なんとなく気持ちの動きとしては一方向に動く範囲での行ったり来たりをしてる感じだからそんなに混乱しなかったような感覚を覚えたですね。
だからオッペンハイマーの時系列自体は結構一直線なんですよね。多分僕がオープニングでサウルの参加されたことで言ったらストロースの時間軸が割とこうちょっとゴチャっとしてる気がして。
それはそうかも。
まあちょっとねややこしいのがやっぱりまずストロースって誰やねんっていう感じもちょっとあるのと、あとストロースの場面って白黒じゃないですか。
なんか過去の話っぽく思えるんですけど別にそんなことないんですよね。なんか時系列むしろ新しいのあっちなんだよねっていうことがやっぱり描かれたりとかして、
そこが一回あれとーっていうちょっと混乱を招くなっていうのはちょっとあるんですけど、白黒である意味は確かにあるんですけどね。
だからオッペンハイマーが原子力の委員会みたいなやつから外される新聞みたいなのが行われるとことか、
ストロースの証人の会議が行われてるシーンが白黒なのってあれってメディアで取り上げられてたからっていう感じかなと思うんですけど、
逆にそのマンハッタン計画やってる時代ってメディアで取り上げられてないから、むしろそういう記録映像としてはカラーなんですよね。
僕今回NHKの映像の正規のマンハッタン計画会見たんですけど、そのマンハッタン計画を撮ってる記録映像、
中で働いてる人が撮ったらあかん映像を撮ったやつとかも流れてたんですけど、それらはカラーなんですよ。
それらは記録映像だからより情報量が多いカラーで撮ってるんだと思うんですけど、
逆に戦後のあの流れの方はテレビで流してるから白黒なのかなと思うんですよね。
実際にはテレビで流れてなかった内容だと思うんですけど、ニュースとしてアメリカ国民が知ってることだから白黒。
でもマンハッタン計画は徹底的に情報統制されてたから、あれは本来アメリカ国民は知らないんですよ。
中で働いてた人さえ何を作ってるか知らないような状態。
それはメディアに流れてないから白黒じゃないっていう感覚で僕は見ました、あそこは。
カラーはオッペンハイマー自身が見てる世界なんでカラーで、
白黒なのは完全に外から見たオッペンハイマーの姿っていう、客観的に見た時のオッペンハイマーの視点って感じなんじゃないかなっていうふうに思ってたんですけど、
あとストロース自身が権力は影に宿るものさみたいなことを言うのもあるので、
自分のことそういう影のもの的な立ち位置だからなんか白黒なのかなぐらいがちょっと思ったりはしてました。
スパイクリーとかは結構そこをちゃんと言ってますよね。
映画としては面白かったけど、
ちゃんと日本の被害の描写とかそこにちゃんと目を向けるような描写を入れた方が良かったと僕は思うよってスパイクリーは言ってましたけど、
本当そこはちょっと正しいなっていうか本当そうだなっていうふうには僕も思いましたね。
確かに現地の調査結果をみんなで見るシーン、
ペンハイマーの顔バッグを映すんですよね。
映像自体は映さないし、
その映像で映ってることを口頭で言及するセリフとかはあるんで、
何が映ってるとかある程度、
想像はできるっちゃできるんですけど、
そんなものは映さないっていうのが正直僕はちょっと嫌だなとは思いました。
見ろって思うし見せろとも思うんですけど、
それやったらたぶんローランの映画じゃなくなるだろうなっていうのもすごくわかる。
やっぱそこ踏み込まないというか、そこを踏み込んで映画が面白くなるのっていう感覚なんじゃないかなと思うんですよね。
そうですね。
やりたいのそこじゃないしっていう。
さっきスパイクリールの名前出しましたけど、
スパイクリールってまんまそのまま出しちゃったりとかするじゃないですか。
ブラッククラウンズ版とか、もともともない実際の映像を出して最後終わるとか、
それはそれで今までの映画の力は何だったのみたいな風に思う人もいるわけで、
そこもわかるんですよね。
実際あのシーンって彼自身が目を反らしてるんですよね。
内容は聞いてるけど自分はそこに目を向けることができないっていう、
