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【ラジオ部|みるらじお】 #1 三瓶玲奈(絵画)
2026-06-20 1:38:47

【ラジオ部|みるらじお】 #1 三瓶玲奈(絵画)

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ファンダメンタルズに参加しているアーティスト小宮太郎と、知覚心理学の研究者、北川 智利をMCとして毎回、アーティストや研究者の「みている」世界を探ろうという雑談番組です。
毎回冒頭のコールをゲストの方にお願いしています。
 

第一回ゲスト: 三瓶玲奈
三瓶玲奈(1992年愛知県生まれ)は、多摩美術大学卒業後、東京藝術大学大学院修士課程を修了した画家。「知覚とイメージ」の関係性を主題に、植物・木漏れ日・水面など日常の光景をモチーフとした絵画を制作。抽象と具象のあわいを行き来しながら、光・色・温度・湿度といった感覚的要素を絵画内に立ち上げる。Yutaka Kikutake Galleryでの個展や「VOCA展2020」への参加など、国内外で精力的に発表を続ける。

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番組について:
ファンダメンタルズ・ラジオは、ファンダメンタルズ プログラムの音声配信です。
プログラム参加者の自主企画「ラジオ部」、フェス・バザールの記録、
山口の人々へのインタビューなどをお届けしています。
https://fundamentalz.jp
お便り:contact@fundamentalz.jp

感想

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サマリー

このエピソードでは、画家である三瓶玲奈さんをゲストに迎え、「みる」という行為とその多様な捉え方について、MCの小宮太郎さんと知覚心理学者の北川則道さんが深掘りしていきます。 三瓶さんは、光や色彩をモチーフにした絵画制作を通じて、視覚と認識の関係性を探求しています。特に、ガラスのコップの縁にハイライトが浮いて見えるという自身の独特な見え方について語り、それが絵画制作の動機や、他者との認識の違いへの探求へと繋がった経緯が語られます。北川さんは知覚心理学の観点から、人間の認識は脳による補正や過去の経験に基づく解釈によって成り立っており、錯覚の研究などを通してその複雑なプロセスを解説します。 番組では、デッサンの訓練が必ずしも見たままを正確に描くことにつながらない場合があること、絵画制作における「翻訳作業」としての側面、そして感情や身体感覚が絵の具を通して可視化される可能性などが議論されます。また、個々の見え方の違いを認め、それを探求することの重要性が強調され、アーティストや研究者がどのように世界を「みている」のか、その多様性と豊かさが語られます。さらに、環境や空間が自身の見え方に与える影響や、イメージをキャンバスに定着させる際の「再構成」というプロセスについても触れられ、視覚以外の感覚との連携や、メディアによる表現の違いについても考察が深められました。

番組紹介とゲスト紹介
スピーカー 2
三瓶玲奈のみるラジオです。
こんにちは、始まりました。みるラジオ、 ラジオMCの小宮太郎です。
この番組は、アーティスト研究者の方が、 普段どんなものを見ているのか、
また、どんなふうに世界を見ているのかを 探る雑談番組です。
この番組のテーマはズバリ、見る。
人それぞれ見ているものは違う。
そして、見え方そのものが違うんじゃないか、 という問いからスタートしています。
そもそも他の人が見ている世界を、
僕たちは本当の意味で覗くことはできません。
だからこそ、ぜひ覗き込んでみたいという願望とともに、
実は僕の見ている世界と隣にいる人の世界の見え方って、
どこがどう違うんだろうということをお話しながら、 一緒に見つけていけたらと思っています。
アーティストの見ている世界や、
さまざまな専門分野で活躍している研究者の方の目を通して、
改めて世界を見返す想像ができたら豊かだなと考えています。
スピーカー 2
毎回違うゲストをお呼びして、
直接インタビューをしながら聞いていく形式です。
その聞き手として、僕だけではなく、 もう一人のMCをお迎えしています。
知覚心理研究者の北川則道さんです。 よろしくお願いします。
はい、こんにちは。北川則道です。
知覚心理学の研究をしています。
知覚心理学って何だろうと思われる方 いらっしゃるかもしれませんが、
感覚の研究ですね。
五感の研究。見たり聞いたり触ったり、
あとは香りとか味とかですね。
そういう感覚の研究をしています。
心理学でそんなことをしているんですか?と よく言われるんですけれど、
心理学の中では一番古い領域になります。
でも見る、聞くとかって普段すごく 自動的にみんなしているので、
あんまり研究の必要はあるのって 思われるかもしれませんが、
実はすごく複雑なプロセスになります。
なのでそれを研究する。
よく使うのは錯覚ですね。
見ているとか聞いている物理的なものと、
人が見たと思って感じているものが違う、ずれている。
それを研究すると、
入ってきたものがどういうふうに
人間の認識したものに変わっていくかというのが、
その仕組みが分かるということで、
錯覚を使った研究というのをよくしています。
僕自身は見る、視覚はあんまり専門じゃなくてですね、
体の感覚とか聴覚とかを研究することが多いです。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。
三瓶玲奈の制作と「みる」ことへの問い
スピーカー 2
そして今回ゲストとしてお呼びしている、
三亀玲奈さんになります。よろしくお願いします。
スピーカー 1
ありがとうございます。三亀玲奈です。
画家として活動していて、
油彩や水彩という絵の具をいろいろ使って絵画を制作しています。
大きな関心は見るということ、
ラジオのテーマにもすごく関わってくることだと思うんですけれども、
さまざまな光によって立ち会われる現象を起点に、
視覚と認識の関係を問いながら制作するというふうにしてまして、
その見たものっていうのが、
今は写真とかいろんな映像、動画も撮ることができますし、
見たものを証明する方法みたいなことって
結構たくさんあるのかなと思うんですけど、
そういったところとはちょっと違う視点から、
過去に見てきたものとかの経験を持ってみることとか、
それぞれ違う経験、人それぞれ個々の違う体験や経験を持ちながらも、
同じものを見ようとするだとか、
逆に同じものを見たときにどのような違いを持ってみることができているのかとか、
そういったことを絵画を通して問いかけながら発表したりということを目指しています。
ありがとうございます。
スピーカー 2
僕が三亀さんの作品の印象値の話で申し訳ないんですけど、
三亀さんのこれまで直接作品を多く見たことはないんですが、
ポートフォリオとかもしくはウェブサイトとか見させてもらって、
すごく光っていうものを印象的に捉えているのは絵画だなと思っていて、
ものによっては赤い身であったりとかがすごくぼやけて色彩に変換されていたりとか、
あと今回この番組ファンダメンダルズというプログラムの中で立ち上がった企画ですけど、
三亀さんが参加しているプロジェクトっていくつかありましたよね。
スピーカー 1
そうですね、私が2025年度のファンダメンダルズで参加しているのは、
可視化ユニットという大人数ユニットと、
スピーカー 1
あと観世界ユニットというこちらもまた大人数ユニットで、
ファンダメンダルズの中ではペアとユニットといって、
2人組だったり3人組だったり、私の組は7人ぐらいいたりとか、
結構様々な関心を軸に集まって、
いろいろ各々の研究や政策を深めるということをしているんですけど、
スピーカー 1
私は2025年度の中でもすごく大人数の2つのユニットに関わっています。
スピーカー 2
なんか展示をされてたと思うんですけど、
その時の作品は、あれは可視化ユニット?
スピーカー 1
可視化ユニット、はい。
スピーカー 2
三亀さんがその可視化ユニットで何か可視化しようとしてたものって、ちなみに何だった?
