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2024-06-04 1:11:33

第170回(2) 『システム・クラッシャー』ベニー、人生以外のすべてをぶっ壊せ!!

『システム・クラッシャー』の話をしました。

突発的な攻撃性に苦しむ少女・ベニーについて、どうすれば社会が彼女をすくい上げられるかという問題提起の側面と、それでも個としての在り方を貫く人間賛歌の側面の、2つの側面から話しています。

 

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00:00
今日のテーマトークは、システム・クラッシャーです。はい、ではマリオンさん、解説お願いします。
はい、映画ドットコムから解説を読ませていただきます。 社会に居場所をなくしてしまった9歳の少女の姿を繊細かつ強烈な描写で描き、
2019年第69回ベルリン国際映画祭 アルフレッド・バウアー賞、銀クマ賞など、世界各地で数々の賞に輝いたドイツ映画。
父親から受けたトラウマを抱える9歳の少女ベニーは、手のつけようがないほど攻撃的で、
里親やグループホーム、特別支援学級など行く先々で問題を起こしていた。 ベニー本人は母親の元へ帰ることを望んでいたが、
母親はベニーに愛情を持ちながらも接し方がわからず、施設に押し付け続けている。 そんな中、非暴力トレーナーのミハは3週間の剥離療法を提案し、
ベニーと2人きりで森の山小屋で過ごすことに。 初めのうちは文句を言い続けていたベニーだったが、徐々にミハに対して心を開き始める。
本作出演後に、この茫漠たる荒野でハリウッドデビューを果たしたヘレナ・ゼンゲルが主人公ベニーを熱演し、
西部前線以上なしのアルブレイ・ヒト・シュフがトレーナーのミハを演じた。 監督・脚本は本作が長編デビュー作となるノラ・フィング・シャイト。
はい、ではここから内容に触れる話に入っていきたいと思いますので、ネタバレ気にされる方がいたら是非見てから聞いていただけたらと思います。
はい、では参加の感想、マリオンさんいかがでしたでしょうか。
そうですね、オープニングトークでも触れてはいるんですけども、ちょっとこれ今年ベスト級に好きというか強烈なインパクトを残す映画でしたね、自分の中では本当に。
まあすごくやっぱりちょっと、なんていうんですかね、かわいくない子供の話という意味では、やっぱりちょっとこのラジオ的にはやっぱりこちらあみ子のことをどうしても思い出してはしまうんですけど、
本作の方がよりなんか僕にとってはすごく刺さるし、そしてとてもこれどうしようもないぐらい根深い、なんかもう解決するの難しいんじゃないぐらいの問題をアリノンは提示して見せてくれてるかなというふうにすごく思いました。
まあちょっと日本とドイツのこういう制度とかの問題とかってまたちょっと違うと思うんですけど、見てる限りは結構ちゃんと尽くしてそうな感じはすると、ドイツって。
でもそれでもいやちょっと無理かもみたいな感じにベニーの置かれる状況はちょっと置かれていて、いや本当これちょっとどうしたらいいのか本当にわからないなっていうか、
かまってあげる方ももちろんしんどいし、でベニーはベニーでもちろんつらいしっていう状態でこれどうすればいいんだろうみたいなのを本当に考えさせられてしまって、
なんかこれは本当になんかちゃんと問題の切実さっていうのがちゃんと伝わるようなものとしてこの可愛くない子供ある意味でっていうのを描いているのかなって思って僕はすごく好感が持てましたし、
演出面でもすごくなんかハッとさせられるというか、結構載せられることもすごく多い映画だったので、もうちょっと大傑作だなというふうに僕は思いました。
03:08
はい、大井さんいかがでしたでしょうか。
そうですね、この映画僕もオープニングトークで少し話したんですけど、ベニーの描写は確かに本当に見事だし、切実さも間違いなく心に見てるとキュッと来てしまうようなところもあるんですけど、
この映画すごいなっていうか、よくそこに踏み入ったなって思ってるのがソーシャルワーカー側の描き方、そこをもう一つの主軸にしたっていうのがやっぱ本作すごい良いなって思ったし、
現実の問題を何とか劇映画の中に閉じ込めようとしてるっていうその生き甲斐を感じたっていうところですね。
自分のラジオの小谷さんに紹介した時にこの言葉を教えてもらったんですけど、
ソーシャルワーカーの中でバウンダリーっていう概念があって、自分と他の境界線をどう引くか、プロとしてどう引くかっていうのってめちゃくちゃ難しいっていうような話を小谷さんがされていて、
彼も今ソーシャルワーカーとして働いているんですけど、そういうもの、ある意味この映画の一個のモチーフって境界だと思ったんですよね、見てて。
例えばベニーと養護施設の他の子たちを区切るガラスの窓であったりとか、かなりガラスってモチーフがその境界を表す、
あるいは大人たちが会議してるところをベニーが見てるシーンだとか、そういう境界をまさにクラッシュしていく、彼女がそこを突き破っていく話として、
ある種そのちょっと爽快さすら最後には感じるような描き方になっていて、なんかすごい面白いし深い問題もあるし、でもなんか最後にはベニーの味方でいたくなるというか、
僕らの似合ったバウンダリーを彼女が破壊していくというか、なんかそういうパワーを持った作品で僕もすごい大好きな映画です。
僕はですね、まず前回の収録段階では今回のテーマはトラペジウムになってたんですけれども、
初版の事情によってテーマ作品が変わりましてシステムクラッシュになったんですけど、
前回の時点で子供がしんどい目に遭う映画2回連続きついなっていう話をしてて、結果的に3週連続で子供がしんどい目に遭う映画になったんですけど、
いやでもシステムクラッシュも傑作だったかなと思います。 僕の見てた切り口としては、
社会が助けなければならない存在、あるいは社会が助けたいと思っている存在が助けられるように振る舞えるとは限らない、
あるいは社会から愛されるようなものではないかもしれないっていう、そうだった時に周囲とか我々はどうできるかっていうすごい思い問いをぶつけてきているなっていうのがあって、
見てて本当にすごい緊迫感なんですよね。 何かがうまくいってくれたらいいけど、当然のようにぶっ壊れるっていうのが繰り返されるので、
06:04
この綱渡りをしているような緊張感、最終的にはそれを緊張感を放り投げるような解放感と、ある種の破滅のような何かっていうのがすごく映画としても強烈なインパクトを持ってて、
なんかすげーなっていう感じでした。やっぱりこちらアミコンは思い出しますし、あと思い出すのはやっぱりフロリダープロジェクトも思い出しますねっていう感じですね。
ではお便り1ついただいてますので紹介させていただきます。 オイスさんお願いしますか。
タウルさんからいただきました。
こんにちはタウルです。先日は東京開催お疲れ様でした。
さてシステムクラッシャーですが、希望と絶望で感情が行ったり来たりし、どうしたらいいのかと考えがぐるぐる巡ったりで、とても振り回される映画でした。
途中ベニーと付き合うあまりの大変さに、何とか彼女に幸せになってほしいから、何とか彼女を制御できないかとシステム側の感覚になっていることも気づきました。
同じドイツ映画のありふれた教室も最近見たのですが、あちらも同じで複雑さを複雑なままこちらに叩きつけてきます。
そのせいでしょうか、人物にも出来事にも複雑な感情を抱き続けているように思います。
最後の失踪によし行けと思ってしまったのは私だけでしょうか。
ありがとうございます。
ラストね、ちゃんとクラッシュしてくれますからね。
いやそうなんですよね。ある意味スガスガしいんですよね、やっぱり。
