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はい、始まりました。ポッドキャスト吉野映画坂場第8回ですね。
今回からですね、Twitchでの配信をしながらの収録をやめようかなと思っております。
なんでかというと、人生レベルで忙しくなってきてて、
この映画ポッドキャストとか映画BAR活動にあてるエネルギーの焦点を絞っていこうかなと思ってて、
ライブ配信して収録した後、録音した音声のみ編集するって、ライブ配信を省いたからって時間的な負荷そこまで変わらないんですけど、
10分作業時間に差が出るっていうことで、今日作業できる、できないみたいなのが境界線を越える、越えないになったりするんですよね。
で、その10分の差が結構な差になってくるなと思って、
ちょっとやっていけるものの軸を絞っていこうかなと思って、今回から録音のみしてるって感じですね。
大事っすね、そこそこの歳になってきたんで、人生のソースをどこに当てるかっていうのを絞っていくみたいなのがめっちゃ大事だなと思ってて、
そんな感じで今回から録音のみしていこうかなと思ってます。
ポッドキャストを聞いている人からしたら全然関係ない話ですけどね。
はい、それでは話し入っていきたいなと思います。
前回7回の終わりで、ユリ映画の話をしたいっていうのを言ってたんですよね。
で、今回ユリ映画というか、ユリっていう切り口で話してみようと思ってるんですけども、
ちょうどですね、この前大阪の新世界にある新世界東映っていう映画館に行ってきたんですね。
それが昔の東映の映画とか、東映だけに限らないのかな。
本当に60年代、70年代のフィルムの映画を2本立てで上映してるっていう映画館があって、
本当に昔の映画結構見れるんですよね。
今の時代こういう映画館本当に少ないと思うんですけど、
そこに何を見に行ったかっていうと、
ちょうど先日亡くなられた渡田哲也さんの追悼上映で、
神儀の墓場とヤクザの墓場、口なしの花っていう映画を上映してたんですよ。
この映画ずっと見たいと思ってたけど、機会がなくて見てなかったんですけど、
上映されるってことでめっちゃ見たくて行ったんですよね。
ちょうどそのいわゆる東映実録路線って言われる、
それまでのヤクザ映画と違って人狂とかをおもんじない、
いわゆる現実にあったような殺伐としたヤクザ像を描くっていう、
東映実録路線っていう映画が多く作られたっていう映画の中に含まれてて、
ちょうどその中の一本にあたる県警対組織暴力って映画が、
前回、百合映画に含むみたいな話を僕してたんで、
ちょうどいいなと思って、
東映実録路線の映画を百合司官から見るみたいな話をやってみようかなと思ってます。
はい、えっとなんかちょっとイチビったことしてる感があるかもしれないんですけど、
実際結構これ根拠があるというか、自分なりにかなり筋道立てた考え方で話そうとはしてて、
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結構話せるかなと思いますんで、ちょっと話し入っていきたいなと思います。
はい、でですね、百合とは何ぞやみたいな話に入っていきたいと思うんですけど、
競技の意味では女性、特に女の子同士ですね、
ティーンエイジの女の子同士の、女性同士の関係性の間に生じる、
何でしょうね、ドラマというか、
キビというか、みたいなものを描くのがいわゆる百合ジャンルって呼ばれるものかとは思うんですね。
で、僕が百合っていうものに着目したのって割と最近で、
具体的に言うと、2年前の映画で京都アニメーション制作のリズと青い鳥っていう映画があって、
これが本当に素晴らしかったんですよ。
水素学部の女子高生2人の快活でリードするタイプの女の子と、
ちょっと暗くてリードされるタイプの女の子で、
その水素学部の中で2人とも実力者として周囲には知られてて、
ただ、その快活の方の女の子の方がリーダー的な存在として周囲から見られてるけど、
実はみたいな、ちょっと関係性の移り変わっていく様の間に生じるキビであるとか、
感情みたいなものに注目する映画で、
これが素晴らしくてですね、
なるほど、百合的なものっていいんだなっていうのをその時に思ったんですよ。
ただですね、それとほぼ同時期に僕、兼型体組織暴力っていう映画を見たんですよね。
で、これを見た時に、
うーわーってね、すっごいのを食らったんですよ。
で、それがですね、龍と青い鳥を見た時と感情の波形が似てたんですよね。
あ、なんかこの波の形似てるみたいな、あの、波長似てるみたいなのがあって、
割と同質のものとして見て、
僕その中で兼型体組織暴力が有利だなって思ったんですよ。
で、そこから自分の中の有利の定義がどんどん広がっていったんですよね。
で、それのお話をちょっとしたいなとは思うんですけど、
まずそのジャンルとしての有利の話の定義みたいなものをちょっと拾っておきましょうかね。
一応、Wikipediaから拾ってみると、
有利は女性の同性愛のこと、またそれを題材とした各種作品、
作品の場合、女性同士の恋愛だけでなく恋愛に近い友愛や、
広く友情を含んだ作品にも有利ということが多いと。
1990年代以降の日本の漫画、ライトノベル、アニメ、同人誌のジャンルを指すことが多いが、
戦前の少女小説や一般のレズビアン文学、実写映画も含まれる場合がある。
ガールズラブとも称されると。
まあ、多分多く認識されている定義ってこれに近いものなのかなとは思うんですけど、
ここで植物の方の、
で、ちょっと僕が以前、ジャンルとしての有利っていうものについて考えてた時、
植物の有利そのものについて、何かの流れで調べたことがあったんですよ。
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で、そこで、いわゆるその観葉植物としての有利でしたね、を飾る時に、
おしべを取るらしいんですよ。
で、これ何のために取るかっていうと、
ちょっと僕が調べた限りだといくつか理由があって、
もしかしたらどれかが間違ってるかもしれません。
だとしたらすいません。
僕が調べた時は、まずその有利が受粉すると枯れるのが早くなってしまうので、
枯れるのを遅くするために受粉しないようにおしべを取るっていう風に見たんですね。
別の理由としては、有利の花粉は衣服についたりするとすごく取れにくいと。
なので、もう初めからおしべを取ってしまって、
その花粉がついちゃうの自体を避けるようにしていると。
また、有利のおしべって匂いが強いらしくて、
それを匂いを避ける意味合いでおしべを取るっていうのもあるみたいなんですよね。
ちょっと理由はいくつかあって、調べたサイトごとで一律な回答がなかったんで、
それぞれが同時の理由として存在しているのか、
もしくはどれかがそんなに重要な理由じゃない可能性はあるんですけど。
あと単純に結構有利のおしべってでかいんで、
見た目的にとっていた方が、
その有利の可憐な美しさみたいなのが出せるみたいな意味合いもあるかと思うんですね。
それがさっき言った、いわゆるジャンルとしての有利を表現するのにすっげえぴったりだなって思ったんですよ。
要するに、生殖に対する忌避感と成長の否定みたいなのが、
