今日のテーマトークは、システム・クラッシャーです。はい、ではマリオンさん、解説お願いします。
はい、映画ドットコムから解説を読ませていただきます。 社会に居場所をなくしてしまった9歳の少女の姿を繊細かつ強烈な描写で描き、
2019年第69回ベルリン国際映画祭 アルフレッド・バウアー賞、銀クマ賞など、世界各地で数々の賞に輝いたドイツ映画。
父親から受けたトラウマを抱える9歳の少女ベニーは、手のつけようがないほど攻撃的で、
里親やグループホーム、特別支援学級など行く先々で問題を起こしていた。 ベニー本人は母親の元へ帰ることを望んでいたが、
母親はベニーに愛情を持ちながらも接し方がわからず、施設に押し付け続けている。 そんな中、非暴力トレーナーのミハは3週間の剥離療法を提案し、
ベニーと2人きりで森の山小屋で過ごすことに。 初めのうちは文句を言い続けていたベニーだったが、徐々にミハに対して心を開き始める。
本作出演後に、この茫漠たる荒野でハリウッドデビューを果たしたヘレナ・ゼンゲルが主人公ベニーを熱演し、
西部前線以上なしのアルブレイ・ヒト・シュフがトレーナーのミハを演じた。 監督・脚本は本作が長編デビュー作となるノラ・フィング・シャイト。
はい、ではここから内容に触れる話に入っていきたいと思いますので、ネタバレ気にされる方がいたら是非見てから聞いていただけたらと思います。
はい、では参加の感想、マリオンさんいかがでしたでしょうか。
そうですね、オープニングトークでも触れてはいるんですけども、ちょっとこれ今年ベスト級に好きというか強烈なインパクトを残す映画でしたね、自分の中では本当に。
まあすごくやっぱりちょっと、なんていうんですかね、かわいくない子供の話という意味では、やっぱりちょっとこのラジオ的にはやっぱりこちらあみ子のことをどうしても思い出してはしまうんですけど、
本作の方がよりなんか僕にとってはすごく刺さるし、そしてとてもこれどうしようもないぐらい根深い、なんかもう解決するの難しいんじゃないぐらいの問題をアリノンは提示して見せてくれてるかなというふうにすごく思いました。
まあちょっと日本とドイツのこういう制度とかの問題とかってまたちょっと違うと思うんですけど、見てる限りは結構ちゃんと尽くしてそうな感じはすると、ドイツって。
でもそれでもいやちょっと無理かもみたいな感じにベニーの置かれる状況はちょっと置かれていて、いや本当これちょっとどうしたらいいのか本当にわからないなっていうか、
かまってあげる方ももちろんしんどいし、でベニーはベニーでもちろんつらいしっていう状態でこれどうすればいいんだろうみたいなのを本当に考えさせられてしまって、
なんかこれは本当になんかちゃんと問題の切実さっていうのがちゃんと伝わるようなものとしてこの可愛くない子供ある意味でっていうのを描いているのかなって思って僕はすごく好感が持てましたし、
演出面でもすごくなんかハッとさせられるというか、結構載せられることもすごく多い映画だったので、もうちょっと大傑作だなというふうに僕は思いました。
最後こう映画を壊して終わるっていうのがね、日々パキッと入るの非常に小気味良いですね。
そうなんですよね。だからもう最後、なんならもうこのままおとなしくケニアになんか行く気ねえだろお前、走れよみたいな。
完全にミヒャクなのか、それとももうベニーなのか、もう本当に彼女の応援しかしてない自分がいて。
そうなんですよね。
そんなおとなしくお前飛行機乗れるわけねえだろって。
なんかやっぱそうなんですよ。途中まで本当ハラハラしてというか、もうベニーそう、そういうとこでやっぱダメだよそこはって本当タオルさんおっしゃるようにシステム側の感覚にもなっちゃうんですけど、
なんかあのラストがあることで、やっぱ彼女はこの手のまま社会の中に続けることにやっぱ意味があるっていうふうに思えてくるというか、
それを受け入れない社会の方にやっぱり何か問題があるんじゃないかって思えるようなバランスになってるなと思って。
僕ちょっと今、そうなのかって思った部分があったんですけど、愛情の側とシステムの側を僕あんま区別を考えてなくて、