怒ってることは確かに、問題はまだこれ全然終わってないし、何ならもっとこれひどくなるぞ、これ、みたいな終わり方ではあるんですけど。
ただ、あの爽快感見せられたらちょっと僕も傾いちゃいますよね。
答えのなさみたいなのも感じるし、彼女がどこまでもやっちゃえよみたいな気持ちにもなるし。
あのまま出す感じっていうのが、これも多分オープニングとかでも言ったんですけど、ショーン・ベイカーっぽいなと。
山口さんがフロリダプロジェクトを思い出したって言われてましたけど、僕もフロリダプロジェクトを思い出し、レッドロケットもすごく終わりはそれっぽいなっていうか。
この人にとっては今この瞬間全力で、これが私の世界だからって言って、本当にもう最後までどこまでも遠くまで行ってしまうぐらい行ってしまうっていうか、
行こうとしているところで終わるっていうのはすごく通じるものがあるなってすごく思ったし、
あと本当にその場にいるその人たちをそのまま描くみたいなところもすごく今回の絵のテイストともすごい似てるなっていうふうにすごい感じましたね。
彼女は福祉のシステムを壊して、壊していってるというか、彼女をキャッチする部分だけ壊れていってしまうって感じではありますけど、
09:13
最後こう映画を壊して終わるっていうのがね、日々パキッと入るの非常に小気味良いですね。
そうなんですよね。だからもう最後、なんならもうこのままおとなしくケニアになんか行く気ねえだろお前、走れよみたいな。
完全にミヒャクなのか、それとももうベニーなのか、もう本当に彼女の応援しかしてない自分がいて。
そうなんですよね。
そんなおとなしくお前飛行機乗れるわけねえだろって。
なんかやっぱそうなんですよ。途中まで本当ハラハラしてというか、もうベニーそう、そういうとこでやっぱダメだよそこはって本当タオルさんおっしゃるようにシステム側の感覚にもなっちゃうんですけど、
なんかあのラストがあることで、やっぱ彼女はこの手のまま社会の中に続けることにやっぱ意味があるっていうふうに思えてくるというか、
それを受け入れない社会の方にやっぱり何か問題があるんじゃないかって思えるようなバランスになってるなと思って。
僕ちょっと今、そうなのかって思った部分があったんですけど、愛情の側とシステムの側を僕あんま区別を考えてなくて、
システムの枠に入れ込もうとするっていう形で彼女に対しての対応をするっていうのも一つの愛情的なもの。
ちょっとそれを言うとずれちゃうんだけど、例えば僕子供いるわけですけど、子供に対して愛情を持ってますけど、
システム側として枠に当てはめようとする意識めちゃめちゃあります。
だからここでこういうことしたら良くないってさせる。
別にベニーみたいな強烈な感情の爆発が生まれなくても絶対子供って何がしかあるので、
その時に絶対システムの枠に当てはめるっていう。
本来その子が持ってた本来の感情を抑え込むようなことは行われるんですよね。
僕は行ってるわけなんですけど、そこをこう別の立場のものとしてあんま考えてないというか、
多分親ってもその愛情を与える側とシステムに当て込む側が両立してる存在だと思うんですよね。
子供を教育するのって親じゃんっていうのもあるし、子供を守るのも親じゃんっていう。
でもそれは別に対立概念じゃなくて普通に両立しますよねって思うので、
なんかそんなに分かりやすくもないし、
システム側でしかないことにそこまで悪いことだともあんまり思わないんですよね。
むしろさっきちょっとバウンダリーの話になりましたけど、
システム側であるためにはバウンダリーを引かなきゃいけないっていうのが鉄則としてソーシャルワーカーの中で言われていることなので、
12:07
ただむしろ彼女が求めているのはそのバウンダリーを超えてくれる人っていう、
この矛盾をどうシステムが保てるかってことをすごい真正面から描いてるなと思ってはいて。
そうですね。だからシステム側、社会福祉の側、あるいは親の側が彼女の特性にマッチするものを与えられてないんですよね。
愛情の量はこれぐらいで、行動を束縛する要素としてはこれぐらいみたいなの。
多分そのバランスで子供との向き合い方って成り立っていると思うんですけど、
彼女にとって適切なものがあの世界のどこにもないっていう。
誰もそれを用意できない。それは本人の素質的な部分でそうできないっていうのもあるし、
社会構造的にそれをできないっていうのもあったりとかで、結果的に孤独にしかなれないっていうのが、
すごい残酷だなっていうのは感じましたね。
そうですね。やっぱり一線引かなきゃいけない。社会のシステムの側に立つということはっていう話ですけど、
子供はその通りになかなかわからんよなって思ったりもしたんですよね。
まずその仕事としてやってるっていうことを大人はそう思ってるけど、
子供からしたらちゃんと自分と向き合ってくれる、信頼できる大人として認識をする。
僕でもすると思うなっていう気がして、そこなんか切り分けるのって便利はできなかったし、
多分難しいことだろうなって。それでもやっぱり線引かなきゃいけないっていうのはすごく大変です、
ソーシャルワーカーっていうのをちょっと思いましたね。
そんなの子供に伝わらないですからね、本当に。
そうなんですよ。そんなこと言われてて知るかよってなると思うんですよ、やっぱり。
愛情と高速力のバランスみたいなのって、もちろん両立でいろんなことが成り立ってるけど、
そのバランスなんて子供はお構いの地位ですからね。
自分に優しいものは好きだし、自分を束縛するものは嫌いっていう単純な働きで捉えますしね。
そうですね。
だからある意味山口さんさっきおっしゃったような、両方の側面、システムというか、
社会の中に入れようっていう、ある種教育の側面と愛情、居場所としていようっていう側面って、
親だからこそできることなのかなって気はして、まさに本作の中でその親の存在がすごく不安定っていうのは結構、
うーんってなるっていうか。
だからといって、あの母親を攻めれるかっていうとっていう。
そうなんですよね。全然攻めれないなって思っちゃいましたよ。やっぱり見てて。
15:06
たぶんベニーを真正面から受け止めるってめちゃくちゃハードだし難しいよって思いますよね。
愛する我が突き放すような悪い人なんかってそういうわけでは全然ないわけで、やっぱり。
けどそういうふうに状態になってしまうけどでも、じゃあこれどうしたらいいのさみたいな。
私が心折れるまで尽くせってかみたいなこともそれは違うしっていうのがやっぱりあるから、
本当にこれマジどうしたらいいのかわからんみたいな。
本当に複雑なものをそのままなんか映画に刻み込んでるなって感じがすごいしましたよね。
その親になってみたら親の適性がなかったみたいなことってあると思うんですよ。
それが悪なのかって言われたらたぶん悪じゃないとは思うんですよ。
それはもう能力の問題。仕事をそんなに上手にやれない人がいるように。
親を上手にやれない人も当然いるよねっていうので。
あとあのお母さん別に親をやれないわけじゃなくて、
ベニーに対してだけその限界を超えちゃってるだけなので、
むしろ挑戦はしたっていうのは間違いなくあると思うんですよ。
ベニーといかに向き合うかっていう。
それに耐えられなかったっていうのがあって、どうしてもあの距離感になってしまってるっていうのがあるんですけど、
ラストの結論は本当に残酷ですよ。
1回OKって言ったものを撤回して、実質もう合わないって言ってるから、
本当にひどいとは思うんですけど、
ひどいんですけど、
ああいう本人のキャパシティを超えたこういう育児とかをやってると、
真珠とかに繋がってしまうので、
本当にそういう親子の真珠ニュースとかたまに流れてくるんですけど、
頭おかしくないとなるんですよね。それ見たら。
辛すぎて。
でも別にそこに愛情がなかったわけじゃないんですよ。