その有利ジャンルを表現するために選ばれた植物としての有利が持っている、
その有利ジャンルを表現するのに適した属性みたいなものかなと思ったんですよね。
まず、枯れないようにするためにおしべを取るっていうものに関しては、
要するにここで言われていることって、つまり生殖ですよね。
そのおしべとめしべがくっついて受粉することで、
次世代の有利を成すための生殖としての機能の否定だと思うんですよ。
で、これって要はその、老いであるとか死であるとかっていうものを同時に意味していると思うんですよね。
つまりそこで求められているのは、成長の否定、老いの否定、要はこの瞬間を永遠にしたいっていう意味だと思うんですよ。
そのおしべを取る、受粉を避けて、有利の枯れるのを避けるっていう意味合いで預けられている意味は、
成長の否定、老いの否定で、この瞬間を永遠にしたいっていう意味かなと思うんですよね。
で、あとそのおしべの花粉が付くと取れにくいであるとか、匂いが強い、あと見た目が結構強いからおしべを取るっていうのは、
生殖に対する忌避感ですよね。
要は人間的ところの異性間の交渉に対する、ある種のけがれみたいな意識から異性間交渉を排除したもの、
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異性間交渉を排除することのメタファーとしてのおしべを取るってことかなと思ったんですよ。
この2つが有利を語る意味ですごい重要なポイントなんじゃないかなと思ってて、
生殖の否定に伴う成長の否定から連なる永遠性の獲得ですよね。
と、生殖に対するけがれ意識、循環されたものとしての同性間での関係っていうものを、
その有利の花っていうものに預けているのがジャンルとしての有利かなって思ったんですよ。
で、それを知った時にめちゃめちゃ見事な表現だなと思って、
ただちょっとそこにあるのって、要は基本的にはその世の中っていうものがヘテロセクシャル的な異性間での愛っていうものが前提としてあって、
それに対するカウンターとしての同性間の関係性みたいなのもあるかなと思って、
ちょっと同時に不健全かなって思う気持ちもあるんですよね、その有利って。
ただ、実際現実に男性と女性の間ってジェンダーギャップもあるし、
そもそも生物学的な差っていうものあるわけなんですよね。
で、僕たちはもうこれまであるいは人類史が培ってきた男性と女性の間にある差っていうものを、
どうしてもその男と女が並んだ時に意識して見てしまうと思うんですよ。
そこにある差異であるとか、スタート地点のずれとか不均衡っていうものをどうしても物語的な意味を読み取ろうとしすぎちゃうと思うんですよね。
そうなった時に、そこをクリアするために同性で始めれば、そこの不均衡から生まれる物語を気にしなくて済むっていうものが、
同性間の関係性の物語を描く時の要因としてあるかなと思うんですね。
本当はそうじゃない方がいいと思うんですよ。
男性と女性の違いなんてないよねって言い切れたらいいと思うんですけど、
実際その生物学的な差は置いといて、僕たちはずっと男と女の違いっていうものを歴史の中に積み重ねてしまってると。
それを今後なくしていくのは、映画を作る、映画というか物語を作る人間の使命だと思うし、
作る人間だけじゃなくて消費する人間の使命でもあると思うんですよ。
培ってしまった歴史に対する僕たちが背負っている使命っていうのは。
それはそれとして、男と女、現状違ってそこに意味を僕たちは見出しちゃうんだから、それをクリアするために同性の関係性を描くと。
そうなった時に同性間、同じスタート地点から始まる物語の中で生まれる際から生まれる関係性、
感情みたいなのがいいよねっていうのがユリのポイントなのかなっていうのが僕の考え方なんですよね。
だいぶ入り組んだことを言ったし、結構不健全なことを言ってる可能性があるし、不健全な自覚も割とあるんですけど、
ただやっぱりそこに何かは生まれてるなと思うんですよね。
どうしようこれ、ポッドキャスト配信したって大丈夫かな。
はい、で、そこでですよ。
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そこでユリの花が持ってる異性間の関係性の否定っていう意味ですよね。
で、そこでオシベテを取り除くっていうことが別に男性の排除からなる女性のみの関係性に限らないと思ったんですよね。
要は異性の排除っていうことは、男性のみで女性の排除っていう考え方もできると思うんですよ。
で、そうなったら普通に男同士をユリって捉えること可能だなと思って。
ジャンルとしてのユリからの定義じゃなくて、ユリの花が持ってた特性から来たユリ的な意味合いから見たら、
それでいけると思うんですよ。
異性的なものの排除から来たユリの定義だと、男同士でもユリって言っていいかなと思ったんですよね。
強引かな。
結構アクロバティックな論理展開してるかもしれないけど、筋は通ってるかなと思って。
で、そこでですね、投影実力路線の話に戻りたいと思うんですけど、
結構ね、ヤクザ映画って男性同士のロマンスみたいなのあるんですよね。
想像つくかなと思うんですけど。
ジョン・ウェーガーとかだってそうじゃないですか。
ジョン・ウェーガー見たことないけど、イメージで言っちゃってごめんなさい。
その暴力の世界に生きている男同士の強持であるとか、誇りであるとか、魂ですよね。
そこでその何かを共有している男同士は、異性間での繋がりよりも強いかもしれないっていうのが、
結構ヤクザ映画に限らず、暴力的な世界を描いた映画の男同士の物語っていう中には生じるものかなと思うんですよね。
ここでちょっと反論的に生じると思うのが、
いやいやヤクザ映画って女いっぱい出てくるじゃねえかと。
絶対的にそのセックスっていうものがテーマになってくるし、
そのヤクザが囲っている女であるとかっていう、出てくるっていう側面はあるかと思うんですね。
ただ結構ね、そのヤクザで映画に出てくる女性って、
扱いとして男同士の関係性をより濃厚にするためのツールだったりはするんですよね。
例えばヤクザが囲っている丈夫を仲良くなろうとしている別のヤクザに抱かせることで、
俺たちは兄弟だぜって。
嫌な、嫌な意味ですけどね、この兄弟って言い方。
兄弟だぜって。
要はその、杯を交わして偽兄弟になるかのように、同じ女を抱いて兄弟になるみたいなのが結構あったりはするんですよね。
で、例えばそれってキャバクラで男同士で飲みに行って、
別のホテスの女の人を連れて飲んでっていう、する中で、
実際にそこで目的としているのは、キャバクラに行って女を隣でシャクさせたって話をしたっていう体験の共有、男同士の。
それが目的だったりっていうのはするわけですよ。
ヤクザ映画で酒飲んでるシーンとかって、めちゃめちゃそれあるなっていうのがよくわかるとは思うんですよね、見てたら。
基本的に男同士の関係をつなぐためのツールとして女性があるとっていう。
これは実際めちゃめちゃ不健全なことを言ってるんですけど、
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ただその不健全さを置いといて、男同士の関係性、揺り的な関係性みたいなのはちょっと見えてくるんですよね。
