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はい始まりました。ポッドキャスト吉野映画坂場第12回ですね。
ちょっと収録しばらく間空いてしまってたんですけど、最近忙しくて、映画のことを考えるのに気持ちがあんまり向いてない部分があったりはしてたんですね。
今日は少し軽めに話しできたらなぁと思ってます。
話しようと思っている映画が、最近見た映画、ちょっと間空いちゃってはいるんですけど、
アンダードッグですね、ボクシングの映画、前後編と佐々木インマイマイン、この2本について話しできたらなぁと思ってます。
まずアンダードッグ、映画ドットコムの解説読ませていただきます。
100円の恋の竹政治監督が森山未来北村拓美・勝二郎をキャストに迎えたボクシング映画の前編。
プロボクサーの宮永明は、かつて掴みかけたチャンピオンの夢を諦めきれず、現在はかませ犬としてリングに上がり、ボクシングにしがみつく日々を送っていた。
一方、児童養護施設出身で秘密の過去を持つ大村隆太は、ボクシングの才能を認められ、将来を期待されている。
大物俳優の二世タレントで芸人としても泣かず飛ばぬの宮城俊は、テレビ番組の企画でボクシングの試合に挑むことに、
それぞれの生き様を抱える3人の男たちは人生の再起を賭けて拳を交えるが、
100円の恋の足立信が原作脚本を担当、3人の男たちを中心に描いた劇場版は前後編の二部構成で同日公開と。
えーと、これ前後編合わせて4時間半ぐらいある結構な大作で、見てて体力使う感じではあったんですね。
で、結構まあ楽しみにはしてたんですけど、さすがに4時間半はきついかなと思ってたり、結構見れたかなっていう感じで、
個人的な感想としては超傑作って感じではないけれども、好きだよねって感じの話ではありましたね。
まあもともとその、この監督がえっと、100円の恋っていう安藤さくらがボクシングを始めるっていうボクシング映画を撮ってて、
まあそれの流れですごい期待してたっていうのもあったんですけど、
ボクシングって本当になんか人生でつまずいてる人が再起していく物語のモチーフとしてよく使われるものかとは思うんですね。
まあその最たるものがもちろんロッキーなわけだと思うんですけど、
で、その中で100円の恋は本当に大傑作だと僕は思ってて、現代版、女性版、日本版ロッキーって言って本当に差し支えない映画だなと僕は思ってますね。
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で、アンダードックはちょっとその前後編になる中で完成度は甘いんじゃないかなみたいに思うところはあったんですけど、
まあただそもそもちょっとまあ負けてる人がもう一度立ち上がるボクシング映画っていうのもその枠組み自体がめっちゃ好きなので、
なんか基本的には好きっていう感じでありました。
で、まずまあこの映画の一番の見どころってまずボクシングシーンなんですね。
で、単に話のモチーフとして題材にするってわけだけではなくて、
本当にちゃんとボクシングしてるっていうのをリアリズムたっぷりに撮るっていうのが本当素晴らしいなと思うんですよね。
ちょっとしばらく前にあったアーコウヤっていう、これもボクシング映画で前後編の対策がありましたけど、
これでボクシングのシーンの監修をされてた方がこの映画でもボクシングシーンの監修に入られてるみたいなことを何かで見かけたんですけど、
本当にね、すごいですよ。ボクシングしてるなっていう感じがすごい出てて。
で、あと本当に役者陣の体の作り込みですよね。
特に森山みらいさんの体の絞りっぷりはやばいですね、本当に。
うん、なんかこれ体をどこまで作ってるかで物語自体が断然厚みが出るというか、
ある程度体仕上げようと思ったら相当力入れてトレーニングしないといけないし、食事制限とかもやってるはずですよね。
それをちゃんとやってると、この映画を作ってること自体がその作中の人物にやっぱり重なるんですよね。
そこまでこの映画を撮るところまで自分を仕上げていくっていうこと自体が、
作中でボクサーたちが試合に向けて仕上げていくっていうこととイコールって繋がるので、やっぱその熱量を帯びてくるなっていうのがあって。
で、あとこの映画の見どころのもう一つとしてあげたいのが、
本当に負け犬描写というか、血を這うような人々の生き様みたいなのがすごい泥臭く生々しく描かれて、