その愛情で耐えられる以上の負荷が生活にかかってしまって、
結果的にそれを選んでしまったっていう。
それはこの世界にあり得るので、
手放すっていう選択肢は当然あるべき。
ただその手放された子供がよく生きられるかどうかっていうのは、
またそこから先の別のシステムがキャッチしないといけないんだけれども、
少なくともベニーに対してはそれが十分には行われていないっていう状況があるっていうのが、
本作の辛さとしてあるなっていうのは見てて思いますね。
そうですね。
しょうがないというか苦しいっていう感じで、
そういう感じなのも好きだけどちょっと逃げちゃうみたいなところに、
18:05
担当のソーシャルワーカーの女性の人とかもちゃんとクソって言っちゃってるとか、
仕事の感じで文句言ってるのとかも言いたくはなるよっていう感じも、
分かるなってすごい思いましたし、
どっちも痛いほど分かるわっていうか、
あの感じが本当に割り切れねえっていうのをより強めてるなって感じがしますね。
それこそ劇中ずっとベニーが一番言う単語ってママだと思うんですけど、本作の中で。
それをやっぱり劇中ずっと辿って見ていって、
母親の姿って結構終盤ならないと出てこないじゃないですか。
確か。
前半は結構電話越しでとか。
一応出ましたか。
出ましたかね。
割と早めに。
そっかそっか。
家とかにベニーが行っちゃってみたいな話とか。
出てないわけじゃないんだけど。
前半というか序盤の方見てた時に、電話とかで対応してるのだけがまず見えてきて。
正直どんな母親なのか。
あと一番最初の冒頭のシーンとかでめちゃくちゃあざがあったりとかして、
ちょっとDVとか受けてんのかなっていう気にもなるっていう。
たぶん後々それがそうじゃないってことが分かっていくんですけど。
親がひどいなら多分話として逆に飲み込みやすいというか、
毒親なんだなって思えるんですけど、
最後まで私だとすると彼女がママっていうシーンで、
きっとそこでこう何か折り合いがつけられないものがあるんだなって、
なんかすごいすっと納得できるんですけど、
この絵がそうさせてくれないっていう。
それがタオルさんがおっしゃってるように、
複雑なさを複雑なままこちらに叩きつけてくるっていうところは、
すごい優れてるところだなと思います。
特にこの手のニュース、現実ではシンプルにされがちではあって、
正直気持ちは分かるんです。
耐えられないんですよ、この複雑さに本当に。
そうですね。
それは分かるんですけど、
でもその複雑さを複雑さままキャッチしないと、
解決できないんですよね。
改善をできないっていう。
そうですね。
そこがめっちゃしんどいですけどね。
それこそ今作の母親、さっき山口さんが、
もし抱えてたら潰れてしまうって話ありましたけど、
まさにそれだったのがアミコなのかなって気もちょっとして。
そうですね。
だからこちらアミコの時に、
やっぱり社会側に受け皿が必要だよねって話、
結構あったと思うんですよ、表として。
その受け皿って本当はどういう作りになってるべきなのっていうのを問うのが、
もちろんアミコと今回のベニーって、
キャラクター性というか、
受け取りづらさの問題のベクトルが全然違うんですけど、
そういうやっぱりシステムの側を描くことで、
21:03
アミコのその先というか、
子供がそこから離れられた場合にも、
実は問題っていうのはあるっていうのは、
よりこの問題の複雑さというか、
解決の難しさみたいなものをすごい感じることができたなと思います。
そうですね。これ東京のバーでちょっと大井さんと話してたんですけど、
こちらアミコとシステムクラッシャーで、
問題提起してる段階が違うというか、
フェーズが違うって感じだと思うんですけどね。
こちらアミコの方は、
そもそも社会に受け皿がないっていうところ。
システムクラッシャーは社会に受け皿があるが、
それが適切に当人にマッチしていないっていう、
また別の問題があって、
ただ少なくとも社会に受け皿が用意されている。
しかもそこに従事している当事者たちは、
非常に積極的にそこに受け皿をよく運用しようと、
積極的に加担しているっていうね。
そこが非常に違うんですよね。
その状況、しかもあれは特性上アミコの視点というか、
どっかちょっとファンタジックな感じもあったりとかして、
それで見て、私もわかるみたいな複雑さ、
私もアミコだったみたいなふうに思うのって、
うーん、良くないみたいな感じがしてしまうんじゃないって、
ちょっと思ってしまったんですよね。
システムクラッシャーを見終わった後に。
僕はそもそもアミコを別の理由で嫌いって言ってしまっている側の人間ではあるんですけど、
やっぱりアミコがやろうとしていたことに比べると、
やっぱりシステムクラッシャーの方が、
よりきちんとその重み、
ちゃんと受け止められないかもしれないけど、
ちゃんとお前ぶつかれよみたいな、
喰らえよみたいなのをちゃんと突きつけてくる感じっていうのは、
やっぱ僕すごいシステムクラッシャーが良いなというふうに思ったところですかね。
そうですね、マリオンさんのお話を拾って続けさせてもらうと、
こちらアミコって人と違う不思議な女の子の、
少女時代の日常みたいな見え方しようと思ったらできるんですよね、作品って。
周りと噛み合わないけど、本人は健やかには過ごしている。
でも周りは振り回されているっていう話として追われる見方によっては。
システムクラッシャーはガッツリそんな話にはならない。
もちろんアミコとベニーの特性の違い自体もあるんですけど、
だから本来アミコって、
もしかしたらそういう病名がつくような状態なのかもしれないけど、
周りがそれを何一つキャッチしてない、あるいは無視している。
気づいてないフリをしているっていう状態でそれがスルーされていって、
24:03
周りもなんかああいう変わった子ねっていう、何々さんちの変わった子だねって、
別に積極的に攻撃するわけでもないけど、
でも距離も置いてることして、
いつの間にかだんだん孤立していってしまうみたいな。
気づいたら社会から完全に排除されてましたみたいなことになりかねない。
でもそれは少女時代の不思議な思い出みたいなコーティングで、
そんなに悪いことじゃないように見えてしまうんですよね。
こちらアミコって見方によっては。
システムクラッシャーはバチバチに社会問題としてぶつけてくるか、
気づいてる上で助けられないっていうこともぶつけてくるっていうね。
やっぱちょっとフェーズが違うなとは思うんですけど。
こちらアミコ、原作が社会問題どうというよりも、
またちょっと違うことを描いてる原作ではあるとは思うんですけど、
本当に気づかずに読んでいったら、
本当にスルッといい話に読み入ってしまうところを、
でも常に違和感が漂ってるみたいな、
今もらなつこさんの原作、
同じ巻に載ってる別の短編とかもとんでもない作品なんですけど、
すごいですよね。
他社がどう…ごめんなさい。
こちらアミコの話を始めてしまってるんで。
いやでも大事なことかなって思うんですけど。
なんかそういう人の見え方によってはみたいな、
そういう甘いを残してないのがやっぱシステムクラッシャーだなとは思うんですよね。
そうですね。
やっぱりそういうありのままをありのまま描くだけが全てではもちろんないです。
それは確かにそうなんですけど、
やっぱそこにこう…
これもなんだろうな…
その日の気分にもよるっていう話でもあるかもしれないですけど、
でもやっぱ僕はシステムクラッシャーの方がすごくきちんとそのことに向き合えたじゃないですけど、
ずしんときた重みをじっくり持って帰りたいなって思えたっていうのはやっぱありますから。
アミコはアミコで持って帰れるものはもちろんあったんですけど、
やっぱりそれがちょっとシステムクラッシャーとかだと僕はちょっと腰引けてんなみたいにやっぱ思えちゃう?
