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毎度黙れヤドロクでございます。
どないですか。毎回どないですかと聞かれる人の身にも慣れゆでね。
表ある人もおられるかもわかりませんけども。
9月に入りまして、もうそろそろ秋の匂いと言うんですか、
そういうのを感じてもいいんちゃうかなと思ってるんですけど、
なかなかこれがまたそういううまいこと言いかへんっちゅうのが、
最近の気候の感じと言うんですかね。
暑い暑いという風にまだ言うとおりますが、
それでもね、秋となりますと、食欲の秋とも言います、読書の秋とも言いますね。
その読書の点で言いますとね、大難題でもう書くないもんですから、
本中のなかなかもう読まんようになっているというようなことなんでございますが、
家に本があっても漫画ぐらいのもんですわ。絵も読むことない。
インターネットの時代になりましたらね、デジタルコンテンツで電子書籍というんですかね、
そういうものもたくさんあるんですけどね。
それもこうって読むかと言われたら、葛字離れと言うんですかね。
LINEなんかでメール打ったりすることはありますけど、なかなか文章を読むようなことっていうのはないわけです。
一番長いので読む中たらもうLINEなんかで来るちょっと長文のお話やったりとか、
それぐらいがもう石の山になっているわけでございますけど、皆さん最近どうですかということです。
本を読む方はちなみに子供の頃からずっと読まはりますね。
これもまことに素晴らしいなと思うわけです。
自分も若い頃には読むと言っても、これ系統があるわけですね。
自分なんていうのは若い時読んでたもんっていうのは、どっちかというと専門書みたいなものが面白くてね、
興味のあることだけピンポイントに読むというようなことが多かったわけでございます。
それでもやっぱり人に比べたら額がないせいでしょうね、余満。
この額がないのは環境のせいじゃないんです。自分のせいですよ。
興味がいかなんだというのが全くのその通りでございまして、自分のせいなんです。
親のせいでもなんでもないんですよ。
だから本を読む習慣というのは、小さいお子さんの頃からちょこっとつけるようにっていうのができるんやったら、
それのほうがいいなと思うんですけど、これもやっぱりタイプによると思うんですよね。
苦痛だと思ってる子に無理やり本読ますというのもなんだかなと思うわけです。
でも本の中にある知識は子どもらに与えたいというのは、親の常と言うんですか。
だから読み聞かせというものがあったりするんやと思います。
この読み聞かせから本に興味を持って自分で読むようになる子もおれば、やっぱりどこまで行っても読まん子は読まんと思うんですね。
親やったり兄弟やったり、いつまでも上の者が口に出して口伝で伝えるということは大にして大事なことやないかなと思うわけでございます。
本日は安之助さんから元気ですよ、元気ですかってメールいただいてたんです。
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ダイレクトメールありがたいですね、安之助さん。
いつも気に利き使っていただいて、ほんまに他の人と話したいなって気持ちは伝わってますね。
いろんな何人か顔を浮かぶ方おりますけども、やり取りさせてもらっている方もおられますけど、
ちょこっとやっぱり元気ですかというような、ラインなんでもない挨拶のダイレクトメールでもいただいたら本当に嬉しいもんですよ。
安之助さん元気ですかよな、こっちも元気でやってますよ、どうですか?
それでいいんやと思うんです。そのやり取りぐらいで十分やと思うんです。
これは仲間か友達か、僕はこの番組聞いていただいてる方たちはお友達やなというような流れね。
中には友達や表編人も多いんですよ。なんちゃこいつ表る人も聞いてあると思うんですけど、
僕は友達ぐらいの感じで感覚でどうですかって聞かせていただいてるんですけど、
そんなこんな言ってますとね、本とか読んでありますかって聞いても、なかなかそんなね、読んでますとかって話盛り上がるような、
僕は育ちしてないわけですよね。ここから話広げられるような育ちはしてないわけでございますけど、
本日はちょっとね、絵カッコつけなあかんやん言うて。
何よりも長い小説を読み聞かせるということは、イントネーションの問題もあるしね。
なかなかいかんのですよ、うまいことはね。
世田谷に短編というんですかね、有名な方の短編なんか言うたらその人の雰囲気わかるんちゃうかなあ言うてね。
興味も長いのも読んでみようかと思うやろうけど、なかなかそこまでいかんと。
そんな時間もなかなかないわね、お仕事してあったらなあというようなこともありましてね。
超有名な方を今日はちょっとフューチャーして、しかも内容が少し気になる。
おーってなるような内容のものを読んでみたわけでございますよ。
今日はね、オサムちゃんですがな。
ダザイのオサムちゃんですがな。
皆さん名前はご存知でしょう、ダザイオサム。
こんなに有名な方おられへんちゅうぐらいの方ですけど、この人が書いた短編の中に都当についてというような、
自分の思ってることというようなことがあるんですよね。
この人の人となりようわかりますね。
面白い方です。やっぱりね、人気あるのわかるなと、
