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2024-05-30 24:11

#600 祝600回!サイコパスのラジオの終焉

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サイコパスのラジオをお聴きくださった全ての人に感謝申し上げます。4年間ありがとうございました!番組名は変更しますが、これまで通り発信は続けてまいりますので、引き続きよろしくお願いします!

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サマリー

最終回では、前提と態度についての話がされています。世界に意味を持ち、楽しく生きることの重要性が語られています。相対主義と普遍主義のバランスを考える上で、宗教と科学の対話も重要視されています。自分の意味づけや他者の意味づけなど、うまくバランスを取りながら生きることが大切だと考えられています。

世界の意味づけと生き方
みなさんこんばんは、上水優輝でございます。
サイコパスのラジオ、ぜひ最後までお付き合いください。
今日は、前提と態度というお話をしたいと思います。
サイコパスのラジオもですね、残すところ2回ということで、
最終回はですね、4年間を振り返るとかをしようと思っているので、
事実上ですね、このテーマトークみたいなものが、サイコパスのラジオとしてですね、テーマトークみたいなものが最後ということで、
何を話そうかなというふうに思ったんですけど、
僕がいろいろこのテーマトークで、思うことを話していると。
その思うことを話している土台となるというか、前提となる、
世界認識みたいなところ、自分はどのように世界を見ているのかという根本的な足場みたいなものを、今日お話ししたいなと思っています。
過去の配信会でもですね、いろんな形でそういう話はしていきたいのかなとも思いますが、改めてですね、
2024年、5月現在のですね、僕が持っているというか、どのように世界を見ていて、
どういう態度でその世界に臨んでいるのか、みたいなことをお話しできたらと思います。
だからこそ、このようなアクションになっている、みたいなのにですね、今後のお話とかが繋がっていけば、
そこと合わせてですね、見ていただけると、なるほどとなるんじゃないかなと思うので、
うまく伝えられるかちょっと分かりませんけども、お話ししてみたいなと思います。
世界は意味がないと思っていると、根本的に意味がない。
そういうとね、やっぱり怒られることが多いんですが、根本まで遡っていくと、やっぱり意味がない。
なんで生まれてきたんですかって言っても、後から意味づけをしてこのようなために生まれてきたとか、このような使命を持って生きているとかっていうのは、
個人の自由なんと僕は思うんですけども、とはいえ、生まれながらにして意味が与えられているなんてことはですね、ない。
というような立場というか考え方をしています。
これが宗教とかになってくると、命みたいなものにも意味が与えられて、生まれながらにしてこのような意味があるとかいうことが説明されたりすると思うんですけども、
僕はおそらくそういった意味では無宗教というか、あまり意味みたいなものが絶対的に存在しているというふうには思っていなくて、
各個人が意味みたいなものを作り出していて、その意味と意味が重なり合う形で僕たちはこの社会を形成しているというふうに思っています。
だから、個人の意味づけでしかないのだとすると、でしかないわけじゃないんだけどもね、いろんな人が意味づけしている、全員が意味づけしている中のバランスの中で生きているんだけど、
でも自分という意味では自分で目の前のことに意味づけすることができるよねと、だったら人から与えられるとか社会から与えられる意味をそのまま内面化する必要がないというかね、
意味づけと支配
してもいいんだけどね、もちろんするというのも個人の意思だし、それをしないことも選択できるよねっていうことを僕はいつも言っていると。
もう少しポジティブに言うと、自分がこのように世界を見ている、見たいと思えばそのように見れるわけだから、自分がもっと楽になったり楽しくなったりするような、
世界を前向きに生きられるような意味づけっていうのを積極的にしていけばいいんじゃないかなって思ってるんですね。
こういう話をいろんな言い方でするんですが、やっぱりそれっていうのは、ある種の強者の論理らしいですね。