もちろん描いてるフェーズも違うとは思いますけど。
っていうのはちょっと自分の中ではあったかなっていうのはちょっと思いましたね。
本作の監督、ノラフィングシャイト監督ってドキュメンタリー出身の方なんですよね。
だからまさに今作ってすごいそのドキュメンタリックな部分なのかなっていう気はして。
そうですね。
なるほど。
なるべきしてなった作風って感じはすごいしますよね。
そうですね。
ドキュメンタリー感あるというか答えのない現実だけ突きつけてくる感じはありますよね。
27:00
全体としてはちゃんと劇映画になってるんだけど、
でもこの突きつけ方はドキュメンタリーのそれって感じはしますね。
そう。
だから本当になんかすごいなって思いますけど、
ドキュメンタリー映画も撮るし劇画も撮りますみたいな人いますけど、
そういった監督の中でも結構機械値っていうかなんか結構頭一つ抜けてるぐらいの人じゃないですかこの人みたいな気がしましたね。
そうですね。
なんかドキュメンタリーから劇映画に来た時に、
そのドキュメンタリーのバランス感覚をそんなに壊さないまま劇映画に来てるというか。
そうですね。
なんとなくのイメージですけど、
ドキュメンタリーでやれてたことが劇映画になると急にバランス崩れるみたいなことって全然あり得る気がするんですよね。
もしかしたらそれってドキュメンタリーの時からかなり作為的な撮り方をしてる場合とかもあったりするのかもしれないですね。
こういう明確な意図を持って編集が行われてたりするドキュメンタリー。
でも意図があったとしてもドキュメンタリーだからそこに違和感って生じないんだけど、
劇映画になるとそれがもうわざとらしさにしか見えなくなるみたいなのってあり得るんじゃないかなって気がして。
本作はそのわざとらしさはあんまないんですよね本当に。
そうなんですよね。
やっぱそのドキュメンタリーだからこそ、さっき僕が冒頭に言ったミシャの視点をもう一個の主軸として描けたのかなっていう気もして。
あれそこが結構アミコとは違うところ。
大人の視点がそこにあるというか。
彼女を助けようとしている大人の視点がそこにあるんだけどそれでも助けられないっていうのを描くっていうところが結構すごい良かったですね。
特にミシャのキャラクターがめちゃくちゃ僕好きで。
いやもう辛い。
辛い。
辛い。
そうなんですよ。
彼の過去ってあんまりちょっと語られるけどそんなに詳しくは語られないじゃないですか。
でも多分昔それこそやんちゃしてそれこそソーシャルワーカーにお世話になったような人なんだろうなっていう過去の持ち主なんですよねおそらく。
そこら辺が立ち振る舞いだとかあるいはちょっとした彼女とのふれあいの中で出てくるっていう。
だから一番最初に彼女を病院で見つめる視点が俺だったらなんとかできるかもしれないっていう。
ただ彼は結局それで彼女にバウンダリーを超えさせてしまうっていう。
そこのなんというかいやそれやるし彼女にとって一番大切なのはそれだってわかってるけど彼はやっちゃいけないんだよっていうこの難しさ。
そうですね。
多分自分もあの山小屋連れて行かれたんでしょうね。
自分がそれで状況が改善したからそれをやってあげようっていう成功体験。
30:01
自分がそれを受けたっていう意味での成功体験があってそれをこれまでもそういう不良少年みたいな子たちにやって、
実際その子たちは後世したから今回もっていう。
その子たちとやっぱベニーは条件がだいぶ違ったんだろうけれども、
同じように当てがっちゃったんだろうなっていう。
やっぱそこがちょっと彼の判断ミスもあったなっていうのも感じますね。
なんかあんまりあの山小屋に連れて行く感じとかは別になんかやるのかなって思っちゃってたんですけど、
あれは結構一線超えちゃってる感じになるんですかね。
いや、何でしょうね。
多分なんですけど、彼のトレーニングというか教育って、
あえてバウンダリーを超えて親密な人間関係を築くことで自立を促すみたいなものだと思うんですよ。
むしろ僕は彼がそこのケアというか自体はおそらく本当に効果的なものなんだと思うんですよね。
かなりその理論というかそれなりに基づいたものだったと思うし、
ただやっぱ一歩超えちゃったのは家に連れて行っちゃったことかなっていう気が僕はします。
確かに家に連れて行っちゃうわ、あーなんか良くなさそうって思ったんですけど。
でもだから山小屋自体も多分結構紙一重のケアだと思うんですよ。
ギリギリのところというか。
あれはギリギリのラインってくらいなのかな。
確かに。
不良少年に対応するとしたら、
君を見ている大人はいるっていうことを示すっていう意味があると思うんですけど、
便利にとってそれはちょっと激悪になってしまうというか。
確かにそうですよね。
対象となる不良少年って完全に中高生とかそういう感じですよね、たぶんね。
確かにそう考えたらあの年齢の女の子にする療法としては違うかっていうのはあるのか。
だとしたら何が適切かってもう全然わかんないんですよ。
もうわかんなくなっちゃうんですよね。
そうなんですよね。
僕、山小屋に連れて行って、あの療法連れて行くのはまあいいんかなってちょっと思ってたんで。
でもまあそっか、言われてみれば違うかみたいな話がちょっと出てきたので、まあそっかって思ったんですけど。
結構ボン百の映画って言い方しちゃいますけど、
だときっとミシャと疑似家族になって終わるっていうハッピーエンドあると思うんですよ、全然。
想像できちゃう。
あると思いますよ。
ありますよね。
それはありますよね、あると思います。
一時期すごい疑似家族もの流行りましたし。
そういうのも好きですよ。感動しちゃいますけど。
33:00
そこで本当に良かったんかって問題点をすごい突きつけてる気がするんですよ、それらの作品に対して。
それで本当に根本解決になるんですかっていう。
いやー、あの疑似家族ものって結構危ういなって思うんですけど、
別に血がつながってなくても家族になれるよっていうのは、
そういう家族第一主義的ではないように見えるんですけど、
実は家族第一主義なんですよね。
家族のような関係になることが人同士の関係の中で最も尊いことですよっていう風な着地を基本する疑似家族ってものは、
むしろ血がつながってる家族ものより、より家族というものに対する持ち上げ方はより強いと思うんですよね。
血という力を借りずに家族になるっていうことは、より絆は強いですよねっていう意味を含んでる感じが結構ヒヤヒヤするというか、
距離感ってそれぞれだと思うので、
そこまで至ることだけが答えになるっていうのはちょっと多様性に欠くなって感じはしてて、
実際本作はそれの裏目が出ちゃいますけどね、もちろん。
一つ屋根の下でこういう電気もない、テレビもない限られた中で、
お互いのことを知ることで信頼関係が生まれて、それで構成することができるっていう。
それは多分それによって構成できる子供もきっといるだろうっていう。
ただ、その絆の強さはやっぱり弁理にとっては非常に良くないものとしてなってしまうというか、
なんでしょうね、どうしたらよかったのかな。
あの山小屋で例えば他の子供と集団生活するとかやったらどうなんでしょうね。
でも彼女には難しい気がしますね。
そうだな。
ちょっと思ってたのが、議事家族っぽくなりそうみたいなのが2回ぐらいあると思うんですよ。
一つはミヒャの家族と、あと小さい頃お世話になってた人。
2番目の里親。
里親ですね。
里親の人がいますよね。
もしかしたら彼女の別の居場所になるのかなって思ったんですけど、結局壊れちゃうんですけど、
壊れる要因ってどっちも別の子供がいるってことが結構聞いてくるよなって思って。
彼女だけだったら大変かもしれないですけど、まだどうにかなったかもしれないみたいな。
けどもう一人、別の子供ともう一人いるとかなると、またそっちの子供もまだ予測不能だったりとかわかんないとかになったときに、
じゃあ彼女の顔触れたらめちゃくちゃボコボコに殴られますよなんてわかんないじゃないですかね。
本当に大事故みたいに起こってましたけど、スケート場でとか。
36:03
あと赤ちゃんとかを勝手にあやして。
あれ本当に怖いですよ、やっぱり。
どっちも別の子供がいるっていうのが、家族を結局壊しちゃうみたいなトリガーになってるなっていう気がすごいしたんですよね。
確かに子供がトリガーっていうのは本当にそうで、
元里親のお家はやっぱり自分とほぼ対等な子供がいる場で、
感情が爆発するとどうしても暴力的な行為に現れてしまうっていうので、どうしてもそこに問題があるっていう。
ミハでしたっけ?
