縄文時代への移行:気候変動と環境の変化
FM八ヶ岳 レインライフ ちょっと深掘り”考古楽”の時間です。
人類発生から600万年、21世紀の現代までの長い長い人類の歩み。
北都市在住の考古学者、茅ヶ岳歴史文化研究所主任調査員の佐野隆さんに、優しく楽しくお話しいただきます。
はい、今日もよろしくお願いします。
これまで何回かにわたって、狩猟再生民の社会や文化の特質についてお話をしてきました。
今日はですね、狩猟再生民の中でも、過去の、もうすでにいなくなってしまった、過去の狩猟再生民の人たちの暮らしぶりというのが、
考古学を通じてどんなふうに分かってきたのか、なんていうお話を、
日本列島の狩猟再生民、つまり縄文時代の人たちの暮らしを通じて、ちょっとお話をしたいと思います。
これまでも何度も、縄文時代の人たちについては紹介をしてきましたが、改めておさらいをしたいと思います。
今から13000年くらい前ですね、それ以前、長い長い氷河期が続いていましたが、最終氷期が13000年前に終わりました。
日本列島が徐々に暖かくなってきてですね、現在の私たちが目にするような日本列島の自然環境、森が広がり、
また海や川の豊かな恵みに恵まれ、そんな日本列島の環境になってきたわけですね。
そうすると、それまで氷河期の生活を続けていた旧石器時代の人たちもですね、
その自然環境が大きく変わる中で、生活を変化させていく必要に迫られたわけですね。
どのくらいその氷河期が終わった時にですね、大きな環境の変化があったかというのは、ちょっと皆さんに体感してもらいやすいように表現をしたいと思います。
氷河期というとですね、氷に閉ざされて1年中雪が降っていると、そんなのをイメージされるかもしれませんが、
確かにヨーロッパやシベリアのような井戸の高い地域はそんな状況でした。
分厚い何千メートルもある氷の氷床ですね、に覆われていた地域もあります。
ですけれども、日本はですね、周りを海に囲まれていて、しかも北緯35度前後という温帯地域ですね、中緯度の温帯地域に位置していたためにですね、
氷河期とはいってもそのような激しい寒さというのは経験していなかったんですね。
それでもですね、現在に比べると随分と寒かったわけですね。
その氷河期が終わって、どのくらい急激に暖かくなったかというのをちょっとお話ししたいと思います。
皆さん、ロシアの首都モスクワというのはあまり行かれたことはないと思いますけれども、
例えばテレビのニュースなんかではね、目にすることがあると思います。
冬のモスクワは非常に寒くてですね、氷点下20度なんていうのは当たり前ですね。
そのようなモスクワなんですが、氷河期が終わってですね、地球の平均気温がだいたい6度から7度くらい急激に高くなります。
そうすると、どんなふうになったかというと、現在のモスクワが現在の東京のような暖かい気候になる。
そんなイメージですね。
東京はどうなったかというとですね、年の平均気温が7度も高くなると、東京はどんな気候になるかというと、フィリピンの首都マニラのような気温になります。
ですからずいぶんと体感が違ってくるわけですよね。
気温だけではないんですね。
気温が暖かくなると、当然植物、そこに生える植物の種類や量も圧倒的に変わってきます。
氷河期の日本列島というのは、例えば現在北海道で見るような唐松やトド松、エゾマツといった針葉樹が生い茂る、そんな森と草原が広がっていました。
それが7度も温度が変わってくることによってどうなったかというと、現在私たちがよく身の回りで目にするような、どんぐりが鳴る紅葉樹の森、雑木林ですね。
あんなイメージの森が急速に広がってきます。
植物の環境が変わると、その植物を餌にしている動物たちの種類や量もまた変わってきます。
旧石器時代、氷河期は比較的寒かったので、寒い地域に適応した体の大きな動物、ナウマンゾウであるとか、北海道にはマンモスもいましたね。
それから体重が1トン近くもある馬よりも大きなオオツノシカとかですね。