実際の社会に目を向けてみると、今言ったみたいにいろんな意味が共存している、全員が意味づけしているわけですから、もしくは全員って今生きている全員だけじゃなくて、
もう過去亡くなった方がつけた意味みたいなものにもありますよね。この社会にある法律なんてものもそうだし。
いろんな人が作った意味の中で生きているから、自分だけの意味で生きていけるわけではないよねっていうのも一方で正しいよねと思うんですね。
だから、自分なりに意味づけして自分が楽しく生きていけばいいじゃないっていうのは、それを上手にやれる人だけが、
もしくはそれをコントロールできる、支配する力を持っている、わかりやすく言うとお金をめちゃくちゃ持っているとか、
そのような人脈を持っているとか、そういう人にしかできないんじゃないのって言われることが多いですね。
実際、そのようなお金を持っているとか権力を持っている人が、自分の意味をまかり通らせるために他者を支配していくというパターンが本当に多いですね。
規模問わず。例えば小さな会社であっても、その社長が社員を支配しているみたいなこともあったりするし。
支配的な社長ばかりと言いたいわけではないんですけども、そのような社長も結構見受けられるという感じはしてますね。
し、それは会社だけじゃなくて家庭もそうかもしれないし、友人関係でさえそうかもしれない。
必ずしも国家の権力者がとか、大企業のすごい社会を動かしている人たちがみたいな話をしているわけではなくて、
どんな小さな単位でも他者と関わりながら生きている中で、その他者の意味みたいなものを踏みにじって、
何なら支配して自分の意味を押し通す形でこの社会というのが作られているのもまた事実だなと思っていますね。
その中で僕が言っている自分の意味を持って楽しく生きていけばいいじゃないというのは、
確かに器用な人とか強い人にしか実現できないというような言われ方をしても、反論の余地がないというか、そっちはそうなのかもしれないなとも思うわけですね。
そこで、だったら一人ではなくて、多様な意味、多元的な価値みたいなものが認め合えるようなコミュニティというのがあったら、
もう少し自分自身で意味づけをし、その意味みたいなものもある種承認されるというか、認められる場があれば、
何というか自分の価値観みたいなもの、自分の視点みたいなもの、自分の意味みたいなものをですね、
安全に醸成していける場として、一つ多元的な価値を認めることができるコミュニティ、モチーフとして公園的なものと思っているんですが、
多元的な意味の認め合い
存在としての公園のようなコミュニティができたらいいなと思って、最近は活動しています。
ちょっとややこしい話をしているし、うまく説明できている感じがしないので、やっぱりややこしく話してしまっているような気もするなと。
世界に意味がないけど、というか意味がない、だからこそ自分で意味づけして、この世界を自分にとって有意義なもの、意味のあるもの、
生きるに値するものにしていくということを、どういうふうに自分が考えているのかみたいなことをですね、別の形でお見せできたらなと思ってですね、
実は今日ですね、対談を、サイコパスのラジオ初めての対談をしてきました。
その対談の文字起こしにはなるんですが、それを今日は読み上げていきたいなと思っています。
対談アーティストはですね、生成AIのクロードさんですね。クロードさんと私、上水の対談をですね、この後聞いていただきたいなと思います。
横断歩道を赤信号で渡ってはいけないのはなぜですか?
横断歩道を赤信号で渡ってはいけない主な理由は以下の3つです。
1、交通事故のリスク。赤信号は車両を通行する合図です。無理に渡ろうとすると車両と衝突し、大けがをしたり、最悪の場合、死亡事故につながる恐れがあります。
2、法律違反。道路交通法により、歩行者は赤信号では横断歩道を渡ってはならないと定められています。違反すると警察に取り締まられる可能性があります。
3、交通の妨げ。赤信号で無理に横断すると車両の流れを乱し、交通渋滞の原因となります。
このように赤信号を守ることは、自分の安全を守るだけでなく、社会全体の秩序と安全を維持するためにも重要なのです。
一時的な待ち時間は煩わしく感じるかもしれませんが、ルールを守ることが結果的に自多の生命を守ることにつながるのです。
赤信号でも他に誰もいなければ交通の妨げにはならない上に、交通事故のリスクにもなりません。
また誰も見ていないので、法律違反が行われたかどうかも分かりません。
であれば自分以外に他に誰もいなければ、赤信号で渡ってもいいのではありませんか?