スピーカー 1
可視化しようとしていたものは、
そうですね、これ一言で言える方がいいですね、今さらながら。
スピーカー 2
でも全然大丈夫ですよ。
なんか僕があの時思っていた、見た印象で言うと、
光、色彩という言葉が一番シンプルに僕は受けた印象だったので、
とはいえ、絵画の一つのテーマとしてはもちろん光であるとか色彩というのはあると思うんですけど、
三亀さんの作品は僕の中では、絵画の中でもある種の王道でもありつつ、
ただそのファンダメンダルズでお会いした時に三亀さんが言っていた、
モチーフを見る時にハイライトが浮いて見えるんですっていう、
ちょっと急にぶっ込んだ話をしますけど、
その言葉がきっかけとなって、僕はそのこのミルラジオというのをしてみたいと思った。
もうちょっと詳しく説明すると、
三亀さんが絵画として描いているぼやけた光、もしくはぼやけた色彩みたいなものが見ていて、
それを描く時に見ているものをそのまま描いているのか、
もしくは見てその絵画に落とし込む時に変換して描いているのかとか、
様々考えることができると思うんですけど、
でもそれよりもっと手前の三亀さんが普段見ている景色について、
僕はちょっと全然想像してなかったところで、
ガラスのコップの縁に手前に例えば光が立ってハイライトがあるじゃないですかって、
その時三亀さんおっしゃって、
そのハイライトが3センチぐらい浮いて見えるんですっていう風に説明された時に、
どういうことが分からなかったんですよね。
僕はそのどういうことか分からないけれども、
きっとそれって僕が見ている世界の見え方とそもそも違うなって思って、
で、なんか詳しくこれは三亀さんに聞いたほうがいいなと思った。
で、その話を北川さんとも実話して、
北川さんとぜひ三亀さんにグイグイ質問していこうじゃないかっていうような感じで今います。
スピーカー 1
なるほど。
じゃあ、はい、それはあれですね。
山口大学の展示からマイクロバスでマイカムに帰る時の会話で、
そのハイライトが浮くっていうことについて描いた作品が、
過去にミルクジャウっていうタイトルであって、
それはミルクポット、小さい陶器のミルクポットに描かれている紺色の花の絵だったりだとか、
金色で縁が取られているところ、あとは白い陶器のハイライトっていうのが、
もうそのものからどうしても浮いて見えてしまって、
で、そのデッサンってある意味すごく訓練というか嘘というか、
すごく突き詰めるほど技術的な頭で考えているものっていう感じ、
学ばれた方は結構そう捉える方も多いのかなと思うんですけど。
あれですね、デッサンってつまり写実的に絵画美大に入る時に必ずこう飛び込んだ。
そうですね、通るようなものだったりだとか、
いわゆる誰もがこれを描いたとわかるような状態の鉛筆だったり木炭だったりを使った水彩絵の具でもそうですけど、
そういったいわゆるデッサン的なっていうところの知識をある程度持っているにもかかわらず、
どうしても見ているものっていうのがそれと乖離していったり、
ハイライトが物にくっついていない状態っていうのはデッサン的にはあり得ないとも言えるかもしれないけれども、
そう見えてしまっていて、ただそれが私、自分だけがそうじゃないんじゃないかって思っていたんですね、当時。
なので、小宮さんと話した時に、自分だけがこう見えてたらどうしようって結構恐怖を感じました。
絵を描いているそもそもの動機でも結構、まず何かを見る、見た、何かを見たっていう意識が働く時って、
ただ視界に入っているっていうこととは別で、ある意味すごく能動的にというか意識的に見たっていうスイッチが入るだとか、
何か気づくっていうことと同時に見たっていう感覚が起きるのかなっていうふうに捉えてるんですけど、
まあその、何て言うんですかね。
こう視界に入るぐらいの感じで見てると、全然デッサン的に捉えることはできないんじゃないか。
そもそも結構脳みその方でいろんなことを補正しながら見たつもりになっているけれども、
結構そもそもハイライトが浮いているみたいな現象ってすごく起こってるんじゃないかなみたいなことでその絵を制作したりとか、
ハイライトのことも私だけではなくて、何か補正をすごいしてるだけで補正しないっていう状態ならば、結構そういうことが起こってるんじゃないかっていう感じで思考が始まっていて。
知覚心理学から見た「みる」ことの仕組み
スピーカー 2
北川さんいかがですか?
面白いですね。
僕、三上さんがハイライト浮いて見えるっていう話をされたときに、
あ、そういうことかと思って、三上さんの絵を見たときに何となくこう、
色と形が分離しているっていうか、色が浮いているっていうか形、
形状と分離しているような気がしていた。
そういうふうな印象を持っていたので、そういうことかと思って、そういうふうに見えてるのかもしれないと思って、すごい、なるほどと思ったんですね。
で、見るっていうのが、今おっしゃったみたいに脳でいろんな補正をしてて、それを外したら見えてることは結構あるんじゃないかっていうのは、それはすごく面白いですよね。
で、近く見るっていう行為自体が多分いろんな補正をするというか、いろんな知識を使わないとそもそもものが見えない。
目に入ってきた情報だけでは、それが何かみたいなことを理解するのはおそらくできなくて、いろんな経験に基づいて解釈しないと、その認識みたいのは生じない気がします。
というか生じないですね。
なので、私たちが見ている世界っていうのは、見ていると思っている世界というか、それは一番ありそうな、今目に入ってきた情報と今までの経験を照らし合わせて、一番最もらしいものが見えてるみたいなことだと思うので、
そういう処理をしないものを見たら違って見える可能性はあるだろうなと思って聞いていました。
ただ普通はあまりできないというか、もう自動的に一番ありそうなものが見えてしまっていて、あんまり処理する前の情報にアクセスするということはできないと思うんですけれど、
それがでも普段から見るっていうことを意識的に見るっていうか、なんていうんですかね、見ること自体をすごく集中してこだわりを持ってやっていると、そういうことができるようになるのかなと思いながら聞いていました。
なんか僕もちょっと三亀さんの話に乗っかるならば、僕もデッサンを教える、教えに行ってるんですね、週1で。
毎週教えに行ってるんですけど、デッサンを本当に、いわゆる上手い下手っていうのはもちろんあるんですけど、教えるときによくモチーフ見てっていうことほど無駄なことはないなと思ってまして、
見てるんですよ、ちゃんと。めちゃめちゃ見るとよく見える分、この描いた先の絵の方でそれが別に、それが展開されないというか、見たものを描いているなってすごい思って、それが別にいろいろバラバラに画面で重なっていくと、もちろんデッサン、いわゆるデッサン的には崩れた絵になるみたいな。
だから、ちゃんと見てちゃんと写実的には描いているが、でも、いわゆる世界共通で物がとか見えている景色とはなんか歪んで見えるみたいな、そういうことが起きているなと思っていて。
だから、絵の方を見たら何が違うのかっていうのを、もう1回把握して補正していく作業みたいなのが必要なんですけど、絵の訓練としては。でもなんかそうしていくと、もともと見ていたその目の良さみたいなものが、ともすれば壊しているような感覚にも、僕もなるっていう。
デッサンというシステムが、そういう意味でも本当にいいんだろうかって、アーティストをしていると特に思ったりするなと思いますね。
スピーカー 1
必要な技術でもありながら、すごく客観と主観のバランスがすごく崩れやすい勉強でもあるのかもしれないですよね。
絵画を描く上で、見る上ではまたちょっと違うかもしれないんですけど、絵画を作るって結構翻訳作業みたいなところがすごくあるなっていう感じが年々強まっていて。
やっぱり3次元の中のものの一単位っていうのもすごくいろんな言い方ができると思うんです。
例えばボールペン1本っていう位置っていうのと、ボールペンの部品に分解したときにそれは何本になるのかとか、インクをどこまでどのように捉えるのかとか、
その単位も違えば、数え方もいろんな数え方ができるように、絵の中の単位、デッサンはまた別かもしれないんですけど、
例えば油絵具を使う場合って、すごく遠くの橋、橋、ブリッジとかを太めの筆で1本で描いたりとかすることもあれば、
手前にあるすごく立体的に見える草の1本1本をすごい細い筆で描いたりとか、逆に遠くの同じ草は大きなハケでザッと1本、ザッと敷き目を作ってしまえばそれになったりみたいなことって、
そういういわゆる真面目に見るみたいなことをしていると、その変換って全然うまくいかなくて、
なので、絵にするっていう前提を持ったりしながら観察したり組み立てていったりしないと、
必ずしも3次元の1つの単位、1つずつの単位っていうものをそのまま絵に持ち込むこともできるし、
そうじゃない方が逆にすごく現実味を帯びたりすることもあって、
すごく言語が違う、同じ見るというか視覚を使っていても、絵を見ることとその実際の風景だったりものを見ることって全然違うなっていう、
描くことも違うなっていう感覚が結構あって。
スピーカー 2
なんか多分北川さんの話がさっき言ってて、やっぱりその北川さんのお話の前提に言うと、
でもその画家として描いていくうちに見るが訓練されていき、見え方が変わっていったのか、
もしくは三上さんってもともと見えているものが、
例えばさっき言ったグラスの縁のハイライトの話1つとっても、そういうふうな見え方もともとしていて、
それを1回絵にしてみようって思ったのかで言うと、なんか自分ではどっちだと思いますか。
なんかもともとナチュラルにそういったものがあったのか、
もしくはこう見ていく、絵として見るうちに発達していった視覚というか、見るっていう能力って。
