FM八ヶ岳 デイインライフ ちょっと深掘り”考古楽”の時間です。
人類発生から600万年、21世紀の現代までの長い長い人類の歩み。
北都市在住の考古学者、貝ヶ岳歴史文化研究所主任調査員の佐野隆さんに、優しく楽しくお話しいただきます。
はい、今日もよろしくお願いします。
前回はですね、狩猟採集と、狩猟採集民が旧石器時代が終わって、氷河期が終わって、
日本であれば縄文時代という狩猟採集民の生活文化が形成されてきた。
そして一方で西アジア、小アジアでは魚べくりテペのようなですね、狩猟採集民の文化でありながら非常に高度な物質文化を築いていた。
そんな狩猟採集民の生活を紹介しつつですね、その狩猟採集から農耕へというその変化というのが、
果たしてどんなものなんだろうかという問題提起をしたところをお話をしました。
今日はその狩猟採集から農耕へというのがどんなふうに変化していったのか、どんなメカニズムが作用したのかなんていうのをちょっとお話をしたいと思います。
21世紀のですね、非常に高度な産業社会の中に生きている私たちの感覚ではですね、狩猟採集民、野山の自然の恵みだけに頼って生活をしている人たちに比べると、
農耕民の方が圧倒的にですね、人口も多いし複雑な社会を築いて豊かな物質文化を享受していると。
圧倒的に優れているじゃないかというふうなイメージを抱くわけですよね。
それは間違いではありませんね。
例えば縄文時代の人たちがどれだけ見事な土器や土偶を作って豊かな精神文化の中で、精神世界の中で生きていたとしてもですね、
彼らの平均寿命は35歳くらい。虫歯になっても治療もできない。痛いのを我慢するだけ。
そういう辛い生活も一面では持っていたわけですよね。
それに比べると現代の私たち、21世紀の日本人は平均寿命がことによると90歳近くにまで伸びてきて、
人生100年時代なんていうのも普通に言われるようになってきたわけですね。
健康で長生きができると、そういう非常に個々人から見たら恵まれた生活が実現しているわけですね。
そしてその基盤にはですね、日本であれば稲作、他の地域であれば小麦とか大麦の栽培、農耕があるわけですよね。
ですがこれはですね、人類が今から1万年前にですね、西アジアであるいは中国大陸のですね、
ヨースコやコウガの流域で米や小麦や雑穀や、また中南米ではトマトとかジャガイモとかトウモロコシとかカボチャとかですね、
いろんな有用な植物を栽培して、栽培作物にしてですね、農耕を始めて1万年もの時間をかけてその農耕の技術を洗練させてきた結果、
現在のような豊かな食べ物にあまり困ることがない社会を実現してきたわけですよね。
そうなる以前のですね、社会はじゃあどうだったかというのを振り返るとですね、必ずしも農耕が圧倒的にアドバンテージに守っていたということではないようですよね。
例えば日本でもですね、中世戦国時代なんかにはいわゆる寄金というのが頻発していました。
まだまだ、例えば米、日本では稲作というのが非常に重要であったわけですが、その米の品種もですね、現在のように例外や、あるいは厚さに対する耐性がある優れた品種というのはそんなに開発されていませんから、
ちょっと天候不順があったりすると米の収量がたちまち落ちてしまう、あるいは雲下のようなですね、害虫の被害を受けるともうどうにもならないとかですね、
稲の病気が蔓延するとそれを食い止めるのはもう神物に祈るしかないとかですね、そんな社会が長く続いてきたわけですよね。
そんなことを考えるとですね、本当に農耕が優れてるんだろうかという疑問も湧いてくるわけなんです。
ですが現実として現在ほとんどの人類は農耕食糧を生産して、その食糧に頼って今生きているわけですね。
狩猟採集社会というのは21世紀の世界ではもうごく一握りの1%にも満たない人たちが狩猟採集で生きているだけなんですね。
ちょっとそんなことも念頭に入れながらですね、狩猟採集から農耕へというその変化を考え直してみたいと思います。