もちろん彼のある種自己憐憫的な罪悪感によるものなんですが、
だから彼の視点というよりもオッペンハイマーの物語としては映さないことの方が確かに正しいっちゃ正しいんですよね。
とはいえそうなんですよね。
観客はオッペンハイマーを客観視しているというか外の視点なわけなので、
しかも日本人である僕らはどの道そこの文脈言われなくても知ってるわけですよね。
だから映されないことに対して何でだろうという違和感を抱いちゃうのも仕方ないかなとは思いますね。
途中完成して実際原子爆弾が成功したというのは観客たちが喜ぶシーンがあって、
そこでちょっと原爆の被害者っぽい描写が出るので、それをもって原爆の被害も描いてるって言ってる方もいらっしゃるっちゃいらっしゃるんですけど、
分かるんだけどそれは間接的なものではあるよなーって気はちょっとして。
そうですね。だから僕はあそこのシーンは本当にその罪そのものじゃなくて、
罪悪感を描きたいっていう描き方になってるっていうのはやっぱ結構飲み込めないんですよね。
さっきも言ったんですけど映像の世紀のマンハッタン計画会見てて原爆10日後の広島長崎の記録映画の映像があるんですよね。
その映像の世紀内で。あれ見たらねもう無理やってなる言いますよ。
落とした側のことを許容するなんて無理やって。
僕はなりました。見ててねこう毛穴が裏返るような感覚を覚えたんですよ。
無理なんですよあれ本当に。
だからそれを分かってくれこれを見てくれこういうことがあったし、
あなたたちの国がそれをしたんですよって見てほしいけど、
それ見たらもう楽しくない映画としてと思う。
だからそれも分かるんです。
そういうことを描きたい映画じゃないからっていうのも分かるんです。
でもやっぱりねそこはやってほしさもあるから、
僕もこう二律背反でちょっと引きちぎれそうなんですよね本当に。
いやすごい分かります。
分かりますねそれはね。
だからそのノーラン自身がこの映画をあくまでエンタメの作品だっていう風に公言しているわけですけど、
多分少なくとも日本で鑑賞する限りはただのエンタメではないじゃないですかどうしたって。
だからやっぱりそこはある種日本人の特権的な見方でもあるし、
一方で世界に多分この差があるんだってことを自覚して、
今後コミュニケーション取っていかなきゃいけないんだなっていうのはすごい改めて感じましたね。
そうなんですよね。
それは本当にあらゆるところにあるなと思ってて。
例えば初代ゴジラ、一番初めのゴジラ映画って、
原爆の脅威みたいな部分すごい漂白された映画として、
アメリカでは公開されてた怪獣王ゴジラという名前で公開されてて、
当時のアメリカだとそこまで原子力に対する罪性みたいなのって、
そんなにメディアでも強調されてないというか、
原子力の影響で生き物が大きくなったモンスター映画とかはいっぱいあったわけですけど、
そのノリの一つとして怪獣王ゴジラがあったというか、
でも初代ゴジラなんて僕らは原爆の脅威とその罪性の具現化したものとして見ているわけじゃないですか。
そこの差って埋めようがないんじゃないかなと思って。
埋めないとダメなんですけどね。
すごい遠い道のりっていうのがあるなっていうのがあるし、
あと彼らにとって当時の日本に勝った勝利の証でもあるわけじゃないですか。
悪の数字空谷をやっつけた勝利の象徴の一つでもあるわけだし、
そこを悪として捉え切るのって、
歴史認識のレベルで難しいなっていうのも分かるっちゃ分かる。
本作の描かれ方とかも見る限りは。
あくまでオッペン・ハイマー個人は悩んだけど結果的に後から。
でも国としてはそれは喜んだだろうなと思うんです。
解釈や政治的なメッセージを受け取るのを主点に避けていると。
たぶん踏み込めばメッセージは出さざるを得ないじゃないですか。
だけどこの絵が良くも悪くもメッセージがないってわけではないけど、でもすごく一般的に捉えられるメッセージ性に留めているというか。
どの国の人が見てもこの程度だったら受け止められるよねっていうメッセージに留めている。