絵画制作における「翻訳」と感覚の可視化
スピーカー 1
そうですね、後者なのかな。
こうやっぱり何かを見たっていう感覚が生まれた時に、それを描こうと思うっていう、まず動機はすごくシンプルで、
描こうとして描いた時に全然うまくいかないっていう、本当にうまくいかないっていう壁が未だにあるような感じで、
試行錯誤して見ることについて知ろうとしたり、描くことについて知ろうとしたりということを重ねていった結果、
急にそのハイライトが浮いて見えるみたいな現象にあたるみたいな感じで、
その時々、ハイライトの件は2019年に初めてそう見えてしまってからずっと困ってる。2018年かな。
なので、そういった見え方の問題とか、何かが起こったということも作品と連動してたりするので、何が起こったかを結構年代で覚えてますね。
でも、最近はだいぶハイライト浮いて見えなくなってきてるんですけど、たまにやっぱりありますね。
そういう、どうしようみたいな。これは自分だけだったらどうしよう。
なので、そうですね、こう、やっぱり絵を描いてて、描いたものを見せる機会っていうのがある時に、このように見えてるんですねって言われることが結構怖いです。
何か私だけがそう見えているだとか、画家の世界みたいな風になっていってしまうとそれは本位ではないので、
こういうふうに見えるかもしれないぐらいのアクセスができたらすごくいいなと思いながら、自分にも嘘はつけないしっていう感じのところでやってますね。
スピーカー 2
でも、それが、そっちの方がある種正しいのかもしれない。正しい見え方なのかもしれないし。
分かんないですよね。
何か僕は一方で、三亀さんだけかもしれないが、いや、そうじゃないかもしれないのが常に残ってるなと思っていて、
僕もそういうふうに実は見えてるのかもっていう可能性が残されているとは思うんですね。
それはだから見るっていうことを聞いていきたいと思ったきっかけでもあるんですけど。
でも三亀さんだけに見えてるのでも面白いとは思ってます。
無責任な言い方ですけど。
スピーカー 1
そうですよね。小宮さんとか北川さんと話してて思ったのは、本当に新たに2026年の価値観として、その可能性を認めなければいけないっていうことをすごく思いました。
今までは割と否定するというか、自分だけがそう見えているかもしれないという可能性について否定する方向で考えていたんですけど、そういう立場だったんですけど。
そのそうかもしれないの範囲をもう少しクリアにしていくみたいなこともやってみたいというか。
あとは作品を発表することでも、
私含めて各々の見ている世界が絶対ではないみたいな価値観が常にあるっていうことは、いろんなことにおいて見方を広げていくんではないかなっていうふうに思っているので。
そういう意味でも、自分しか見えていない可能性っていうのを認めなきゃいけないんだろうなという、最近思っております。
スピーカー 2
さっきは遠くの草を描くときはザッと描いてしまうみたいな。
そういうものと普段の見方って関係があるんですか。
何か描くものを見るときに、全部細かく見ようとする。
分析的っていうか、全部ちょっとなめるように見るっていうか、描くべきものを全部こうやって見ていくみたいなことをするのか。
あるいは描く重要なこれを描きたいって描きたいところはよく見るけど、周りはそんななんかわりとザッと見るみたいな感じなのか、どういうふうに絵を描くときって見るんですか。
スピーカー 1
なんか、このラジオを収録する前にマイクをつけると話せないよねみたいな話をちょっと緊張しちゃうといつもと違う風になってしまうよねみたいな感覚とか、かなり近いようなことが絵を描くときにも起きる気がしていて。
見る、見たっていう段階のときは多分描きたいものがすごく主体的にというか、きちんと見えるっていうのもちょっと表現があれですけど、描きたいものが明確に見えている状態。
ただそれを描こうとして改めて観察するっていうことをすると、さっき秋田川さんがおっしゃったように舐めるように見てしまうっていうことをすると、その見たときのバランスが多分崩れるんですね。
それで全てを細かく描き込んでいくと、結果的に違ったものになってしまうっていうことはすごくあって。
なので、私が絵を描くときに、これも最初からできたわけじゃないんですけど、ぼんやり見ているものは結構色の面っていうふうにぼんやり形があんまり見えないものとして見ていて、
集中して見ているものっていうのはもう少し形が立ってくる、輪郭がちょっと際立ってくるような感じなのかなというふうに思いながら、観察するっていうことを描くためにすると本当に全てを平等に見て、
それをまた描くっていう技術においては、取捨選択しながら逆算の作業、マイナスの作業みたいなことをしていくことが多いのかなっていうふうに思います。ただ、観察した結果すごく緻密に見えるっていうことも素直な反応なので、そこの取捨選択もすごい悩みながらしている気がしますね。
スピーカー 2
すごく真面目な画家なんだなって思いますね。
いや、すごいいい話だなと。
スピーカー 1
多分、いろんなことができなかったから、こうどうしたらできるのかとか、なんでこうなってしまうのかみたいなのをすごく考えてきてはいる気がしますね。
ずっと奇想、奇想のところでずっと足踏みしているような気持ちでもありますが。
スピーカー 2
なんか少しだけちょっと話を戻しちゃうんですけど、さっき年代ごとに何が起きたか分からない、例えばハイライトは2019年っておっしゃってたと思うんですけど、今言っていたように見ると描くってサイクルがすごい自分自身の見方の中にもう一回組み込まれていて、
で、それがこう都度何か発見があって、その描くって方からまた見え方の方に何ですかね、揺り戻しというか考え方とか見え方みたいな影響があるっていうことだとしたら、
例えばどういうことが他に起きたのかって聞いてもいいですか?
そんな見え方っていう視覚のみの話でなかったとしても全然いいんですけど、考え方とか。
スピーカー 1
そう、完全にそのテーマとマッチするかは分からないんですけど、
絵の具を動かす、絵の具を使うっていうことに関して、物質の変換、さっき翻訳っていう表現をしたんですけど、物質の変換みたいな風に表現することもできるのかなっていう考えてた時があって、
それはコロナ禍以降だったと思うんですけど、一番最初の感覚は、幽霊の話をしていて、私は幽霊は見えないし、分からないんですけど、体験したことがほぼないというような立場で、
ただ、怖い話を聞いた時に背筋がゾワッとするみたいな、背筋がゾワッとする感覚自体は今現在起きていることで、それは何か自分が過去にした体験、冷たさだったり寒さだったりみたいな体験と、その怖い話みたいなことが結びついて、体に引き起こった何か状態が今起こっているみたいな。
そのゾワッとした感覚自体は、見える見えないに関わらず、今起こっているからあると言える、みたいなことが結構絵画でも起こってるんじゃないかなって思っていて、すごいめちゃくちゃな話かもしれないんですけど、絵画も絵の具って顔料を油絵の具ならば油で練ったもの。
水彩だったら水で練ったり、アラビアゴムというメディウムで練ったり、何かを顔料で練ったものを筆などにつけて、流動的に動かして固めるみたいな作業かなと思うんですけど、その絵画の情報量って改めてすごいなと思っていて。
私はあまり絵に感情を載せるっていうことは、自分の表現としてあまり取り入れない、極力そういったことがないように作っているという表現ができるかな。
ただ、やっぱりアドレナリンがドワドワ出ているときの筆の動きっていうのは、その神経物質が顔料に置き換わって出ていると言ってしまえば、それは感情的な絵というふうに捉えられる、感情の度合いが現れた絵というふうに捉えられるんじゃないか。
疲れているとか眠いだとか、逆にものすごく元気みたいなことも、顔料の粒の度合い、スピードの度合いに乗ってしまうとしたら、絵画の情報量ってものすごく恐ろしいなみたいな。
目に見える形であるない、数値的に別の形でグラフにはできるかもしれないけれども、簡単に目に見える形ではないものが顔料に置き換わった途端に可視化されてしまうみたいなことはあるんだろうなっていうことを思った。
それを見た時に、自分の絵だったり人の絵を見ることがものすごくしんどくなったみたいな時はありましたね。ものではないんですけど、ものというよりは作品を見ることがものすごくしんどくなった時期があって、それでもどんどん抜いていくというか、感覚をちょっと弱めていく時期が必要だったりもする。
そうですね、ものに対してではないですけど、そういうことがありました。
そういうことってあり得るんですかね、どうなんでしょう。
スピーカー 2
あり得ますよね、それはね。そこから感情が伝わるっていうのはあり得ます。
じゃあその描いた人の辛くなったっていうのは、描いた人の感情が伝わってきて、それに引き込まれてしまうみたいな、そういう感じなんですか。
スピーカー 1
そうですね、なんか今まででも割と感情的な表現に対して多分結構鈍くて、あんまり読み取れない方ではあったと思うんですけど、やっぱり過激なというか過剰な晩年の、画家の晩年の絵とかを見た時にちょっとうっとくることはあっても、
生きている中で起こる感情の強弱みたいなものはそんなに多分、強く反応してこなかったんですけど、その感覚をちょっと掴んだ時に、やっぱり急に全てがなんかそのチャンネルで見えるようになってしまうみたいな感覚が起こって。
でも、そもそも絵を見る時にその感覚で見るのが主体、メインの方もいれば、もっと現象的なところで見る方もいれば、まあ絵に限らず物事をどのように見るかというのは本当に人それぞれだし、それが同じ人間の中でも切り替わる可能性があるっていうのは、