で、ちょっと具体的な作品をあげたいんですけど、まず県警対組織暴力ですよね。
これがね、本当に揺りの究極系だなと思ってます。
ビズと青い鳥に並ぶ揺りの究極系ってどんな話かっていうと、
ヤクザと癒着してた刑事がだんだん新しく入ってきた暴力団を抑え込もうとする警察の上司によって、
その仲を裂かれていって、それぞれが破滅していくって話なんですね。
で、もともと警察側が菅原文太で、ヤクザ側が松片博之なんですよね。
この関係性がいいの、本当に。
もう通過?通過というか、ウェーイって感じの中で持ちつつ、持たれつつ、みたいな関係なんですよ。
で、あんたが言うなら俺はやるぜ、みたいなのを互いに思い合ってると。
で、実際それは暴力団と警察の癒着であって、法的には正しくないし、倫理的にも絶対正しくないものなんですけど、
その2人の間にあるもの、やっぱりね、美しいものもあるわけなんですよね。
で、それが警察の上司によって仲が裂かれていくと。
うわ、あんたが言ったからやったのに、うまくいかなかったじゃねえか、みたいなのがどんどん積み重なっていって、最後破滅していくわけなんですよね。
これがね、美しくって。
もともと菅原文太が松片博之のヤクザに、なんでその絆が強く結ばれていくかっていうと、
ちょっと経緯あんまり覚えてないんですけど、
その菅原文太の部屋に松片博之を囲うことになるんですよね。
で、その時にお茶漬けを食べさせてあげるんですよ、松片博之に。
で、それに、いわゆる一食一般の恩義ですよね、仁教における。
それをすごく松片博之を恩義に思って、そのお茶漬けをうまそうに食べるわけなんですよ。
これがね、いいシーンなんですよね。
なんか、この二人だけはこの世界で繋がっているっていう感じがするわけですよ。
で、その後、松片博之がそのお茶漬けを食べた後、その茶碗を洗い場で洗うんですよね。
これがね、宇宙一美しい茶碗を洗うシーンだと思うんですけど、
そのシーン、その松片博之を見て、菅原文太は男に惚れるわけなんですよね。
これはね、この献金対組織暴力の博義のシーンだなと思うんですけど、
お互いが、お互いに惚れ合って、お互いを預け合ったのに、もっと大きな力に引き下がれていくと。
で、どうしようもなくそうするしかなかったっていうのもお互いにわかってるけど、
ただ俺は、俺としてそれを許すことはできないって言って、もう互いが終わっていくんですよね。
美しいんですよ。健全で美しいんですよね。大輩の美だなと思って。
僕はこれを見ながらね、リズとアオイドルだなと思って見てたんですよね。
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で、ここにあるのは完全に性、肉体的性もそうだし、ジェンダーも同じくする人間同士がその中で生まれた関係性なわけなんですよ。
これが異性だとやっぱりね、こうはならないとは思うんですよね。
それがこう見えてしまうこと自体があまり良いことではないのかもしれないけれども、
やっぱり様々な多くある条件の中で性別っていう部分を脅威しているからこそ生まれるエモさでもあるわけなんですよね、これは。
特にヤクザの世界で男と女なんて根本的に描けないわけですよね、こういうふうには。
男は囲う方だし女は囲われる方っていう構造が根本的にその題材としてあって、
それはやっぱり男と女では描けないものだったりはするとは思うんですよ。
だからこそ余裕なんですよね。
献金対組織暴力になってくる女の人っていうのは本当に単にそれぞれの男が見とっての性欲の履け口でしかなかったり、
囲ってる女の人を相手に抱かせて関係性を持つための媒介でしかなかったりはするんですよね。
そこはね、絶対正しくはないんですよ。
正しくはないけど、やっぱり男と男の関係性のエモはあるんですよね。
間違っても女の人をそういう扱いすることが正しいなんて未人も思ってないし、そういうことを言うつもりはないんですよね。
ただ逆にヤクザイが題材するときに異性をそういうふうに扱ってるシーンを入れないのこそ嘘になっちゃうので、
やっぱりそういうふうには入れざるを得ないんですよ。
あと要はヤクザ社会っていうのは男性史上主義の究極みたいな場所の中で、
ヘテロセクシャルっていうのはある種の資格みたいなものですよね。
マッチョイズムの世界に入るためのパスポートみたいなものかなと思って、異性愛っていうのはね。
絶対的に必要だと思うんですよ。
これで女性が出てこなかったら、ホモソーシャルではなくてホモセクシャルの話に見えちゃうと思うんですよ。
だからその物語自体がホモセクシャルではなくてホモソーシャルであるということを描くための目配せでもあるわけですよね、女性の存在が。
だから根本的にヤクザ映画が持っている不健全さっていうものはあるけれども、そこにある男同士の絵もあるよねっていう話にはなっているというのが献血対組織暴力かなと思います。
ここでちょっと挙げた男と女では、ヤクザ映画の中では関係性の絵も描けないみたいな話をしたんですけど、
もちろん男と女の愛情っていうものの感動みたいなのはもちろん描けるんですけど、
対等なものとして男と女を描いたっていうのが、北陸代理戦争っていう映画がそうかなと思ってて、
結構ね、これは松片寛なんですけど、ヤクザの男とヤクザの女だった女性、
この2人はちょっと思い合ってた過去もあるけれども、今はもうお互いのちょっと別の立場として利用し合うみたいな感じの話ではあるんですよね。
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ここにあるのは異性愛の持ちに来たお互いを担当な関係として、
互いに別の意外関係の中にいる存在で必要によっては対立するけれども、お互いを敬意を持って見合っているっていう、
割とその有利的な関係性を持っている男女が描かれている映画ではあったんですよね、北陸代理戦争は。
結構ね、味わい深い映画で好きだったんですよね、北陸代理戦争。
あとね、結構強烈な暴力シーンがあって、人間を砂浜に埋めてその横をバギーで失踪するっていう拷問シーンがあるんですよ。
これ結構めちゃめちゃ見事に描いてるんですよね。
人間の首の横をバギーの隊員が失踪して引くってすごい拷問シーンなんですよ。
これ見る価値ありますね。話ちょっと戻します。
で、別の映画で言うとね、仁義なき戦いですね。
仁義なき戦いはゆりの宝庫ですよ。
もちろん東映実録路線の代表中の代表の映画で、
上の立場にいる人間が下にいる立場の人間を搾取するっていう構造の暴力が徹底的に描かれる映画ではあるんですけど、
その中で対等に立てる人間、対等の男同士の完結性みたいなのはね、やっぱりちょっとエモがある話ではあるんですよ。
で、例えばちょっと長いシリーズだし、結構見たの前なんで、俺覚えの部分はあるんで、
本当に覚えてる部分だけ話させてもらうと、
第一作目の仁義なき戦いの中で、
菅原文太が演じるヒロノの役だと、それと兄弟分になる梅宮辰夫の役だが、
刑務所の中で酒漬けを交わすっていうシーンがあるんですけどね。
ここでね、酒がないからって言って、
お互いの腕に傷を入れて血を出して、お互いの腕の傷を加え合って血を口に含み合うんですよ。
ヤバくないですか?想像できます?