これはたぶんノーランの広く見られるっていうところに、もちろん彼がエンタメって言ってるところだと思うんですけど、
確かにそれを教授として受け取ることもできるっちゃできるかっていう感じですね。
そうですね、本作にメッセージがあるのかどうかっていうのもめちゃくちゃむずい論点だと思うんですけど、
僕の感じた見方なんですけどね、本作からメッセージを受け取る人はたぶんそのメッセージをもともと持ってた人なんじゃないかなと思うんですよ。
もともとそのメッセージを持ってる人がこの映画からそのメッセージを受け取ったように感じる。
でもそのメッセージを持ってない人はメッセージのない映画として見ることができる。
ただのオッペンハイマーの電気であるっていう見方もできるようになってるっていう感覚はあって、
そこがやっぱり生々しく描かないっていうクリストファー・ノーランのテクニックであり、それこそ教授の部分なのかなって思うんですけど、
やっぱり彼が描いた作品って神話になるなって思うんですよね。
それはめちゃくちゃわかりますね。
例えばダークナイト三部作とかもそうなんですけど、あんまり暴力が生々しくないなと僕は思ってるし、
善と悪の二つの対立の話になるし、戦いそうなものはかなり抽象化されたものになってるなと思って、
絵的にはすごい派手なことが起こってるんだけど、要素を抽出していくと、
善と悪の概念だけが残ってるような話になってたりするなって思うんですよね。
ダークナイトとか見てると。
そこにはやっぱり、暴力そのもの生々しさがないからだと思うんですけど、それによって神話になってるなって思うんです。
それを圧倒感じたのは、インセプションとかもそうなんですけど、
インセプションも過去に取られた男の神話だなって思うんですよね。
夢の世界に行く話というか、そこにドロッとしたものがあんまりないというか、
ドロッとしたものはありますよっていう風に描かれてるけど、そのものは描かない。
それによって、こういう一人の男が自分の罪悪感が具現化した世界に落ちていくような映画になってるなって思うんですよ。
オッペン・ハイマーもそういう話だなと思って、
そういう世界を変えてしまう力を持った男が、その罪悪感に取り込まれて世界を見ていく話というか、
そこに生々しさがないことで、そういう力と罪に取られた男の神話たり得てるっていうところ。
これは好きな人はめっちゃ好きだし、苦手な人はめっちゃ苦手だと思うんですよ。
上手すぎるから。感じなところをシュルッと避けながら、いい感じに描ける。
本当にもう圧倒的な力がある作家だなと思うんですけど、
もう上手すぎっていう。あなた上手すぎって言いたくなるっていうのは正直わかるんですよ。
ていうか、僕がそれを言ってる人だから。上手すぎって言ってる人だから、僕が。
確かに上手いんだよなって。本当に神話になるとかかっこいいもんなっていう。
そうなんですよね。だから、例えばダンケルトックとかもそうだけど、もう地獄中の地獄なわけですよ。
それをでも、絵力で神話にしているんですよね。空と海の神話になってる。
そうですよね。ダンケルクの時、一切敵を描かないですからね。
だし、撮影のエピソードとか聞いたら、すごい段ボール並べて人の影しているとか。
本当に映像作家として、本当にハッタリが上手い人。前回もそういう話したと思うんですけど。
本当にハッタリが上手い人だなって、かっこよく見せるのは本当に上手いなって思いますね。素晴らしいと思いますけど。
映像作家として最強の才能だと思うんですよね。ハッタリが上手いって。
そうなんですよ。最強なんですよ。
さっきそのインセプションの話、ちょっと話が、コースがずれるかもしれないですけど、
インセプションの話が出たんで、今回ジーンが出てくるじゃないですか、フロレンス・ピューが演じてた。
彼女の役柄を見て、すごいインセプションを浮かべたんですよ。
ノーラン、またこういうことやってるんだって思っちゃったというか。
そのとこめちゃめちゃクラシックですよね。クリストア・ノーラン作品における女性の役割って。
セックスと死のイメージっていう。クラシックだなって。