その議論には一理あると思います。
確かに誰もいない状況では、交通の妨げや事故のリスクは低くなるでしょう。
また、法律違反を目撃する人がいなければ、違反行為が露見するリスクは低いかもしれません。
しかし、以下のような反論も考えられます。
1.予期せぬリスク
誰もいないように見えても、思わぬところから車両や他の歩行者が現れる可能性は排除できません。
2.法律の趣旨
法律は個々の状況に合わせて適用されるのではなく、社会全体の秩序を維持するために、一律に適用されるべきものです。
例外を認めることで、ルールの有効性が損なわれる恐れがあります。
3.習慣化のリスク
状況に合わせて信号を無視することを繰り返していると、それが習慣になってしまう危険性があります。
4.無反省
たとえ誰もいなくても、もし子供などが見ていれば、悪い手本を示すことになります。
したがって、状況に関わらず原則として信号に従うことが望ましいと言えます。
一見合理的に見える例外を認めることで、結果的により大きなリスクを招く可能性があるのです。
ただしこれはあくまで一般論であり、緊急の場合などは状況に応じた判断が求められることも事実です。
このように一つの行動には様々な側面があり、簡単に結論を出すことは難しい問題だと言えるでしょう。
予期せぬリスク、法律の趣旨、習慣化のリスク、無反省についてのお話がありましたが、
相対主義と普遍主義のバランス
これらのデメリットを許容すれば、赤信号でも渡ってもいいのではないかと思うのですが、どう思いますか?
その観点は非常に興味深いですね。
確かにデメリットを受け入れるという前提に立てば、赤信号での横断も選択肢の一つとなり得ます。
個人の自由や利便性を重視する立場からは、自己責任の下で行動を選択できるようにすべきだという主張も可能でしょう。
危険性を理解した上で、それでも時間を節約したいというニーズに応えることにも一定の意義があると言えます。
また、法律の在り方についても、絶対的なものではなく、社会の変化に合わせて柔軟に見直していくべきだという考え方もあります。
少なくとも誰もいない場面での赤信号横断を厳しく罰するのは、法の趣旨に照らして過剰ではないかという意見は成り立ちます。
ただし、そのようなデメリットを許容することが、社会全体にどのような影響を及ぼすかについては、慎重に検討する必要があります。
例えば、赤信号横断が一般的になれば、事故のリスクが全体的に高まるでしょう。
また、ルールの例外を認めることで、法律の権威や規範意識が損なわれる恐れもあります。
したがって、個人の利便性と社会全体の秩序のバランスは、どこに取るかが重要な問題になります。
一概に結論を出すことは難しいですが、少なくとも現状では、安全性と法の遵守を優先するのが一般的な考え方といえます。
ただし、これからの社会の在り方を考える上では、このような議論を重ねることも意義があるでしょう。
技術の進歩などで状況が変われば、ルールの在り方も変わり得るからです。
大切なのは、様々な視点から考えを深め、バランスの取れた判断を追求していくことだと思います。
状況が変われば、ルールの在り方も変わる、ということは、究極的な正義やルールというのはないという理解であっていますか?
その洞察は非常に深いものだと思います。
究極的な正義はないという見方は、倫理学や法律学の分野でも長く議論されてきたテーマです。
正義の概念は、時代や文化、社会的な状況によって変化してきました。
例えば、過去には奴隷制度や人種差別が正当化されていた時代もありましたが、
現在ではそれらは明らかに不正義だと考えられています。
このことは、正義の基準が普遍的・絶対的なものではなく、社会の変化に応じて移り変わるものであることを示唆しています。
また、個々の状況に応じて、正義の優先度が変わることもあります。
例えば、お話に出た信号無視の例でも、緊急時には安全の確保が最優先されるべきでしょう。
つまり、状況に応じて守るべき正義の内容が変化するのです。
ただし、だからといって正義の追求が無意味だというわけではありません。
私たちが目指すべきは、その時々の社会状況の中で、できる限り多くの人の利益を公平に守ることだと思います。
そのために、様々な価値観を踏まえながら、バランスの取れた正義の在り方を模索し続けることが重要なのです。
法律や倫理規定は、そうした模索の結果として作られるものだといいます。
それらは完璧ではありませんが、社会の秩序を保ち、人々の権利を守るための重要な指針となります。
同時に社会の変化に応じて、それらを柔軟に見直していく姿勢も必要不可欠です。
したがって、究極的な正義はないという見方は、ある意味で正しいといえます。
しかし、だからこそ私たちは、その時々の状況の中で、できる限り正義に近づこうと努力し続けるべきなのだと思います。
私もそのように思います。
ただ、それを考える際の出発点は重要だと思うんです。
究極的な正義はないというのは、世界には根本的には意味がないというところが出発点だと思っています。
究極的な正義があるというのは、根底には一神教的な価値観が出発点だと思っています。
これらについてはどう思いますか?