お互いの腕から血を吸い合うっていう絵になってて、
ちょっとこれはね、ゆりというかもはやエロの世界に入っちゃってるんですけど、
めちゃめちゃエロいんですよ、このシーン。
あのね、多分僕、今まで見た映画の中で一番エロいシーンだと思ってるんですけど、僕は。
見てて、「えぇ!?」って悲鳴出ちゃって。
すごいっすよ。
男と男の関係性っていうものを、ここまでのここに描いたシーンって、僕そんな記憶にないっすね。
マジでヤバいっすよ。悲鳴出ますよ、本当に。
酒漬けを交わすっていうこと自体が、
同じ液体を体内に流すっていう血縁関係になるっていうことを儀式的に行うっていう行為ですよね。
それを実際にやると、実際の血を含み合うから、俺たちはもう兄弟だっていうね。
ちょっとゆりとは違うかな。
実際に体液交換しちゃってるからなぁ。
どっちかというと本当にセクシャルな意味合いを帯びちゃってるシーンかもしれないですね。
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ちょっとさっきのゆりの、いわゆるジャンルゆりの定義というか、広く知られてる抗議の意味で言うと、
ゆりって言葉にエロの部分も含む側面はあるんですけど、
僕どっちかというとその精神的なやり取りみたいなところが重要かなと思ってて、
その意味では間接的なエロではあるけど、直接的には精神的な交換ですよね、そのシーンも。
めちゃめちゃ好きなシーンなんですよね。
あと、仁義なき戦いのシリーズで言うと、
結構ね、仁義なき戦いシリーズに限らず、
こういう実力路線って似たようなシーンいっぱいあるし、
同じ役者さんが別の名義で出来たりするから、
正直どのシーンがどの映画だったかも結構記憶微妙なんですけどね。
これだけは確かなシーンで、
仁義なき戦いの5部作、
仁義なき戦いの5部作の5作目にあたる完結編ですね。
で、完結編の話は何かっていうと、
暴力団同士の抗争っていうものがどんどん続いて、
新社会からどんどん暴力団に対する締め付けがきつくなっていくと。
警察からの圧力もどんどん強くなって、
いわゆる暴力団の看板を上げたヤクザっていう形を取れなくなって、
政治結社っていう形にどんどん形態を変えて生き残っていこうとするわけですよね。
そうなると、どんどんいわゆる人狂的な世界のヤクザっていうものはどんどん消えていって、
市民社会に飲み込まれていくって言ったら聞こえはいいんですけど、
要はどんどん表面上形を変えて、
目に見えない暴力になっていくわけですよね、その政治結社って形をとって。
ある意味どんどん悪質になっていって、
表面上取り繕うのはうまくなっていくわけですよ。
その中で菅羽文太と武田っていう小林明が演じるヤクザの子がいて、
この二人は結構違う立場で、タイミングによっては敵対したりするんですけど、
この二人にとっては、ヤクザがどんぱちを酵素をバリバリに張り付けた時代っていうのは青春時代なわけなんですよね。
その二人にとってヤクザっていうものが市民社会に飲み込まれて、
どんどん形を失くっていくっていうのは青春時代の終わりでもあるわけなんですよ。
そこで俺たち終わっちまったなみたいな視線をかわすシーンがあるんですけど、
そこがね、なんか味わい深いんですよ。
この二人は何なら命の奪い合いをするような立場でもあったんですけど、
それでも同じルールを共有して、同じ価値観を共にしている数少ない人間なわけですよね。
そこで本当は、もう次の時代なんか来てほしくないっていう思いがそこにあるわけなんですよ。
終わっていってしまう時代に対して、この瞬間を永遠にしたいっていう思いが、過去をもっと残しておきたいっていう思いがあるんですよね。
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それでも次の時代は来てしまうわけなんですよ。
ここはね、めちゃめちゃ有利ですね。いいです。
変に厚すぎない分、哀愁があってすごいいいんですよね、ここは。
人に泣き戦い完結編ぐらいになると、もはやどこからどこまでがどういう話だったかみたいなのがよくわかんなくなってるんですよね。
正直、5部作あって、人に泣き戦い、人に泣き戦い、広島首都編、人に泣き戦い大理戦争、人に泣き戦い頂上決戦、人に泣き戦い完結編ってあって、
正直大理戦争あたりからは、もう似たような話がずっとつくというか、あんまり見分けつかないんですよ。
少なくとも僕はあんまり見分けつかなくなってて、誰が誰の味方だったかっていうのはどんどん移り変わっていくんで、
ただずるいやつはずっと生き残って、若者はどんどん死んでいって、騙し騙されるだけは続いていくと。
で、その中で菅原文太と小林明は比較的その世界のルールに対して自覚的に誠実な人間なんですよね。
そこに純粋さというか汚れを受け入れたくないというか、けがりに対する意識みたいなのがあるんですよね。
暴力的な世界であれば、その暴力的な世界なりの誠実さみたいなのはあるだろう、みたいな理屈を持っている二人なんですよ。
小林明演じる武田の方が比較的上手で狡猾な人間ではあるんですけど、
ただそれでも菅原文太演じている広野の昔課題の不器用なヤクザに憧れている部分は多少ある。
あーはなりたくないと思いつつ、憧れている側面は多少あるっていう関係性がいいんですよね。
互いに煽謀と憐憫の感情があるって感じがするんですよね。
で、他のヤクザは金子信夫が演じる山盛っていう地味な戦いシリーズ最強の悪役がいるんですけど、
ひたすらせこくてずるくて自分が山本に足らないどうしようもない非金な悪っていうのがいて、
こいつは本当にその有利的なものの正反対にいるんですよ。
積極的に異性愛を喰らっていく存在であり、穢れっていうものをどんどん吸い取っていく存在なんですよね。
で、もうそのこの瞬間に留まりたいみたいな意識はそんなになくて、
ただ自分が金と女とっていうものをどんどん飲み込んで肥大化していきたい。
で、自分が暴力団なりの政治家みたいなのも大事とかっていうのは全く思ってないんですよね。
