何しよう。私たちのナオハちゃんが舞台の学生なんで、今回はナオハちゃんが主役で参ります。よろしくお願いします。
お願いします。さっき聞ききれなかったことで、すごく気になっていることがありまして。
現在は舞台芸術学科として独立してるんですけど、私が17期なんですけど、
京極さんが大学しておられた当時のことを、どういう時代でしたかって先生とかに聞くと、めっちゃいい時代だったみたいな感じで教えることが多くて、
実際にどういう雰囲気だったのかなっていうのが気になるんですけど、教えていただけますでしょうか。
ありがとうございます。僕は4期生なので、僕が入学して初めて全回生が揃ったっていう状態だったんですよ。
だから、もちろん1期生は先輩いないまま4年間やってきてるっていう状態で、現役で舞台を作っている先生ばかりだったんですね。
そもそも太田翔吾先生っていう方が、言ったら演劇史に残るような巨人ですけど、実際デカいんですけど、
太田さんが舞台芸術作家を作りたいっていう志で立ち上げて、全国のモサ達を集めてきたっていう大学だったんですね。
だから、いわゆるプレイヤーを育てるとか、技術さんを育てるとかっていうことではなくて、舞台人というものを作家性を持ってやっていく人を育てようっていうことで、
映像と舞台と両方、ごっちゃ混ぜで映像の作家さんもいて、舞台の作家さんもいるし、ダンサーもいるし、照明音響のプロの人もいるし、
みんなそれを集めて、初めてそういう、多分日本でもそこまで舞台芸術人を作ろうっていう志の学科というのはなかったんだと思うんですけど、
そういう創世紀というか、いう状態だったんですね。
たぶん本当に現役の先生ばかりだったから、でも太田さんが言うならっていう感じで集まってきた人が多くて、別に学生に教えるのなんかめんどくさいっていうか、今自分が作っている現役で走ってて、
週に2回も京都行かなきゃいけないの?みたいなことを、僕の一番お世話になった先生は山田節子さんって言うんですけど、節子さんも通ってました。
山田節子さんって京都じゃないんですね。
京都じゃないんです。東京で普通に自分の、当時はもう自分のカンパニーはされてなかったんですけど、普通に東京で第一線で活動している方だったので、授業をしに京都に泊まって2日間とかっていうような状態で、
先生も生徒も手探り状態で、まず先生じゃないんですよみんな。作家だからどうやって教えたらいいんだろうみたいなところで、なんかあんまり先生と生徒のパワーバランスが平らだった感じがするんですよね。
だから割と先生も学生を面白がったし、もちろん学生は知らないことを先生が教えてくれる。だけど、なんか教わるっていうよりは、一緒に何かを作る、面白いものを作ろうよっていうなんかシンプルな関係性だったんで、
しょっちゅう朝まで、それこそ今店の事情がわかんないんですけど、そこにねこまちカフェっていう、まだあるんですか。
なんかそういう学生みたいな先生と先生みたいな学生となんかごちゃごちゃの状態でやってたっていう、で、大学ってどうやってやっていくんだろうみたいなのをみんなで探ってたみたいな時期で、そんな、でもある程度なんかそういう時期が3年間あっての4年生だったんで、ちょっとカリキュラムができてきたかなぐらいの感じだったと思います。
ちょまど いいな。いいですね。
だからなんかガチガチに良かったのは、多分何でもやらされたっていうのはあって、僕役者やろうと思って出口がダンサー、そろダンスになっちゃったり、映像撮りたいですって言って、小説書いて卒業した子もいたかな。
だから技術さんやりたいですって、ナノハさんの裏方さんやりたいですって入ってきたやつが踊って出たり出てったり、なんかダンサーやりたいっていう人が舞台監督になっていったり、全部とにかく1,2年生はやらされるんですよ。
朝の9時から一番頂上のラクシンソーに集められて、当時エレベーターエスカレーターゼロですよ。2000年代初頭はここ本当に山、ウリュウヤマが本当に山だった時代なんですけど、階段登ってさらに登って、それこそ城で空での山道を登って行った先にラクシンソーってある。
あそこの冬の寒い中で裸足で体を動かすみたいな授業があったり、それをなんかスタッフやりたいんだけどなみたいな子がやらされてるとか、なんか私はバレエを何年かもやってきましたみたいな子が映像編集、ファイナルカットプロの使い方をなんかやらされて、当時あれですよ、ミニ、あれなんて言ったっけ、DVか。
カメラね。
DVテープでレンダリングを1時間待つみたいな、そういう作業をめちゃくちゃやられてたりしてて、それも良かったんだと思うんですけどね。
私は裏方の方でも企画制作を軸に学んでいて、ちょうど卒業制作、今3回生の冬なので、どうするかっていうのがリアルタイムの課題で、京子さんがソロダンスを卒業制作に選ばれたって聞いたんですけど、それはどうして選ばれたんでしょうか。
