僕が言ってることが妥当性があるか正直わかってないです今。ただ僕にはそう見えてむっちゃ嫌だったんです本当に。
ちょっとなんか話す中でいろいろ手探りで見つけさせてください。
ではお便りいただいてますので紹介させていただきます。じゃあマリオさん1つ目お願いします。
はい、光幸太郎さんからです。
ルート29を取り上げると聞き、いてもたってもいられずメールいたしました。
久しぶりに映画館へ行きましたが、映像に浸り続ける2時間でまさに映画を堪能する作品であったと思います。
コントロールされ尽くした画面の中で、素朴な雰囲気をまとった演者やロケーションが存在しているという両極端な要素が
根前一体となった不思議な映像に見惚れるばかりでした。
物語はこちらアミコに対する優しい回答というか、アミコラストでの大丈夫の掛け合いを深掘りするようなものであったかと。
いつでもどこからでも人は繋がることができる。大それた言葉や社会的な関係ではなく、物を渡す、一声かけるだけでもいい。
そんな優しい気着を迎えてくれたことを素直に喜べる作品でした。
明確なモチーフ使いによるとてもわかりやすい作品というのも良かったです。
店長メンバーの皆さんのご感想、特に怒っているというヤノビツさんの感想を聞くのが楽しみです。
ありがとうございます。
なぜ僕が怒ってるっていうのをご存知かっていうと、一瞬だけXにポストあげたんですよね。
そうなんですか。
これ残しておかない方がいいやと思って。
それを小太郎さんは見てたと。
ご覧になられてたみたいで。
まずコントロールされ尽くした画面っていうのはかなり印象的だったと思うんですよね。
左右対称の画面であるとか、
マイコから撮って横一文字に壁と地面が分かれるような絵とか、
人間は等間隔に並ぶであるとか、かなり画面構成は意図的になされてましたね。
こちらあみ子の時こんなコントロールフリークみたいな作りしてましたっけってちょっと思ったんですけど、こんなんでしたっけ?
あんまりこちらあみ子の時はそんなにはしてなかったと思います。
だから本当にこちらあみ子でやっぱりすごい印象的なファンタジックなシーンといえば、
海の上にモーツァルトとか死んだ異人たちがプカプカ言ってこっちおいでみたいな言ってくるみたいなシーン。
そのものズバリみたいなシーンもルート20期ありましたけど、
そういったのが結構もうあれってもう完全に作為的に置くしかないじゃないですか、やっぱり。
めちゃくちゃ計算して置くしかないから、今回そういうのはやっぱりすごく多い。
そういうところに気づいた人たちの話なんだろうなっていうのを見ながら思っていて。
その部分はすごいこちらアミコに対して、
大人にならなきゃっていう話に対して、
いや大人にならなくてもいいんじゃないのってアンサーを送っているようには僕は見えました。
なるほど。
明確に僕アンサーとかは思ってないんですけど、
やっぱりでもアミコは本当に1人だ。
1人のアミコという視点でしか語られない、すごく残酷寂しい話だったので、
そういう意味ですごくやっぱり今度は周辺の人間もみんな同じように、
ある種何かかけていたりとかっていう部分をやっぱり描いている。
それこそ大江さんが言ったように、みんなそれぞれが持っているアミコっぽさみたいなところをやっぱり描けているから、
やっぱりそこが好きなのかなというか、
もう本当アミコという視点だけで語りきってしまうみたいなのは、
僕本当に逃げやがってと思っちゃったので、
それだったら僕やっぱシステムクラッシャーの方が好きなのってそういうところだと思うんですよね。
彼女の問題、主人公の彼女の問題もめちゃくちゃ描くし、
それを取り巻く大人たちとか社会の問題というか問題とかのままならなさもちゃんと描いてるみたいなところがあって、
初めてこれを整理すると僕は思ったのでやっぱり、
そういったものにすごくルート29という作品に近づいたかなというか、
森監督らしさも残しつつというか、
というところはやっぱすごくアンサー的というか、
ちょっとフォローを入れるような感じというのはすごくありましたかね。