そうなんですよね。結構ノーランの映画っていうか、
ハードボイルドな世界観だと思うんですよね、基本的に。
ハードボイルドが根底にある人なので、いわゆるそういう感じの扱いというか、
どうしてもなるところは多い気はしますね。
そこがいいところでもあるし、悪いところでもあるのですけど、
どっちかというとそういうハードボイルドなやつでぐっとのめり込んでしまいがちな人間ではあるので、
良さだと僕は思ってはいるんですけどね。
間違いなく良さだと思います。
これはもう独特の味わいなんですけど、今回もファム・ファタル出てきたわと思って。
にしてもちょっとね、ジーン・カトロックの描き方ちょっとなんかこっちを見てて引くっていうか、
途中の校長会じゃないんだよね、サモン会みたいなところでキティがジーンの芸術を見るところとかちょっと、
なんかちょっと気になりましたよ、なんかちょっとこれみたいな。
そこは確かに僕も気になりました。あれってこんなことする作品やったっけと思って。
ここで急になんかそういうやつきたなってなって。
だからオペハイマーの罪性の一つが多分ジーンに対する思いだったりもするわけじゃないですか。
罪悪感の一つが。
なんかでもやっぱそれと原爆っていうのが自分の中でなかなか原爆開発をしたっていう罪と、
ジーンという女性に対する自分の当たり方というか、対応の仕方、関わり方っていう罪性っていうのが、
彼の中では一色となってるんだけど、見てるポイントとしては全然一色じゃないけどなって思いながら見ちゃうというか。
というように多分彼が創作したキャラクターっていうのが見えてくるって見えてくるんですけど。
まあね、他人の内面なんて、周囲から見たら因数分解はできるけど、
本人の中ではまあ一個のものとして紐づいてますからね、そこを区切れないっちゃ区切れないのはわかるんですけど。
何個か、本作ってオペハイマーの罪とされるものが何個かで、まず原爆を作った罪っていうのはありますけど、
あとまあその社会主義的活動に傾倒していた、あるいはまあそういう関係者との関係が多かったっていう部分ですね。
まあこれはその罪というよりは、周囲から罰される材料になるっていう部分と、
あともうその性関係のだらしなさですよね。
だらしない、本当に。
本当にそう。
まあね、本当にそうでしたね。
めちゃめちゃ、なんていうか、だらしないお方ですねって思ってしまって、
そうですね、ちょっと僕これ見てて思い出したのが、
ウォッチメンに出てくるドクターマンハッタンって言うじゃないですか。
はいはいはいはい。
で、あのマンハッタンって名前つくぐらいだから、もう核兵器そのものなんですよね、彼って。
そうそうですね。
でも彼ってね、こう、下が下品なんですよ。
神に等しい力を得ているのに、若い女の子とセックスしたいという願望があって、
とんでもないデスマーチやなって。
デスマーチすぎるし、
劇中、やっぱりすごい統制、軍の間で統制とかがあるから各部署の連携が取りづらいみたいな話あったじゃないですか。
それをオッペンハイマーが撤廃して、自由な議論できるようにしようよみたいなふうにしてましたけど、
そういうところにも出てくるなって気がしますけど、
せっかく軍側で統制してるのに、そんなん知るかって言って、
こっちはやらなきゃいけないんだ!みたいな感じで、鍵突破しちゃうっていうのがすごいらしいっていうか。
で、ちゃんとソ連のスパイがいるっていうね。
そう、やってましたしね。
完全にあのシーンにおけるマット・デイムは完全にグチグチと文句ばっか言ってくる映画プロデューサーみたいなポジションで、
スタッフを守る側の監督であるオッペンハイマーはそことなんとか渡り合って、
より良い作品作りのために!みたいな感じに見えるよねっていう。
映画作りの話じゃんっていう。
トリニティ実験の最終の爆破実験するところとか、死者ですからねあれ。
死者ですね。
光を見るって映画じゃんっていう。映画のマジックっていう感じがすごいしましたし。
あんな風に見るんすかね。僕まず屋外で見たくなかったんですけど、あれ。
