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はい、始まりました。
ポッドキャスト、よしの映画サカバ第4回です。
はい、今日ですね、収録しているのが10月1日ですね。
1日の日に映画ファンがポッドキャストの収録して、
今日は映画館行けって話ですよね、ファーストデーなのに。
今日は行かないともったいないなと思いつつ、
木曜日にやるって言ってしまったので、
今日も収録していきたいと思います。
今日はですね、ちょっと渋めの作品チョイスになるかもしれないです。
まずは、ちょっと前回のテネットの回の話の内容で補足しておきたいことがあって、
それを喋っておこうかなと。
あと、最近観た映画がですね、
マティアス&マキシムとガチョーコの夜と
アリス・スイートアリスの話をしていきたいなと思ってます。
まず、テネットの回の補足なんですけど、
まずですね、ランバ・パークスの話をしたんですけど、
その時に映写環境が良いっていうことを表すのに、
解像度が高いって表現を取ったんですけど、
これちょっとかなり語弊のある表現だなと思って、
解像度が高いって具体的な数値で決まってることに対して、
比喩的な表現として使ったつもりだったんですけど、
明らかに語弊を呼ぶ表現だなと思って、
ここは訂正しておきたいです。
これまで映写が鮮明っていう意図でだつもりだったんで、
これは明らかに使っちゃいけない表現ですよね。
映像に関すること以外の場合に、
解像度が高いっていう表現を取るのは、
別に明らかに比喩ってわかるからいいと思うんですよね。
実際ランバ・パークスの話をした時の、
音響の解像度が高いっていう言い方をしてたんですよ。
それだったら、比喩だなってわかるじゃないですか。
映写に関して解像度が高いったら、
明らかにスペックが違う表現ですよね。
それは良くなかったなと反省しました。
自分で聞いてて、
これ明らか変更だろうと、
違う意図が伝わるだろうっていうのは、
自分で聞いてて思ったんで、
そこは訂正しておきたかったです。
もう一点なんですけど、
テネットを含めた、
クリストファー・ノーラン監督全般の
暴力描写のライトな部分に関して、
あんまり好きじゃないっていう表現を取ったんですけど、
ここに関しては、石化性動向というより、
レーティング的に全年齢に見せるために、
そういう風に暴力をあまり強くしていないっていうのが
ありきだなと思って、
やっぱりノーラン監督って、
対策を世界に届けるっていう目的意識、
かなり強く先に作られてる方だと思うので、
それに対して、
暴力表現が甘くてあんまり好きじゃないっていう表現、
フェアじゃなかったなと思ったんですよね。
それに出したら、
対策映画はいくらでも暴力表現が甘い映画ってあるわけなので、
ちょっとずるい言い方だったかなと思いましたね。
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反省ですね。
実際、やっぱり対策映画として、
暴力表現が甘くなるっていうこと自体が、
そこまで好きじゃないというか、
黄色映画とかだって、
明らかに黄色く見られようっていう意思が、
コンセプト的にも明らかなものとかだと、
すんなり受け入れられるんですけど、
やっぱりノーラン監督って、
映画の中身自体はハードなことをやろうとしているっていうふうに、
見えるように作ってると思うんですよね。
そこが、暴力表現自体はライトっていう部分が、
個人的に違和感として受けられてしまったかなっていうのはありましたね。
言い訳ですね、これ。
言い訳すんなって話ですよね。
訂正してるくせに。
訂正してるのに言い訳したら、
もはや逃げるしかないだろってなっちゃいますよね。
この言い訳含めて良くなかったな。
不安定な言い方がありました。
本当に自分で聞いてて、
良くない表現を取ってるなっていう、
思ったのがその2箇所だったので、
ここが訂正しました。
あと全体的にテネットの解釈に関しては、
単純に詰めきれてないよなっていうことを結構言ってたので、
そこもまあ、もし解説として言うんだったら甘いと思うんですけど、