なんか本当に、登場人物というか主人公が一人から二人になったというだけでもすごく安心できるみたいなところはすごくありましたね。
とはいえ一方でなんですけど、
こちらのアミコ公開してしばらく経ってから、
確かノートかな?で、果たしてこれでわかったと言っていいのかっていう問題って結構あったと思うんですよ。
ありましたありました。
それって割と本作を語る上で、その視点、その批評的な視点って結構大事なんじゃないかなって気もしていて、
まさに大人だってアミコ性を持っているじゃんっていうところは、
実際そういう状態もあるし、そこに共感する気持ちみたいなものもわかるんだけど、
そこに全て回収していいのかっていう問題はある気がしていて、
理解したってどこまで言っていいのかっていうところだと思うんですけど、
結局なんかそれってまさにさっきジョーカーのフォリアドの話になりましたけど、
アミコにフォリアドした人たちっていうのが多分一定数いて、
でもそのフォリアドって本当にアミコのことをまさにアーサーじゃなくてジョーカーを見てたように、
アミコのそこだけを見てフォリアドしてんじゃないのっていう、
自分の生きづらさを勝手にそこに当てはめて、幻想としてそのキャラクターを見ていったんじゃないのかっていうのも、
ちょっと恒例見てて感じて、
だからここにあまりにも共鳴しすぎること自体はちょっと危険なのかなって思ったりもしました。
なんかそれあれですね、性欲の会の時とかもそんな感じしましたよね。
はいはいはい、そうそうそうそう。
これで自分もマイノリティ的な部分あるよねみたいな、思っていいんでしたっけみたいな、
鳥取はあの世だったのか、みたいな。
まだ僕は初めのうちリアルな話なんかなって思ってたんですよ。
ちょっと編集のテンポとかが独特やなとは思うぐらいだったんですけど、
やっぱちょっとリアリティがぶっちぎったなって思うのは山ん中の食堂のシーンだと思うんですけど。
何なんだ、ここは何だ、デビット・リンチの映画の世界かみたいな。
じゃないですけど、みたいな感じでしたよ、急に。
うわっ、みたいな。どうした?みたいな感じでしたね。
真っ赤なご婦人が現れて、ずっとゴールデン・ドリバーの息の音が聞こえるっていう。
ずっとね、犬は外にやってくださいって言ってもガン無視するおばさんですもんね、あの人。
なかなか謎の精神力持ってますよね。
今、デビット・リンチって言われてむちゃくちゃしっくりきました。
デビット・リンチほぼ見てないけど、多分デビット・リンチってこんな感じやろっていう、なんとなくのイメージで言ってしまいましたけど。
なんか僕はあの人のこと後で振り返ってみて、脱衣場だったんじゃねえかなって思ってますからね。
山津の川の前にいろんなものを取ってくる、いるじゃないですか。
それだったんじゃねえかな、それで車取ってたんじゃねえかなって思ってますからね。
あそこは確かに山津の川の渡芝のとこですよね。
いきなりあのようになりますもんね、あそこで。
その後完全に死んでるじいさん出てきますからね。
とんでもない場面でしたよね。事故、怖っていうか、要するにちゃんと怖いというか、バイオレンスだなっていうか。
特にやっぱりこんなファンタジックなのに意外とリアルだなって、リアリスティックだなっていうか。
だいたい警察が出てくるとリアリスティックになるっていうか。
姫路で泊まってた、カプセルホテルみたいなところで泊まってたら警察を押し込んで来てみたいなところとか。
なんの気持ちで出てきますけど、あのファンタジックな世界で警察はちゃんと機能しているんだみたいなというか。
最後とかも警察が言って、私ですって言って逮捕されていったりするのとか。
そこだけリアルなのかよみたいな、ちょっとツッコミ入りたくなるような、あのバランスがいいなというか。
よく考えたらこれ、クライムムービー的でもあるのかっていうか、誘拐した話だもんなみたいな、そういうのがいいなと思いますよね。
最後の警察に捕まるシーンも妙にリアリズムあるというか。
刺激しないようになんか丁寧な段階を踏んで取り囲んでいくから、なんか急にリアリズム出してくるやんと思って。
たぶん人はああやって自主的に来た時って、ああやって逮捕されてくるんだろうなって思いましたもんね。