自分がやったら。放射線の存在ぐらい知ってるでしょ、さすがに。距離離れてても。
放射能の被害がどうなるかって多分あんまり当時、重視されてなかったんじゃなかったかな。
それこそX線の研究とかもあの当時、すぐ後にDNAでX線解析とかがあって、
構造がわかるっていう場面が、戦争のすぐ後ぐらいにアメリカで起こるんですけど、
多分その段階まで放射線が体に被害を与えるっていう見地があんまりなかったんじゃなかったかな。
だから結構短命だったりしたんですよ、そういう研究者が多く、なぜか。
結構日用品に放射性物質塗布してたりとか、なんか食べ物に入れたりみたいな話もあったみたいですしね。
なんかね、完全にね、これから怪奇日食でも見るぞみたいな感じでしたよね、なんかね。黒いフィルムかなんか見て。
ワクワクモードですよね。いやでも、あそこまで映画見るっぽい感じでやったんかなって。
いやそう、本当にあのトリニティ実験あたりの、うまくいくのか、いかないのかとか、押すのか押さないのかみたいな、普通にスリリングじゃないですか、ああいうの。
もうすごい出来上がるものとしては最悪なものが出来上がるはずなんですけど、なんかね、見てるときはすごい高揚感にあふれてくるのがすごくて、
でその後に映像としてキノコグモが出ていただいて、すごい複雑な感情をさらに呼び起こしたりもするわけなんで。
そうですね。
タオさんの言ってることにもひも付くかもしれないんですけど、
本作を見てそこから新しい意見が生まれてきそうなものには頑張ってそうならないようにしてるかなっていう気がするというか、
あくまで既存の解釈とか政治性とかメッセージにしか捉えようのないものになるように意図して気を配って作ってるような気もするかなって、
ちょっとそこまでコントロールできるものでもないんですけどね。
ちょっとそれは考えすぎかな。
少なくとも結果的にはそういうものが出来上がってるのは事実だと思うんで、監督の意図あるいは制作地の意図がどのくらい入ったか入ってないかにしろ、
出来上がったものとしてはやっぱりそのバランス感が非常に上手いところに落ちたっていうところは事実としてあるのかなとは思います。
そうですね。
一応これタオさんのお便りの流れっていうことで一旦ここで。
そうなのか。
忘れてました。
じゃあここでお便りの紹介は切っておこうと思うんですけど、どんどんお便りと自分たちからのトピックがシームレスになっていきますね。
そうですね、本当。
いいかなって最近思うようになってしゃべり始めましたけど。
我々からトピック出すとして、なんかおおよそしゃべった気もするんだよな。
ちょっとなんか1個挙げるとしたら、今今の段階で原爆的なものって何なんだろうっていうのはちょっと思ったというか、
まさに多分前回の高額起動体の時にも少しこう話したことにもつづるかもしれないですけど、
ある種現代においてこれは進歩衝撃的に進んでいいよねってなってるんだけど後々どうなるかわかんなくないっていうのって何なんだろうかっていう。
そうですね。
やっぱり原爆って科学倫理の世界においてはすごい重要なトピックだと思うんですよ。
原爆以前以後で、マンハッタン計画以前以後でやっぱり科学倫理っていうのがちょっと1個フェーズが上がったとされてるんですね。
例えば遺伝子組み換えに関しても遺伝子組み換えがまずできるってわかった段階でDNAの発見者であるワトソンなどを筆頭にして、
これは1回規制を作ろうって言って科学者が自分で規制を作ってるんですよ。
やっぱりマンハッタン計画があったからそういうことをやってると思うんですよね。
これは異常に広がったら多分危ない技術になり得るから自分たちで食い止めようかっていう。
そういうものって今何になるんだろうなってちょっと想像してみたりはして。
それとは例えばAIとかってそうなのかなとか。
そうですね。
やっぱりAIは法整備がちゃんとうまくいってないまま進んじゃってる感っていうのが結構いろんなところで歪みを感じるみたいなトピック、ニュースは結構流れますよね。
去年のハリウッドのストとかもまさにそうですよね。