そんな動物が生息していたわけですが、氷河期が終わるにつれてそういった大型の哺乳類、動物は絶滅してしまいます。
そして変わって私たちが普段目にするニホンジカ、ニホンイノシシなんていう中型あるいは小型の動物が増えてきます。
こんな風に植物の環境も変化する、そして動物の環境も変化するという風になっていくと、旧石器時代の人たちも生活スタイルも変えざるを得ないわけですね。
狩猟技術の進化:槍から弓矢へ
旧石器時代の人たちが狩りで使った道具を見るとですね、まずは槍ですね。
木の棒の先につけてナウマン像なんかを近くに行って刺して仕留めると。
そういう槍を中心にした狩り具が作られていました。
大きなものですと長さが30センチくらいある大きな槍を作ってますね。
ところが皆さんちょっと想像してみてほしいんですが、シカやイノシシ、この八ヶ岳で暮らす皆さんは時々目にすることがあると思いますけれども、
とてもすばしこいですよね。長さが30センチもある石の槍を絵につけて、重いですよね。
それを人間の足で追いかけながらイノシシやシカが仕留められるか、とても無理ですよね。
じゃあどうやって仕留めたか。旧石器時代が終わって縄文時代になるその時期の人たちというのはですね、
まず最初に考えたのは槍を小さくするということなんですね。槍を小さくして軽くしてそれを投げる。
軽い方が遠くへ飛びますので威力は弱くなりますが。
そんな風にしてその俊敏なイノシシやシカを仕留めようと工夫をするわけですが、
想像したらすぐ分かると思いますけれども、すぐ近くまで行って投げるならともかく、
人間が2、30メートル近くまで近づけばイノシシもしかも警戒して逃げてしまいますよね。
実際のところ、そこで槍を投げたところで狩りはうまくいかないわけですね。
そこで縄文時代の人たち次に工夫をしたのはですね、槍をさらに小さくするわけですね。
そうすると軽くなりますから遠くへ飛びます。でも刺さる威力は弱くなるわけですね。
そこでどうしたかというと威力を増すために槍投げ器という道具を作って、
それでその小さな槍を投げるようになります。
槍投げ器というのはどんな道具かというとですね、木の棒です。
ただ木の棒なんですが、片端に槍の柄を引っ掛ける出っ張りがついていてですね、
そこに槍を引っ掛けてビュッと投げるわけですね。
そうするとどんな効果があるかというと、人間の腕がその木の棒、槍投げ器の分だけ腕が長くなったと。
そんなふうな効果があるわけですね。
腕が長くなると槍を飛ばすための推進力がより長い時間、力を伝えられるようになりますから、
槍がより早く、より遠くへ威力を持って飛ぶようになります。
そんなふうにしてですね、遠くにいる獲物を仕留めるために工夫を凝らすわけですね。
ですが、この小型化した槍、工工学では優絶戦闘機というふうに呼んでいます。
これは一定の効果があったんだろうと思うんですが、
この精巧な小さな槍、長さが10センチ足らずくらい、8センチから10センチくらいですね。
物によっては5センチくらい。
そういった小型の槍を作るためにはですね、とても労力がかかるんです。
小さな槍を左右対称、シンメトリーにきれいにしたてでですね、遠くにまっすぐ飛ぶようにしなきゃいけないですね。
その槍はですね、私も作ったことはないんですが、相当石器作りの技術が高くないと作れません。
おそらく見た感じではですね、一つ作るのに熟練した人でも3、4時間はかかるんじゃないかなというような感じがします。
しかもそれを投げるわけですよ。
上手く獲物に刺さればですね、いいわけですが、獲物に外れて木の幹に当たったり、地面の石に当たったりすると、
それにて苦労して作った小型の槍、有絶戦闘機は折れてしまうわけですね。
実際遺跡を発掘するとですね、真っ二つに折れてしまった、
片方、先端がなくなっているとか、柄の方がなくなっている、そんな有絶戦闘機がよく見つかります。
ですから狩りで使ってはかなり消耗もしていたんだろうと思うんですね。
ですから狩りの道具、狩猟の方法としては工夫を凝らしたわけですが、必ずしも効率は高くなかったわけですね。