ミハの家は赤ちゃんがいるっていう。
赤ちゃんは別に、あれは対等じゃないからだと思うんですけど関係が。
だから触られても何ともならない。
だから感情の爆発とか暴力的な行為が現れなくても周りの大人がそれの不安に耐えられないっていう。
耐えられないですよ、あれは。怖いですよ、本当に。
もうあそこのシーン、僕頭おかしくなるかと思った。
何も本当やめてくれ、何も本当この場がとりあえず滞りなく過ぎ去ってくれとしか思えない、
地獄のような何かスリリングな時間でしたけど本当に気遣ったら本当に。
たとえあれで赤ちゃんなら大丈夫ですとかって言われても無理ですよ。
無理ですよ、それは無理よっていう。
でもあそこ本当切ないシーンでもあって、
もうちょっと前のシーンでベニーが将来になるみたいな、何になるみたいなので保育士になるみたいな話を言って、
何バカなこと言っとるみたいな感じではあるんですけど、
実際に自分より小さい子供とだったらその関係になり得るっていうことが示されるんですけど、
周りはそれを許さないっていう。
うわーって話したらうわーってあそこ本当に。
そうなんですよね。
子供ってわがままなところってあると思うんですよ。
ぐちゃぐちゃになるきっかけって本当に些細なわがままみたいなところだったと思うんですよ、本当に。
けどああいうのはよくあることかなって、
もう嫌いはないって、わがままばっか言ってみたいなことあると思うんですけど、
彼女の場合本当に取り返しがつかないようなことに発展しちゃうってなると、
ただのわがままが超巨大な爆弾のスイッチを押すとほぼ同期みたいな、
それぐらいのちょっとヤバい事態になっちゃうっていうのがちょっとこれはどうしようもないというか。
しかもその起爆前になるフラッシュバックは彼女のせいではないですからね。
39:01
いやそう、そうなの。そうなんだよな。
どうすりゃいいのこれみたいな感じにどうしてもなっちゃいましたね。
だからその事件以降、彼女が放火されてから病院に駆け回れるっていうことになるわけですけど、
それはそれで確かに彼女のこれからの人生を持った時に一生そこってことじゃないですか、つまり。
それは確かに狭いだろうし、
そうですよね。
確かに一時的な解決策にはなるんですけどね。
ただそれはもう社会から切り離す、ある意味ラストもそうなんですけど、
ケニアに行ってもらうっていうのもこの国から切り離すみたいなことなんであれ。
あれちょっとびっくりしましたね。
そうそう。
それありっていう感じはしましたけど。
しかもあれ歴史上なんか元植民地だったらしくてドイツの。
そういう背景があるってのまで聞くとなんかよりおいおいっていう気持ちにもなってくるっていう。
なるほどね。
本当にちょっときついなっていうのはあるんですけど、
ちょっと話戻すんですけど、
2番目の里親のお家ってあそこのお家ってどういう仕組みなんですかね。
あれってドイツ特有のものだったりするんですか。
なんでベニーを1回お家に住まわせた後手放してるんですかね。
それって出たり入ったりするのって養子入れとかっていう里やとはまた違うものですかね。
預かる感じってことですよね。一時預かりというか。
そうだと思いますね。あんまり詳しくわかってないですけど、
おそらく親が必要な時期年齢。
おそらくベニーが今10歳、9歳、10歳ぐらいだと思うんで。
要は小学校ぐらいまで、日本でいうと。
親の保護者っていうのは必要だから、そこまでは預かりますよみたいなことなんじゃないかなって思ってたんですけど。
ただそこに、この絵が何回も言いましたけど、そこに居続けると依存してしまうと。
そこの場から離れなくて自立ができなくなってしまうっていうのは多分結構根本にある思想だと思うんですけど。
だから完全なる依存は、あるいは共依存みたいなものはさせないっていうのが多分基本方針としておそらくあって。
その共依存させないために、ある一定期間を超えたらもうそこからは自分で建てるような場所、
例えば保護施設であったりとか特別支援学級だとかっていうところに入って社会性を学んでくださいっていうことなんだと思うんですよね。
だから多分ベニーは一時そこが大丈夫だと認められてしまったのかもしれない。
あるいは実の母親が預かれますよっていう話になればおそらくそれは一旦ってことにもなるでしょうし。
あれは本当にそういう仕組みの中で、ある種の共依存にならないための仕組みの中で生まれた制度なんじゃないかなっていう気はしますね。
42:05
だとしたら相当勇気届いてますよね。そういうケースに対応できるようなものになってるってことですよね。
おそらく。あるいはそういうケーススタディがかなりドイツの中であるってことなのかもしれないですけどね。
それをもってしても壊れちゃうっていうのが、じゃあもうやるせねえよっていう。
本当にちゃんと制度化もきちんとされてそうだという感じは見受けられるだけに余計にねえっていうのはどうしても感じましたね。
本作のベニーのモデルになった14歳の子がいたらしいんですけど、
野田さんが取材を実際されてた時に、そういう56個ぐらい説をずっと渡り歩いてきたみたいな子供がいて、
その子の取材がきっかけでこの映画を作るってことに至ったらしいんですが。
だからやっぱりシステムクラッシャーってソーシャルワーカーたちの間でアンに言われてる陰語というか俗語としてのシステムクラッシャーってことらしいんですけど、
そういう子がドイツの中にいて、何なら監督自身がまだマシな風に描いたって言うんですよね、この映画のことを。
まだマシな。
現実はもっとすごいと。
それは僕ちょっと思って、結構コミュニケーション取れるし安定してる時間長いなって思って、
もっといかつい子だって絶対いるよなって思ってたので、
だってスイッチの入り方わかりますもんね、ベニーは。
そうなんですよね、そこすごく明確にある種大人たちがコントロールできる範囲でっていう形ですからね。
多分現実の虎はもっと複雑だと思うんで。
そうですよね、綺麗な線引きできないでしょうし、そうなったらもっと腫れ者扱いされますよね。
いや、そっか。もっと複雑って思われたら、もうなんかしんどいな、本当にこの世界。
どうしたらいいんだろう。
これまでベニーっていう存在の社会に溶け込めなさというか、
言葉選ばず言うなら扱いづらさっていう部分をしゃべってきたんですけど、
一方でやっぱちょっとかっこいいじゃないですか。
そう、そうなんですよ。
やっぱね、パンクだなって思うんですよね。
彼女が行動を始めるとすっげーアップテンポなビートが流れ始めるんですよね。
そうなんですよ、サントラめちゃくちゃ良かった。
いや、これは今年のベストサントラの一画じゃないですか、みたいな感じしましたよ、本当に。
めちゃくちゃ良かった。
特に攻撃的な行動に移る時の破壊的なビートは、あれはパンクロッカーだなって思いますよ。
45:04
そうなんですよね、ちょっとテンションが上がってしまっている自分がいるというか、
本当に良くない、あーもうどうしようもないってことが起こってるんですけど、
ただあのちょっとビートが鳴っちゃったらね、もうちょっとね、ちょっとやっちゃえって思ってる自分もちょっといるというか、
テンション上がってる自分もいて、やっぱね、絶妙なラインというか。
見せ方もやっぱかっこいいですよね、タイトルの出方とかめちゃくちゃかっこよかったんですよ。
なんかね、もうあれだけで掴みOKって感じで、
あ、こいつもこいつを手のつけられない感じなんだなと。
それがここまでハードなものになるとは思ってなかったんですけど、タイトルを見る時くらいまでは。
やっぱちょっとかっこいい、ちょっとパンクな感じの子なのかなぐらいにやっぱ思ってたら、
とんでもねえっていうふうになるっていうところを含めてこの映画すごいなって思います。