狩猟採集民の研究が進むと、特に1960年代以降ですね、狩猟採集民の生活文化の研究が非常に深まってきます。
日本ではですね、戦後に縄文時代遺跡の発掘調査が盛んに行われて研究も深まってきました。
そうして見てみるとですね、狩猟採集民は生きるために悪セクしている、常に飢餓に苦しんでいる、そんな人たちではないということが分かってきたんですね。
1960年代に行われた研究で、オーストラリアの先住民、アボリジニと呼ばれる人たちはですね、
もう半ば砂漠のような厳しいオーストラリアの環境の中にありながらも、生きるために1日平均すると3時間40分、3時間50分くらいしか平均すると働いていない。
今日は8時間働いたと思ったら、次の日は全く働かずに村の中で木陰ですずみながらお友達とおしゃべりしている。
そんなふうなのんびりとした暮らしを営んでいるんですね。
あるいはアフリカのカラハリ砂漠に暮らすブッシュマン、山族とか君族という人たちですね。
彼らもですね、ちょっと歩くとすぐに食べるものが必要なだけ手に入る。
1日24時間のうちほとんどの時間はですね、どうやって暇つぶしをしようかなんて思案をしているくらいに、実は生活にゆとりがあるわけですね。
そして生活に必要ないろんな道具、そういったものを作る素材は身の回りにふんだんにあふれている。
そんな非常に原初の豊かな社会、それが狩猟再生民の暮らしの実態なんだということがわかってきたわけですね。
一方で、今私たちは現代の21世紀の日本では専業農家さんというのもごく限られているわけですが、
例えば戦前とか、あるいは江戸時代くらいの日本人の暮らしを考えるとですね、人口のほとんどが農民、農戸民ですよね。
農民はですね、朝早く日の出とともに起き出してですね、田畑に出て非常な重労働をすると働くわけですね。
雑草に負けないように、あるいは鹿やイノシシに農作物を食い荒らされないように。
ずっと農作物に気持ちを寄せて、重労働に耐えて生産をし続けてきたわけですよね。
そんなことを考えるとですね、本当に農耕が優れているんだろうかと、そんな疑問も湧いてくるところですね。
狩猟採集民と言いましたが、前回もお話ししましたが、縄文時代であっても、豆のような有用な植物を選択して、それを栽培するということをしていました。
それは幅広い狩猟採集の一つの食料を獲得する方法の一つとしてですね、狩猟や採集、魚籠と並んで植物栽培というのも細々とやっているわけですね。
これは弥生時代以降、稲作を大々的に行う、そういう農耕社会とは、やっていることは同じでも資質的には全く違うわけですね。
そんなふうにですね、狩猟採集民でも植物を栽培するということはやっています。
先ほどお話ししたオーストラリアの先住民、アボリジニの人たちはですね、野生のヤムイモ、ヤムイモというのは自然所、ヤマイモの一種ですけれども、
そのヤムイモをですね、アボリジニの人たちは採集して食べるわけですけど、
そのとき採集するときにですね、ヤムイモの一部を切り取って、もう一回その掘った穴に埋め直すんですね。
そうするとどうなるかというと、芋ですから、その切った切れっ端からですね、また大きな芋に成長していくわけですね。
そうするとまた収穫ができるわけです。
ヤムイモが大きくなるまでに数年はかかったとしても、取って取り切りではないわけですよね。
また同じオーストラリアのアボリジニでもですね、西海岸の人たちはですね、ワラビのような、ソテツですね、ワラビオンのような植物の種を食料にしてるんですけど、
そして野生のナスですね、ブッシュトマトと現地では呼ぶようなんですが、その野生のナスなんかも採集をして食べ物にするんです。
ただ、そのソテツや野生のナスがですね、たくさん増えるようにわざわざ野原に火をつけてですね、野焼きをするんですね。
それによってソテツや野生のナスがたくさん繁茂するようになるわけですね。