そこで次に何か考えなきゃいけないわけですね。
そこで登場したのが弓矢、私たちがパッと狩りの道具というとイメージする弓矢というものになります。
ここで一曲曲を挟みたいと思います。
私の好きなエリック・サティの皆さんもよくご存知の曲、ジュテブです。
ピアノはフィリップ・アントルモンです。お願いします。
エリック・サティのジュテブを聴いていただきました。
話の続きですけれども、弓矢を発明するわけですね。
食料資源の変化と土器の役割
その弓矢というのは大変効果を持っていました。
何だって遠くまで矢を確実に飛ばすことができます。
命中率も飛躍的に高くなりますし、おそらく狩りの成功率も相当程度に高くなっただろうと思いますね。
ただ、実際に縄文時代の遺跡から見つかる矢尻、弓矢の先端ですね。
矢尻というのは大きくても長さが3センチないんですね。非常に小さいものです。
おそらく縄文時代の頃の弓、犬がやとか、粘り気があって簡単に折れない木の枝を使って丸木弓を作るわけですが、
その弓の威力というのはそうは言っても限界があるんですね。
弓矢というと、みなさん宮道の方々が使っている長い日本の和球をイメージすると思います。
あれは実に成功にできておりまして、竹や他の木の板を何枚も張り合わせて強靭な弾発力を作っているんですね。
それに鶴をつけて引っ張るわけです。弓の強さは何人がかりで鶴を張れるかというので強さが決まっているんですが、
宮道の人たちが使う弓というのは素人がパッと持って引っ張れるような代物ではありませんね。
ああいった強力な弓があれば弓矢の効果というのも高いんですが、
縄文時代の人が使っている丸木弓というのはただの一本の木の棒ですから、そうは言っても強さには限界があるわけですね。
おそらく縄文時代の人たちは、例えば鳥かぶとのような毒を矢尻に塗って、それで獲物にちょっと傷がつけばいい。
毒が弱まったところを捕まえるとか、あるいは落とし穴を掘って穴に獲物を落として身動きが取れなくなったところを弓矢で仕留めるとか、
さらには獣道の上の木の上に登ってひたすら待ち伏せて至近距離を上から狙うとか、
そんな工夫をしておそらく狩りをしていたのではないかなというふうに考えられています。
それから氷河期が終わって温暖な気候になって、動物が変わって狩りの道具が変わるという話をしましたが、それだけではありません。
ナウマン像とか大きな動物を仕留めれば大変な量の肉が手に入るわけですよね。
おそらくナウマン像なんか仕留めると1トンくらいの肉が手に入る。
そうすると大勢の人がしばらくの間肉を食べて暮らしていけるわけですね。
ところが鹿やイノシシの肉の量というのはせいぜいのところ数十キロ、たかが知れているわけですよね。
そうするとしかもすばしっこいイノシシや鹿を毎日確実に仕留める、そんなことはできなかったんだろうと思います。
縄文時代になった人たち、何を食料にしていたかというとどんぐりですね。
栗、くるみ、あるいは土地の実、そしてコナラやクヌギの実ですね。
こういったどんぐりを秋に大量に実るわけです。
それぞれ木の種類によって不作・放作の波はありますけれども、
いろんなどんぐりを利用することでそのばらつきを抑えて安定的にどんぐりを採取することができます。
中には悪を抜かなければ食べられないどんぐりもありますけれども、そういったものを食べようとしたわけですね。
その時に活躍したのが土器なんですね。
縄文時代の土器というと縄文の文化を象徴する道具の一つであります。
実はこれ氷河期が終わる前から日本列島では土器が細々と作られていたんですが、
氷河期が終わった後、大々的に作られるようになります。
土器を使ってどんぐりを調理するとどんな良いことがあるかというと、2つ利点があるんですね。
1つはどんぐりに含まれる悪の成分、タンニンとかですね、
そういったものを灰を混ぜて煮ることで中和することができるというのが1つ。
もう1つは、澱粉をアルファ化するという効果があるんですね。
人間の胃腸は生の植物の澱粉をそのまま消化吸収できないんですね。