ダザイの研究されてる方多いのは何とのようわかるというかね、
ものの表現の仕方というんですか、
こんな短い文章、物語でないものを書くはっても、
この人の漢字感覚というのは文章に出るもんなんやなと思ってね、
面白いな、ちょっとやっぱり興味湧くんですね。
ダザイさんの作品、もうちょっと長いの読んでみようかなという気にはなるというようなことでございましてですね、
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皆さんと一緒に聞きたいなと思うわけでございます。
都当についてでございますね。
都当について、ダザイオサム。
都当は政治である。
そうして、政治は力だそうである。
そんなら都当も、力という目標をもって発せられた機関かもしれない。
しかもその力の頼みの綱とするところはやはり、多数というところにあるらしく思われる。
ところが政治の場合においては、200票よりも300票が絶対の、ほとんど神の審判の前におけるがごとき勝利にもなるだろうが、
文学の場合においては少し違うように思われる。
孤高。
それは、昔から下手なお世辞の言葉として使い古され、そのお世辞をたてまつられている人にお目にかかってみると、
ただ嫌な人間で、誰でもその人に付き合うのはごめん。
そのようなたちの人が多いようである。
そうして、そのいわゆる孤高の人は、やたらと口をゆがめて、群れを罵る。
なぜ、どうして罵るのかわけがわからぬ。
ただ群れを罵り、おのれのいわゆる孤高を誇るのが、外国にも日本にも昔はみな偉い人たちが孤高であったという伝説に便乗して、
もって我が身の詫びしさをごまかしている様子のようにも思われる。
孤高とみずからをごうしている者には、注意をしなければならぬ。
第一、それは、キザである。
ほとんど例外なく、見破られかけたタルチュウである。
土台、この世の中に孤高ということはないのである。
孤独ということはありえるかもしれない。
いや、むしろ、孤低の人こそ多いように思われる。
私の現在の立場から言うならば、私はいい友達が欲しくてならぬけれども、
誰も私と遊んでくれないから、生きよい孤低にならざるを得ないのだ。
と言っても、それも嘘で。
私は私なりに、都当の苦しさが予感せられ、
むしろ、孤低を選んだ方が、それだって決して結構なものではないが、
むしろその方に住んでいた方が、気楽だと思われるから、
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あえて親友交換を行わないだけのことなのである。
それでまた、都当について少し言ってみたいが、
私にとって、他の人はどうだか知らない。
最も苦痛なのは、都当の一味の、馬鹿らしいものを馬鹿らしいとも言えず、
かえって賞賛を贈らなければならぬ義務の負担である。
都当というものは、旗から見ると、いわゆる友情によってつながり、
じっぱひとからげと言っては悪いが、応援団の拍手のごとく、
まことに小気味よく、歩調だか苦調だかそろっているようだが、
実は最も憎悪しているものは、その同じ都当の中にいる人間なのである。
かえって内心、頼りにしている人間は、
自分の都当の、適種の中にいるものである。
自分の都当の中にいるすかない奴ほど始末に困るものはない。
それは一生、自分を憂鬱にする種だということを、私は知っているのである。
新しい都当の形式、
それは仲間同士、好戦と裏切るところから始まるかもしれない。
友情、信頼、私はそれを都当の中に見たことがない。
聞いていただきました、田沢陽さんの都当について、
面白いですよね、物語でないものというんですか、
有名な小説家というんですかね、
面白いことを言われるなというようなことでございます。
面白いことというカテゴリーに入れてもやら、
分かりませんけど、
孤高に対する固定という言葉、
読んでてね、
自分も全部が一緒ではないですが、
部分部分、田沢さんの言っていることは分かるなというようなことがあります。
私はもう、田沢さんのように固定になられへんかったというか、
この群れというんですかね、群れの中におって、
好かれたいんやけど嫌われる、最終固定になるという、
田沢さんの場合は、自分からその煩わしさを避けるために、
固定になるという考え方、
もちろんこの人は自分の認識では固定でしょうが、
僕らから見ると孤高の存在というような感じのイメージはありますね。
どんな方やったかというのは、
それぞれ研究されている方、
どんな人やったかご存知の方はよくおられると思うんですけど、
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僕らがもう学ぶのないもんで、
田沢治という名前ぐらいしかわからんわけでございますよね。
でもこの人の言うてるこの一文の中にはですね、
まあ同じようなこと考えてねえなというような、
身近な部分というのが多分に含まれてまして、
ちょうど後半の文の中にね、
言うては見たものの、いや嘘です言うてね、
本間はこうなんですっていう可愛らしい一面というんですかね。
これがまあ、女性には好かれるとこというか、
田沢さんの肖像なんじゃない、
まあ皆さんご存知なんでしょうけど、
シュッとした感じというんですかね。
そんな風に見えるようにも感じますけども、
この都道であったり、群れであったりとか、