僕この映画のポスターアート大好きすぎて、もうプテプテしく大人たちを見つめる目。
すっげえいい顔するなって。
最高なんですよね、この顔。
いい顔ですよ、ほんとに。
表情豊かですよね。
あの目がむちゃくちゃいいですよ。
全体的なビジュアルもパンク感ありますよね。
そうですね。
まさに彼女がずっとピンクの、本当にショッキングピンクの服を着ているところとかももう異物感がすごいですし。
そうなんです。どこにも交わる気に入らない私はっていう色ですよね。
それはちょっとピンクの爆弾みたいに言われてもしょうがないぐらいなビジュアルと言いますか、色使いですよね。
劇中でのって言ったらいいのかな、本当に。
もちろん彼女は望んでああなってるわけではないんですけど、
そうやるしかないっていうことに対する強い生命力があって、
彼女の生きやすさをどうすべきかって話とは別に、
彼女そのものに対する肯定がこの作品にはすごい根底に流れているなと思うんですよ。
そこは本作ですげえ大事な部分で、
どうしても話全体としては彼女をいかにシステムに落とし込むかっていう、
彼女の行を否定する方向にどうしても周囲で話の全体の流れは進まざるを得ないんですけど、
そればっかりにならない部分が本作のすごい強い部分というか、
彼女の本来持ってる生命力みたいなものをしっかり肯定し続けるっていうのがすごい強いなって、
彼女が動き出すと流れるビートであるとか、
あるいは彼女のショッキングピンクのイメージカラーであるとか、
本当にもうなんか血潮が、彼女の血潮がそこにあるなっていう、
48:03
すごいそれって結構大事なことなんじゃないかなって気は見ててしたんですよね。
彼女の生活のあり方は抑え込もうとしても、
やっぱ彼女そのものを否定しないっていう、
多分大事なバランスな気はするんですよね、そこは。
そうっすね。でもだからといって周りの大人たちが取ってる行動も否定的には描かないっていう、
そこは確かにすごい気をつけて作られているし、
どちらの味方でもないっていうバランス感はすごい良いですよね。
そのメッセージ性を総括しているのがエンディングだと思うんですけど。
いや、おっしゃる通りですね。
アクセント。
あれ、もうちょっとしみじみって言うのもおかしいですけど、
いや来ますよね、あのタオルさん。
そう、だってもう本当タオルさんのお寺にもありましたけど、
行けってちょっと激励言っちゃいましたもん。走れって。
あれエンディングの歌ってジャンル的には何て言うんですかね、
ブルースって感じなんですかね、ちょっと本当詳しくなくて。
どうだろう、ニーナ・シモンズ。
ニーナ・シモンズですよね。
だからR&Pの方が、R&Pブルースですけど、の文脈ですかね。
何もない命だけがあるって。
いやいやもう、いやそうだけどさみたいな気持ちになりますよ。
いい曲だな、いい曲もいいですし、
この映画の感傷互換に寄り添った曲であるなって本当に思います。
ラストがこう、本当にラストカットが飛び出して画面がバキって言われて、
パンクって感じで終わって、その後あのブルースがしっとりと流れるって。
でも通転してるのは本当に性に対する肯定としか言わないと思うんですけど、
社会の中でどんだけ否定されても性命そのものが否定されないっていう、
ものすごい力強いメッセージですよね、あれ本当に。
本当すごいなって思いましたね。
だから本当いろいろ考えさせられるし、めちゃくちゃ複雑なものを持って帰るんだけど、
なんか元気ももらえちゃうんですよね、この映画、不思議なことに。
そう、あのラストでね、
まだまだ地獄は続くのに話ですけど、
めっちゃ清々しい気持ちになっちゃったからなっていう、
すごい単純なふうに割り切っちゃうとですけど、
あの感じ、あれしか映画に答えというか結末持ってこれないよなともやっぱすごい思いましたね。
本当にどうすりゃいいの、この映画は。
どこにどうしたらよかったのみたいな話だったので。
そうっすよね、これでいきなり時間が何年もジャンプして、
51:02
すっかり丸くなってたら、いや不誠実だろそれって言われますもんね。
これで安易になんか丸く収まりましたとか、ハッピーエンドとかしたらもう踏ん張るものなわけですよ、当然。
そんなことね、やっちゃダメだというか、そんなもん、そんな疑問的なことないぞともちろん、
わかってるからこそあのラストだと思うんですけど。
だからちょっとこう、何だろう、彼女が彼女らしさを取り戻すというか、
女らしくいるっていうのはちょっと時計仕掛けのオレンジっぽくもあったりもして、
あそこにカタルシスが持ってくる感じというか。
なるほど、そうですね。
そうですね、やっぱちょっとかっこいい映画だなとも思うし、
ただ別にそのかっこよさに短歴することでそのまま帰らせてもくれないんですけどね。
やっぱりその性を肯定したからって、
じゃあ彼女の生活は明日からはどうなさるんですかっていうのもちゃんと持って帰らされるから。
そう、よくできたバランスですよ。
すごいわ、ちょっとしびれますね。
いや、この映画ね、だって2019年にギンクマションってさっきね、数書いてましたけど、
ちょっと待って、ようやく今見れたのかよって感じですけど。
塩漬けにされすぎじゃないですかっていう。
ちゃっちゃっとこういうの公開して、おーって言いたかったわって思いましたけど。
実際ベニーちゃん演じたヘルナ・センゲルさんってその後ね、結構いろんなところに引っ張りた子で。
そうですね、このシステムクラッシャーで有名になった後に出た、
開催時にも出てたこの某バクタル荒野の方で初めて彼女のことを知ったので、
あれも良かったんですけど、やっぱシステムクラッシャーみたいな、そりゃいいわっていう。
そりゃいいですよ、この演技力はすごいですよってなりましたよ、やっぱり。
すごいっすよね、本当に。
すごいし、周りの大人ってどうしてたんだろうと思って。
演技指導とかもそうなんですけど、あとケアですよね、彼女に対する。
そのお題もどうしてたんだろうと思って。
好きに暴れていいよって言ったら、ああなったとかなのかな。
これどうなんでしょうね。
ただひたすらに暴れてって言ってもなかなかできることじゃないと思うんですよね。
子供とはいって、若まん、傍若無人に振る舞えみたいなのって言われなくてもやってるわみたいな感じかもしれないですけど、
いざ演技でやるってなったらめちゃくちゃ消耗しますよね、きっとね。
すごいですよね、本当に。
めちゃくちゃすごい図材ですよ、本当に。
2019年で10歳ぐらいだったってことは、もう15ぐらいか。
もうティーネイジャーになってますね、もう。
今出てるとしたら、ちょっと違う役回りにはなりますよね。
54:01
結構もういくつか映画には、それこそ主演とかで出られたりもするみたいですよね。
それこそA24の作品への出演とかも決定しているらしいですよ。
THE LEGEND OF WATCHかな。
A24の映画に出そう。
出そうって。
だからウィリアム・デフォーとかと共演するらしいです。
なるほど。
そういえば、彼女が虐待されてた頃って本当に掘り下げないですけど、
多分その当事者の父親はイナリーですよね、本作には。
なのかな、あれは再婚相手になる。
再婚相手というか、僕は内縁の夫みたいな感じで捉えてたんですけど、
もともとお母さんの友達ぐらいの距離感だったのかなっていう。
ベニーの対応の仕方がそういう感じの距離感に見えて、
単なる友達でしかなかったくせに、
何、次のお父さんになろうとしてんだよ、てめえみたいな雰囲気を感じたんで。
本当に虐待してたお父さんは出てこれないんじゃないかなというか。
確かに実際に出てくる人が、夫みたいなポジションの人が虐待してる人だったら、
一目瞭に殴りにかかりますよね。
ちょっと対応が確かに違うか言われてみれば。
そこも少なくとも字幕ではあんまりはっきりと読み取れなかったので、