生のどんぐりをたくさん食べるとお腹を壊してしまいます。消化不良を起こします。
ところが煮て加熱処理をすることで澱粉がアルファ化します。
そうすると人間の胃腸でも消化吸収ができるわけですよね。
秋に大量に実るどんぐり、それが毒があることによって、
非常に栄養価の高い安定した食料資源として利用できるようになるわけですね。
これが縄文時代の生活、そして彼らの生存を支えた一番重要な食料であったわけですね。
縄文人の広範な食料利用とリスク管理
縄文時代の頃の日本列島の狩猟採集民、縄文時代の人たちの特徴というのは、
今言ったような日本列島の森林の環境に適応して狩猟採集の技術を発達させ、
また土器を作ってどんぐりを主食にしたということです。
ただ、猪と鹿とどんぐりだけ食べていたかというとそんなことではありません。
縄文時代の人たちに限らず、狩猟採集民というのは利用できる食料資源を幅広く何でも利用する、
食べられるものは何でも食べる、そういうふうにしてリスク管理をしているわけなんですね。
例えばどんぐりがすべて、いろんな種類のどんぐりがすべて運悪く不作になるという年もないことはない。
その時にどんぐりばかり食べていたらそこで飢え死にしてしまうわけですね。
ですが他の食べ物を利用する技術を持っていれば、
例えばキノコ、これは毒キノコで食えない、これは食える、そんな知識や技術があれば、
どんぐりが不作でも過労死でガシを防ぐことができるわけですね。
そんなふうにして非常に幅広くいろんな資源を利用するというのも狩猟採集民の特徴なんですね。
正確な数はわからないんですが、遺跡を発掘するとたくさんの動物の骨あるいは植物の種とか食べ物の残骸が見つかります。
魚や貝も見つかりますね。
そうすると哺乳類だけでも2,30種類、魚介類に至っては数百種類、
さらに植物の果実とか実ですね、そういったものまで含めると、
もう何百種類もの食料を縄文時代の人は利用していたということがわかっています。
現代の私たちは野山で食べ物を探せと言うと、栗とかくるみとかあるいはわらびとかそんなものがイメージできるわけですが、
おそらく数種類しか思い浮かばないんじゃないでしょうかね。
山菜なんかを採るのが得意な方であっても10種類、20種類まで行くかどうかという感じだと思います。
そこに比べると縄文時代の人たちは非常に広範な植物や動物の知識を蓄えて、
それによって生存、食料を獲得して生存を確保していたわけですね。
さて、こんなふうに縄文時代の人たちは氷河期が終わって環境が変化する中で、
日本列島の自然環境に適応した狩猟採集の生活を身につけていたわけですね。
ギョベクリテペ遺跡:狩猟採集社会の新たな可能性
一方で目を転じて日本列島の外を見てみたいと思います。
ついここ10年くらいで、現在のトルコ共和国、アナトリア半島、小アジアと言いますが、
そこでちょうど縄文時代の始めの頃、あるいは旧石器時代の終わり頃、
やはり1万5千年くらい前の時代のある遺跡が見つかりました。
その遺跡は、ギョベクリテペという名前の遺跡です。
トルコ語でテペというのは、小高い丘を意味します。
長い間同じ場所で人の暮らしが続いたことで、生活の廃棄物が少しずつ積もって、小高い丘のようになったんですね。
別の地域、西アジアなんかに行くと、同じ小高い遺跡の丘のことをテルと言ったりします。
それと同じ意味ですね。
このギョベクリテペは、ちょうど旧石器時代の終わりから、ヨーロッパや西アジアでいう新石器時代、縄文時代と同じ時代ですけれども、
ちょうど移り変わる時期の遺跡なんですね。
この遺跡の面白いのは、どうも縄文時代と同じように狩猟採集、狩りをして植物の種なんかや果実を集めて食料にしていたわけなんですが、
そういった暮らしをしているにもかかわらず、あたかも後の古代文明社会のような、大規模な石で作った神殿とか構造物を作っている。
そういう不思議な遺跡であるということがわかったんですね。
当初、考古学者たちは、その大規模な石造物、構造物を見て、これはひょっとして農耕民、早くも西アジアでは、