あくまで2回見ただけの人間から、
捉えられた範囲での感想としては、
まあ、アリなのかなっていう感じなので、
言い訳に言い訳を重ねる。
あの、ブザー。
すいません。
最近の映画の話をしていきたいなと思います。
まず1本目に、
マティアス&マキシブの話をしたいなと思います。
概要からその後、
ネタバレ的な話になっていくと思うので、
ネタバレの話をするときは、
そのタイミングでちょっと言葉を挟みたいなと思います。
seika.comの解説を読ませていただきますね。
高賀世界の終わりなどで高く評価される、
カナダの若き新鋭グザビエ・ドランが、
友情と恋心の狭間で揺れる、
青年2人の葛藤を描いた青春ラブストーリー。
幼馴染である30歳のマティアスとマキシブは、
友人の短編映画で、
男性同士のキスシーンを演じたことをきっかけに、
心の底に眠っていた互いへの気持ちに気づき始める。
婚約者のいるマティアスは、
親友に芽生えた感情に戸惑いを隠し切れない。
一方、マキシブは友情の崩壊を恐れ、
思いを告げぬままオーストラリアへ旅立つ準備をしていた。
別れが目前に迫る中、
本当の思いを確かめようとするマティアスとマキシブだったが…。
ドラン監督がトム・アット・ザ・ファーム以来、
6年ぶりに自身の監督作に出演し、
主人公の一人マキシブを演じた。
主演にマミーのアンヌ・ドルバル、
キングスマン・ファーストエージェントのハリス・ディキンソン。
2019年第72回関ヌ国際映画祭コンペティション部門出品。
はい、えっとですね、
まずグザビア・ドラン監督の作品って、
僕は日本だけなんですね、見てるの。
マティアスさんのマキシブと、
ジョン・F・ドノバンの…なんだっけ?
ジョン・F・ドノバンの使徒生か。
ジョン・F・ドノバンの使徒生だけなんですよね。
ちょっと本当に、僕は最近知った監督だったので、
あんまり分かってないまま見たって感じだったんですよ、
ジョン・F・ドノバン自体は。
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なんか結構癖のある監督なのかなと思って聞いてたんですけど、
意外と割とオーソドックスに僕は感じたんですよね。
どうなのかな、そのあたり。
本当に過去作を知らないので、
どれくらいの癖のある作家性してるかっていうのは、
まだ全然俯瞰できてないんです。
だから本当にジョン・F・ドノバンの使徒生と、
マティアス&マキシブだけを見て語ろうとしてるって感じですね。
ちょっとグザビア・ドラン監督って言ってる口では、
あまり語らないでおこうと思います。
明らかに語弊を生むこと言っちゃうと思いますんでね。
マティアス&マキシブなんですけど、よかったっすね。
まずグザビア・ドラン監督自身を見たのが、
僕初めてだったんですよね。
前作が出てなかったわけですよ、
ジョン・F・ドノバンの使徒生が。
シミクはゲーム・オブ・スローンズのウッド・ハリントンでしたよね。
なんかすごい雰囲気を帯びてる方だなと思って。
映画の中身自体なんですけど、
すごいちょっと気を使ってる関係の中で、
恋愛感情を芽生えたっていうのの表現の仕方が、
すげえ絶妙だったなと思って。
同性愛っていう部分で、よりオープラにしにくいであるとか、
自分自身の感情を気を使って表現しにくいっていう部分はあるんですけど、
やってることがすごい普遍的だなと思って、
すげえいいなと思いながら見てました。
特にですね、ティアスとマキシムの、
目線の配り方みたいなところがすごい良くて、
気になってる相手がいるけど、
その相手に声を出すことはしてないよねっていうので、
ちょっと覗き見るみたいなのをやってるのが絶妙だなと、
超心当たりあるなって思いましたね。
あの感じね。
パーティーみたいな席で、
隣の席で相手が行くみたいなので、
あれね、めっちゃわかるし、
結構ね、ドキドキしましたね。
自分がやったらと思ったら、
あの席超行きたいけど、無理みたいなのね。
わかりますよそれは。
恋愛TVでもそうだし、
より仲良くなりたいと思っている友人の隣に行くみたいなのも、
全然わかるかなと思って、いいですよね。
で、どっちかというとね、