システムの枠に入れ込もうとするっていう形で彼女に対しての対応をするっていうのも一つの愛情的なもの。
ちょっとそれを言うとずれちゃうんだけど、例えば僕子供いるわけですけど、子供に対して愛情を持ってますけど、
システム側として枠に当てはめようとする意識めちゃめちゃあります。
だからここでこういうことしたら良くないってさせる。
別にベニーみたいな強烈な感情の爆発が生まれなくても絶対子供って何がしかあるので、
その時に絶対システムの枠に当てはめるっていう。
本来その子が持ってた本来の感情を抑え込むようなことは行われるんですよね。
僕は行ってるわけなんですけど、そこをこう別の立場のものとしてあんま考えてないというか、
多分親ってもその愛情を与える側とシステムに当て込む側が両立してる存在だと思うんですよね。
子供を教育するのって親じゃんっていうのもあるし、子供を守るのも親じゃんっていう。
でもそれは別に対立概念じゃなくて普通に両立しますよねって思うので、
なんかそんなに分かりやすくもないし、
システム側でしかないことにそこまで悪いことだともあんまり思わないんですよね。
むしろさっきちょっとバウンダリーの話になりましたけど、
システム側であるためにはバウンダリーを引かなきゃいけないっていうのが鉄則としてソーシャルワーカーの中で言われていることなので、
ただむしろ彼女が求めているのはそのバウンダリーを超えてくれる人っていう、
この矛盾をどうシステムが保てるかってことをすごい真正面から描いてるなと思ってはいて。
そうですね。だからシステム側、社会福祉の側、あるいは親の側が彼女の特性にマッチするものを与えられてないんですよね。
愛情の量はこれぐらいで、行動を束縛する要素としてはこれぐらいみたいなの。
多分そのバランスで子供との向き合い方って成り立っていると思うんですけど、
彼女にとって適切なものがあの世界のどこにもないっていう。
誰もそれを用意できない。それは本人の素質的な部分でそうできないっていうのもあるし、
社会構造的にそれをできないっていうのもあったりとかで、結果的に孤独にしかなれないっていうのが、
すごい残酷だなっていうのは感じましたね。
そうですね。やっぱり一線引かなきゃいけない。社会のシステムの側に立つということはっていう話ですけど、
子供はその通りになかなかわからんよなって思ったりもしたんですよね。
まずその仕事としてやってるっていうことを大人はそう思ってるけど、
子供からしたらちゃんと自分と向き合ってくれる、信頼できる大人として認識をする。
僕でもすると思うなっていう気がして、そこなんか切り分けるのって便利はできなかったし、
多分難しいことだろうなって。それでもやっぱり線引かなきゃいけないっていうのはすごく大変です、
ソーシャルワーカーっていうのをちょっと思いましたね。
そんなの子供に伝わらないですからね、本当に。
そうなんですよ。そんなこと言われてて知るかよってなると思うんですよ、やっぱり。
愛情と高速力のバランスみたいなのって、もちろん両立でいろんなことが成り立ってるけど、
そのバランスなんて子供はお構いの地位ですからね。
自分に優しいものは好きだし、自分を束縛するものは嫌いっていう単純な働きで捉えますしね。
そうですね。
だからある意味山口さんさっきおっしゃったような、両方の側面、システムというか、
社会の中に入れようっていう、ある種教育の側面と愛情、居場所としていようっていう側面って、
親だからこそできることなのかなって気はして、まさに本作の中でその親の存在がすごく不安定っていうのは結構、
うーんってなるっていうか。
だからといって、あの母親を攻めれるかっていうとっていう。
そうなんですよね。全然攻めれないなって思っちゃいましたよ。やっぱり見てて。
たぶんベニーを真正面から受け止めるってめちゃくちゃハードだし難しいよって思いますよね。
愛する我が突き放すような悪い人なんかってそういうわけでは全然ないわけで、やっぱり。
けどそういうふうに状態になってしまうけどでも、じゃあこれどうしたらいいのさみたいな。