基本基金が終わった直後に本格的な農耕を始めていたのではないか、なんていうふうに考えたわけですが、
発掘をしても、たとえば小麦とか大麦、そういった栽培作物の証拠は一切見つからないんですね。
しかもその神殿に彫刻が残っているわけですが、その彫刻を見ると、ヒョウとかライオンとか野生の動物、それからトカゲとかヘビとか、
そのようなものばかりが描かれていて、西アジアの初期農耕社会で家畜化された羊とかヤギとか牛とか、そういった造形は全く見られないんですね。
そんな不思議な遺跡が見つかっているわけなんですね。
さて、ここで2曲目、曲を聴いていただきたいと思います。
やはりエリック・サティで、皆さんよくご存知のジムノペティから1番お願いします。
はい、ギョベクリテペのお話をしています。
狩猟採集をしている人たちにもかかわらず、あたかも農耕民、後の古代文明社会に彷彿とさせるような石像物、
そういう人たちがいるわけなんですよね。
このギョベクリテペは非常に面白い話題といいますか、疑問を考古学者たちに投げかけました。
それは何かというと、狩猟採集民であっても資源環境が豊かであれば、農耕民と同じような文明社会と同じような活動をするんじゃないかと。
できるんじゃないかということですね。
さらに言うと、じゃあ農耕って何なんだろうと。
狩猟採集社会というのは自然の恵みに頼って暮らしているので、人口も限られるし物質文化も限定的であると。
それに対して農耕社会というのは食料を自ら生産するわけですから、人口も増えて、余剰物資、財産も増えて、古代文明に至るような大きな物質文化を築き上げることができるというふうに、それ以前は考えられていたんですが。
ギョベクリテペの発見というのは、その狩猟採集民と農耕民の境界線ですね。
その区別というのが非常に曖昧なものであるというふうな可能性、疑問を投げかけたわけなんですよね。
さらにこのギョベクリテペの研究が進んでいくと、どうやらそのギョベクリテペの人たちは神殿を作る。
そしてそこでみんなが集まって儀礼や祭祀をする、お祭りをする。
それは神々や精霊に対する信仰の現れでもあると同時に、普段チリチリバラバラで暮らしている人が年に何回かそこに集まってみんなで宴会をしてですね、
親睦を深めるというような、その人間関係、地域社会を結束を強める、そんな活動をしたいがためにそこに集まってみんなで神殿を作っているんだと。
当然多くの人たちが一箇所に集まるとですね、その人たちの日々の食べ物を調達する必要があるわけですね。
その大勢の人たちがお祭りのためにギョベクリテペに集まって、そこで彼らの食料を調達するために、
ひょっとしたら野生の小麦や大麦といった、それまでは見向きもしなかった雑草の種ですよね、狩猟採集品からしたら。
雑草の種のような食料、小麦や大麦の種を採集して、それを調理して食べると。
そんなふうにしたんじゃないかというふうな仮説まで登場してくるわけですね。
そうすると狩猟採集品というのは食料が限られている。何かあって常に植えている。
ところがその農耕が発明されたことで人類は豊かな暮らしを手に入れたんだ、なんていう古典的な農耕起源の仮説というのは全く通用しないわけですね、ギョベクリテペに関してはね。
もっとそれとは違ったいろんな農耕社会への入り口、可能性があったのではないかというふうに考えられたわけなんですよね。
縄文文化と農耕への移行の再考
ひるがえって日本列島の縄文時代を見てみると、やはり縄文時代の人たち、いろんな食料資源をうまく利用して大きな集落を築いたり、ストンサークルを作ったり、あるいは巨木を建てて何かモニュメントのようなものを作ったりしているわけですね。
ギョベクリテペのように石で作った構造物というのはさほど日本では多くないので、ぱっと見た感じは地味なんですが、でも少なくとも異色住、直接的な暮らしに関係しないような大きなモニュメントを作るほどの力を文化力を持っていたわけですよね。
しかもその縄文時代の人たちも農耕はやっていないわけですよね。