一旦何も信じられなくなりますね。自分のことも結構信じられなくなりました。
スピーカー 2
わかります、確かに。
自分の見方なんてものはないんだと。
スピーカー 2
画家の人とか、描いている一つ一つのストロークとかどういうふうな体の動かし方をするとか、読み解ける人は本当に読み解けたりするので、もちろんそこに感情というものを読み解いたりとかする。
だからやっぱり幽霊の話と、幽霊を見れないけれども俯瞰が走るっていうのは確かに同義なのかもなと思うと、幽霊の再現性としては結構面白いなと思って。
それが確かに絵画でもできるってなると、すごいメディアっていうかですよね、本当に。
で、それが100年、200年とか何百年経っているっていう、なんかすごく面白い幽霊再生装置だなと思って。
なんか厳密に言うと、体験と感覚が結びつくっていう感じなのかなと思っていて。
スピーカー 1
厳密に言うと、例えば幽霊っていうことと、俯瞰が走るっていう体験が結びついているっていうことはイコールして幽霊がいるっていう証明にはならないのかなというふうには思うんですけど。
なんか、再現っていうとまたすごく違った感覚、いるに近い、いる状態を再現する。
例に出したのがあんまり良くなかったかも、お化け怖いので、考えが進まないけど。
スピーカー 2
僕も全然見えないんで、いたらいいなというのと否定をしたくないなというポジションなので、ただなんかこう、経験がないのにもかかわらず幽霊の話をして俯瞰が走るってあれ結構じゃあ不思議なことだよなと思いますよね。
一体どのタイミングでその経験をしたのかっていうのは結構不思議というか。
スピーカー 1
なんで暑さにつながらないのかと気になるんですよね。その幽霊の話をして体がほてってくるってあんまりないと思うんですけど。
確かに。
なんで。
視覚以外の感覚との連携とイメージの再構成
スピーカー 2
僕、本当に小学校の頃に連れてかれた肝試しですかね。夜、ボーイスカートとかで行ったんですけど、廃坑みたいな建物の中を本当に二人で歩かされて、めちゃめちゃ怖かった記憶があるんですけど、
あの時ってアドレナリン出まくりですごい暑かった記憶があるなと。
俯瞰とかじゃなかったような気が。なんか妙な興奮を覚えていたような。
スピーカー 1
なるほど。じゃあその俯瞰が走るっていうのもある程度大人になって得てしまった感覚なのかもしれないですよね。
暑さも感じる。なんか北川さんのご専門的にこれを説明できるのかちょっと知りたいんですけど。
スピーカー 2
どういう風に説明するんでしょうね。確かに暑いかもしれないですね。
なんかでもゾワゾワッとしますよね。
それはみんな同じ感覚なのかどうかみたいなのもわからないですね。
でもなんか背中の方がみたいな感じはしますよね。
スピーカー 1
上半身、肩の周りとか。
スピーカー 2
怖いっていうのが。
恐怖心と、お化けじゃなくても恐怖心っていうのはやっぱり関係あるんですかね。
背筋周りの神経系って。
来そうな気がしますよね。
でもなんかお化けの怖さって、怖いって対象があってこれが怖いみたいなのはわかるけど、お化けってないから怖いっていうか、
見たことがない、僕も全く見えないですけど、見えない人にとってはなんだかわからないのが怖いみたいなところはあるような気がしますよね。
怖い人が目の前にいるときの怖さとはちょっと違う。
確かに。
そうですね、怖い人が目の前にいたらゾッとはしないのか。
どんな感じですか、怖い人が目の前にいたら。
スピーカー 1
ちょっと体を引くとか、汗をかくとか、どうなんだろう。
スピーカー 2
冷や汗をかく、冷や汗ってやっぱり暑いけど寒いですか。
なんなんでしょう、冷や汗って。
そういう研究されている方っているんですか、人質心理学って。
いるかもしれない、恐怖の研究は多いですよね。
けど、お化けとかはあんまりないかもしれない。
スピーカー 1
なんか絵を見るみたいなことを考えたときに、結構他の語感にアクセスするみたいなことも可能だなと思っていて、
すごい触覚的な絵だったりだとか、逆にどうしたら音と共存できるかみたいなことをやっていた時代も
100年ぐらい前とかに多分いろんなところであったりとかして、リズム感を絵に持ち込むだとか、色彩と音色っていうのをリンクさせてみるだとか、
スピーカー 2
いろんな実験的なことをやっていた時代もありながら、
スピーカー 1
今って結構絵画っていうメディアではなく、そういった例えば音だったりっていうものを、
ラップトップとかで音楽を再生していると、何かモヤのようなイメージが連動して出てたりとかすると、
割と何か違和感なく見れて聞けて、あれって何なんだろうな、昔にはあんまりなかった感覚なんじゃないかなって思いながら、
この感覚を得ている現代でまた絵画に戻るにはどうしたらいいのかなとか結構考えちゃうこともあって。
なんか、もっと同じジャンルなのかわからないですけど、
自分が捉えやすいのは美味しそうなメニューの写真と美味しそうじゃないメニューの写真の違いとか、
近くで何かそんなに味覚までアプローチしているのが結構不思議だなって思うことは昔からあったんですけど、
何か一つ一つ視覚以外の感覚を視覚に置き換える、また逆もあると思うんですけど、
何か絵画も視覚的なものって言いながら、興味関心は全然視覚じゃないところにあるケースもあるなって思ったりもしてますね。
スピーカー 2
面白いですね。
でも音って多分、音を録音して再生できるみたいになったのってそんなに古くないんですよね。
絵画の歴史と比べたらだいぶつい最近のことのような気がしますよね。
でも音楽はあったのか。音楽はでもその場でしかできないみたいな。
そうですね、音楽。何か楽譜があって、残せもするけど、
共通、お祭りで太鼓を叩くみたいなのとか、
共通化しやすい、同じように受けているかどうかは別としても、
音って空間として共有できるものだなと思って。
歌もそうなんですけど、句伝で伝えていけるメリウムでもあるというか。
僕は北川さんと何回か話したときに、やっぱり頭の中で音が再生できるって本当に不思議だなと思ったりして。
耳コピして、全然今聞きたい音じゃなくても音楽として再生しちゃったりとかして、
鬱陶しいなと思いつつも口ずさんだりとか、そういうことあるので。
音。
それも個人差はあるかもしれないですけどね。
確かに。
視覚もイメージの研究ってたくさんありますけど、視覚でどれぐらいイメージができるかって、
イメージが全然できない人もいる、アファンタジアって言いますけど、
だからそういう人たちは、例えば小説を読んで風景の描写とか、
人物の顔の描写とかが出てきても全然意味わかんないっていうか、
これは邪魔なんだけどっていうような、
全然イメージできないからそんな描写されても何にも浮かんでこないみたいな人もいるみたいですよね。
音もそういうことはあるかもしれないですよね。
そういうのってやっぱり絵を描くときにはイメージっていうかこう、
こういう絵にしようみたいなのってあるもんなんですか?
描くときにこんな感じでみたいな。
スピーカー 1
そうですね、結構明確にありますね。
スピーカー 2
それが再現できる、なんかもう別の話になっちゃったけどいいですか?
スピーカー 1
再現って言うと、少し違和感が残る表現でもあって、
見たものだったり見てないものでもイメージとしてこうちょっと浮かんでいるもの、
まだそれは他人に見えない状態っていうイメージ、
頭の中のイメージっていうものを、
例えばキャンバスに定着させる、キャンバスに描くっていうときはまたそこに再現するっていうよりは、
そこに再構成していくとか再構築していくみたいな表現の方が、
自分の場合はしっくりくることもあって、
そもそもその理由っていうのが、
イメージの段階ってすごく、
わかりやすく言うとキャンバスって四角い形をしているものがほとんどで、
丸いキャンバスとかもたまにあるんですけど、
いわゆる壁画とかではない限り、
最近の絵って四角い絵が多いのかなと思うんですけど、
その四角に当てはめるっていう時点で、
ちょっとイメージに無理をさせるというか、
ふわーっと浮いているままだと絵画にできない。
できるけど完成しない。
イメージを再現するっていうふうに言うと、
多分周りがぼやーっとしたままキャンバスにそのまま描くっていうのは、
スピーカー 1
結構再現っていう表現をできるかもしれなくて、
四角いキャンバスの中でそれを絵として成り立たせるっていうことを考えたときに、
キャンバスを目いっぱい使う。
目いっぱい使うっていうのは、
緻密に描き込むということでは必ずしもなくて、
空間も含めて一枚のものとして成立させるというときは、
再構成・再構築みたいなことになるのかなと思っていて、
それもさっきの見え方が変わったエピソードみたいなのが一つあって、
2021年頃に、
頭の中のイメージっていうものは四角になってきちゃったときがあって、
描こうと思ったときにすごいスピード感で出せる時期があったんですけど、
そのときに全てのイメージがもう四角くなっていて、
ある意味それは再現というか、
キャンバスのサイズをその比率に合わせれば出すことができてしまう。
すごく絵画に支配されたような状態になってしまって、
それもちょっと恐ろしかったんですけど、
イメージって目で見ているものだって四角くはないわけだし、
2つの目で見ている以上、それも重なっているわけで、
四角でイメージが残るとか記憶に残るって多分、
すっごく不自然なことなんじゃないかって思ったときに、
ものすごく恐ろしくなりました。
スピーカー 2
それはちなみに思ってから、
それってももちろん絵画作るぞっていうサイコロの中で
それが出てきたと思うんですけど、
それをそうじゃないイメージの発言の仕方っていうのは、
今ではできるってことなんですか?