それがその回廊の前なんですよね。その前進になるんですけど、さっきダンス歴何年ですかの話で、20歳の時にダンスで食っていくんだって決めて、俳優から入ったけど、やっぱダンスに衝撃を受けて、ダンスでやっていくんだってなったら、ダンスで卒業制作するのが一択でしょうってなるわけなんですけど。
いや結構ね、なんかやばい奴だったんですよ。当時振り返ると。
絶対そんなことわかってますよ。
今もたぶんその端々にあると思うんですけど。
それはないけど、大体成人式に帰らず、なんか俺はダンスなんだとか学校に居るとか、俺には全く理解できないから、やっぱり相当変やろうなとは思いますよ。
で、なんかダンスをやるってなった時に、大学に在学中から、それこそ山田節子さんの作品にダンサーとして出させてもらったりとかしてたんですね。
で、生実家なんか、プロの世界とかを知っちゃったもんだから調子乗って、こうやって生きていくんだな。じゃあ卒業制作、ダンスでもう決まりでしょ。
で、その流れがあって、就職活動とかね、それこそ3年生ぐらいから始まるじゃないですか。そこの学生館の方に行って、京子くん、こういう就職説明会っていうのがあるんだよって。
こういうところに行って、いろんな企業の方が来て、学生が集まっていくんだよって言って、これに行ったらどう?って言われた時に、
なんか僕、ダンスが世界を変えることができると思うんで、なんかあんま興味ないですねみたいなことを平気で言ってたんですよね。
だから、めちゃくちゃもう自信とそれしか見えてないっていうのとで、すごいヤバかったなっていうのは思うし、その企画書も猛反対されたんですよね。
要は、卒業政策ってみんながやるもんだから、舞台下の卒業政策は政策発表なんで、5つぐらい多くても企画があって、で、淘汰されていくんですよ。
で証明やりたい子、こっちの企画に入りなよとかって言って、5つぐらいになって、その一枠をたった一人のために開けるって結構リスキーというか、他の子たちがやっぱり一枠取れない。
だから演劇だったら役者がいっぱい出るから、一枠でそこにいっぱい人があるんですけど、その一枠取るっていうのは、教授陣が猛反対して、だけど節子さんだけがもうなんかやりたいって言ってなきゃやらしてるんだよみたいな雰囲気であったんですけど、企画書7回書き直して、
当時の安美さんってね、映像と、批評家の先生がいて、安美さんのとこに7回企画書を持って行って、もう呆れられて、企画書で伝わらないなら踊りますって言って、勝手にワークインプログレス講演みたいなのを勝手にやって、教授だけ呼んで、
10分くらい踊って、なんかもう息切れして、で、京子くん10分しか踊れない人は一つの講演をやるのは無理だよってめちゃくちゃ言われたりとかして、いやでもやりたいんですみたいなのがずっと多分4年生くらいの時にあって、で最終的にもう教授陣が多分もうしょうがねえ、こいつ言うこと聞かねえから、やらしてやるかってなって、それでなったんだと思います。
ああ、その卒業制作の周りの学生の反応ってどんな感じだったんですか。
ああ、もうだから、なんだろうな、京子くんしょうがないよね。っていうか、なんかでもそんだけやりたいなら、やっぱり一人じゃできないんでね、結局照明さんがいて美術さんがいて、っていう中で今スタジオ21っていう空間で対面座席にして、真ん中をコンクリーの岩山みたいなのを作ったんですよ。
そのど真ん中へこんでるとこに僕一人がいるっていう状態で、で音もその時は使ってたんで、音楽作ってもらうとかっていういろんなチームを作っていかなきゃいけないんですけど、これをこう、まあ割とそれで仲間を集めて何とかやったっていう感じで、そうですね、だから、まあ当時のみんながどう思ったかわからないですけど、まあまあしょうがねえかなっていう空気だったと思います。
この回廊の前身となるその卒業政策が、今国内外でこうやって評価されているわけじゃないですか、なんかその海外での反応っていうか、どのようなものだったんですか。
一応そのドンツキって呼ばれる卒業政策の鈍くつくっていうめっちゃ渋い感じのタイトルなんですけど、ドンツキっていうタイトルのやつは学長賞をいただいたんですね、それで卒業するときに。
そんなになんかこいつしょうがねえやつやなっていう流れで一応できることになったのに最終的には学長賞をいただいたんですか。
そうなんです。
一番かっこいい流れですね。
それで太田さんがすごい良かったよって言ってくれたんですよ。学長太田さんだったんで。
学科長ね。
学科長。それでまた変な自信ついたと思うんですけど、そっからその回廊を作るまで3年ぐらいあるんですよね。2007年に卒業してるんで。
そっからの間、山田節子さんの大きな舞台芸術研究プロジェクトっていうのがあって、そこでもずっとやっていくんですけど。
ちょっと待って、ドンツキはどんな内容なんですか。
ドンツキも似たようなもんです。
それはパンツ?