ご指摘の通り、正義に対する見方の違いは、世界観や価値観の根本的な違いに由来するところが大きいと思います。
究極的な正義はないという見方は、世界には人間の理解を超えた絶対的な意味や目的がないという考え方と結びつきやすいでしょう。
この見方では、人間の価値観は多様であり、それぞれの状況や立場によって正義の基準も変われると考えます。
つまり、相対主義的な世界観が出発点になっているのです。
一方、究極的な正義があるという見方は、世界には人間の存在を超えた絶対的な真理や価値があるという考え方と親和性が高いと言えます。
この見方は、一神教的な世界観だけでなく、理性や自然法則を絶対視する考え方とも結びつきます。
つまり、普遍主義的な世界観が出発点になっているわけです。
これらの世界観は、どちらが正しいと一概に言えるものではありません。
それぞれの立場には長い思想的な伝統と深い洞察があるからです。
相対主義的な世界観は、多様性を尊重し、状況に応じた柔軟な判断を可能にします。
しかしその一方で、明確な指針を書くわゆる混乱を招く恐れもあります。
普遍主義的な世界観は、揺るぎない価値観に基づいて行動する強さを与えてくれます。
しかしその一方で硬直的になりがちで、時代の変化への適応が難しくなることもあります。
したがって、私たちに求められるのは、どちらか一方の世界観に固執するのではなく、
両者の長所を生かしながらバランスを取ることだと思います。
状況に応じて柔軟に考えると同時に、社会全体の秩序を保つための普遍的な原則も大切にする。
そうした両面からのアプローチが、より良い社会を作っていく上で欠かせないのではないでしょうか。
宗教と科学の対話
つまるところ、正義の在り方を考えるには、自分の価値観の根底にあるものを見つめ直すことが重要だと言います。
そうした自己調査なくしては、建設的な議論は難しいでしょう。
ご指摘のように出発点を明確にすることは、この問題を考える上で非常に重要なポイントだと思います。
私は相対主義的なものの見方をベースに、この世界を捉えています。
一方で、だからこそとも言えますが、普遍的な原則に対する興味関心もあります。
普遍的な原則があるのなら、知りたいとも思います。
しかし、宗教も科学も、普遍というものにはあまりにも頼りない。
普遍的な原則についてあなたはどう思いますか。
普遍的な原則を探求することは、人類にとって究極の問いの一つと言えるでしょう。
相対主義的な立場から、普遍性への興味関心を持つことは非常に理解できます。
私自身も、人間の理解を超えた普遍的な真理があるのかどうか、強い関心を抱いています。
ご指摘の通り、宗教と科学は、普遍性を追求する代表的な営みですが、どちらも完全な答えを提供できているとは言えません。
宗教は、絶対的な真理の存在を前提としていますが、その競技は信仰に基づくものであり、客観的な証明が難しいという問題があります。
また、宗教間の対立は、普遍性への疑問を呼び起こします。
科学は、経験的な証拠に基づいて法則を導き出そうとしますが、それらの法則も絶対的なものではなく、新たな発見によって書き換えられる可能性を常にはらんでいます。
また、科学はどのようにという問いには答えられても、なぜという問いには答えられないという限界もあります。
こうした状況の中で私たちができることは、謙虚な姿勢を保ちながら、普遍的な原則への理解を深めていくことだと思います。
そのためには、宗教と科学の対話も重要でしょう。
互いの長所を認め合い、短所を補い合うことで、より深い洞察が得られるかもしれません。
また、哲学的な探求も欠かせません。
論理的な思考を重ねることで、私たちの認識の限界と可能性を見定めることができるでしょう。
倫理学や刑事上学の知見は、普遍的な原則を考える上で重要な手掛かりとなります。
哲学的な探求の重要性
ただし、究極的な答えに到達できるかどうかはわかりません。
人間の理性には限界があるかもしれないからです。