スピーカー 1
できます。むしろ四角に当てはめるのがまた難しくなってきているような感じで。
スピーカー 2
逆に四角、例えば壁があって、もしくはすごい大きいキャンバスがあって、
そこにイメージを描き始めたらどうなっちゃうんだろうなと思って、
バヤバヤバヤって周りがしていくのか、
もしくはどこまでもどこまでも行ってしまうのか。
でもイメージの段階でっていうのはどういう、
僕も結構ふわっとしてものを描いている、
ていうかものを捉えているような、
自分の感覚値としては結構そんな感じなんですけど、
あんまり具体的にビジュアルがパッと出て、それが再現されるというのは、
できたためしかないんで、僕は。
三亀さんの場合は、今言っているイメージの輪郭みたいなものっていうのは、
どのような形をしているのかってちょっと気になっちゃいました。
スピーカー 1
どうでしょうね。
私も絵画の中で仕組みというか、ある程度矛盾してたりとか、
すごく自分しかわからないような理論でもいいので、
とにかく成立させる。
こことここが対応しているから、こことここが対応してみたいなの、
絵の中でロジックを作っていく。
でもそれは何かを表現する、伝えるためのロジックではなくて、
描くためのロジックみたいなものを組み込んでいくことで、
そういうところは解消してきたんですけど、
それって説明できるものでもない。
ただの手順みたいなところがあるので、
そもそもふわっとしたイメージっていう方の性質が、
どんなものなのかはちょっと気になりますよね。
なんか余白が、余白にエッチがないみたいな、
ふわっとした雲のようなものの中に表現したいものだったり、
思い浮かんでいるものっていうものが浮いているみたいなことのように感じているけれども、
本当にそうなのかもわからないし。
でも、さっきおっしゃってた話に少し戻ると、
音楽をイメージする、メロディーをイメージするっていうことは結構できますね。
しかもそれが楽譜とか記号、音符みたいなものと連動してイメージすることもできて、
なので、メロディーだけ再生することもできれば、
それを楽譜と重ねながらイメージすることもできるんですけど、
絵的なイメージ、絵画的なイメージっていうのを文字に重ねることはできない。
この話も盛り上がりましたけど、だいぶ。
スピーカー 2
面白い。ちなみに音楽もされてたんですか?楽器演奏したり。
スピーカー 1
そうですね。ピアノをすごく幼少期からやってたので、
それはもうかなり最初の方に訓練されていたかもしれないですね。
絶対音感というほどはないんですけど。
スピーカー 2
すごい。三亀さんのいろいろ年代と結びついた物事の見方、捉え方が、
すごく作品と連関しているんだなっていうのが分かってすごい面白いなと思いますね。
環境と見え方の変化、そしてリアリティ
スピーカー 2
ちなみに、最近起きた現象とかあるんですか?
全部掘り出して聞きたくてしょうがないんですけど、個人的には。
スピーカー 1
なんかあるかな。
スピーカー 2
一個、北川さんちなみに何かあります?他にお聞きしたいこと。
僕、今別のことで、別のアプローチで聞きたいことが一つ思い浮かんだんですが、
最初この収録始める前に北川さんが、ここ三亀さんが音声配信なんですけど、映像が実はあって、
巨大な天井の高い倉庫のような場所で絵を描いている。
アトリエみたいなものが映っていると思うんですけど、
いる場所とか空間とか、もしくは環境で自分自身の見え方とか捉え方とか、
変わったり変化したことってあるのかなっていうのが気になって、
三亀さんはちなみにそのスタジオはいつからいらっしゃるんだろうかっていう。
スピーカー 1
えっと、2024年の3月からです。
スピーカー 2
割と最近。
スピーカー 1
最近です。
スピーカー 2
以前お聞きしたのは確かあれですよね、静岡の方だったかなと。
スピーカー 1
そうです、はい。
スピーカー 2
そのあたりは周りは、何て言うんですか、静岡でも自然豊かな場所だったりするのか、もしくは。
スピーカー 1
割と町でもあると思うんですけど、静岡って海と山に挟まれたところに市街地があるっていう感じなので、
ちょっと行けば海、ちょっと行けば山っていう感じで、
すごく自然は今まで住んだ場所の中で一番豊かな場所だと思います。
運転してても目の前に山が見えてるみたいな感じで。
そういう環境に住んでたことは今まであんまりなくて、
毎日それは未だに新鮮ですごくいいですね。
スピーカー 2
どういうことが見え方とか作品とかに影響することはあるんですか、その。
スピーカー 1
そうですね、なんか結構時間はかかるなと思っていて、絶対に影響すると思います。
ただ、すごくすぐに反応してスケッチから始めたり、すぐに絵画になるっていう場所、土地だったり空間というものもあれば、
じわじわと影響を受けていって、ガラッとあるタイミングで変わっていたみたいな環境もあって、
今のスタジオのある環境っていうのは割と後者なんじゃないかなっていうふうに思ってます。
劇的な変化っていうものがあるわけではないけれども、確実に何かが少しずつ変わっているんじゃないかなっていう。
スピーカー 2
なんか僕、自分自身の話をすると、もともと出身が神奈川県の川崎市というか工業地帯周辺で生まれて、
その後、京都に大学から来てるんですけど、本当に山もすごい近いし、真中大川が流れていてみたいな。
湿気の差ももちろんあったりとかすると思うんで、山の見え方っていうのがレイヤー構造で濃い色からだんだん薄くなるという、
いわゆる空気遠近法みたいなものがちゃんと現実として見えた瞬間に、
絵で描かれてることって嘘じゃなかったんだと思って、逆説的にですけど、
どうしても展覧会ないし、教科書とかで見ている絵が嘘くさくてしょうがなかったんですけど、都会育ちの僕としては。
これって見ている世界、そのまま描いているものなんだということを学生の頃には思ったなと思って。
三上さんはもともとあれですよね、愛知とか出身はまた全然別の場所。
スピーカー 1
そうですね、育ったのが名古屋市で本当に結構ビルいっぱいあるみたいなところだったので、今の小宮さんの話にはものすごく共感します。
なんかやっぱり関東の風景とはまた違うと思うんですけど、全てが舗装された地面だし、
ビルだったり、何て言うんですかね、自然豊かとはなかなか言い難い場所だったので。
今でも、ごめんなさい、自分の話にはなってしまうんですけど、描くものが植え込みの花だったり公園だったり、結構人工的なもの。
人が何か手を入れてそこにあるもの、これを自然としますみたいなものだったりとか。
都会の中にそういった要素が必要だとされてあるみたいな状況のものが一番自分にとってはリアリティがあって、
かえってその大きな山とか遠くの山、大自然みたいなものに対してのアクセスの仕方が全然わからない、リアリティがあまりつかめないというところから、
自然物というものを自分の方にどこまで引き寄せたら感覚というかその見方がつかめるんだろうとか、
対等にいることができるんだろうと思ったときに結構植え込みの花みたいなものが一番きっかけとして見るということにすごく適しているというとちょっと違うんですけど、
見ることがやっとできるようなものがそうだったりとか。ただこの静岡にいるときに本当におっしゃる通り、山の遠くの方って薄い青に見えるんだなぁみたいな。
しかもなんかやっぱりこの場所で育っている人とかはあれは何山であっちに行くとあるんだよとかそういったことまで紐づいているのもすごく新鮮とか面白くて、