そうだし、著作権の話とかもだし、なんかあの辺って結構みんな普通に使ってるけど結構ナーナーじゃね?みたいなところは多いよねっていう。
それをすごい考えちゃう。もちろん直接的に関わった人の罪っていうのはあるんだけど。
じゃあどこからってなる。
罪のない人なんていないなって思うし、原爆を作った側、落とした側の理屈があるっていうことも本作の映画からは伺い知れる。
マチェスに先越されるよりはマシでしょって言われたら、確かにそうかもねとはちょっと思っちゃう部分はある。
じゃあ広島長崎の人たちに落とされるべきだったのかって言われたら絶対にそうじゃないんですよ。
それをすごく考えてしまったんですけど、だから正直もうさかまぼることはできないじゃないですか。
だからこのバトンが繋がっていく流れの中で、次の原爆じゃないことをさせないために何がいいのかなって。
原爆じゃないにしても、遺産のことは世界中で起きてるわけですよ。原爆じゃないだけで。
それにどう寄与したらいいのかなっていうのを、今そこで起きてる当事者の人たちだけが悪いんじゃないとは思うんですよ。
もちろん悪いんですけどね。当事者も悪いんだけど、繋がってきてるものもまた悪しきものだから。
その鎖を少なくとも我々は遺産の歴史を知ってるから、じゃあその鎖次に繋げたくないよねって。
じゃあ何するのって言われたらわかんないんですよね。
オッペンハイマーっていう映画に脳を突きつけることはできるんですけど、そうじゃないことを起こさせないためにはどうしたらいいかっていうのが僕にはわからないんですよ。
厄介な話しましたね僕。
そうですね。でもめちゃくちゃ重要な話だと思います。
そうですね。ちょっとここで一本映画を取り上げたいんですけど、初代ゴジラ。
初代ゴジラの話、僕何回もしてますけど、やっぱり傑作で、初代ゴジラの傑作なのは原爆の被害を受けた側も描いてるんですけど、原爆を落とす側の真理もあるんですよね、あの映画の中には。
それがセリザー博士であり、オキシセンデストロイヤーっていう兵器なんですね。
で、セリザー博士はあのオキシセンデストロイヤーを絶対に使いたくなかったんですよ。作ったけど。
作ったけど使いたくなかった人で、あれって原爆級のとんでもない兵器なんですよね。
海中のサイエンスを全て破壊してって、あの一体の海の中の生物全員死ぬんですよ。
恐るべき兵器なんですけど、彼はそれを作ったんです。なぜなら作りたかったから。
でもそれによって何がもたらせられるかっていう恐ろしさもわかってるんです。
彼の中に原爆を落とす前と落とした後のオッペンハイマー両方がいるんですよね、セリザー博士の中に。
オキシセンデストロイヤーは核兵器とほぼイコールの存在だと思うんですよ。
でも彼はオキシセンデストロイヤーを使うんですよね。
なぜならそれをしなければ今度こそゴジラに東京が破壊されるからなんです。
その恐怖は原爆を落とした側の恐怖でもあるんです。
正直アメリカの事情はあんまり区別できないと思います。ほとんど日本に勝ってるわけだから。
でも落とした方がより早く終わるよねっていう理屈は禁止しない部分ではないわけではない。
とにかく自分たちの国を破壊されたくない、自分たちの国民に死んでほしくないっていう理屈が進んでいった先に、
じゃあオキシセンデストロイヤーを使いますっていう選択肢があるっていう。
でもそれをゴジラによって被害を受けた東京の人々と同時にやるんですよね。
ゴジラに襲われる人々とオキシセンデストロイヤーを使う人っていう視点がゴジラの中に両方あって、
これってとんでもないことだと思うんです。
ゴジラが人間じゃないからそう見えてないだけなんです。
ゴジラが人間だったら結局第二次世界大戦の写し鏡になっちゃうんですよ。
すごい映画で、やっぱりオッペンハイマーとか、あるいはこれも何回も言ってますけど、
ゴジラマイナス1になかった部分がある映画だと思うんですよね。初代ゴジラは。
被害を受ける側であり、加害をする側にもなり得るっていう。
それが核兵器の恐ろしさであり、戦争の恐ろしさですよね。
なので、その上で、でもやっぱもう嫌だよねっていうためにはどうしたらいいのかっていうんですよね。