ひたすら保身、ひたすら暴力、ひたすら狡猾にってみたいな感じのやつで、
他にもそういう人間たちは周りにいるんですけど、その中の究極系として山盛っていうやつがいると。
要はその有利的なもののアンチテーゼなわけですよ。
有利っていうものは要は異性愛に対する欲望みたいなのっていうのはあんまり前に出しちゃいけないものだったりはするわけですよね。
さっき言った有利の花を飾る時にはおしべを取り除くように、異性の存在っていうものはあくまでツールとして存在している、
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ある種の目配として存在しているっていうのが有利的な世界観かなと思うんですけど、
それに対するアンチテーゼですよ。徹底的に女、女、女っていうのが山盛なわけですよ。
多分その有利の花のおしべの匂いとかちょっとえぐい形とか、むしろ好きなんじゃないかなっていう。
それはそれで、ある種マットなのかもしれないですけどね。
で、今が地味な戦いシリーズの中で僕が有利的に見てた2カ所ですね。
多分結構いろいろあったけど忘れちゃってる部分もあるんで。
見た中だと、今回新世界東映で見た人魚の墓場ですね。
渡辺哲也が演じる、名前、役名は出ないんですけど、実在のヤクザの人を題材にした映画なんですけど、
これが徹底的に破滅的なやつで、東映実録路線って基本的に、
いわゆる人狂とか人魅みたいなものをもんじる昔勝手気のヤクザじゃなくて、
全員が全員自分の欲望に乗ってあって動く殺伐と世界だよ、実際のヤクザっていうのが基本的に描かれてるんですけど、
人魅の墓場に出てくる主役の男は、暴力みたいなのもあんま使えないんですよ。
ひたすら目の前のことしかやらないんですよね。
目の前のムカつくやつを殴ってとか、目の前の覚醒剤をやってとか、目の前の女を抱いてとかっていうことしかやらなくて、
暴力みたいなのの当事者にはならないんですよね。
その人魅なき戦いの菅原文太みたいな、昔肩着の人狂とか人魅の雰囲気もなくて、
もうどっちでもないんですよね。ひたすら破滅的なんですよ。
お前はどこへ向かってるんだよ、みたいな感じがするんですけど、
こういうとこね、結構アメリカニューシーマンみたいな気配があって、
いわゆる昔のハリウッドのゴゴンチの、いわゆるザ・エンタメ映画じゃなくて、
主人公が悪人であったりとか、暴力を描いたりとか、セックスを描いたりとか、
目的のない無機動なストーリーであったりとか、撮影が荒々しかったりとかっていう感じの、
アメリカニューシーマンって呼ばれる映画群に結構雰囲気が似てるんですよね、そのひたすら破滅的なところが。
ただね、この破滅的な男で、この男にすごいよくしてくれる梅宮達を演じるヤクザがいるんですけど、
こいつがお説教言ってくるんですよ、お前ちゃんとしろみたいな感じで。
渡田達が演じる主役の男に対して、拡大の場合ばっかやってんじゃねーよみたいな感じで、
怒ったりするんですよ、叱ったりするんですよ。
そこでいろいろお説教を言ってくるからって、もろもろの流れで梅宮達を殺しちゃうんですよね。
ほんとね、自分を説教してくれる人間を殺すっていうね、ガキかって感じなんですよ。
そこがこの映画の良さなんですけど、ただこの男がですね、最後の最後、覚醒台で体ボロボロで、
どの組にも居場所がなくて、ただ命が擦り切れていくだけみたいなのがあった時に、石台屋に行って墓を掘ってもらうんですよね、破壊しよう。
33:07
で、その直前に自分の奥さんが死んでたりするんですよ。
奥さんって言っちゃった。ヤクザ映画なんで奥さんって言って全然正しいか。
奥さんが死んじゃうんですよね。
これも主役の男が覚醒台ばっかやってもどうしようもないから、絶望しちゃって自殺するんですよ。
で、その姿を見とって葬式をあげて、骨粒を持ち歩いてるみたいな感じになってるんですけど、
ただ、骨粒は持ち歩いてるけど、墓に掘るのは梅宮達夫が演じたヤクザの名前なんですよ。
それと、自分の名前を破壊しに掘るんですよ。
びっくりして、奥さんじゃないんだと思って。
普通そこって奥さんの名前掘るでしょ、どう考えても。
で、自分の名前とその自分を叱ってよく知ってくれた男と、
で、もう一個の面に神儀っておってるんですよ。
神儀の墓場なんですよね。神儀を墓に弔ってるんですよ。
なんか、やばくってそれ見た時。
いや、何を考えてるか本当わからなくて、
もうめちゃめちゃ無機動で感情移入みたいなのする余地のない、
ひたすら破滅的な男なのに、
なんか、その辺り自覚してたってことがわかるんですよね。
自分をよく知ってくれて自分を叱ってたヤクザの名前を自分の墓に一緒に掘って、
しかもその墓石の別の側面には神儀っておるって。
自覚的だったってことですよね。
しかも自分が殺した男と同じ墓に入る。
実際には相手の男は絶対にそいつ殺されてるから、
別のお骨は他のとこにもちろん入ってるはずなんですけど、
その男としては同じ墓に入るって意思があったってことなんですよね。
理解できるようなできないような、結構言語化し難い感情ですよね。
有理的でもないかもしれないですけど、
ちょっとめちゃめちゃすごい感情だなと思って。
神儀の墓場ね、すごいっすよマジで。ぶっ飛んでますね。
今回新世界東映で見たもう一本の映画、
ヤクザの墓場口なしの花って。
この映画が何かっていうと、大阪が舞台で、
これも話題ですが警察で、相手が上宮達を演じる大阪のヤクザなんですよ。
それに対して外部からより大きい暴力団が入ってきて、
もともと大阪にいた比較的力の弱い、
賭博とか敵屋とかっていうのを生業にしているヤクザが、
より巨大な暴力団、しかも警察と癒着している暴力団に潰されていくっていう話なんですよ。
この辺りは県警対組織暴力に結構構造は似てるんですけど、
県警対組織暴力と違って、ちょっと一視無垢いるんですよね。
県警対組織暴力はひたすら2人の男が仲が引き裂かれて擦り潰されていく話なんですけど、