私が心折れるまで尽くせってかみたいなこともそれは違うしっていうのがやっぱりあるから、
本当にこれマジどうしたらいいのかわからんみたいな。
本当に複雑なものをそのままなんか映画に刻み込んでるなって感じがすごいしましたよね。
その親になってみたら親の適性がなかったみたいなことってあると思うんですよ。
それが悪なのかって言われたらたぶん悪じゃないとは思うんですよ。
それはもう能力の問題。仕事をそんなに上手にやれない人がいるように。
親を上手にやれない人も当然いるよねっていうので。
あとあのお母さん別に親をやれないわけじゃなくて、
ベニーに対してだけその限界を超えちゃってるだけなので、
むしろ挑戦はしたっていうのは間違いなくあると思うんですよ。
ベニーといかに向き合うかっていう。
それに耐えられなかったっていうのがあって、どうしてもあの距離感になってしまってるっていうのがあるんですけど、
ラストの結論は本当に残酷ですよ。
1回OKって言ったものを撤回して、実質もう合わないって言ってるから、
本当にひどいとは思うんですけど、
ひどいんですけど、
ああいう本人のキャパシティを超えたこういう育児とかをやってると、
真珠とかに繋がってしまうので、
本当にそういう親子の真珠ニュースとかたまに流れてくるんですけど、
頭おかしくないとなるんですよね。それ見たら。
辛すぎて。
でも別にそこに愛情がなかったわけじゃないんですよ。
その愛情で耐えられる以上の負荷が生活にかかってしまって、
結果的にそれを選んでしまったっていう。
それはこの世界にあり得るので、
手放すっていう選択肢は当然あるべき。
ただその手放された子供がよく生きられるかどうかっていうのは、
またそこから先の別のシステムがキャッチしないといけないんだけれども、
少なくともベニーに対してはそれが十分には行われていないっていう状況があるっていうのが、
本作の辛さとしてあるなっていうのは見てて思いますね。
そうですね。
しょうがないというか苦しいっていう感じで、
そういう感じなのも好きだけどちょっと逃げちゃうみたいなところに、
周りもなんかああいう変わった子ねっていう、何々さんちの変わった子だねって、
別に積極的に攻撃するわけでもないけど、
でも距離も置いてることして、
いつの間にかだんだん孤立していってしまうみたいな。
気づいたら社会から完全に排除されてましたみたいなことになりかねない。
でもそれは少女時代の不思議な思い出みたいなコーティングで、
そんなに悪いことじゃないように見えてしまうんですよね。
こちらアミコって見方によっては。
システムクラッシャーはバチバチに社会問題としてぶつけてくるか、
気づいてる上で助けられないっていうこともぶつけてくるっていうね。
やっぱちょっとフェーズが違うなとは思うんですけど。
こちらアミコ、原作が社会問題どうというよりも、
またちょっと違うことを描いてる原作ではあるとは思うんですけど、
本当に気づかずに読んでいったら、
本当にスルッといい話に読み入ってしまうところを、
でも常に違和感が漂ってるみたいな、
今もらなつこさんの原作、
同じ巻に載ってる別の短編とかもとんでもない作品なんですけど、
すごいですよね。
他社がどう…ごめんなさい。
こちらアミコの話を始めてしまってるんで。
いやでも大事なことかなって思うんですけど。
なんかそういう人の見え方によってはみたいな、
そういう甘いを残してないのがやっぱシステムクラッシャーだなとは思うんですよね。
そうですね。
やっぱりそういうありのままをありのまま描くだけが全てではもちろんないです。
それは確かにそうなんですけど、
やっぱそこにこう…
これもなんだろうな…
その日の気分にもよるっていう話でもあるかもしれないですけど、
でもやっぱ僕はシステムクラッシャーの方がすごくきちんとそのことに向き合えたじゃないですけど、
ずしんときた重みをじっくり持って帰りたいなって思えたっていうのはやっぱありますから。
アミコはアミコで持って帰れるものはもちろんあったんですけど、
やっぱりそれがちょっとシステムクラッシャーとかだと僕はちょっと腰引けてんなみたいにやっぱ思えちゃう?