恋愛って切り口よりも、
それ以外の人生全般に関する表現がすごい良いなと思って、
まず母親ですよね。
で、ジョン・フ・ドノバの時もそうだったと思うんですけど、
母親との関係ってめちゃめちゃえげつない部分に切り込んで取れますよね。
詳しくないけど、
作のタイトルも言う限り、
マザー、マイマザーとかマミーが、
明らかに母親に対する何かがある。
そのとこですよね、ドラン監督って。
すんげえ複雑な関係で、
憎々しく思ってるけど離れられないみたいな、
母子の関係性みたいなのをガッチガチに描いてて、
特に今回もマキシムの母親が裏ぶれてるわけですよ。
落ちぶれてるというか。
家でずっとテレビ見てタバコ吸って酒飲んでっていうね。
それでおそらく、本編で描かれていない部分で、
ものすごい規制関係のトラブルを起こしてるんですよね。
マキシムに、そのおばさんに、
マキシムがオーストラリアに国当たって、
おばさんに資産の管理とかを任せるってなって、
自分に任せろっていうわけですよね、母親は。
プライドもあるし、自由に金使いたいから。
それをマキシムは止めるわけですけど。
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あっごめんなさいネタバレしてるわ。
ダメだ。ごめんなさいネタバレしてるわ。
多分今日全体的にネタバレしそうですね。
全体的にネタバレします。すいません。
ごめんなさい本当に。
これライブ配信しながら撮ってるんで、
誰も見てないからいいんですけど、
リアルタイムで見てる人いる前提で、
こんな甘いことしたらダメですね。
母親が過去に金銭のトラブルを起こしてたと。
それに対してマキシムは管理しようとするわけですよね。
母親のプライドもあるし、お金使いたいから、
それに対して激行するわけなんですけど、
駆け引きをしてくるわけですよね。母親が。
ちょっと昔、あんたこの料理好きだったでしょ?
みたいなのを作った後で、
その料理を作った後で、
ほがらかな、ちょっと今まで健健としてた関係の中で、
あの頃を取り戻せたって感じの柔らかい会話の後で、
いきなり心で、やっぱり私にお金任せてくんない?
みたいなのが挟んでくるんですよ。
そこの言い方も絶妙。距離感を測りながら言って、
その後、案の定マキシムは激怒して失敗するっていうね。
変な交渉事をする時のリアリティすげーなと思って。
分かる、ああいうことするわ。
で、案の定相手を怒らせるってね。
しょっちゅうありましたね、あれ。
分かる、家でもやるし、仕事でもやるしってね。
あの時のリアリティもやばかったですよね。
で、あと友人関係なんですけど、
マティアスとマキシムが映画の撮影の中でキスをするのが、
友人のパーティーなんですけど、結構悪友なんですよ。
何かのドラッグはやってたりとか、
結構過去にやんちゃしてたんだろうな、こいつらっていう奴らなんですけど、
今でもマティアスとマキシムとはすげー仲がいいとは。
ただ、過去にマティアスとマキシムが高校時代なのかな、高校でいうところの。
いい感じになってキスしたことがあるみたいなの、
めっちゃシャカすんですよね。
2人に同性愛的な傾向があることは何となく悟ってると。
どこまでわかってるかちょっと僕読み取れなかったんですけど、
完全にカンピングアウトされて理解してるのか、
悔み取ってるのかわかんないんですけど、
かなりシャカすんですよね。
あそこのね、悪友で付き合いもいいし楽しい奴らなんですけど、
自分のすごい繊細なところにはデリカシーなしでガシガシに絡んでくるっていう、
悪友幼馴染リアリティみたいなのがすごいわかるなと思って、
生地その2人に対して理解はある程なんですよね、彼らは。
ただセクシャルマイノリティに対するリテラシーみたいなのは別にないから、
なんかシャカすことで逆にアリになってるでしょみたいな感じでね、
ガシガシに絡んでくるんですよ。
マティアスとマキシも2人だけの席にしようとしたりですね。
それもね、強引に来るからマティアスとしては追い詰められちゃうんですよね。
あの関係性は気のいい分よりきつくは感じるって感じでしたね。
デリカシーがないからこそ俺たち分かり合えてるよねみたいなのね、
