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  2. #441 べき&たい
2022-03-03 09:04

#441 べき&たい

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人権を有するかぎり、いつだってべきもたいも共存しているのだ。


脳内議事録】 noteマガジン、認識の解像度を上げるための思索の旅の記録です。エッセイ、音声、音楽などさまざまなかたちで頭の中を晒しています。 サイコパスのラジオ、前シーズン以前のエピソード(Podcast上にないエピソード)はすべてこちらでお聴きいただくことができます。

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皆さんこんばんは、上水優輝でございます。 サイコパスのラジオ、ぜひ最後までお付き合いください。
今日は、べき&たいというお話をしたいと思っています。
よくですね、やるべきこととやりたいことみたいな対比でお話をされている方が多いなと思うんですよね。
やるべきだとか、もっと言うとしなければならないぐらいに思いすぎていて、
やりたいこととかが見えなくなっているとか、しなければならないこと、やるべきことで生活を埋め尽くして心がいっぱいいっぱいになっている人がいるみたいな話を聞きますよね。
実際に思い浮かべてみても、やるべきってとらわれてたな、やりたいことをもっとやろう、みたいなふうに考える方っていらっしゃると思うんですけども、
僕も昔そんなふうに考えてたんですけど、このべきとたいは、どこまで考えても入れ子構造というか、混在しているような気がするんですよね。
例えばべきっていくと、よくあるべき、よくある思い込みとしては、働くべきだと思っている人って結構いる。
もっと言うと、生活できる分稼ぐべきだ、みたいな意味で働くべきだって言ってる人がよくいると。
でもこれもよく考えると、例えば家族がお金持ってたら別に親のすねかじるとか、家族に働いてもらえればいいというか、
自分が働かなきゃいけないのかっていうと、そうでもない可能性があるんですよね。
親のすねかじるという可能性もあれば、何なら顔の見える人からお金をもらうのはちょっと苦しければ、顔の見えない、もっと中小的な国から文化的な最低限度の生活を送らせてもらうということもできるんじゃないかと。
もちろんみんながそうしちゃうと、国が破綻するとなんとか、また違う論理が出てきたりしますけども、
個人としてはですよ、働かなければならないかというと、プライドを捨てればというか、方法論を問わなければ働かなければならないわけではなくて、働かなくても生きていくことができると。
それにもかかわらず働いているのは、べきと言いながらどこか、例えば人の世話になりたくないとか、人に頼みづらいとか、
社会から親の舌かじってるみたいに思われたくないとか、国の世話になってると思われたくないっていう、
ざっくりと自立したい、みたいなね。たいのために結局は働いていると。だから実は働くべきだとか言ってるけども、働くべきじゃなくて自立したい、だったりするかもしれないですよね。
これっていうのはどっちがより上位の階層かっていうのは人によると思うので、働くべきっていうのは強くあっての、
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っていうこともあれば、もしかしたら自立したいとかっていう気持ちかもしれないですよね。
とか実はその人からお金をもらうとかっていう選択肢が思い浮かばなかっただけで、単純に生存したいから働くべきだって言ってるかもしれないですよね。
生存したいの人はもしかしたら働くべきじゃなくて、人からお金をもらうとかね、国からお金をもらうって方法もあるので、もしかしたら働くべきっていう考えが
そこでね、知ることによってね、あ、そうだ、もらうという選択肢があったな、みたいなことも思い浮かぶかもしれませんね。
ちょっと変な例だったんですけども、逆パターンですね。たいと思っていること。例えば、歌手になりたいと思っている人がいて、
歌手になりたいって言って慣れるもんじゃないですよね。例えば歌の練習をするとか、歌うためにはね、やっぱりその
自分の体を活気にするわけですから、生活をコントロールしないといけない、食生活とかね、酒とか飲んでたらダメですよね、歌歌うんだったら。
ミネラルウォーターにしてくださいって話なんですよね。で、睡眠時間もよくとってとかね、そういうことになってくると。
だから生活をコントロールしたり、歌の練習をしたりとかいうことをしなければいけない。もっと言うとね、歌手になるためにその活動もしないといけないですねっていう感じで、しなければならないこといっぱいありますよね。