ヤクザの墓場口なしの花は、どんどん居場所を奪われていく警察の男とヤクザの男が、
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それに対して凶充の一発を加えるっていう話なんですよね。
ここは、県警対組織暴力に対するちょっと意思廃止というか、
ちょっと別の側面って言ったらいいかな。
あっちはスッキリしなかったけど、こっちはちょっとだけスッキリしますみたいな側面もあって、
なんか良かったですね。面白かったですね。
で、ここでも渡井哲也の刑事と、
沼屋達夫のヤクザとが、
はじめはまあ互いに憎々しく思ってるんですよね。
渡井哲也が、そのヤクザの関係者の中にいる女の人、
どっかの組長の女ですよね。姉さんって言ったらいいのかな。
の、その梶芽子さんが演じてる女の人に接触していくんですよね。
渡井哲也の刑事が。
もう役名とか出ないな。もう役者名でしか言えないや。
梶芽子に渡井哲也が接触していって、
それに対して、梶芽子の旦那のヤクザは今刑務所に入っているから、
不斬りだって言って、ブーブー言っていくわけなんですよ。
ただ、どっかのタイミングで渡井哲也と梅宮達夫が喧嘩になるんですよ。
もうボッコボコの喧嘩になって。
で、そこでよくあるやつですよね。
殴り合って理解し合ったってやつですよね。
お前やるじゃんみたいなのが、なるんですよね。
で、そこで喧嘩を通じてお互い認め合うことで、
渡井哲也と梶芽子の関係を梅宮達夫が受け入れていくって話になってるんですけどね。
典型的っすよね。
ぶつかり合うことで分かり合っていく男と男っていう、
もう百合の完璧な典型だと思うんですけど。
でね、ここにまた出てくるんですよ。
女の人を買って、
俺たち同じ代金給与したから兄弟だぜみたいなシーンが出てきて、
ほんとこの辺は女性差別的だなと思うんですけど、
まあヤクザの世界ですからね。
そもそも差別同好異性の大問題があるわけなんで。
そういう不懸念さを踏まえた上で、
まあそういう酒であるとか、女ってものを通じて繋がっていく男同士っていうものが描かれていると。
なんか割と理理的にはスタンダードなものが描かれている映画でしたね。
ヤクザの赤羽口なしのは。
まあこんな感じで、こんな感じ?こんな感じなのか?
ん?
まああの、結構ね濃厚なホモソーシャル、
ヤクザの世界っていうホモソーシャルの究極形みたいな場所ですよね。
そこからこそなんか出てくる有理的な関係みたいなのがあるわけなんですよね。
そこがね、結構東映実力路線の好きなとこではありますね。
本当に淫算で無残な世界の話だからこそ、
一瞬だけ見えた男と女の関係がいいみたいなのはある話ではありますよね。
有理的な話の延長で有理映画の話でいくと、
例えばですね、最近の映画で言うと、
T-34のレジェンド・オブ・ウォーっていうロシアの映画がありましたよね、戦車映画。
あれに出てくる主人公のロシア兵の戦車長をやるイブシキンっていう男と、
敵のナチスのイエーガー大佐っていうのが、これがめっちゃ有理なんですよ。
これはね、いわゆるこっち側はあんまり見とめてないけど、
39:02
相手方はめっちゃこっちに執着してきてる有理なんですよね。
そのロシアの戦車兵として戦って、
イブシキンと敵方のイエーガー大佐が戦車戦で戦って、
イブシキンはナチス側に捕らえられるけれども、
ナチス側の戦車訓練のために当て馬として使われるっていう展開の映画なんですけど、
ここでイエーガー大佐はイブシキンを見つけてめっちゃ有理そうなわけなんですよね。
かつて俺と戦って俺に一泡吹かせた男がここにいると、
その男を俺は使うことができるっていうのがめちゃめちゃ嬉しそうなんですよ。
このね、やばいですよ本当に。
T-34、レジェンドウォーはね、
俺が認めた男を俺が思うがままにできるぜ、やったーっていうので、
しかも相手は、相手からしたら単に敵で何か絡んでくる敵なんですよね。
そこでね、全然届かない感情をバンバンイエーガー大佐がイブシキンに送っていくんですよね。
このね、イブシキンの連れますがやばいっすよ。
あんま説明しにくいんですけど、伝わるかなこの、
一度戦って俺はお前のことを認めてるけど、
相手は全然俺のことを認めてないみたいな不均衡が生み出す感情みたいなのがね、めちゃめちゃいいんですよね。
めちゃめちゃイエーガー大佐意地らしいんですよ。
ここでね、イブシキンがね、悪い男でね、
ちょっとフシフシからイエーガー大佐が自分に対して執着心っていうものを持ってるっていうのを理解してて、
それを戦闘の駆け引きに使うんですよね。
一騎打ちしようぜみたいな。
あの頃と同じように、かつて俺がナチスに捕らえられる前、
お前に泥をつけたあの日のように、
あの日の決着を今日つけようぜみたいな感じの交渉をしてきて、
イエーガー大佐からしたら、乗っちゃうんですよね、その口車に。
でも、ここはね、もう惚れた弱みなんですよね。
惚れた以上はもう乗るしかないんですよ。
負けちゃうっていうね、悲しいですね。
ただね、悲しいけどいいんですよね、ここ。
こっちは何も思ってないけど、相手だけめちゃめちゃ巨大な感情をぶつけてきてるみたいな、
その、揺りの不均衡、不均衡が生み出す揺りみたいなのもあって、
ちょっとある意味、アーノイドシャルトネッカーのコマンドにもちょっとあったりするんですよね。
敵のベネットっていうのが、アーノイドシャルトネッカーを演じるメイトリックスに対して、
敵のベネットっていうのが、かつてグリーンベレーで同僚で、
メイトリックスの方が絶対強かったんですよね、シュワルドネッカーだし。
で、それを目の上にタンク軍に思ってたと。
で、なんか南米のよくわかんない国の偉い奴に雇われて、
メイトリックスを殺すのにいい気が入ったみたいになって、張り切ってるんですよ。
で、メイトリックスを俺が殺してやるみたいになってるけど、
メイトリックス側もほんと何も思ってなくて、
もう感情を持たない殺人マシーンみたいなやつなんで、