あるあるじゃないですか、男同士で。
女性同士でもある、女性同士でもあるかきっと。
デリカシーのなさが関係性の深さにだよねって、
だからガシガシ踏み込んじゃうぜっていうので。
でも本人は傷ついてるっていうね、そういうのすごいあるなと思って、
あのリアリティもすごいなっていう。
ドラン監督がなんかいろいろ経験してきてるのことなのかな。
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ドラン監督が同性愛を作家性として描いてる監督かどうかとかも知らないんですよ。
ジョエフ・ドノバンもマティアス&マキシムも続いたなっていう。
で、なんか母親との関係の圧力も続いたなっていう。
まだ偶然の範囲、偶然2本続いたなかなぐらいにしか撮られてなくって、
全然調べてないから。
まぁなんかテーマ2回同じの続くことあるよねぐらいの感じで見てたんで。
もしかしたら他の作品も同じことをやってるのかな。
わかんないんですけど、もしそのドラン監督が同性愛的なことをテーマにずっと撮られてる監督だとしたら、
もしかしたら何か思うところがあってのをそういう描写入れてるのかなとはちょっと思ったところでしたね。
なんかね、あるっすよね。
あの、えらいいいやつだけどほんと嫌なとこ踏み込んでくれよなっていうね。
わかるわーっていう。
そういう母親とかその悪友とかの関係とか含めて、
あくまで物語の軸になるのは2人の恋愛関係なんですけど、
その周りにある母親との関係とか、友人同士の関係とか、
その他、周りが描かれてるっていうのがすごい良いなと思って。
要はその恋愛を描いた物語、映画の中で、この2人しかどこか世界に存在していないように見えると。
物語の中心にはこの2人しかいないように見えてるっていう感じがあんまりない作品だなと思ったんですね、マティアンス&マキシムは。
で、僕そういうバランスすごい好きだなと思ってて、やっぱりその2人だけの世界に入っちゃう物語であんまり好きじゃないのが多いですね、僕は。
で、なんでかっていうと、たぶん映画を見てる自分がそこに入れないっていうのを見せつけられるからだなって思うんですよ。
なんかすごい2人がいい感じになってると。
で、それを見せられてると。
ただ、その関係性の中に自分はもう寄与できないと。
2人だけで盛り上がってるのがなんか嫌っていう。
まあ要はまず言えばそういう感じにはなるんですけどね。
そこがすごい寂しく感じちゃうっていう。物語に入りたかったのに切り離されちゃったなって思うところがあって。
だから2人だけの世界に入っちゃうタイプの映画は、そこに対して自覚的にちょっとそれを距離を置いて描いているタイプの映画が好きだったりするんですよね。
この2人だけの関係だけで煮詰まっていくのは本当にいいことなの?みたいな視点がちょっと入るとね、その映画一気に好きになったりするんですよ。
この映画はその視点というか、別にこの2人の物語だけでガシガシ踏み込んでいくわけじゃなくて、全然その周りとの関係を同時並行で描いていく中で、
ただその時々の2人の感情の中心には互いがいるっていうだけなんですよね。
物語全体としてはあくまで彼らちょうど30歳で人生の節目ですよね。
マティアスは仕事で成功しようとしてるし、結婚控えてると。女性との結婚ですね。バイセクシャルってことなのかな?
それともセクシャリティ的にはヘテロセクシャルだけど、なんかマキシムのこと好きになっちゃってるって感じなのかな?わからないですけど。
マキシムとしても現状の母親との変則感とかを払いたくてオーストラリアに行くという人生の節目を迎えてて、ちょうど過去に別れを告げないといけない季節が来てる2人なんですよ。
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それに対して過去に別れを告げないといけない季節が来た2人に過去のちょっとした感情が湧き上がっちゃうと。どうなんだろう?
彼ら2人って恋愛感情あったのかな?過去に。僕はそう見えたんですよね。過去にあった恋愛感情が蘇ってきちゃったって見たんですけど、今回いきなり初めて思い上がったのかな?