なりたいって言ってるだけじゃなれないと。で、歌手になりたい、そして歌の練習はしたい、好きだ、歌の練習したい、でも生活のコントロール、別に酒は飲みたい、本当は飲みたいとかね、飲みたいけども飲むべきではないから、
えーと、なんていうのかな、禁酒するべきだ、みたいなことで急に、歌手になりたいから酒を飲むべきではないということで、禁酒するべきだっていうべきが混ざってくると。
だからたいって言ってるけども、結局べきが混ざってくるんですよね。
で、こういう時にね、なんていうのかな、歌手になりたいっていうその、いわゆるより上位の構造にたいがあるんだから、その下位構造にあるべきは我慢できるでしょうみたいな。
まあ、もっと言うと、歌手になりたいがたいなんだから、禁酒するべきじゃなくて禁酒したいでしょ、本当はみたいなむちゃくちゃなことを言う人がいるんだけども、それとこれとは話は別だと思うんですよね。
回想構造的には歌手になりたいが優先されているけれども、その下部構造に禁酒するべきっていうのがあっても、それを禁酒したいかっていうと、それとはまた違いますよね。
禁酒はしたくないけども、歌手になるためにしなければならないみたいな構造になってくると。
なので、さっきのね、働くべきとか、歌手になりたいとか、たいだろうがべきだろうが、その下部構造には結局べきもたいも混ざってくるよねっていうことなんですね。
で、究極の上部構造にたいがあるから、その下部にべきがあっても、それは本当はたいだから、それは結局たいなんだよ、みたいなことは通用しないと思うんですよね。
人間はたいとべきを常に内包する形で生きていると僕は思っていて、その意味ではですね、本当にしたくないけどもべきみたいな状態、つまり強制労働であるとか、
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人権がないっていう状態っていうのは確かに強制的にたいなんてことは無視されて、べきだけでことが動いていくという意味で、たいとべきが共存しているとは言い難いんですけども、
この人権のある国家に生きている以上は、おそらく誰しもがべきとたいを同時に持っていると。
今の生活の中にべきもたいも含まれている可能性が大いにあるというか、そうだろうと思うんですね、理屈上は。
なので今一度ですね、自分は何かこうやるべきこととかしなければならないことばっかりで、やりたいことが全然やれていないみたいに思っている人がもしいればですね、
何かそのべきことしかできていなくてたいことができていない人間なんていないと思った方がいいってことですね。
そのべきの中に実は自分は安定したいからその仕事をしているかもしれないですよね。
そしたらそこで安定できているのであればたいことやってんじゃんって話なので、何かべきしかやれていないとか、
たいがね、もっと本当はしたいんだけどね、みたいなことを言ってるのは僕はどうかなと思っているんですね。
どうかと思っていますね。みんながある種、どういう表現をしようとべきという表現をしようとたいという表現をしようと、きっとべきでありたいであるんだろうなと、両方混ざっているんだろうなということをそういうふうに認識しています。
だからちょっと愚痴っぽいなぁとか、すごいこの人は元気いっぱいで明るいなぁとかっていう見え方はするにしてせよ、
どんな人でもたいとべきを持っている、人権を持っている人はべきとたいを常に一緒に持っているということだと思います。
なのでべきではなくたいへみたいな話ではなくて、たいはすでに自分の暮らしの中にあるということを認識するっていうのがまあいいんじゃないかなって思いますね。
その上で、今の生活が100点ですっていうことを別に僕は言ったわけじゃなくて、それはもっとこうだっていうのは理想としてはあったりすると思うので、今よりましな状態みたいなのを目指していくっていう感覚がいいのかなと思ってますね。
今でもたいはやれていてもやっぱりべきがあって大変なことがあるよね。これがたぶん人生だと思うので、次のこの選択肢を取ればよりたいが膨らむよねとか、
べきがしぼむよねみたいな感じの、両方が常にあるという前提の上でその2つのボリュームをチューニングしていくみたいな、そういう感覚でですね、物事を考えていくといいんじゃないかなと。
べきかたいかみたいな、白黒の話ではないというべきもたいも常に持っていて、その2つを混ぜ合わせて表現していると、そこの感覚を持ってみるといいんじゃないかなというお話でした。
べき&たいですね。どっちかじゃなくてどっちもであるということでした。本日は以上です。またお会いしましょう。さようなら。
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