日本でもつい最近までですね、ワラビを生やすために野山野焼きをしてですね、ワラビを増やすとか、そういったことをする地域がありました。
そんな同じことをですね、狩猟採集民もやっているわけですよね。
また、北アメリカの西海岸のカリフォルニア州にいた先住民、インディアンの人たちですね。
もうやはり山で野焼きをすることで、彼らはどんぐりを主食にしている、その点縄文時代の人に似ているわけですが、
野焼きをすることでですね、どんぐりに卵を産んで、どんぐりを食べてしまうゾウムシの一種ですね。
そういったゾウムシ、害虫を駆除する、そのために野焼きをする。
あるいは、アシタクサ狩りをしたり、間伐をしたりして、そのどんぐりの収量を増やす、そんな工夫をしているわけなんですね。
そんなふうにですね、狩猟採集民も、ただ自然の恵みをただ採集するというだけではなくてですね、野焼きをしたり管理をしたり、あるいは植えたり、種をまいて植えたりといったことをしているというのが最近の研究でわかってきたんですね。
さて、ついおしゃべりが続いてしまいましたが、ここで一曲を紹介したいと思います。
スペインのカタルーニャ地方で生まれたフェデリコ・モンポーという作曲家がいます。
ピアノの詩人なんて呼ばれたモンポーですが、ピアノの曲集、歌と踊りという小さな曲集があります。
そこから第1番、幼い花嫁、聴いてください。ピアノはアリシア・デ・ラローチャンです。
はい、狩猟採集民が植物の栽培をしたりなんていう例はまだまだあるんですね。
カナダの太平洋岸、ブリティッシュ・コロンビアのインディアンの人たちは、インディアンポテトと呼ばれている野生の芋の芋、実際には豆花の植物なんですけれども、根っこが芋のように太くなるので芋と呼んでいます。
アメリカホドイモという植物をやはり栽培をしているんですね。
しかもそれが、つい最近の話じゃなくて、遺跡の発掘で分かったんですが、3800年前ですね。
まだ日本でいうと縄文時代の後期なんていう時代から、カナダで先住民が芋の栽培をしているとかですね。
植物だけではなくて、先ほども紹介したオーストラリアの先住民は、沿岸部の先住民は、海岸に石を積んで、それで簡単なイケスを作って、そこで貝の養殖をしているわけなんですよね。
日本の縄文時代でも、これは私自身も八ヶ岳の遺跡の調査で実際に分析をして明らかにしてきたところですけれども、盛んに栗を食料として利用しています。
その栗の量が尋常じゃないんですね。非常に栗が食料資源の中で占める比率が高くて、しかも縦穴住居なんかを作る建材も全部栗の材を使っている。
これは自然の林の中で、自然に生えている栗だけではとてもまかないきれないような量が遺跡から確認されるわけなんですね。
皆さん今度、最近は登山を楽しまれる方もいらっしゃると思いますが、周りの自然の林、自然に近い林をよく観察していただきたいと思います。
そうすると栗は生えているのですが、そう頻繁に目にすることはないですよね。
ある植物学者が調査したところでは、その天然林、自然林に近い林の中で栗がどのくらいの本数あるかというと、100本に1本くらい、あるいはせいぜい2本くらい。そんな量しかないんですね。
縄文時代の人たちが、食料資源の大半を自然の栗に頼っていたとしたら、100本に1本か2本しかないわけですね。
それをものすごい広い範囲に渡って、栗を拾い集めてこなきゃいけない。
そして、縦穴住居を作る時にも、わざわざ遠くまで出かけて行って、栗を伐採してこなきゃいけないわけですね。
縄文時代の人たちは、どうもそんな非効率なことはしていないようなんですね。
縄文時代の集落を作ると、おそらくまず最初にすることは、とりあえず生活の拠点を作るということで、少し土地を切り開いて、そこに縦穴住居を作るんでしょうね。
家族、親類、あるいは友人とともに、まず縦穴住居を作るわけですね。