でもね、その時は丈が長かったです、まだ。
ズボンと、一応衣装の子がいてくれて、ズボンと上も服着てたんですけど、本当にボロギみたいなもの。
でも最終的にはやっぱり脱いでました。
ロングのパンツ一丁になってました。
上だけ脱いでました。
回廊になったら全部じゃない、パンツだけ。
その時は、そう。
ドンツキの時も、結局30分か45分か知らないけど、また一人で岩山の窪みでパフォーマンスしてるっていう。
そういうもんでしたね。
その時は音楽っていうかね、割と環境音みたいなものをリミックスしたものとか使ったり、ちょっとしたコートとかトレンチコートみたいなものを使ったりとか、割とそれこそなんとかこの4年間で学んだものを取り入れてやってはいたんですよね。
それで45分できたんですよ。
っていうのがあって、じゃあ45分で学長賞を取ったぞってなんか調子乗って、次やる時はそれをさらに削ぐぞ。
でも45分できるんだったら削いでも45分作るぞっていうところで回廊を作っていったっていうのはあるんですけど。
それ海外でやっていって、最初が多分2012年とかに北京でやったんですよね。
当時の北京ってまだSNS、中国ね、SNSも限られたり、それこそWi-Fiつながらなかったりとか、今ほど活発に情報がなかったりするような時だったんですよね、まだ。
2000年代、2010年代の初頭ぐらいかな。海外でそれをやった時にすごいなんていうか、日本ってこんなにオープンなんだみたいな、なんか日本代表じゃないんだけど、中国の方からしたら韓国人にめっちゃ間違えられたんですよ。
韓国っぽい顔をしてるのもあるんですけど、韓国の人ってキリスト文化、キリスト教文化があるから割とマインドは欧米っていうかオープンで、儒教が入ってるからまた極端に違う部分はあるんですけど、基本的にすごいオープンで自信がある。
で、それが中国の人たちにとっては韓国像だったみたいなんですけど、日本人ってもっとおしとやかで、なんかもう喋んないみたいなイメージがすごいあったらしく、その時はすごい驚かれましたね、なんか気狂ってんなみたいな言われ方をされましたし、こんなパンツ一丁で踊る日本人を初めて見たみたいな。
当たり前じゃん、俺も見たことない。
日本でもあんま見ないからね、っていうような反応はあったりしたり。
逆にヨーロッパとかだと、でもなんかやっぱり根源的な欲求みたいなものが通じるんだなと思いました。
言葉としてはデタラメに喋るっていうのをずっとやってたんですよ。
デタラメに喋る?
うん。
やってみてよ。
ちょっとアジアっぽくすると、
北欧とか冬の方に行くと、
っていうのをひたすらやってて、
これは、これを海外でやると、デタラメに、だけどギリギリ意味がある、ない、みたいなことがちゃんと伝わるんですよ。
なんか不思議だなと思って、何語っぽい何かをやってるっていうのが伝わるんですよね。
だからなんかその根源的に僕が言葉に出せなかったことを、さっきの話になっちゃうんですけど、
僕はこれが好きだって言ったら誰かを傷つけるんじゃないかって思っちゃうから失語症っていうか喋れないんですよ。
これがこうだと思うっていう言葉を発した途端にアンチが生まれるから、それが怖くて言えない。
だけどこのデタラメ語っていうのは誰も傷つけないっていうことをなんかどっかで発見して、
だけど何かを発しようとしている、その気持ちって結構世界共通で、
それこそ発達障害の話もね、たぶん後で出てくるかもしれないんですけど、
言いたいことが言えない気持ちを抱えているっていう気持ちが世界共通なんだなと思って、
だから欧米人でどれだけオープンで、ハワイアンで海が近くてアロハって言いつつも言えないことを抱えているハワイ人はいるみたいな、
そういうところにすごい刺さっていったんだなっていうのを後から考えると思っていて、
だからなんか、何でしょうね、反応的にはすごく喜ばれるっていうか、
あんたの言いたいことすごくわかるよっていう反応が結構あったなと思う。
なんか下手者的に見た目はなんかもうウェーってなって汗だらだらになってるんだけど、
なんかもう気持ち悪いっていう反応が最初なんですけど、だんだん45分後にはわかるわかるっていう風になっていくっていうのが起きたなっていうのがありますね。