孤高なんていうのは存在せえへんのやと、
孤高って自分で言うてる人なんていうのは、
性格悪いんやで言うてね、
まあはっきり言わんのは思ってね。
確かにね、孤高の方っていうのは周りから見た表現で、
別に本人はどんなことしようとしたはらへん。
さっき話した孤高やなと自分の世界に入り込んで、
それで高みを目指してる方、自分の思う、
そういう方ね、別にこの業界どの業界関係なしにいたはりますよ。
それでやっぱり祭り上げられる、
建て祭られるわけじゃない。
祭り上げられるというような方はおられますな。
どの業界にもいたはります。
なんかそんな感じてると、
この人の言うてることをパチッと説明中のがね、
こう書いてこう書いてというような書き方はありますけど、
ビチーとはまりますね。
やっぱり物書きの人たちは、
こういうの説明上手なんやなと思ってまいりますね。
補足説明がすべてパチンとはまるというような感じは、
僕はしたんですね。
これが聞きづらい、読み取りづらいという方も
おられるかもわかりませんけど、
僕なんかみたいにこう、
無駄によくしゃべる人間からしますとですね、
こんな風にこう、
パチンパチンと言葉当てれるか、
これはないわけですよね。
えーとか、
うーとか、
あーとか、
そうでんなーとか、
こういらんことがいるわけですけども、
中に出てくる面白いですね、
キザであるというような言葉の後にね、
見破られかけたタルチュフ、
タルチュフって、
タルチュフって何やねん、
お菓子の名前にしか聞こえへんがなあ言うてね、
調べてみたらね、
偽善者、
キリスト教の中で言う偽善者ですね、
詐欺師とかね、
そういう意味があるわけですね。
詐欺を働こうとしてる、
偽善を働こうとしてんのを見破られかけてるような人としようね、
どんくさい人なんやというような表現なんでしょうね、
ある意味ね、
面白いですね。
だからここではない、
固定なんやと、
低いと、
言うてあるわけでございますよね。
まあほんで、
都道の中におる人間が、
本当に友情仲間で繋がってるという感じではない、
というのも、
言うてありますね。
煩わしいもんなんやと、
そやそやって言わなあかん。
これ、
あの、
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バチンと心を射抜かれますよね。
やっぱりお友達仲間と言うたら、
そやそや、
ええなあ、
ええなあって、
言わんなんというようなとこっていうのは、
あるわけです。
これがね、
あの、
多分ダサいさんからしたら、
本間はそんなに思ってへんのに、
そうせなあかんというのが、
しんどい方なんやと思うんですけど、
僕はそうでもないですよね。
やっぱりお友達仲間やと言うたら、
あの、
ええなあ思ったら、
ああ、
ええなあ言うて、
素直に思いますわ。
これがあの、
額のない人間の、
アホなところでしょうな。
本間やったら、
それを考察して、
ええか悪いかっていうのを、
自分でちゃんと判断して、
意見言える人っていうのが、
あの、
額のある人なんでしょうけど。
僕はもうあの、
仲間、
友達がやってるみたいな、
ああ、
ええやんか、
言うてね。
単純に言うて、
この辺がやっぱりダサいさんのようには、
なれないところでしょうな。
まあ最後、
すごいですよね。
友情、
信頼、
私はそれを、
都道の中に見たことがない。
ここですよね。
わいわい、
だらだら、
こう仲間の中で、
わいわいやってるような中からは、
友情、
信頼。
確かにね、
まあ考えてみますと、
そういう、
こう、
だらだらした、
こう、
なれ合いの中、
では、
に、
親友がおるかと言われたら、
これね、
やっぱ考えたらね、
そこの中にはおらんのですよね。
うん、
面白いことに。
えー、
信頼もそうなんですよね。
で、
僕らんちゅうのは、
あの、
信頼もない人間ですから、
あの、
要はわかるというか、
そしてまあ自分が、
信頼される側では、
もうもちろんないというのもありますけど、
自分が信頼してる人っていうのは、
やっぱりその輪の中からは、
出たはる人なんですよね。
面白いことやなあと思ってね、
やっぱ太宰治ちゅう人間はすごいなあというふうに、
改めて思うわけでございますよ。
ま、
これでね、
太宰さんの作品ちゅうのは知ったことあるけども、
なかなかちょっと、
うーんと思うなあという方もね、
この一文読むとね、
太宰治という人間の、
また一つの一面、
別の一面が見れるんちゃうかなと、
思うわけでございます。
ややこしいことはして、
考えられないなあいうのでも、
一つやと思う。
僕はこの文で、
太宰治という人間が、
僕に対して説明してくれてる話として、
すごいわかりやすいなあと思うわけでございますよね。
だからといって、
太宰治の作品がどうだ、
ということは、
一切わからへんわけでございます。
そこが、
学論ない人間の、
寂しいところやと思いますね。
もっともっと勉強すれば、
入ってくるのかもわかりませんけど、
勉強の仕方もようわからん、
というようなことでございまして、
それでも、
太宰治の魅力の一辺がわかっただけでも、
今日はおんのじとしとかなあかんのちゃうかなと、
思うとおりますね。
あまり偉そうに描くつけておりますとですね、
いろんな方にですよ、
またきょうも、
だまれ、
やどろく、
ゆうて、
おこられますわ。