やっぱり僕ら映画が好きなので、どうしても映画の力を信じたくなっちゃうかなと思ってるんですけど、
それこそ今年のアカデミー賞で結構それ、特に戦争っていうテーマって大きなテーゼだと思うんですよ。
例えば、今度公開になりますが、ドキュメンタリー賞を取ったマウリポリのドキュメンタリーだとか、
あるいは今後日本公開されるはずの関心領域もそうだと思うんですけど、
たぶん戦争っていう理由をつけて、僕らがいかに人を傷つけうるかというか、
人を殺してしまうっていうのがいかに行われていることを当たり前にできてしまうかっていうことを、
たぶん描く作品が今年のアカデミー賞で結構多かったなと思うし、
それは現在進行形でそういうことが世界で起こっているからだと思うんですよね。
で、もちろんそこに対していろいろな意見があるし、実際アカデミーの中でも結構意見が割れているわけですけど、
やっぱそれを何だろうな、真摯に見続けるしかないんだろうなとは自分自身は思ってます。
いかにそれに、もちろんアカデミーの中でもどちらに側を支持しますみたいなことを表明したりとかっていうのもありましたけど、
自分がそれを表明できるかっていうと、そこまでやっぱり知識もないし、投資者性もないから難しいんですけど、
でもやっぱりそれは間違ってるよねっていうのを、しっかりさっきの泥臭さを見て学ぶ。
たぶんノーランがオーペンハイマーで描かなかったことは、たぶんマウリポリのホールはおそらく描かれてるはずなんですよね。
おそらくそれって、一種ちょっと思うのは、物語として受け取ることもできるんだけど、
現代においてはたぶんドキュメンタリーがほぼその役割に徹してるというか、もはやそれは手に取るような近くにあるじゃないかっていうところだと思うんですよ。
ゴジラの中で、ゴジラの当時はおそらく映画ってメディアだったはずなので、
その物語の中で真実とその中に入るものっていう生々しい泥臭いものを描くことっていうのが、たぶん一種の王道としてあったと思うんですけど、
現代いろんなメディアがあるので、とにかくそれを、もちろん自分の心が疲れない範囲内で摂取していく。
で、どこまでは良くてどこまでは間違ってるかっていうのは自問自答し続けるしかないのかなとは、なんかすごいありてえなあれなんですけど、
それをたぶん伝えていったり、対話していったりっていうのを本当に地道に続けていくしかないんじゃないかなと僕は結構思ってはいます。
そうですね。いやー険しい道ですよね。
険しい道です。
たぶん特にゴジラが公開された当時は、制作人も観客も戦争体験が生々しかったわけじゃないですか。
だからこそあの描き方で、これが戦争のことを描いている、何なら第二次世界大戦の太平洋戦争のことを描いているってことがわかるわけですよね。
だけど僕らは戦争体験をしていないわけじゃないですか。
であった中で、例えば原爆の恐怖も確かに当時あるいは冷戦時に比べたらすごく遠くにあるし、戦争というものが世界で起こってるけど自分の身近ではないって中で、
それをどうすれば生々しく接し続けられるのかっていうのはちょっと難しいこと、難しいお題なんじゃないかな。
まあでもやり続けるしかないんですけど。
より険しい道になってるんだろうなと思います。
そうですね。やり続けていくしかないかなっていうのは一つあるかなっていうのと、
オッペン・ハイマーっていう作品に関してなんですけど、
オッペン・ハイマーっていう一本の映画が全てを語り尽くせる必要はないとは思うんです。
原爆を落とした側の理屈であるとか、オッペン・ハイマー個人の罪っていうものにフィーチャーした作品でしかないかもしれないですけど、
もちろんそうじゃない側面もある作品ですけど、
そうじゃない作品はオッペン・ハイマー以外の映画がなしてる、
あるいは映画以外の何かが成し遂げてるかもしれないと思うので、
そこを広く見ていくというか、
一本の映画が全てを語り尽くせてないっていう風にならなくてもいいのかなっていう風に僕は思います。
だからこそ僕は前回のオープニングでも話したんですけど、