どうでもいいやみたいな感じでどんどん殺してくるんですけど。
42:02
ただ、その中で最終決戦として、
ベネットが一方的に銃を構えてる状態で、
メイトリックスを追い詰めてるんですけど、
めっちゃ有名なセリフですけど、
銃なんか捨ててかかってこいって言って、
メイトリックスが言ってくるんですよ。
ベネットはその口車に乗って、
銃を捨ててナイフで戦っちゃうんですよね。
で、これはT-34、レジェンド・オブ・ウォーにも通じるロジックだと思うんですけど、
あのね、もう惚れた以上は、
もう相手の口車には乗るしかないっていうね、
あるんですよね、やっぱそういうのが。
あのコマンドは結構、
システマティックにシュワルツネが無双を祝えていく話なので、
ちょっとエモーはあんまりないんですけど、
構造としてはちょっと読み取れるよねみたいな話にはなってて、
ちょっと面白いですね。
しかもまあ、メイトリックスは本当にベネットのこと、
本当にどうでもいいと思うしか思ってないので、
道端に落ちてるゴミくず程度にしか思ってないので、
ちょっと感情のやりたいみたいなエモーはないんですけど、
まあ構造的には頑張ったり読み取れるって感じですかね。
うん。
もっとね、結構いろいろいい男同士の言い方っていっぱいあると思うんですけど、
ちょっと今パッと頭に浮かばなくって、
うん、その辺りは好きですね。
あとまあその競技のユリの話、ユリ映画の話、
まあその競技のっていうのは女の子同士のユリの話ですね。
好きなのの話とくと、
さっき言った本当に水田青い鳥はもう至高ですね。
至高のユリ映画ですね。
ちょっとまあね、あのすごい表現とかが豊かで、
まあアニメなんですけど、
ちょっとしたその手足の動きとかで感情を表現するっていうのは、
すごい豊かな話なので、
ユリっていう大雑把なアミメの言葉で括って、
その豊かな情報量を削り取ってしまうのは、
あんまり好ましくないかもしれないんですけど、
ジャンルとしてはユリっていう風に言っていいと思うんですけど、
本当に水田青い鳥は素晴らしいですね。
非類するものがあんまりないかなって思うぐらいのいい話と。
最近見た中で言う、
カサネっていう漫画原作の映画、
土屋太夫さんと法根京子さんが実写映画で、
これもすごいよくて、
まあどんな話かっていうと、
見にくいとされてる女の子、
演技が上手いけど見にくいとされてる女の子カサネと、
美しいとされてるけど演技が上手じゃないって言ったらいいのかな、
っていう女優の女の子がいて、
それに対してキスしたら顔が入れ替わるんだっけ?
人格が入れ替わるんだっけ?
顔か。
顔が入れ替わる口紅があって、
それを使ってキスをすることで、
人格、顔が入れ替わることで、
カサネが顔が美しい状態で優れた演技を見せることで、
のし上がっていくことから生まれてくる、
いざこざみたいな話があるんですけど、
これすごいいい映画だって、
基本的にこのカサネと相手の女の子って、
お互い憎く思ってるんですよね。
カサネは演技下手なクソなくせに、
顔だけで売れてる女がと思ってるし、
相手の方からしたら、
見にくいくせに演技だけは上手くってムカつくから、
その演技の才能だけ奪ってやるって思ってる関係みたいなので、
45:03
正直お互いに好意なんて全然ないんですよ。
ただ執着心はあるんですよね、互いに対して。
それは傷つけたいであったり、破滅させたいであったり、
マイナスの感情かもしれないですけれども、
やっぱりそこにはお互いに対する執着心、
と同時に称賛の感情もあるんですね。
相手はここは優れていると。
やっぱりカサネからしたら、
相手の顔は本当に美しいと思ってるからこそ憎いと思ってるし、
相手からしたらカサネの演技は本当に素晴らしいと思ってるから、
その余計腹が立つみたいなのがあるわけなので、
これは要はカサネからすれば相手の容姿に、
相手からすればカサネの演技力に依存する、
相互依存の関係が生まれるわけなんですよね。
そこに生まれている感情であるとか、
関係性っていうのがすごい味わい深くて、
ほとんどが憎悪であるとか、嫉妬であるとか、
戦暴であるとか、嫌悪の感情をお互いに持っているけれども、
そこには表面上は現れない、
少数点以外の何かプラスの感情みたいなのが存在が
利用されることですごい味わい深いユリ的なものになってたなと思って。
ユリってお互いに恋を持っている必要はないなと思うんですよね。
例えばそれが悪意であったりとか敵意であったりとか憎悪であったとしても、
執着心とある種の相互依存であるとかっていうのがあれば、
そこにはもうユリ的なエモは生まれるなっていうのが、
僕のユリ感なんですよね。
重ねはすごい良かったですね。
大根京子さんと土屋太夫さんなんで、
どっちも美人だろうがとは思うんですけど、
そこはフィクションなので、嘘なので。
ある程度議学されたというか、
象徴化されたものとして描いている話として
見ていたらいいのかなというふうに思いました。
20年くらい前の映画なんですけど、
ブルーっていう実写の映画で、
あんまり知名度ない映画だから、
ちょっとあらすじ読んどいた方がいいかもしれないですね。
高校の3年に進級し、
主役がそれぞれの信念について考え始めた頃、
桐島茅子は一つ年上のクラスメイト、
遠藤雅美のことが気になっていた。
去年何かの理由で低学し、
茅子と同期生になった雅美は大人っぽく物静かな女の子。
茅子はそんな彼女に惹かれていく。
そして思い切って雅美を昼食に誘う。
これをきっかけに二人は親しくなった。
ある時、茅子は合コンで知り合った少年と、
そのままホテルで関係を持ったところが、
その少年が親友の憧れの人だったことから、
親友に激しくなじられ落ち込む茅子。
そんな茅子を雅美は海に誘ってくれた。
っていう物語で、
役者さんが市川美加子さんと、
小西真奈美さんですね。
お二人がかなり若い時に出演されている映画で、
まずね、この二人が若い時の、
この時何歳くらいかな?