だから現世に戻してくれるのは警察ってことですよね。
そうですね。リアリティの象徴なんですね、警察が。
ファンタジーの世界に見えるよねってやってんの、
なんか失礼じゃないですかねって思っちゃったんですよね、それは。
なるほどな。
お前がミレトトロと思って。
この光が妥当なのか本当に僕よくわかんないです。
だって語り方変わったら僕全然にそれって共有できちゃうわけだから、
結局スイッチの問題なのかもしれないです。
僕がうまく本作の語り方によって、
悲願に連れて行ってもらえなかっただけかもしれないです、それは。
やっぱりあの食堂のシーンあたりでうまくあっち側に行けたら、
飲み込めてた可能性は全然あると思うんですよね。
多分それは僕、コチラニコが頭の前提にあったからかもしれないですね。
やっぱりコチラニコのカメラってこの世にありますからね、ずっと。
そう、この世からアミコを見てるから、
なんか独特の緊張感があって、
最後にだけアミコが悲願を見るっていうのがコチラニコじゃないですか。
なんか全編悲願だから、なんかあんま緊張感も感じないし、
もう何が起きてもいいんだったらどうでもいいのとほぼイコールになっちゃうぐらいの感覚もあって。
だからちょっと見てたらさっき紙隠しって言いましたけど、
やっぱ千と千尋の紙隠しのリアリティラインだなとかって思って見ておいて。
そうですよね、千と千尋ぐらいですよね。
あのぐらいを実写でやろうとしてるんだなって途中でわかったんで、
なんかそのラインで見れたのは割と良かったんですけど、
ただ時々やっぱり急に現実がふと帰ってくるあたり。
例えばニュース映像とかで行方不明になってるとかっていう現実が
突然パッて流れたりとか。
あるいは、あれは現実なのかちょっとあやふやですけど、
鳥取の街中で事故、子供が事故に遭ってるシーンとか。
なんか突然、あれっていう感じの断層みたいなものが
映画の中に突然現れる瞬間があって。
そこは僕は結構不一致感というか、
モヤっと感もありつつスリリングな感じはちょっと知ったりしながら見てましたね。
そうですね。
急に嫌なものを見せてきますよね。
そうなんですよ。
確かにそうですね。
嫌なものを見せてくるっていう意味で、
ある意味二作から通じてんのか?通じてんのか?
そうなんですよね。
だからいなくなって、トンボがハルを探しに行くっていうところで、
もしかしたらあのように行ってしまってるかもしれないって緊張感がそこで漂うわけですけど、
本当の死をそこで映すか?とかちょっと思ったりはして。
確かに。
結局この映画でやりたいことって生と死の境目を曖昧にするっていうか、
生も死もそこを根前一体となってそこにあり続けるよねみたいなことが言い出そうみたいな感覚はすごい受けたので、
あそこまで露骨に死の感じを出す必要ってあったかわかんないなみたいな。
そこはどこまでも曖昧にしてなんかしまってもよかったのかもしれないですし、難しいですけどね。
結構そのえぐいもの見せてるっていうのは、こちらあみ子も一緒っていうのがあるとは思うんですけど、
こちらあみ子はえぐいことがずっと起きてるんですよね、既に。
それをあみ子だけが認識できてないっていうバランスで描き続けるじゃないですか。
本作はえぐいことは基本的にはない、見えるとこにはない。
でもこの世界には確かにあって、急にポンと出てきて世界外、えぐさを残酷さを剥き出しにするっていう瞬間がポンってあるっていう。
でもなんかもしかしたら描いてることどっちも同じなのかなっていう気はしますし、
カメラをどこに置くかとか、あるいはそのフォーカスをどこに絞っているかの違いでしかないのかなっていう気もちょっとするんですよね。
カメラの位置が違うから常にえぐいことが映ってないだけ。
あるいはその焦点の絞り方が違うからぼやっとしてるけど、でも常にえぐいこと映ってるでしょみたいな。
なんかその同じことを違う視点、違うフォーカスの仕方で描いてるようにも思えるかなとはちょっと思ったりとか。
そうですね。そういう意味では本当にだから、まあルート29がどちらかというとあの世からのカメラを持ってっていうか、映してる映画だっていう意味であるんだったら、