もしかしたら言語だと説明あるのかもしれないけど、
少なくとも字幕ではなかったんで。
むしろその人をこの話題から排除してることで、
さっき言った複雑さを担保してるというか。
もしその人が出てきたら、完全な悪がもう存在しちゃうじゃないですか。
そうですよね。
こいつが悪いみたいな風になる。
飲み込みやすくなっちゃうんですよ、この映画が。
多分それはやっぱりバランスとしてあえて避けたのかなっていう。
もうその当事者はいなくなっていてっていう。
だけど問題は解決。
彼がいなくなったから解決するわけでもないっていうあたり。
そこは明らかに意図的にやってないっていう感じですよね。
話の軸変わりますもんね。
虐待の話がメインだけど。
なっちゃいますね。
虐待がメインではないっていうのがありますもんね。
その辺の演出というか、配置の上手さはさすがとしか言わないですよね。
ちょっと話取れるんですけど、山小屋からちょっと行ったとこにある牛飼ってるおじいちゃんがいるじゃないですか。
多分あそこの牧場ってしょっちゅうああいう子ども降りてきてたんでしょうね。
ミハもあそこ行ってたんじゃないかなって。
57:04
またおめーかーみたいな。
税金泥棒だよーみたいな。
めちゃくちゃ実害もらってるでしょしね。
それを言いつつ、なんだかんだで受け入れる度量の深さみたいなのも表面上ではああいうんだけど、でも家にはいるわけじゃなくて便利が来たら。
そうなんですよね。
あの辺もやっぱ、このおじいちゃんにもこのおじいちゃんなりに思ってることあんなっていう。
やっぱミハのこと信用してないようで、なんだかんだ相手信用してるタイプの頑固親父のキャラクターというか。
あの人もすごい愛したくなるキャラクターですよ。わきなんですけど。
お母さん見てもフロリダプロジェクト思い出すなとは思って。
不完全ではあるけれども、別に子供のこと愛してないわけじゃないっていう。
そこも物扱いとしてではないちょっとこの弱さを抱えた方法やっていうバランス。
もしかしたら多分見る人によってはあの人を悪としている方もいるかもしれないですけどね。
だからまさかあんまり描かれてなかったですけど、間違いなく彼女にもケアは言ってると思うんですよね。
おそらくちょっとそれなりに病を患っていたんだろうなっていうのは見えますし、おそらく療養中なのこともなんとなくわかるから。
それこそカモンカモンとかも結構そういう親が鬱病になっておじさんに預かるって話だと思うんですけど。
やっぱりその親の不安定さみたいなものもそこは意図して描いてるし、最近の近作も結構そこはすごい意識的に描いてるものだなと思うので。
そうですね。
物語上で映画としてそこに白黒つけない、善悪の色をつけないっていう感覚とかはやっぱすごいなというか。
ちょっと古いらプロジェクトの話になりますけど、あれって結構子供の視点で描く話。
で、あれもちょっとファンタジーっぽく見える話だと思うんですけども、
けどそこにはきちんと現実ってこうじゃんみたいなところも、きちんと描いた誠実さのもとで色もつけずやっぱり描いてるなっていう感じがすごいなって。
この手やっぱタッチすげえなって改めてちょっと今回のシステムクラッシュの話をしていてすごく思いますし、
ショーン・ベイカーっていいなっていうのはあんま関係ないですけど。
だからこそ最新作ね、この前カンヌ撮りましたけど。
そうですよ。ショーン・ベイカーがカンヌ?みたいな。パルムドール、えー?みたいな。
いやほんとすごいんだろうなって思いますね。
今度はリアルタイムで見たいですよね、ショーン・ベイカーの最新作も。
1:00:02
ずっと遅れてやったんでしょうね。
結構これまで2作ともそうでしたよね。
結構遅いんですよね。
結構間開けてようやく、そんな間開けたら怒りますよ。もう怒りますよみたいな。
さすがにカンヌ撮って遅れはせんでしょうね。さすがに。
けどベルリンで銀魂ショー撮ってこんだけ寝かされてますからね。
まあ確かに。
いやだから、ショーを撮ったら確かに早く見たい人も増えて、
で、拍がつきますけど、いざ買い付けってなるとやっぱ拍がついた分お金高くなったりとかね。
するのでね、とかあったりとかもするんでしょうけど。
気持ちとして早く見たいじゃないですか。
まあショーン・ベイカーすでに日本に下地もあるので、
むしろあのショーン・ベイカーがついにカンヌを撮ったっていう、
外線、まあ外線じゃないですけど。
こっちの国の人じゃないから。
外線じゃないけど、ついにリアルタイム、ほぼリアルタイムで上映されますみたいな感じでやれるんじゃないですかね。
めちゃくちゃ期待してますね。
あんな大きなステージに上がると思ってなかったんだよな。
確かに確かに。
それとちょっとまあ話が若干それちゃうかもしれないですけど、
なんか今年すごいドイツ映画いい年だなって気がしていて、
それこそありふれた教室もそうですし、あと阪神領域もドイツ映画っちゃドイツ映画ですよね。
ドイツが舞台って。
まあそうか、監督がドイツじゃないか。
一応あれイギリス代表やから。
あれイギリスなんですね。
そっか。
国際長編であれイギリス代表っていう。
あ、そうなんですね。ドイツ映画と思ってました。
パチパチなので。
まあもちろん小坂もドイツ入ってますけど、またちょっとニュアンス変わりますけど。
阪神領域違うんだ。
ありふれた教室もね、めちゃめちゃ人から押されますね、あれ以降も。
大井さんが紹介して以降もずっと押されます。
いやぜひ見てほしいですね。
見たいですね。
ありふれた教室も本当に自然に移民の人たちが教室の中にいるんですよ。
それってやっぱり過去の阪神領域の時代の反省を経た上でのドイツの歴史っていうのはすごい反映してるような気はするんですよね。
それってまさにシステムクラッシャーのシステムというか、ソーシャルワークっていうのも結構そこはすごい強くあると思うんですよ。
過去の歴史としてそういうことを、民主的なことをやってしまったことをどう反省するかっていう歴史、おそらくドイツを歩んできているので。
だからそういう社会で見えるものって、ちょっと僕らの先の話をしてるようにも見えるというか。
今の日本の社会、あるいは世界、アメリカでもそうかもしれないんですけど、民主化がしっかり進みきった上で何が待ってるのかみたいな。
それでも解決できない問題って実際あるんじゃないの?みたいなところを捉えてるようにも思えて、結構ドイツ映画独特の味わいがあるなっていうのはこの2作見てて思うところではありますね。
1:03:11
そうですよね。そういう歴史的な複雑さがやばいですからね、ドイツは。複雑さゆえに出てきてる作品っていうのもあるでしょうしね。
あやかとちょっと離れちゃいますけど、聞いたことあるのが、街の公園の遊舞一つをどうするかっていうので、子供たちに選挙というか、討論会開くんですってドイツって結構自然に。
すごいですね。
そこやっぱ進んでるなと思って。子供にも人権というかものはしっかりあるから、子供の意見を聞かないのは、それは人権侵害だと。
そういう民主主義的な教育っていうのはかなり幼少期からされてるっていうのがドイツではやっぱりあるみたいで。
すごいですね。
それこそありふれた教室の中でも、結構小学校が舞台にはなるんですけど、授業の様子だけ見てても日本の授業とはちょっと違うというか、かなり参加型な授業の仕方もしていたりとかして。
なんか国が違う。ドイツってこういうお国柄なんだなっていうのも含めて見れるので、やっぱちょっとドイツ映画今後注目して追ってみるのは面白そうだなっていう気はちょっとしていますね、今。
確かにドイツ映画と意識して見てたってあんまないかも。ドイツ作品見てるのもありますけど、そんなには確かにないかも。
お二人印象的なドイツ映画とかって覚えてるものあります?