たぶん高校生そのものの年じゃないんですよね。
たぶん二十歳を入ってたかもしれないな。
ごめんなさい、ちょっと正確な年齢パッと分からないんですけど、
48:02
この二人を小白として切り取ってるっていうのが、
まずめっちゃ良くて、
要はまあちょっと、
もともとある高校のコミュニティから
疎外されているというより、
浮いてしまってる二人。
その茅美は一年留年してるってことなので、
その意味合いで浮いちゃってるっていうのもあったりとか、
茅子は喧嘩の中で浮いちゃってっていうので、
孤立ほどでもなかったかな。
ちょっとはみ出しちゃって、
その中で二人が繋がっていくっていうのなんですけど、
結構これ、リズと青い鳥に似てる構造がある話かもしれないです。
リズと青い鳥においては、
水素学の実力っていうものが、
お互いの歩みの差として使われてたんですけども、
こっちのブルーに関しては、
性に関する体験っていうものが、
歩みの差にはなったりするんですよね。
あともう一つは絵かな。
芸術と、セックスと芸術が、
二人の歩みの差にはなっていくんですよね。
ちょっとゴリゴリのネタバレしていきますけど、
さっきあらすじで言った通り、
かやこはちょっと自暴自棄的に、
合コンに染み合った男の子とセックスしちゃうと。
それとは別に、
まさみは年上の男と流伝してたっていうのが、
経緯としてあるんですね、その流年の。
そこで生まれた関係っていうのは、
まさみの大人っぽさっていうのは、
そういうセックスに根差した大人びた雰囲気っていうのが、
どうしても存在してしまってて、
それに対してかやこが惹かれていくっていうのが、
あるわけなんですよね。
かやこはズバリ、
同性愛に対する関心がある女の子として描かれて、
まさみに惹かれていくわけなんですけど、
つまりかやこが合コンで、
男の子と関係を持ってしまうことであるとか、
まさみが忠実することになる関係を持った相手の男っていうものは、
さっき言ってた優秀的な関係における、
メクバス的に配置されてる男性といってもいいかもしれないですね。
女の子としての関係性を描くために、
必然的に、
描かずを得ない男の存在として使われていると。
この物語においては、
かやことまさみの関係性のある種の純粋さ、
複雑で、
お互いにお互いのことを相手の方が優れてるって思ってたりする関係であったりとか、
かやことまさみのお互いに複雑な感情を抱き合ってはいるけれども、
純粋な気持ちを持ち合っている関係性の外側にある、
あまり美しくなくてノイズである男の存在っていうものがあるんですよね。
だから、
おしべが覗かれたっていう、
外側に男がいるってことで、
おしべが取り除かれた、
ゆりの花であるっていうことが、
その二人の関係性は、
ゆりの花であるっていうのが分かるようなことにはなってるんですよね。
やっぱり男とのセックスっていうのが描かれる話ではあるので、
51:02
ゆりにしても結構エグい話ではあるんですよ。
ただ、その分逆に健全でもあるかなと思って、
これで本当に女の子同士での関係だけが描かれててってなると、
それはそれである種のポルノ的になってしまうかなと思うんですよね。
そうではなくて、
どこっていうものに関わることで何かを得ようとする、
それぞれの二人はそれぞれ何かを得ようとするけれども、
何かが手に入らなくて、
それを何か自分の中の答えを与えてくれるのが、
お互いにとって、
かやこであり、まさみであったっていうのは、
ある種の美しさであり、
ちゃんと健全さを描いた上での、
何か美しいものを描こうみたいなものに見えて、
エグい分逆に美しいかなっていう話として見ましたね。
ブルーいいですよ。
ブルーで検索しにくい映画で困るんですけどね。
そもそも英単語としてあまりに一般的な単語だし、
ブルー映画で検索すると、
デリック・ジャーマンのやつに出ちゃうんですよね。
ずっと青い画面が続くやつね。
デリック・ジャーマンの。
ちょっと探しにくい映画ではあるんですけど、
いい映画ですよ。
そんな感じで、ゆり映画の話でした。
3分の2くらい東映実録路線の話にしてるかなかもしれないですけどね。
かなり論理的な飛躍があったかもしれないけど、
僕が一番初め冒頭で言った、
ゆりの花が持っている特性から見たゆりジャンルに対する解釈って、
結構まといてるのかなと思って、
生殖の否定による成長の否定と、
その先にある永遠性の獲得に対する願望みたいなものと、
生殖、性行為、肉体的性に対する危機感みたいなものが、
ゆりの花をゆりジャンルに例えるために帯びている特性なのかなというふうに思います。
結構この視点で見るといろんなものを説明するんじゃないかなと思って、
結構僕、面白い切り口かなと思って、
自分でも何か関係性を捉えるときに使ったりする視点ではあるんですよね。
その視点が持っているある種の危うさとか不健全さっていうのは、
ちょっと自覚した上でね、
その上でちょっといろいろ物語見てみてもいいのかなというふうには思ってます。
以上です。
はい、それではですね、
ポッドキャスト吉野 英賀 坂場 第8回
ゆり主観で見る遠い実力路線のお話を終わりたいなと思います。
ちょっと今回いつにもなして取り留めのない感じで話しちゃったんで、
かなり聞きにくい収録になってるかもしれないです。
すいません、本当に。
もうちょっとまとめてから話し始めたらいいんですけど、
まとめ始めるとまたエネルギーかかっちゃって、
ポッドキャストの収録回数が減っちゃいそうなんで、
本当にノリで撮り始めて、
後で強引にある程度数字道が通るように編集する形で
配信するっていう形でいこうかなと思ってるので、
ちょっと今、自分自身が実際喋ったよりには
もうちょっと聞きやすいものに編集で何とかできたらなと思ってます。
54:01
はい、ではですね、
だいぶ取り留めない話しちゃったな。
もうちょっと次回は整理された話しするように頑張ってみます。
はい、次回どうしよう。
ちょっと本当に次回未定です。
どうしようかな。
なんとなくなんですけど、
デビッド・ロバート・ミッチェル監督に関して話したいかなとか思ってて、
すごい好きな監督なんですよね。
アメリカン・スリープ・オーバーとか、
イット・フォローズとか、
アンダー・ザ・シルバー・デリックとか、
ものすごい好みの映画作る監督で、
本当にこのタイミングでやること、
特に意味ないんですけど、
デビッド・ロバート・ミッチェル監督の話してみたいなって気持ちがあったりとか、
あとね、過去のアニメ作品の話してみるとかっていうのもしたいなと思ってて、
僕の人生のベストアニメなんですけど、
少女革命・ウテナの話とかしたいなと思ってるんですけどね。
ウテナ本当好きなんでね。
あるいは、ウテナの監督の
イクア・ラクニヒコ監督って生きる口で話してもいいかなとか思ってたりとかね。
あと連続ドラマの話で、
ザ・ボーイズシーズン2この前見終わったんで、
ちょっと話してもいいかなとか思いに行ったりとか、
あ、今コブラ界見始めたんですよ。
ベストキットのスピンオフというか、
後実談というか、コブラ界見始めたんですけど、
コブラ界素晴らしいっすね。
ちょっと今3話なんですけど、
今日時点で今3話まで見てるんですけど、
めちゃめちゃ面白いっすね。
面白いし、すごい有意義なことを描かろうとしてるなと思って、
ちょっともしかしたらコブラ界の話したりするかもですね。
ちょっと全ては未定です。
はい、今回本当話が取り留めないから編集大変そうだな。
はい、そんな感じで今日は終わりたいと思います。
それではまたお会いしましょう。
さよならー。