよね。
これね、すごく面白いなと思ったんですよね。
こうやってすっぱだかでいると、いろんなものを所有しているとか、自分は何者であるというのが、
自分の中でそう定義しているからに過ぎないというようなことがありありと分かったというか、
自分がこうだって決めているとか、あるいはそうなんだと思っているからそういう自分でいる。
アイデンティティもそうだし、例えば自分の経済状態とかもそうだし、自分という人間はこうだという定義も、
結局それも自分が作り上げてきた、様々な状況で作り上げてきたものに過ぎないんだというのがめちゃめちゃありあり分かったんですよ。
あっ、そういうことなんだねっていう。
この瞬間って全くゼロだと思ったんですよね。
つい何回か前の放送で、デビ夫人みたいに自分のありたい姿を描いてそれを選択していけばいいみたいな話をしたんですけど、
改めてそれが結局人間のあり方ってそれなんだなって思ったんですよね。
同じ肉体を持って生まれていると同じ時間は与えられている。
肉体の状況っていうのは若い人もいればお年寄りもいるわけで、それは物理的に違うんだけど、
ただ座って風を感じている時っていうのは、自分が風のことしか考えていなくて、
体の調子がどうだとかっていうのが何も感じられない状況だったんですよね。
まあ心地よさはあったんですけど。
そうなった時にやっぱり人間ってめちゃめちゃ自由なんだなっていうのに気がついたんですよね。
これなんかすごいね、サウナで本当に悟ったみたいな感覚があったんですけれども、
老子の思想と自由
まあなんとも不思議な感覚でしたね。
その時にね、すごくちっちゃい時にね、夜寝てる時に天井を見ながら考えたんですよね。
なんか自分が生きてるってことがすごく不思議だなと思ったんですよ。
この生きてるって何だろう、生きてるって何だろうって考えてる自分って何だろうとかね、
ちっちゃい頃そう思ったことないですかね、皆さん。
なんかね、すごく不思議に思ったんですよね。
この私という存在は一体何なのって、私という存在は何なのって考えてるこの言語って何だろうとかね、
生きてるって何だろうとかね、いうことをすごくね、めちゃめちゃ不思議に思って。
生きてるってことはそのうちいつか死ぬんだなと思ったら急に怖くなってですね、
なんかめちゃめちゃ怖くなって、なんか泣きたい気分になってですね、
お母さん死にたくないよーとか言って、
本当にちっちゃかったんでね、そういう泣いた覚えがあるんだけど、
あの時にもすごく不思議な感じがしたんですよね。
普通にこうやって大人になってしまうと、こうやって生きてることが当たり前になるし、
日々のことが当たり前になって、こういうふうに自分が存在していることも当たり前だと思ってるんですけど、
考えてみるとね、なんか面白いと思いません?
何だろうね、この私たち生きてるって言葉って、思いませんかね。
肉体というものを持って、そして日本人に生まれてきて日本語を喋っていて、
頭の中で日本語でいろいろ考えているっていう、
肉体とは関係なく考えているという主体があってですね、
面白いですよね、何に着地するのかわからない話なんだけど、
そうやって考えていくとね、日々いろんないろんなことがありますよね、問題とかも。
本当に雑多なことを頭の中でいろいろ考えているんですけど、
なんかね、それが一回すっからかんになったような感じがすごいしたんですよね。
面白かったんですね、今日の経験は。
なんていうのか、めちゃめちゃそぎ落としていってもいいんだろうなって思ったっていうんですけどね。
僕、中国の思想家の中でも老子がすごく好きなんですよね。
老子ってわかりますかね、老人の老に子供の子って書く。
老子の思想というのがすごく好きで、
すごい簡単に言うと無為自然っていう、何もしない、そして自然ありのままで生きるみたいな思想なんですけれども、
本当にミニマリズムというか、引き算の哲学というか、
とかくね、我々プラスプラスにしていくじゃないですか、
何か自分に身につけよう、身につけよう、何かを得ていこう、得ていこうみたいな感じがするんですけど、
老子の思想って、いろいろ増やせば増やしただけで悩み事も増えるよねみたいなところもあって、
できるだけ削ぎ落としてもっとシンプルに楽にいきましょうよみたいな感じの思想なんですよね。
もともと僕がそんなにマメな人間じゃないっていうのもあって、好きなのかもしれないんですけど。
でも今日の体験で、改めて自分をめちゃめちゃ削ぎ落としていくっていうのも面白いなって思ったんですよね。
削ぎ落としていった時に、初めて冷静に自己対話ができるんじゃないかなっていう感じがしたんですよね。
すっぱらかになって何も考えない状態みたいなところで、ゼロベース、過去も未来もないっていう、
囚われない状態になった時の思考の自由さみたいなもの、感情の自由さみたいなものっていうのを一瞬感じることができてね。
一瞬悟ったぞみたいな感じがしたよという学びがあるのかないのかわからない話ですけれども、そんなことを感じました。
ということで、今日のお話聞いていただいてありがとうございました。
よかったらコメントなどいただければと思います。
OK, thank you for listening and have a great day.