でもそれだと過去にキスしないか?わかんないですよ。なんかちゃんと描いてないので、あくまで空白というか余白として描いてるように僕は見えたので、きっとそこはどっちでもいいのかなと。
あくまで見えてる範囲だと、僕には過去の恋愛感情が再現したように焼けぼっくりに火がついたってやつですよね。したように見えたと。
要はちょうど湖で、パーティーの中で湖で泳いだりする夏なんですよね。このパーティーしてるタイミング。
そっからマキシムがオーストラリアに向かう火が近づいていくのにあたって、違うな。夏というかちょうど夏が終わって秋になるタイミングなんですよね。一気に気温が下がり始めるタイミングなんですよね。
つまり、彼らあたりそれぞれでの夏の季節が終わって、秋を迎えようとしてるっていう人生の転機と、人生と季節の移り変わりっていうのが重ねられてるように描かれてると。
なのに、それぞれ過去を振り切って前に進もうとしてるのに、夏の一番熱い思い出が蘇ってしまったっていう。秋が来るのに、あの頃の暑さを思い出しちゃったっていう感じの話なんですよね。
秋を使うのすごい良いなっていう。人生の秋の始まりに夏の暑さを思い出してしまった二人の物語って感じなんですかね。
その雰囲気がすごい良くて、やっぱりこの感情が芽生えなければもっと楽に生きられたみたいなのがちょっと不自分的に見えるんですよ。
だからすごい悩み苦しむんですよね。特にマティアスは。
しかも周りがなんかちょっと茶化した感じに、マティアスとマキシムの話し立てるような感じを挟んできたりするから、またちょっと追い詰められちゃうと。
俺、仕事うまくいってるし、結婚もするのに、なんかあの頃のことを思い出しちゃったと。
それでちょっと思い悩んで、マキシムにきつく当たっちゃうわけですよ。
マキシム、顔に痣があるんですけど、それに対して言及して、いわゆる好きな子にきつく当たるってやつなんですけど、ゴリゴリにそれをやっちゃうと。
それがすごい嫌なんですよね。マキシムがそれを気にしてるのなんて明らかなわけですよ。
だからそれで周りもドン引きしちゃって。きついですよね。
ただね、周りもマキシムの顔の傷のことはすっげえ気を使ってるのに、セクシャリティーのことによると雑に扱うっていうね。
そこのここはいいけどここはダメだよねみたいな区別がね、なんか適当なんですよ。
適当というかあんまり考えて、こっちは気を使ってこっちは気を使わないみたいなことをしてないなっていう感じがあるのがね、そういうもんだよなってなっちゃうんですよね。
悲しいですよね本当に。
だからそのマティアスとマキシムが友人たちとすごい盛り上がるんですよ。
盛り上がるけどふとした瞬間にめちゃめちゃ二人が孤独になってるのが悲しくて本当に。
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最後のパーティーで二人が結ばれそうになるのもなんかダメだってなってやめちゃいますしね。
あそこでね結ばれてても逆に悲しかったかなって気もするんですよね。
秋の始まりに夏を思い出してた物語なので、あの頃を取り戻すだけが正解じゃないよねって示したって意味ではありなのかなの展開は。
結構ねすごい独特なんですよね。
いい感じに気持ちよくさせてくれないんですよ。
二人が愛を取り戻してめでたしめでたしってしないんですよね。
ここはねある種の誠実さだなと思います。
結局お互いに思い合ってた時間よりもそれぞれで別に歩いてた時間の方が長いわけですよね。
それで生じその炎が盛り上がったからで人生の中のわずかの時間だけが別に人生の正解ではないわけですよきっと。
それを取り戻すことだけが正しさではないんですよねきっと。
それに対して理性的って言ったらいいのかな。
マティアスが踏み止まったっていうのは別の人生を歩いていくっていう覚悟を決める意味ではありだったのかなと僕は思ったんですよね。
ラストがマキシムがオーストラリアに行くにあたって弁護士の紹介状がいると。
マティアスのお父さんがお母さんとお父さんは別れてるんですけど離婚してるんですけど。
離婚してるってことはよかったのかな。離婚してるんでいいよな。
なんですけどお父さんがその弁護士で紹介状を書いてもらいたいってずっとマキシムはいたんですよね。
割と映画の始めのあたりからずっと言ってるんですけどそれが用意されてない。
もう前日最後の最後まで用意されてなくて実際にお父さんの弁護士事務所の方に連絡してたら送ったよマティアスにって言われるんですよね。
でマキシムはそこで応越するんですけどそれが何でかっていうのがちょっと僕はわからなかったんです。