僕は確かにそっちの方が好きって好きだなっていう。好きな方だなっていう。
ちょっとあの偉人たちもね。
そうそうそう。もうなんというかやっぱ現実じゃないものが見たいというか、じゃないからこそ深く描けるものがあるって思いたいっていうか思ってるっていうのがあるかなっていうのはあって、
現実ありのまま映したからなんか真理ですよみたいなのがやっぱ僕一番嫌いっていうか嫌っていうことが多いので、
でやっぱありえないものみたいな、それってあるし理想とかもそうだと思うんですよね。理想だったりとか、正論というかじゃないですけど、
なんかそういったものこそ僕見たいなみたいなというかっていうのはやっぱあるから、なんか今作のようなポジションで、
生とか死とか言葉にならない曖昧なものみたいなものを描いていくみたいなのとかはやっぱり見ていてすごいスッと僕は入るなっていうふうにありますね。
なるほどな。
多分そういう意味では僕はもう山口さんとマリオンさんのちょうど間ぐらいのポジションなのかなって気はして、
エグさを見せる作品もまあ確かに好きだし、こういうふうに内的に立ちこもる作品も好きなんだけど、どちらかに偏ってない感じは、
偏ってないというかどちらにも体重をかけられない感じはしていて、どっちを見てても同じような疎外感は感じる気はするんですよ、ある意味。
でもそれは映画って第三者視点からの映像、芸術だからこそもうそれでいいんだと僕はもう割り切ってはいるんですけど、
なんかでも例えば本作で描かれてる様々な人たちってちょっと非現実的に見えますよねって話さっきしてましたけど、
それって例えばじゃあトンボとハルの目には見えてる世界がそうだよっていうぐらいのレベル感。
で、もうちょっと彼らの方に視点を置いた瞬間に普通にまともなこと言ってんじゃんって話になってしまうかもしれない。
そのぐらいのある意味断絶みたいなものを描いてるし、そこは山口さんが仰ってた見える人だけが見えればいいみたいな映画にも見えるようになってるし、
多分それは結構意図的にやってる気もするしっていう。
だから作り手は作り手で、割と普通の人とある意味、これはあえて言葉を得られますが特別な人っていうところに、
一本確かに線は引っ張ってる人なんだろうなって気はちょっと僕見ててしましたね。
監督がってことですかね。
そうです。監督というか作り手としてそういう視点を持って作品を描いてる気がするというか、
そこの間にシームレスなグラデーションはあんまりなくて、結構パキッとそこは分けられるって思われてるのかなっていうのは、
2作見て特に思ったことではあるっていう。
なるほどね。
だからそこは極端な感じも僕は両方ともするんですよね、確かに。
だからこそシステムクラッシャーを見た時にアミコへのある種カウンターだなって思ったのはそこで、
こちらのアミコにはその極端な人たちしか理解できる人と理解できない人っていうすごく日的なキャラクター性しかないけども、
システムクラッシャーの場合ってその間がすごくグラデーションで存在してるじゃないですか。
そうですね。
それが確かに社会だなって気がして。
だから森監督の作品の中では社会を描くってなるとすごく日的なというかデジタルな感じになっていくんだけど、
ただそうじゃなくて、もっと社会的に、社会の方にカメラを置く、あえて社会って言葉を使いますけど、社会にカメラを置く、他社的な視点にカメラを置くってなると、
より多分システムクラッシャーみたいな1.0ではないよりアナログな感じの映画になっていくのかなっていうのもちょっと比べてみて思ったりはしましたね。
なるほどね。
それは聞いててめちゃくちゃ面白いなと思ってたんですけど、まず僕は現実を描いてほしいんですよ。
その現実をどう捉えてるかっていうのを描いてほしい人なんですよね。
その意味ではめちゃくちゃデジタルだと思うんですよ。
マリオさんの視点も結構デジタルな視点だと思うんですけど、人間の捉え方とか世界の捉え方がすげえデジタル。
それに対してシステムクラッシャーは確かにめちゃめちゃデジタルじゃない、アナログ。