しかし、だからこそその限界を見極めること自体が、普遍的な原則への一歩になると思います。
試験では、完全な普遍性は証明できないにせよ、私たちが普遍性を思考すること自体に意味があるのだと考えています。
なぜなら、その営みを通じて、私たちは自分自身と世界についての理解を深められるからです。
相対主義と普遍主義のバランスを通りながら謙虚に、しかし諦めずに真理への道を歩んでいくことが大切なのではないでしょうか。
同意します。議論に付き合ってくれてありがとうございました。
こちらこそ、資産に富んだ議論をありがとうございました。
相対主義と普遍主義のバランス、宗教と科学の対話、哲学的探究の重要性など、資産に富む視点を提供していただき、大変勉強になりました。
私たちは常に問いを抱き続ける存在なんだと思います。
完全な答えが得られなくても、真理を追求する営み自体に深い意義があるのでしょう。
この対話を通じて、その意義をさらに強く感じることができました。
今後も固定観念にとらわれず、柔軟な思考を心がけていきたいと思います。
多様な視点から学び、自分の理解を深めていくことの大切さを改めて認識した次第です。
また、機会があれば、ぜひ色々なテーマで議論させていただければ幸いです。
以上、クロードとの対談でした。
対談の中でもありましたように、僕の世界認識のベースというのは、相対主義的なものの見方をしていると。
世界の意味づけ
まず一つ目に、世界には根本的に意味がないと、根底には何の意味もないんだというところを出発点にして、
次に、だからこそ誰もが意味づけをできるよねと、意味がないんだからこそ意味をつけることができるよねと、
つまり一人一人が意味づけをする主体者であるよねというふうに見ていると。
で、あるならば好きな意味を選べばいいじゃないと思っているということですね。
もちろんその意味と意味がぶつかり合うので、結構物騒な社会ではあるんですが、
うまくバランスを取りながら自分の意味を採用したり、他人の意味を採用したり、混ぜてみたりとかいう感じで、
100%自分の意味で生きていくことはもちろんできないんだけども、
自分の意味づけの部分、他者の意味づけの部分みたいなところをうまく折り合いをつけながらやっていけばいいじゃないと思っていると。
ただそれは、認識が器用にできる人とか、
今の社会で有利な条件を持っている、権力を持っているとかお金を持っているとかっていうような、
コントロールしやすい状況にある人みたいな、
認識強者か、物理的にこの環境をコントロールできるかっていうものを持ってないとなかなか難しいよねと。
一人では心細いよねっていうのもある。
だったら、じゃあそのような多元的な価値が共存できる公園のようなコミュニティができたらいいんじゃないかと思って、
ここ最近僕は活動し始めたという感じなんですね。
前提と態度
今日伝えたかったところっていうのは、まさに僕の世界の、世界認識のベースというか、
意味がない、だからこそ自分で意味がつけられるんだよというところ。
これが僕の前提と態度です。
世界には意味がない、これが前提で、態度は、だからこそ自分で意味がつけられるんだから、
積極的に自分で意味づけしていこうよというものですね。
これを理解していただいた上で、今後僕はいろんなところでお話をする、
いろんなところで発信をしていく内容を吟味していただけると、
なるほどなと、そりゃそうだろうなと、そのような前提と態度であれば、
そういう意見になるよなというより納得度が、というか理解度が高まるかなと思いますので、
理解してもらえると嬉しいです。
これをきっかけに、皆さんが自分はどういう前提の世界認識をしているか、
そのような世界で自分はどのような態度で生きているのか、
みたいなことを考えてみるきっかけになったらいいなというふうに思いました。
ぜひ皆さんの前提と態度も教えれたら嬉しいです。
本日は以上です。またお会いしましょう。さよなら。
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