マキシムにオーストラリアにいてほしくないっていうマティアスの気持ちの現れとして紹介状を渡さなかったのか
単に嫌がらせとしてやってたのに泣いたのかどっちかがわからなくて多分前者ってことなのかな。
直前に結ばれそうになったのを寸前でやめたっていう展開があったんで
結局俺マティアスに嫌われたんだっていうふうにマキシムが思ったっていうふうなシーンにも見えたんですよ。
でもまあ多分違いますよね。そういう意図ではないような。ちょっとうまく紹介できなかったですね。
ただラストその紹介状ないまま家を出ようとしたらマティアスが待ってると。
多分それは紹介状を渡してくれるんですよね。最後に渡したかったっていう。
それはサプライズもあるだろうし紹介状を渡した時が自分にとってのマキシムとの別れだから最後まで渡したくなかったっていう意味もあるのかな。
それを渡すっていうことはマティアスが自分にとってマキシムとの別れを受け入れられるっていうことでもあるしっていう意味なのかな。
パシッていきなりそこで終わるんですけどそこの余韻がすごい良かったですね。
映画ってだんだんグラデーションというかフェードアウトするように終わっていくよりパシッて終わる方が余韻ありますよね。
それはそうですよね。だって物語が動けたままだんだん減速していくより運動エネルギー保ったままいきなり終わる方が感性が残ってるから
おいおいまた進んじゃうよおいおいエンドロールなのに俺の感動また進んじゃうよってなるから絶対その方が余韻としてはありますよね。
21:06
良かったです本当に同性愛の映画なのかどうかは見ててあんま分からなかったですね。
LGBTAが見るとそれ自体が何か特別な意味を持ったジャンルっていう風にされると思うんですけど
LGBTであること別に特別じゃないよねっていう風に考えたらそれで見たらいいのかなって僕は思いました。
この言い方が正しいかどうかちょっと分からないです。
LGBTっていう言葉自体を発信していくことは大事なことだと思うんですよ。
いないことにされていた、いるけど強いてあげられていた人たちが自分をアピールするっていうのは大事だと思うんですけど
結局そのLGBTって名前を得たことでそうじゃない人たちがレッテルを貼りやすくなったみたいなのも正直あるのかなと思って
それは良くないと思うんですよ。
そこでね、なんかそのLGBTに対するバックラッシュみたいなのが起きちゃうっていうのがすっごい若しいなと思って
LGBT映画じゃないのかなってちょっと良くない言葉選びしちゃってるかもしれないですね今。
LGBTの映画っていうのは同性愛の主人公自体を描くというよりその周りの人を描いたらLGBT映画になるかなっていう風にちょっと思ったんですよ最近。
今日ツイッターでカランコへの花の話を取り上げたんですけど
カランコへの花っていう映画は学校の授業の中でLGBTの授業がされるんですけど
その授業をされることでその授業がされたのはクラスにLGBTのやつがいるからだっていう話になって
だんだん話が盛り上がって交わりみたいな雰囲気がちょっと生まれちゃうっていうのを描いた映画なんですけど
これはLGBT映画って言っていいなって僕は思ったんですよ。
なんでかっていうとLGBTって概念を受け取った人たちの物語だからですよ。
それに対してだんだん何かが壊れていってしまう話なんですけど
それはまさに周りの人たちがLGBTっていう言葉を得て
それに対して良い選択をできない物語としてLGBT映画っていう言葉が適切な映画なのかなと思って
実際めっちゃいい映画だと思うんですよね。カランコへの花は。
40分くらいでサクッと見れて結構強烈な読みを残してくる映画なので
めちゃめちゃ欲しい映画だと思っている一本ですね。
だから逆に同性愛を描いた映画がLGBT映画かって言われると
LGBTの人たちを描いた映画とLGBT映画は違いますよねきっと。
最近で言うとムーンライトとかキャロルとか主人公が同性愛の映画を何本か見てたんですけど
LGBT映画っていう表現はちょっと違和感あるんですよね。
そうなんだけど、でもここで違うよ。あれは普遍的な愛の話なんだよっていうのを
分かったふりして言うのもまたちょっと良くないなと思うんですよね。
なんか単純に良い話だったって思えるのが良かったなと思って。
それら3本はね。
単純に良い話じゃないからこそカランコへの花は良い映画だったのでもありますし
ちょっと言葉まとまらないまま話しちゃってて良くないかもしれないんですけど
なんとなく僕がLGBT映画っていう言葉に持っている印象はそんな感じです。