ある意味自分が音楽と記号、音符みたいのを結びついているように、あっちに見える山は何という山でどのぐらいの標高でぐらいまで入っていたりするのって、
なんかすごくそもそもの感覚が全然違う、経験が違うっていうのがすごい面白い。
ただ、小宮さんがさっきおっしゃってたように、ずっとリアリティを持って見れなかったものが急に本当だったんだなこれって思う瞬間って結構驚きというか、今までの自分の価値観が結構変わってしまいますよね。
スピーカー 2
僕は、僕も絵を描いていた人で、絵を描くってちょっと何ですかね、極端な言い方をすると、嘘を描く、ないしは目の前に何もないものを自分で作り出しているからこその、
嘘からスタートしているからこそのリアリティのあり方みたいなものをちょっと自分自身通っているようなところがあり、
嘘を描いているんだ、それの嘘がどのように機能するのか、もしくはどういうふうにしたら本当になるのかみたいなところがやっぱりこう、
僕の場合はですけど、絵を描くときに、描いていたときに一番感じて、なんか逆に言うと僕はそれによって絵を描けなくなった人なんですけど、
そうですね、見ているものが、それぞれに見ているもの、それは視覚的なこと以外も含めて現実として捉えている世界の捉え方を見ていると、僕は今呼んでいるんですけど、
そのリアリティの処理の仕方っていうのがやっぱりそれぞれ別々で、ただその時に僕やっぱり一番興味があるのが正直は、
画家の人たちがどういうふうにものを見ているかっていうのがすごく興味があって、それは今言ったように、
絵を描くときにどうしたって現実とその目の前の絵とまた違うものとして出力されるからこそのギャップというか、そこをどういうふうにみんな見ているんだろうっていうのが、
今日三上さんから聞けてすごい面白いなと思っております。
スピーカー 1
ありがとうございます。
「嘘」と「本当」の境界線、そして他者の見え方
スピーカー 2
ちなみに北川さんは認知心理学というか音にまつわることで、それこそ人間のいろんな情報を受けたときの錯覚の話はさっきしてたと思うんですけど、
その嘘のあり方と嘘がリアリティとして現実に立ち上がれることとかって、北川さんは普段どんなふうに捉えながら実験とか、
出るんだろうなと。
何が嘘とか何が本当とかいうのがそもそも成り立たないですよね。
外に世界はあるけど、外の世界が人間が自分が行動したり生きていくのにための情報として頭の中に再現されていて、それ以上ではないっていうかな。
そうすると、どっちが本当っていう。人間にとってはそれが本当だし、自分にとってはそれが本当だけど、物理的なものとは完全には対応していないわけですよ。
それはそれでいいというか、それ以上どうしようもないので、すごい面白いですよね。
でもそれをさらに絵に表現するっていうふうになると、さらにそこに変換が入るから、外の世界があって自分が見るっていう、自分が見たと思うところで変換されて、さらにそれを絵に表現するみたいなところでまた変換して、
さらに人がそれを見るみたいになると、すごいことだよなと思って。そこで何かが伝わるってやっぱりすごい不思議だし、面白いですよね。
スピーカー 1
嘘とかについての価値観が全然違いそうですごい面白いです。
スピーカー 2
北川さんに以前お聞きした実験で、北川さん本当にすごいなと思った笑いの実験の話、ちょっと北川さんに申し訳ないですけど。
笑うときに自分のミラーニューロンとかいう、そういうニューロンがいて、神経細胞がいて、それは人の行動を理解するときに自分の行動に置き換えて理解するみたいな考え方があるんですね。
なので、人が笑っているのを理解するときは、自分が笑うときに使う神経系があって、そこが反応して、それで相手が笑っているのが理解できるみたいな、そういう考え方があって。
そうすると、人の顔を見るときに自分が表情を変えると、その表情が見え方に影響するんじゃないかみたいなのがあって、実際そういう研究はあるんですけれど。
僕がやろうとしたのは、ここに電極をつけて、電気を流すと筋肉がビュッと動いて、表情が勝手に変わるんじゃないかみたいなことをやろうと思って、電極をつけて電気を流していって、あんまり動かないなと思って。
電極をちょっとずつ強くしていったら、電気を流したのと同時にこの辺にピカッと光が見えたことがあって、これなんかやばいかもしれないと思ってやめたんですけど。
スピーカー 2
そういうことがありましたね。
それでも鉛筆をこう加えてみたいな実験はありますね。
スピーカー 1
鉛筆を横に加えると、ちょっと笑った表情と同じようになるので、その状態で顔の写真とかを見ると、その写真がちょっと笑って見えるみたいな。
スピーカー 2
再現できない、その結果は再現できないという話もあったような気がしますけど、そんなことはありますね。
無理矢理な落とし方ですけど、笑いを作って感情を読み取るために電極をつけて、違う光を見るっていうぐらいのご変換みたいなものっていうか、
その部分っていうのがやっぱり絵描く人の中にもあるような気がしてたんですけど、
でもその上で三亀さんの作品は、一番最初のグラスの浮いている光の話っていうのと、作品とがすごく一致して見えた瞬間っていうのがあって、
見ているものと、見えている世界とで、描こうとしているものっていうのがすごくやっぱり関連してるんだなと思えた瞬間だし、見えているものが本当にすごく特別なものな可能性もあるんじゃないかなと思って、こんな感じで話を進めております。
スピーカー 1
ありがとうございます。
何か、可視化ユニットの展示の話に戻ろう戻ろうとしつつ、話が広がって戻れなくなったんですけど、何か、あそこで展示しているもの、山口大学の研究室で展示していたものはまたちょっと別のアプローチが入ってきてて、
スピーカー 2
今まで光を持ってみるとか、その光があって、その現象が何か起きて、それを捉えつつ描くみたいなことをしてきたけれども、その光についての厳密な設定というか、意識っていうのはまだ全然していなくて、
スピーカー 1
堀川先生、一緒に可視化ユニットでやっている科学者の堀川先生とのワークショップの時に、分光っていうのをしたんですね。太陽光を、赤の分量、青の分量、緑の分量を見るみたいな。
太陽光だったりLEDだったり電球、蛍光灯みたいなものの光源の性質みたいなものって、知識としては知っていたんですけど、あんまり前提に入れてこなかったので、
そこと色彩、あとは絵の具の話っていうのを絡めて、今見ているものの状態っていうのをもう少し明らかにできないかなっていうのをやったのが、山口大学での展示の作品。
これもまたずっと答えが出ずに、戦い続けるというよりは、どうしたらできるのかわからなかった。火砲混色と原砲混色、光の三原色と色の三原色みたいなところの変換ってどうしたら可能なのか、みたいなことを改めて考え直したっていう作品を展示してましたね。
なので、何を可視化したかって言うと、光を可視化するっていうことについてより深く考えてみたとも言えるかもしれないですね。ちょっと強引に戻してしまいましたけど。
ありがとうございます。
スピーカー 2
本当的に、なんかすごく、なんだろう、僕も三上さんがそれを言うまで、いつもか小学校、ないしたら中学校1年ぐらいの時の光の三原色と色の混色っていうものの性質の差っていうのを頭で理解したまま、
実はそんなに深く考えることなく、ここまで実は来ているような気がするなと思って、あの作品見ながら、いろいろみんなで集まりながらお話し聞いていたので、その他の意見も含め、すごく面白かったんですけど、
実際やってみて、いろいろ光の見え方、捉え方、色とかって変わったりしてきてるんですか?