そんなことをしながら、日々の食料を何とか調達しながら、次に何をするかというと、周りの木を切り開いていきます。
切った木は、剣材にしたり薪にしたりするわけですね。
そうやって切り開いた土地に何をするかというと、栗を植えていくわけなんですね。
自然の栗は100本に1本しかありませんので、その1本は大事に残していくわけですが、そこから栗を拾ってきて、今度は植えていくわけですね。
桃栗3年、柿8年といって、栗は成長が非常に早いんですね。
私自身も経験したことがありますが、栗の実を地面に植えますよね。
そうすると春に発芽します。
3年経つと、小さな苗木なんですが、ほんの1つ、2つ胃がついて栗の実が成るんですよね。
本当に栗は3年で実が成るんですね。
そのくらい成長が早い。
そして10年か10年、5年もすると、そこそこ立派な栗に成長して、たくさんの実をつけます。
ですから縄文時代の人たちは村を築いて、そうすると次にやることは栗の果樹園ですよね。
まさに栗の果樹園を人工的に作り出すんですね。
10年15年で成長するわけですから、1台のうちに立派な栗の果樹園が集落の周りに広大な何百本もの栗が生えていくわけですよね。
そういった中で、縄文時代の人たちは栗の果樹園の中に村を作ると。
そういってもいいような集落の景観を作り出して、そして栗に頼って暮らしていたわけですね。
こんな具合でですね、狩猟採集民も狩猟採集とは言うけども、同時にその有用な食料になるような植物、あるいは服の素材とか縄の素材とか。
いろんな形でその人間の生活に役に立つ植物を実の周りにたくさん増やしてですね、時に栽培もして暮らしていたというふうに考えられるわけなんですよね。
そんなふうにしていくとですね、だんだんその農耕との境界が曖昧になってくるわけですよね。
例えば序文時代の人たち、これ民族例なんかも参考にしながら、序文時代の人が栗にどのくらい頼って暮らしていたか。
1年間に1人の人が生きるために必要なエネルギー、カロリー量に換算した場合ですけど、エネルギーのどのくらいを栗に頼っていたかというと、
私が調べたところでは7割くらい、70%くらいは栗に頼ってたんじゃないか。そう思わせるようなデータがあります。
7割を栗に頼っていると言うと、どうでしょう。栗の農耕民、栗の栽培民と呼んでもいいような、そんな状態なんですよね。
なんですが、やはり弥生時代の稲作を中心にした農耕社会と、栗に頼った序文の社会というのは、どこか質的に違うわけですよね。
今お話ししたようにですね、その野生の植物、小麦を例にとるとですよ。
野生の小麦を狩猟採集民が利用し始めて、やがてそれが栽培型の小麦。
実が大きくてたくさん、しかも勝手に種が落ちない。脱流性が失われて、しかも求民性も失われる。
人がまいた時にすぐに水分を吸って発芽すると。
そういう性質を持った、遺伝レベルで性質が変わった栽培型の小麦。
これが登場するのにどのくらいの時間がかかったかというとですね、実に3000年くらいかかっているんですね。
同じ状況はですね、中国南部の超高流域で人類が野生の稲を利用して、やがて栽培型の稲が登場してくるんですが、
これも同じように3000年くらいかかっているんですね。
どうでしょう。もし人類が意図的に野生の小麦の中から、これは突然変異で実が大きくなった、脱流性が失われた、求民性が失われたと。
そういう性質を持った、これは栽培に適した小麦であるというのを、かなり意図的に意識的に見出して、
それを増やそうと努力をしたとしたらどうでしょう。
小麦も稲も1年生の植物ですから、1年ごとに世代交代をしていくわけですよね。
そうやって意識的に栽培に適した小麦や稲を栽培していこうとすれば、
おそらく10年20年、場合によっては30年くらいかけたとしても、そんな程度の短期間で栽培型の小麦が出現するはずなんですよね。
ところが実態は3000年もかかっているんですね。
そこからどんなことが推測できるでしょうか。