もちろん描いてるフェーズも違うとは思いますけど。
っていうのはちょっと自分の中ではあったかなっていうのはちょっと思いましたね。
本作の監督、ノラフィングシャイト監督ってドキュメンタリー出身の方なんですよね。
だからまさに今作ってすごいそのドキュメンタリックな部分なのかなっていう気はして。
そうですね。
なるほど。
なるべきしてなった作風って感じはすごいしますよね。
そうですね。
ドキュメンタリー感あるというか答えのない現実だけ突きつけてくる感じはありますよね。
そこで本当に良かったんかって問題点をすごい突きつけてる気がするんですよ、それらの作品に対して。
それで本当に根本解決になるんですかっていう。
いやー、あの疑似家族ものって結構危ういなって思うんですけど、
別に血がつながってなくても家族になれるよっていうのは、
そういう家族第一主義的ではないように見えるんですけど、
実は家族第一主義なんですよね。
家族のような関係になることが人同士の関係の中で最も尊いことですよっていう風な着地を基本する疑似家族ってものは、
むしろ血がつながってる家族ものより、より家族というものに対する持ち上げ方はより強いと思うんですよね。
血という力を借りずに家族になるっていうことは、より絆は強いですよねっていう意味を含んでる感じが結構ヒヤヒヤするというか、
距離感ってそれぞれだと思うので、
そこまで至ることだけが答えになるっていうのはちょっと多様性に欠くなって感じはしてて、
実際本作はそれの裏目が出ちゃいますけどね、もちろん。
一つ屋根の下でこういう電気もない、テレビもない限られた中で、
お互いのことを知ることで信頼関係が生まれて、それで構成することができるっていう。
それは多分それによって構成できる子供もきっといるだろうっていう。
ただ、その絆の強さはやっぱり弁理にとっては非常に良くないものとしてなってしまうというか、
なんでしょうね、どうしたらよかったのかな。
あの山小屋で例えば他の子供と集団生活するとかやったらどうなんでしょうね。
でも彼女には難しい気がしますね。
そうだな。
ちょっと思ってたのが、議事家族っぽくなりそうみたいなのが2回ぐらいあると思うんですよ。
一つはミヒャの家族と、あと小さい頃お世話になってた人。
2番目の里親。
里親ですね。
里親の人がいますよね。
もしかしたら彼女の別の居場所になるのかなって思ったんですけど、結局壊れちゃうんですけど、
壊れる要因ってどっちも別の子供がいるってことが結構聞いてくるよなって思って。
彼女だけだったら大変かもしれないですけど、まだどうにかなったかもしれないみたいな。
けどもう一人、別の子供ともう一人いるとかなると、またそっちの子供もまだ予測不能だったりとかわかんないとかになったときに、
じゃあ彼女の顔触れたらめちゃくちゃボコボコに殴られますよなんてわかんないじゃないですかね。
本当に大事故みたいに起こってましたけど、スケート場でとか。
いやそう、そうなの。そうなんだよな。
どうすりゃいいのこれみたいな感じにどうしてもなっちゃいましたね。
だからその事件以降、彼女が放火されてから病院に駆け回れるっていうことになるわけですけど、
それはそれで確かに彼女のこれからの人生を持った時に一生そこってことじゃないですか、つまり。
それは確かに狭いだろうし、
そうですよね。
確かに一時的な解決策にはなるんですけどね。
ただそれはもう社会から切り離す、ある意味ラストもそうなんですけど、
ケニアに行ってもらうっていうのもこの国から切り離すみたいなことなんであれ。
あれちょっとびっくりしましたね。
そうそう。
それありっていう感じはしましたけど。
しかもあれ歴史上なんか元植民地だったらしくてドイツの。
そういう背景があるってのまで聞くとなんかよりおいおいっていう気持ちにもなってくるっていう。
なるほどね。
本当にちょっときついなっていうのはあるんですけど、
ちょっと話戻すんですけど、
2番目の里親のお家ってあそこのお家ってどういう仕組みなんですかね。
あれってドイツ特有のものだったりするんですか。
なんでベニーを1回お家に住まわせた後手放してるんですかね。
それって出たり入ったりするのって養子入れとかっていう里やとはまた違うものですかね。
預かる感じってことですよね。一時預かりというか。
そうだと思いますね。あんまり詳しくわかってないですけど、
おそらく親が必要な時期年齢。
おそらくベニーが今10歳、9歳、10歳ぐらいだと思うんで。
要は小学校ぐらいまで、日本でいうと。