最近、縄文時代の人たちであっても、例えば野生の豆、大豆とか小豆といった豆の野生種、鶴豆、ヤブツラズキ、こういった野生の豆を利用して小豆なんかは栽培までしてたんだというのが証明されつつあります。
ですけれども、それは弥生時代の稲作農耕をするような農耕とはちょっとイメージが違うんですね。
狩猟採集、自然の恵みもたくさん採集します。
ただ鋭い自然の観察眼の中から、例えば野生の豆は食料としての価値が高い。それを村の中に持って帰ってきて家の周りに植える。そうすると遠くまで採集しに行かなくても豆が手に入る。
しかもそれを日々観察している中で、より大きな豆を取っておいて、次の年にまく。そして育てる。そうすると大きな実がなる豆が増えていくとかですね。
そういうのを経験的に知って、それを実践するようになるわけですね。
そんなふうに縄文時代の人たちは、食料資源として優れた植物、豆のようなものを栽培するという技術まで知っていたわけなんですが、ただやはり生活のメインは狩猟採集なんですね。
農耕社会には縄文時代の人たちは移っていかないわけですよね。それはそんなことをしなくても、食料が十分に手に入ったからだというふうに考えられます。
こんなふうに縄文時代とか、あるいは西アジアのギョペクリテペのような遺跡というのは、狩猟採集民の文化力というのを再認識させる、そういうインパクトがあったわけなんですね。
さて、こんなふうに考えてみると、ちょっとここで立ち止まって考えたいのは、そのじゃあ狩猟採集と農耕というのはどんなふうに位置づけられるんだろう。その境界というのはどのくらいはっきりしたものなんだろうかということなんですね。
先ほども紹介しましたが、戦前ですね、1930年代、40年代くらいの考古学の世界ではですね、新石器革命とか農耕革命という言葉がありました。
貧しく食べ物が少なくてですね、常に飢えた状態で日々薬食しながら働いている狩猟採集民がある時、小麦の種を食べる。食べるだけではなくてですね、収穫してまく。
そうやって栽培をして小麦をたくさん育てて、それを食料にするという技術を発明してですね、農耕を始めたことで初めて人類は豊かな暮らし、文明への道を手にしたんだというふうに考えられていたわけですよね。
ところが、日本の縄文時代の文化も、また小アジア、トルコのですね、ギョベクリテペのような遺跡も、そういった古典的な新石器革命、農耕革命の理論とは全く違う狩猟採集社会のイメージを私たちに教えてくれたわけですよね。
どうやってその狩猟採集から農耕へと人類の生活が移っていったんだろうかというのが次に気になるところなんですね。
大きなマクロの目で見るとですね、世界各地で氷河期が終わって暖かくなってくるにしたがってですね、いわゆる食料生産、農耕というのが同時多発的に始まります。
かつてはですね、西アジアで小麦の栽培が発明されて、それが世界各地に広がって、やがて東アジアでは米を栽培するという形に姿を変えたけれども、農耕が世界各地に広まるというふうに考えられていました。
ですが調査が進むにつれてね、そんなことではないと。どうも氷河期が終わって同時多発的にパプアニューギニアでも南米でも中米でもですね、アフリカでもですね、世界各地で多少早い遅いの違いはあっても、有用な植物を栽培する。
そして一部の動物を家畜化するという、その農耕や牧畜の生活スタイルが同時多発的に出現するということがわかってきたんですね。
どうも狩猟採集から農耕へという移り変わりは、そう単純な話ではなかったようだということなんですね。
まとめと次回予告
さて、ここでまた曲を聴いていただきたいと思います。リクサティのジムトペティの第2番です。ピアノはフィリップ・アントロモンです。お願いします。
はい、今回はもう時間切れになりましたが、次回はですね、魚べくりテペやその縄文の文化が私たちに教えたように、その狩猟採集から農耕への移り変わりというのは、そう単純な話ではなかったんだと。
じゃあそこにどんな仕組み、からくり、メカニズムが働いていたんだろうかというお話をしたいと思います。
じゃあ今日はこれで終わります。