ここで考えられるのは、小麦にしろ稲にしろ、それらの食料になる植物を利用した人たち、狩猟・採集民ですよね。
彼らはそんなに植物栽培に適した植物を工夫して作り出して、それを大々的に栽培しようというふうに計画もしていなかったし、
そんな意図も持っていなかったということなんですね。
ただ、野生の目の前にある小麦や稲を毎年毎年収穫をして、ずっと利用している。
それを繰り返しているうちに、人間が野生の植物に対して毎年収穫して食べる、場合によっては種をまくと。
そんなことを繰り返しているうちに、植物の中にある突然変異、栽培に適した突然変異が勝手に出現するわけですが、
そういった栽培に適した突然変異を持った個体が、人間が活動をすることによってだんだん増えていく。
そして3000年かけて気がついたら、栽培型の小麦、栽培型の稲が増えていたというのが、どうも濃厚発生のメカニズムらしいんですね。
ちょっとわかりにくいと思いますけれども、ちょっと想像をしてみてください。
目の前に地平線まで広がる野生の小麦の草原があります。
そこには大して実も大きくない、穂軸には10粒くらいしかついていませんが、それでも野生の小麦の種がついているわけですね。
そんな小麦を当時のナトーフ文化の狩猟採集民はどうやって採集していたかというと、稲刈り、麦刈りです。そんなことはしません。
ザルを持ってきて、その草原の穂軸の部分にザルをぶつけて、ザーッと種をすくい取るようにして、ザルに種を集めるわけですね。
これは簡単でいいですよね。こうやって採集をするときにどうです?ちょっと触ると熟した種が勝手に落ちる。
雑流性があった方が採集しやすいでしょう。どうです?イメージできるかなと思いますけれども。
ところが毎年地平線まで広がる野生の小麦の群落の中で、ザルを持って毎年秋に人間が種を収穫していくわけです。
そうすると触るとポロッと落ちる。自然の野生型の小麦の種というのは、どんどん人間に採集されて食べられてしまうわけですよね。
そうするとそこの野生の小麦の群落はやがて飛ぼれて絶えてしまうわけですね。
ところがその野生の小麦の中に、ちょっとザルでぶつけたくらいでは種が落ちないという突然変異、変わり種ですね。
突然変異があったとする。それは秋に人間がザルで収穫をしようと思っても、それは穂軸についたまま落ちないわけですよね。
やがて冬になって穂軸が枯れてパタッと地面に落ちる。
そうするとその脱流性がない、勝手に種を落とさない種が発芽をして、また実をつけるわけです。
そんなことは知らない人類が、また秋になってわーっと収穫をする。
そうすると脱流性を持った小麦というのは収穫されて食われてしまうわけです。
ただやはり突然変異個体から増えていった脱流性がない、勝手に種が落ちない性質を持った突然変異の個体は、また収穫をされずに次の年また発芽してまた増える。
それをずっと繰り返して3000年も経つとですね、そこに生えていた野生の小麦の群落であったはずのものが、
みんな脱流性が失われたそういう栽培型の小麦に勝手に変化しているわけですね。
人類はそこで脱流性の失われた小麦を増やそうと全く意図していないわけですね。
ただ秋にザルで収穫をした。それを何百年も何千年も繰り返した。ただそれだけなんです。
なんですがその営みの中から小麦の側が勝手に突然変異で脱流性が失われたものが増えていく。
そんなメカニズムでどうも栽培型の作物ができる。そして栽培型の作物ができると同時にだんだんですね、人類の方も食料生産ですね。
種をまいて小麦を増やすという意図的な行為がだんだん技術的にも洗練されていく。
そうやって野生の小麦や稲を利用してから何千年もかかってようやく農耕らしい農耕へと変化していく。
これがどうも農耕発生のメカニズムのようなんですね。
そこには人間が農耕を始めよう、栽培型の小麦や稲を作ろう、そういった意図性計画性というのは一切ありません。