親の保護者っていうのは必要だから、そこまでは預かりますよみたいなことなんじゃないかなって思ってたんですけど。
ただそこに、この絵が何回も言いましたけど、そこに居続けると依存してしまうと。
そこの場から離れなくて自立ができなくなってしまうっていうのは多分結構根本にある思想だと思うんですけど。
だから完全なる依存は、あるいは共依存みたいなものはさせないっていうのが多分基本方針としておそらくあって。
その共依存させないために、ある一定期間を超えたらもうそこからは自分で建てるような場所、
例えば保護施設であったりとか特別支援学級だとかっていうところに入って社会性を学んでくださいっていうことなんだと思うんですよね。
だから多分ベニーは一時そこが大丈夫だと認められてしまったのかもしれない。
あるいは実の母親が預かれますよっていう話になればおそらくそれは一旦ってことにもなるでしょうし。
あれは本当にそういう仕組みの中で、ある種の共依存にならないための仕組みの中で生まれた制度なんじゃないかなっていう気はしますね。
そうなんですよね、ちょっとテンションが上がってしまっている自分がいるというか、
本当に良くない、あーもうどうしようもないってことが起こってるんですけど、
ただあのちょっとビートが鳴っちゃったらね、もうちょっとね、ちょっとやっちゃえって思ってる自分もちょっといるというか、
テンション上がってる自分もいて、やっぱね、絶妙なラインというか。
見せ方もやっぱかっこいいですよね、タイトルの出方とかめちゃくちゃかっこよかったんですよ。
なんかね、もうあれだけで掴みOKって感じで、
あ、こいつもこいつを手のつけられない感じなんだなと。
それがここまでハードなものになるとは思ってなかったんですけど、タイトルを見る時くらいまでは。
やっぱちょっとかっこいい、ちょっとパンクな感じの子なのかなぐらいにやっぱ思ってたら、
とんでもねえっていうふうになるっていうところを含めてこの映画すごいなって思います。
僕この映画のポスターアート大好きすぎて、もうプテプテしく大人たちを見つめる目。
すっげえいい顔するなって。
最高なんですよね、この顔。
いい顔ですよ、ほんとに。
表情豊かですよね。
あの目がむちゃくちゃいいですよ。
全体的なビジュアルもパンク感ありますよね。
そうですね。
まさに彼女がずっとピンクの、本当にショッキングピンクの服を着ているところとかももう異物感がすごいですし。
そうなんです。どこにも交わる気に入らない私はっていう色ですよね。
それはちょっとピンクの爆弾みたいに言われてもしょうがないぐらいなビジュアルと言いますか、色使いですよね。
劇中でのって言ったらいいのかな、本当に。
もちろん彼女は望んでああなってるわけではないんですけど、
そうやるしかないっていうことに対する強い生命力があって、
彼女の生きやすさをどうすべきかって話とは別に、
彼女そのものに対する肯定がこの作品にはすごい根底に流れているなと思うんですよ。
そこは本作ですげえ大事な部分で、
どうしても話全体としては彼女をいかにシステムに落とし込むかっていう、
彼女の行を否定する方向にどうしても周囲で話の全体の流れは進まざるを得ないんですけど、
そればっかりにならない部分が本作のすごい強い部分というか、
彼女の本来持ってる生命力みたいなものをしっかり肯定し続けるっていうのがすごい強いなって、
彼女が動き出すと流れるビートであるとか、
あるいは彼女のショッキングピンクのイメージカラーであるとか、
本当にもうなんか血潮が、彼女の血潮がそこにあるなっていう、
すっかり丸くなってたら、いや不誠実だろそれって言われますもんね。
これで安易になんか丸く収まりましたとか、ハッピーエンドとかしたらもう踏ん張るものなわけですよ、当然。
そんなことね、やっちゃダメだというか、そんなもん、そんな疑問的なことないぞともちろん、
わかってるからこそあのラストだと思うんですけど。
だからちょっとこう、何だろう、彼女が彼女らしさを取り戻すというか、
女らしくいるっていうのはちょっと時計仕掛けのオレンジっぽくもあったりもして、
あそこにカタルシスが持ってくる感じというか。
なるほど、そうですね。
そうですね、やっぱちょっとかっこいい映画だなとも思うし、
ただ別にそのかっこよさに短歴することでそのまま帰らせてもくれないんですけどね。
やっぱりその性を肯定したからって、
じゃあ彼女の生活は明日からはどうなさるんですかっていうのもちゃんと持って帰らされるから。
そう、よくできたバランスですよ。
すごいわ、ちょっとしびれますね。