スピーカー 1
そうですね、あの光光源に敏感にはなってきてると思います。
昔の絵を見たりした時に、この絵はどの光で描いたなーみたいなのが、ちょっと絵から見えてきたりとか、逆算して、ちょっと黄色っぽい光の中で描いてたんだなーみたいなことが見えるようにはなってきて、
ただ、なんか、そうですね、すごく正解不正解、さっきの嘘を誠じゃないですけど、正解不正解があるジャンルの話な気もしていて、山口大学で発表したプロットタイプも含めて、
あんまり、一回度合いもすごく絵では思ってて、絵の具の研究なさっている方々、2025年度のファンダメンタルトにいらっしゃって、その方々に本当に結構厳密に、このような感じだと思うって言われた時に、ちょっとほっとしたようなところもあったんですけど、
なんかその、なんていうんですかね、なぜそれが成立しているのかとか、現時点でどうしてこの表現になったのかみたいなことは、もう少し突き詰めて考えてみたいなっていうのが現時点ではありますね。
なんか、結果こうできたからいいやっていう風にあんまりならないというか、間違ってるなら間違ってるも明らかにしてみたいし、なんでそれがそのように間違ったのかも知りたいしみたいな、逆に合ってるならそれもどう成立したのかっていうのを改めて考えたいなっていう感じで。
そうすると今まで作ってきた絵の全てが、なんかそういう見方もできるかもしれないんですけど、どうしてここにこの色を使ったのかみたいなことが説明できるようになってくるかもしれないし、理由はありませんということが言えるようになるのかもしれないし。
スピーカー 2
ああ、なるほどな。絵を見ることに、今なんかですかね、思考が、まあ絵はもともと見ているはいると思うんですけど、それでもその見るっていう行為の、なんていうんですかね、一番エッチとして絵画を見る、絵を見る、自分の絵を分析してみるみたいな、その見るの解像度が結構上がってきてるみたいな感じなんですかね。
スピーカー 1
なんか結構時期があって、絵を見るっていうターンと、物を見るっていうターンと結構別々あって、同時にどっちも深く、深く潜り込んでいくみたいな時期は帰ってないのかなと思ってるんですけど。
なんか絵の見方で全てを見るみたいな風になってきてしまうと、それに気づいた瞬間、そこから脱出しようとする気はしてて、今も若干、ちょっと今なってるかもって、あのお話から思って、絵を見る見方とか絵の話ばっかりになってくると、ちょっと危なさを、危なっかしい感じがするというか、
今私は、今自分のいる世界のこと何を見てないんじゃないかみたいな気持ちにもなってきますね。
スピーカー 2
いかがですか、北川さん。
その見方の違いで、なんか何か違うんですか。世界の見え方がこう、世界を見るときに絵を見る見方で見るときと、普通っていうかその世界を、自然を見るときの見方みたいなので、見え方は何か変わるんですか。
スピーカー 1
なんかすごく多分、絵を見る見方っていうときは視野が狭くなっている気もしますし、あとはあの、何て言うんですかね、予想外のこととか矛盾とかが受け入れづらくなっているように感じるときもあります。
絵を描くときとか見るときって、ここはこうでこうだからこう、みたいな考え方を結構描くときも見るときも、それが成立しているかどうかを置いといて、そういう考え方をすることが多いので、なんかこうでこうでこうなのにこうじゃない、みたいなことが現実に起こっていると、受け入れるのにすごい時間がかかったりとか。
スピーカー 2
だから、何て言うんですかね、でもそれはすごくあの感覚が絵にずれるみたいなことがよく起こるなって思います。視覚優位になりすぎると。
エロいですね。
うん。
なんかいっぱいエピソード持ってるなと思っているのも。
本当に、やっぱり自分自身の見ているものっていうのの、何て言うんですかね、僕も確かめれなさがあって、なんか人が何を見ているのか本当、人が見ているものと自分が見ているものとの差みたいなものが。
僕にとって、ちょっと自分の話になっちゃうんですけど、僕にとって作品の一応根幹としていたのが人が何を見ているか、人が何を覗こうとしているかみたいなところを、ある種のテーマとしながら作品作ってたんですけど。
でもどうしたって僕自身が作品を作って、僕が見ているものを再現して、そのそこで僕が無自覚にいた部分が、僕が見ているものと人が見ているものはほぼある程度共通のものとしてそれを扱おうと。
北川さんと三上さんも見ていただいたと思うんですけど、僕の作品の中でマスキングテープで扉を作るみたいな作品があったときに、僕はその扉を扉らしきものとして再現して作っているという自負はあるんですが、なんかこれ全然扉として見えてないじゃないかって一方で実はあって、
それは作り手としてそれが扉でないことは最初から知っているからなんですけど、常に不安なんですね。これは全然マスキングテープだって思われているから人は素通りしているんじゃないかと思っているという一方で、僕の狙いとしてはこれは本当に扉に見えているから素通りするぐらいの扉として作っているという、
なんかすごく2つ別々のベクトルで自分の感情と思惑とバラバラになりながら作品を作っているんですけど、でもそこが最近僕はやっぱり人が見ているもの全然違うんじゃないかって思えるようになったら逆にちょっと楽になったところがあってですね。
それは三亀さんのこともそう、私は他のアーティストの人と話しながら、なんかなので僕は僕の見え方をもう少しだけ作品の中に展開することをやっていこうかなと思える40代になりまして。
スピーカー 1
すごくいい話。どうしても表現する上で避けられないことですもんね、その他人の見え方と自分の見え方。
スピーカー 2
そうですね。
心理学で錯覚の実験とかやってると個人差かなり大きいんですよね。心理学だと測定しようとするんですね。どれぐらい線が曲がって見えるんだったらどれぐらい曲がって見えてるのかみたいなのを測定するわけですけど、そうすると結構違う。
結構違うので、これってなんか厳密に考えていくと全然違うとこに生きてるのかもなぁと思ったり、生きてる世界が違うかもと思ったりすることはありますよね。
スピーカー 2
そもそも視力とか考えたってだいぶ違うので、そしたら見え方だいぶ違いますよね、人によってね。よく同じ世界で生きているつもりになっていられるみたいな感じがしますよ。
本当にそうですね、本当にそうなんですよ。
そうですね。
スピーカー 1
そうなんですよね。絵を描くとかでもそうかもしれないけど、展覧会を作る上でもある意味平均値みたいなものをある程度出さないといけない絵を飾る高さは145センチの高さだと多くの人が見やすい。
けれどもやっぱりそれは多くの人であって、なんかこう、画家が見やすい高さでもなければということもあるし、まあそういった狭い世界に当てはめることなく。
なんか錯覚の原理とかも結構教科書的に図説されたものとかで見るのと、それを応用して視覚的にもっと身体的にも見えるような形にするときにすごい個人差あるんだろうなって思うこともあります。
作品とアーティストの見え方の共有
スピーカー 1
なんかオップアートって言われる画面が揺らいで見えるような、動いて見えるようなものを平坦な平面、それ自体が動かないものに定着させて視覚の揺らぎを得てみるみたいな、そういった作品もあるけれども、あれもなんか人間の体を持った大きさとされてるけど、
見る人によって全然違うってなると作品の前提がそもそも覆るんじゃないかとか、さっきの小宮さんのお話とも多分繋がるんですけど、その数値で出してもやっぱりそれも数値だから揺らぎがあるものだし、なんかどう受け入れられたらいいんだろうなって思います。
そういった違いというか、見えてるものが結構違うだろう前提で同じ世界を生きるみたいなことに対して違うって納得するっていうことに対しても度合いがあるのかなとも思うし、どうしても同じものを見たいって思うこともあるかもしれないし。
スピーカー 2
なんか、矛盾はあるんですけど、僕その絵を描く人、絵を描いて出力できる人を好きな理由は、なんかその見ているものを共有しようとしているように感じるんですよね。
で、現実としてそれは物質、どういうふうに最終的に見ようとしている人の見え方、それは視力が良い悪いとか色毛であるとか色々あると思うんで、違いはあると思うんですけど、とはいえそれを目の前に出している時点で並べてもらえているということで、
その世界を覗き見ることができる。だから全く同じものが見えてなくても、その覗き見ようとしているこちらの意思を汲み取ってくれてる感じっていうのが実は僕はあって、そこはなんか豊かな文化だなと思うんですよね。
で、なんかやっぱりカメラで撮ったものとかではない、すごい要は光学的なものではないものにもう一度変換して、それは絵を描く人以外もそうなんですけど、作品を作ったりとか研究にしてもすごく主観的なものがやっぱり入っている。
で、とても面白いなとは思っていて、あの、わからないです。ちょっと研究がそうだっていう僕は言い切れないんで、ちょっとその辺は北川さんにフォローしていただきたいんですが、主観的なものも込みで客観性も合わせ持ったメディアとしてはどちらも実は同じなんじゃないかと思う上で研究も作品もその機能の仕方として
やっぱり外に出されているから見え方の取っ掛かりにはなるなと。で、作品、僕が見たいのはもちろん作品も見たいんですけど、今今回何回も言ってるんですけど、作品を作っている人たちの見ている世界を覗き込みたいという願望が少しあってですね。
なのでなんか、それってでも作品作ってる人だからなんかやっぱり取っ付きやすい部分はあるなぁと思って話して聞いてます。なんか手がかりがそこにはあるような気がするっていう感じなんですけど。
なんかすごく展開しない方向に話をしているような気がするので、ちょっと1回。
スピーカー 1
ただあれですよね、その作品が手がかりとしてあって、その手がかりに対してアーティストが話すことが合ってる場合もあれば、マッチしてる場合もあれば、興味関心が全く別にあることもあったりして。
なんかそこはなんか作品が主張することと、アーティストが主張することって結構別れたりもするなっていうのはよく思いますね。
なんかそういうのをすり合わせていく作業のような気もするんですけど。割と作品が先にできるのであれば、作品が何を表しているのかを正確にアーティスト自身も後からでも汲み取るっていう作業があったりすると思うんですけど。
人によってその度合いは違うかもしれないですけど。
だから、なんか作品を見て自分が考えていることが他の人の口からすらすら出てくるみたいなことも結構あるなと思います。
自分が何も語らない状態で作品だけこう出した時とかでも、自分が言語化できていない部分まで他人の口からすらすら出てきて、あーってなっちゃう時とか結構ありますけどね。
スピーカー 2
見られちゃってるっていう感じってことですか?