ブリキの太鼓ってドイツ映画でしたっけ?
ブリキの太鼓どうだったっけな。
でもドイツですよね、舞台。
舞台確かにそうですね。
めっちゃ変な映画でしたけど。
ドイツ映画ですね。ドイツとフランスの合作なんだ。
なるほど。
パッと思いつくの、アル画家のスーキの運命とかじゃなかったっけ?
アルもドイツでしたっけ?
そっか。
監督はドイツの人だったけどな。
イタリアとドイツの合作っぽいですね。
確かにドイツの監督ですね、この人。
良き人のためのソナーだった人の作品だったな、みたいな。
ドイツ映画って言われると、あんまりコーナーっていうのはパッと出ないですね。
いい映画いっぱい作ってそうだな、作ってるんだろうなっていう、僕らがちゃんと追ってないだけで。
ある意味、去年のストとかもあったんで、ハリウッド製の映画自体が結構少なくはなってると思うんですよ、全体的に。
劇場にかかる本数みたいなものが。
その一方で、結構ヨーロッパ映画最近、スペインの映画とか、一目覚めてとかそうでしたけど、
ドイツ映画とかは結構劇場で見れるって環境になってきたので、
これはある意味いい機会なのかもなって最近ちょっと思い始めてるっていう。
確かに最近東欧の映画とかも多かった気がするんですよね。
1:06:04
確かに最近ヨーロッパの映画、いっぱい見てるかもみたいな感じになりますね、確かにね。
ヨーロッパ新世紀とか、もうちょっと前だったら、アンラッキーセックスとか、あれ確かルーマニアだったと思うんですけど。
アンラッキーセックス、あるいはイカリタポロンみたいなやつですよね。
なんか東欧の映画見たことが多かった気がしますね。
それこそこの前紹介したムラサワギだって、オランダとデンマークの合作ですしね。
そうですね。
西部全盛異常なしがあったね。
あ、そっか、あれしっかりドイツ映画だった、確かに。
直近それもそうかって思いましたけど。
それはドイツですね。
そうでしたね、あれドイツ映画だったわ、そういえば。
ネットフリックスでやってたものですね。
まさにミヒャのアルブヒトシューフさんで出てましたもん、確かに顔見るとあって思いました。
なるほど。
戦争マハラウタとかもイギリス西ドイツ合作。
だからまあ1次対戦、2次対戦になるとドイツが関わっている率がそれなりに上がるというか。
連合国側じゃない視点の映画、やっぱドイツが関わっている率高そうですね。
そうですね。
フランス映画とかって結構国内でメジャーだと思うんですよ、割と。
イギリス映画もイギリス映画である種、結構アメリカの映画と並べて見れるというところも英語だからっていうのがあると思うんですけど、
やっぱそれ以外の言語の映画見てると、それこそ前の胸騒ぎとかそれ以外の、
落下の怪物学の時に話しましたけど、言語の違いによる作画の面白さとか、結構映画の演出自体の幅が広がるなと思って。
そうですね。やっぱ言語が入り混じってるっていうのは、ヨーロッパでも特にイギリスじゃないヨーロッパはどうしてもね、言語が入り混じるって考えると、
そのあたりの複雑さ本当に日本からわかんないんですよね。
そうなんですよ。
だから逆にアメリカ映画の方がむしろ僕らとして飲み込みやすかったりもするんですけど、言語が一個に統一されてる方が。
でもだからこそ多言語で多人種、かつ難民みたいな別の問題もあったりするっていうのは、見ててすごい新鮮だなっていうのはちょっと最近思ったりはしますね、見てて映画を。
たぶん今後しばらくヨーロッパの映画を見かけることも多そうですし、今後の映画を見ていく上で、ちょっとそこは新しい静かもしれないですね。
はい、じゃあそんな感じでシステムクラッシャーの話をおきましょうか。
はい。
で、もう次回はデッドデッドデーモンズデデデデデデストラクション交渉を前田さん込みでいきましょう。
はい。
1:09:00
ビデオさんを逃す可能性がありますね。
そうなんだよな、ちょっとな。でも見に行きますけどね。
もちろん見に行きますし、確かに本当だったら関心領域とか話題作みたいなのを取り上げた方が皆さん聞きたいとかあるかもしれないですけど、我々はデデデデです。
デデデデです。
今はやりましょうよ。
はい。
いろんな意味で因果が重なってるんでね、デデデデには。
もちろんラジオ的なね。
世界系文脈って意味でもそうだし、前田さんが自分から見たアニメっていう限られた機械ですから。
しかも世界系。
いろんな因果の終着点ですから、デデデデ交渉が。
やっぱね、総括しなくちゃって感じがしますね。
どうなんだろう、なんか賛否両論だから。
そうなんですよ。
そうですよね。
そうですよね。
まだお二人見てないんでしたっけ?
見てないです。
見てないです。
ないんですよね。
どうなのかな、みたいなね。
はい。
まあ、じゃあそんな感じでいきましょう。
では、お知らせになります。
映画の話しだすギルバー。
次回は6月29日土曜日開催予定です。
場所は大阪の南森町週刊曲がり19時オープン、23時クローズです。
今回も山口不参加が決まっておりますので、
他のメンバーでお迎えさせていただく予定をしてます。
あと、大阪市ネタバスで毎月第2、第4回予備に
山口は店長をする月にばちょっと映画の話しデモも
併せてお願いいたします。
また、この番組ではお便りを募集しております。
番組全体は次回テーマへ向けてご注意にお送りくださいませ。
パーの最新情報、番組次回テーマはXにて告知しております。
各ご案内は番組説明文をご確認くださいませ。
それでは、映画の話ししたすぎラジオ第170回
システムクラッシャーの回を終わりたいと思います。
それではまたお会いしましょう。さよなら。
01:11:33

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