いや、この映画ね、だって2019年にギンクマションってさっきね、数書いてましたけど、
ちょっと待って、ようやく今見れたのかよって感じですけど。
塩漬けにされすぎじゃないですかっていう。
ちゃっちゃっとこういうの公開して、おーって言いたかったわって思いましたけど。
実際ベニーちゃん演じたヘルナ・センゲルさんってその後ね、結構いろんなところに引っ張りた子で。
そうですね、このシステムクラッシャーで有名になった後に出た、
開催時にも出てたこの某バクタル荒野の方で初めて彼女のことを知ったので、
あれも良かったんですけど、やっぱシステムクラッシャーみたいな、そりゃいいわっていう。
そりゃいいですよ、この演技力はすごいですよってなりましたよ、やっぱり。
すごいっすよね、本当に。
すごいし、周りの大人ってどうしてたんだろうと思って。
演技指導とかもそうなんですけど、あとケアですよね、彼女に対する。
そのお題もどうしてたんだろうと思って。
好きに暴れていいよって言ったら、ああなったとかなのかな。
これどうなんでしょうね。
ただひたすらに暴れてって言ってもなかなかできることじゃないと思うんですよね。
子供とはいって、若まん、傍若無人に振る舞えみたいなのって言われなくてもやってるわみたいな感じかもしれないですけど、
いざ演技でやるってなったらめちゃくちゃ消耗しますよね、きっとね。
すごいですよね、本当に。
めちゃくちゃすごい図材ですよ、本当に。
2019年で10歳ぐらいだったってことは、もう15ぐらいか。
もうティーネイジャーになってますね、もう。
今出てるとしたら、ちょっと違う役回りにはなりますよね。
ずっと遅れてやったんでしょうね。
結構これまで2作ともそうでしたよね。
結構遅いんですよね。
結構間開けてようやく、そんな間開けたら怒りますよ。もう怒りますよみたいな。
さすがにカンヌ撮って遅れはせんでしょうね。さすがに。
けどベルリンで銀魂ショー撮ってこんだけ寝かされてますからね。
まあ確かに。
いやだから、ショーを撮ったら確かに早く見たい人も増えて、
で、拍がつきますけど、いざ買い付けってなるとやっぱ拍がついた分お金高くなったりとかね。
するのでね、とかあったりとかもするんでしょうけど。
気持ちとして早く見たいじゃないですか。
まあショーン・ベイカーすでに日本に下地もあるので、
むしろあのショーン・ベイカーがついにカンヌを撮ったっていう、
外線、まあ外線じゃないですけど。
こっちの国の人じゃないから。
外線じゃないけど、ついにリアルタイム、ほぼリアルタイムで上映されますみたいな感じでやれるんじゃないですかね。
めちゃくちゃ期待してますね。
あんな大きなステージに上がると思ってなかったんだよな。
確かに確かに。
それとちょっとまあ話が若干それちゃうかもしれないですけど、
なんか今年すごいドイツ映画いい年だなって気がしていて、
それこそありふれた教室もそうですし、あと阪神領域もドイツ映画っちゃドイツ映画ですよね。
ドイツが舞台って。
まあそうか、監督がドイツじゃないか。
一応あれイギリス代表やから。
あれイギリスなんですね。
そっか。
国際長編であれイギリス代表っていう。
あ、そうなんですね。ドイツ映画と思ってました。
パチパチなので。
まあもちろん小坂もドイツ入ってますけど、またちょっとニュアンス変わりますけど。
阪神領域違うんだ。
ありふれた教室もね、めちゃめちゃ人から押されますね、あれ以降も。
大井さんが紹介して以降もずっと押されます。
いやぜひ見てほしいですね。
見たいですね。
ありふれた教室も本当に自然に移民の人たちが教室の中にいるんですよ。
それってやっぱり過去の阪神領域の時代の反省を経た上でのドイツの歴史っていうのはすごい反映してるような気はするんですよね。
それってまさにシステムクラッシャーのシステムというか、ソーシャルワークっていうのも結構そこはすごい強くあると思うんですよ。
過去の歴史としてそういうことを、民主的なことをやってしまったことをどう反省するかっていう歴史、おそらくドイツを歩んできているので。
だからそういう社会で見えるものって、ちょっと僕らの先の話をしてるようにも見えるというか。
今の日本の社会、あるいは世界、アメリカでもそうかもしれないんですけど、民主化がしっかり進みきった上で何が待ってるのかみたいな。
それでも解決できない問題って実際あるんじゃないの?みたいなところを捉えてるようにも思えて、結構ドイツ映画独特の味わいがあるなっていうのはこの2作見てて思うところではありますね。