スピーカー 1
そうですね。だから情報量が何て言うんですかね。やっぱりすごい多くの情報を含んでいるんだなって思いますね。あんま無責任なことでもいけないと思うんですけど。
スピーカー 2
ちなみに北川さんは結構美術館とかなんか絵見たりとかって普段されたりするんですか?
美術館行くはいきますね。でもあんまりね、全然詳しくない絵とかですね。
絵見る時とかって北川さんはどういう風に見たり、なんかまあ意識的に見るっていうのもちょっと難しいんですけど、見る。どんな感じで見るんですかっていう素朴な質問です。
割と近くから見たり、これいいなと思ったらすっごい近くから見て、こんな細部はこんな風になってるんだみたいに見たり、離れて見たりとかってしますね。
すごい絵描くのって大変だなと思って。
スピーカー 1
絵を見るときと何か別のものを見るときって感覚が変わったりしますか?
例えば生の絵というか絵の実物を美術館で見るときと絵がプリントされたものを見るときとか、あとは風景の絵を見るときとぼんやりと風景を見るときの違いとか。
スピーカー 2
いやそれ僕もさっき聞きたいなと思ってたんですけど、違いますよねきっとね。
でも風景を見るときはやっぱり風景って何かどこまでも細部があるので、ここを見ればここに細部、細かいところはずっと見ていけばいくらでも細かくなるじゃないですか。
近づいていけばどんどん細かくなって細部まで見えていく。それが至るところにあるので、何かあんまりやってると疲れますよね。
絵ってそうじゃなくて、見て欲しいのが描かれているのかなみたいな、どういう意図で描かれているのかわからないですけど、
割とそんな見方をしますね。なので近寄って見たりとかいうことは結構面白いなと思って見ていますが、
だからといって、こういう絵が好きとかいうのも特にあんまりないですよね。
なんとなくこれはいいなと思うことはあっても、それはなんでいいと思っているのか全然よくわからないけれど、みたいな感じで見ていますね。
紙との違いみたいなのは、同じ絵でも実物と印刷されたものとの違いって、あれ何が違う?
さっきの色と光もそうですけど、画面に映ってるのとかって全然違うわけですよね、絵とかね。
そもそもそういう違いって何か、実際絵を描く人からすると何かあるんですか?
スピーカー 1
明らかに違うものではありますよね。その実物ありきの写真だったり映像だったり画像っていうものな気がしますけど、
それは例えば頭の中で浮かんでいたイメージっていうものとはまた別の性質を持っていて、ある意味複製である。
だからどうでしょうね、ちょっとそこを並べていいのかわかんないんですけど、
頭の中にあるイメージをキャンバスに書いた場合は複製ではないけれども、キャンバスに書いたものを印刷にかけた場合は複製になるというか。
なので全く別のものになるのかな。
質問しておいて、なんかすごく自分がそこに対しての解像度が低いかもというふうに思いました。
スピーカー 2
でもやっぱり情報量っていうか、伝わるものはだいぶ減る。
スピーカー 1
そうだと思います。あとはその経験も関わってくるかなっていうふうに思います。
なんかやっぱりファンダメンタルズのミーティングとかでも最初全部オンラインで始まって、数ヶ月後に山口県に一堂に会して集まって、
そこですごい情報量の中で実際に交流してからのまたオンラインのミーティングで多分全然性質が違うと思うんですけど、
そういったことは現代においては何かもう至る所で起きているんじゃないかって思っていて。
絵の勉強しててもずっと画集とかを見ていて、この絵の実物見たことなかったんだっていうこと結構多くて。
すっごい有名な、有名なというかすごくよく目にする図版なのに、まだ実物見たことないんだみたいな衝撃って結構あって、見た気になってたりとか。
何かそういうのをなるべく実物を見に行くっていうことをしてた時期もあったんですけど。
何か一回見ちゃうと図版だけで見ていた時の情報量には戻れないし、すごい負荷逆だなぁとは思いますけどね。
スピーカー 2
時間とか経験も関わってくるような気もします。
何か絵ってちょっとやっぱり半分はイメージと言いがちですけどやっぱり物質だなぁとは思うので、
絵の具の盛り上げ方とかがやっぱり印刷ではどうしても再現されない。
あと全部ちっちゃくなって色も実は結構変わっているとか。
すごく有名な教科書に絶対載っているジジョタチというベラスケスのラスメニーナスという作品がスペインにあるんですけど、
やっぱり見ると超でかいんですよね。こんなでかかったんだ、みたいな。
実際その筆の一本一本の筆跡ってすごくヒッチが荒いけれども、写真で見たらすごく写実的なタドネ絵に見えるみたいな。
この写実的なものをこのベラスケスさんはさっきの芯帯線の話じゃないですけど、
スピーカー 2
すごく長い筆で一発描きじゃないけれどもヒッチだけでこんだけのものを描いているんだっていう、
全然違う情報がやっぱり印刷とはあって、絵の面白さとしてはやっぱりそういう部分で、
多分北川さんは実際の絵を見るときはそういうふうにして見ているっていうのがさっきの感想を聞いていてもわかるというか。
でも僕それを踏まえて一回写真家のとある有名な方が昔、学生の時ですけど授業に来ていて、
スピーカー 2
美術館で写真を展示して大きく黄板のプリント印刷しているというものと、
写真家の方たちって有名な人ごと写真集をちゃんと出してるんですよね。
で、その写真とのイメージとって何が違うのかっていうのを聞いたんですけど、
それはなんか違わないって言ってました。
なんかそれ結構僕の中でかなり衝撃を受けて、なんか。
でも、その一つ一つそのイメージ、写真の一枚の画像が色々なメディアにおいて出力される、
っていうそのイメージが、だからメディアのことによっても、
別に左右されるわけではないということなのかもしれないですけど、
結構なんか体感はもちろん違うんですが、
なんか先にそういった画像があるというかイメージがあるという感覚は、
なんか絵を描く人とまた別々の感覚なんだなというのは思ったことがありますね。
スピーカー 1
結構衝撃的ですね。
スピーカー 2
三亀さんも多分知っている作家だと思います。
スピーカー 1
知ってます。
実物と複製、そして経験
スピーカー 2
色々話しながら実は結構時間がちゃんと過ぎまして、色々なお話を聞けたんですけれども、
みるラジオ、初回三亀さんのお話を聞きながら、
みるということについて色々な角度からちょっとお話聞けたなぁと思っております。
プラスアルファもしよければ三亀さん、秋田川さんからなんかこうちょっとこういうことは言っておきたいみたいな、
もし補足とか、これさっきこう言っちゃったけど、
なんか訂正しておきたいみたいなのがあれば一応お聞きしてもいいですか。
まとめには入るんですが、感想とかあれば。
スピーカー 2
いくらでも話せそうな気がしますね。
これずっとやってたら永遠に続きそうだなと聞いて話をして楽しかったです。
もうちょっと色々話したいなぁと思っていましたが、聞く方からしたらそんなに聞いてられないかもしれないと思います。
人によるかもしれないですね。
人による人を選びますね。およそ2時間ぐらいある音声番組で。
なんかもっと深く色々聞きたいなと思いました。
楽しかったです。ありがとうございます。
スピーカー 1
私の方からも、なんか聞き返すと訂正したいところたくさん出てきそうではあるんですけど。
なんか、そうですね、この先に面白い話がまた出てくるんじゃないかっていうところで、
すごい、あの、ポッドキャストの収録自体はこれで一旦区切りなんですけど、今後がすごい切りますね。
スピーカー 2
別に、ポッドキャストあろうがなかろうが2回目3回目とぜひ話していければと思います。
なんだったら、毎回収録して、本当に初回中の初回なので、最初だけ異様に硬い感じに始まったと思うんですけど。
なんかね、ちょっともう、これがいつアップされるかわからないですけど、
すでにファンダメンダルサイト内にかずたさんといちのすさんの収録が上がっていて、
そちらを聞きましたか?聞かれました。
スピーカー 2
僕聞いたんですけど、超ちゃんとラジオとしてのフォーマット最初から整えてたので、
すごく緊張してラジオにしなきゃと思っちゃいました。
すみません。
まあ、そんなこんなで、そうですね。
重複しますが、このみるラジオで最初回三上さんをきっかけにスタートできて、
かつだからこそ三上さんにいろんなお話を聞けたので、いろいろ深い話も、
僕の中ではまずきっかけとしてできたし、さらに掘り下げていろんな話ができそうだなと思うので、
今後ともよろしくお願いいたします。
三上玲奈さんでした。ありがとうございました。
スピーカー 2
ありがとうございました。
01:38:47

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