この主人公アキラもそうなんですけど、リウタであるとかシュンっていうのも全員何らかの挫折を経てボクシングにたどり着いてるわけなんですけど、
そこでなんでそこまでして勝とうとしないといけないのか、ボクシングでっていう時に、
元々いるフィールドがぬるたくないんですよね。本当に壮絶な日々、ただ生きてるだけでもどれだけのエネルギーがかかってて、
どれだけその心が削られていくかみたいな部分で、そこを本当に容赦なく描くからこそやっぱりボクシングで立ち上がるっていう部分の重みが出てるなと思うんですよね。
話としては前編がカマセイヌをやっているアキラと芸人のシュンが試合をする話で、後編がアキラとリウタが試合をする話になっていくわけなんですけど、
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前編が結構裏ロッキーみたいな話になってるんですよね。
ロッキーってもともと世界チャンピオンのアポロが何かの経緯で、本来試合すべきだった相手との試合が流れて、それの代わりにロッキーを相手にするっていうロッキーのところには偶然話が回ってきたって感じの話でしたよね。
そこで世界チャンピオンと戦うことを自分の人生を取り戻すためのきっかけにするっていうのがロッキーって話かと思うんですけど、前編はそれにも重ねられてるんですよ。
ここにおいてのロッキーっていうのは芸人のシュンの側だなと思って、本当にバラエティ番組のネタにするためにボクシングをやらされるわけなんですよね。
ただ、そこでそのボクシングで大物俳優の二世として、周りにはただカネと親の七光だけがあるやつとしてめちゃめちゃ舐められてて、その人生に飽き飽きしているわけですよ。
で、そこでものすごい靴を抱えてるけれども、ボクシングの中で純粋に自分を鍛えるであるとか、純粋に何かを目指すっていうところに出会って、そこに系統していくと。
で、周りからは仮に相手がちょっと落ちぶれてるとはいえ、チャンピオンになりかけた人間である以上絶対に勝てないと、ボコボコに殺されるぞみたいな風に言われるけれども、
やるんですよね、トレーニングを。試合に向けて磨いていくんですよ。周りからはどうせ勝てないんだからそんな本気でやってもしょうがねえだろうみたいなことを言われるけど、やるんですよね。
あきらの側はダラッダラやってるんですよ。年齢的に言うと多分30代半ばぐらいになる計算だと思うんですけど、正直ボクシングやれる年齢ではないわけですよね。
で、かつてそのあきらとタイトルを争って世界チャンピオンになってすでに引退している、開設者になっている元チャンピオンが出てくるんですけど、その人はもう引退してるので、要は本来ボクシングの世界で頂点を極めた人間でさえ辞めてるタイミングなんですよ。
それでもあきらはまだボクシングをやってると。で、トレーニングはしっかりやってるし、体もしっかり作ってるんだけれども、タバコを吸ってるんですよね。
で、ボクシングを描く物語においてタバコを吸ってるっていうのはめちゃめちゃ重要なキーツールで、ちょっと諦めてる側の人間なんですよ。
ボクシングを描く話においてタバコを吸ってるっていうのは、この映画の中でも誰がタバコを吸ってて誰がタバコを吸ってないのかみたいなのってすごい大事なとこなんですよね。
あれだけ無酸素運動を続けるスポーツ・格闘技で肺に負担をかけるようなこと、タバコを吸ってるっていうのは絶対にダメなわけですよ。
トレーニングもしてるし、技術も磨いてるし、体もちゃんと作ってるけどタバコは吸ってると。で、それをやってる時点で心がちょっと折れてるっていうことの表現なわけですよね。
つまり惰性でやってるわけですよね。諦めていないわけではなくて、諦められないだけ染みたれた感じが出るわけですよ、そこで。
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ボクシングに対してどういうふうにやっていくかっていうところで、アキラは本当にもう惰性でボクシングをやってると。ボクシングを続けたいというよりやめられないだけなわけですよね。
で、新しく有望な新人になっているリュウタは希望を持ってボクシングに取り組んでるし、で、シュンは偶然ボクシングと出会ったきっかけでちょっと自分の人生を取り戻したいみたいな思いで。
3社3業のボクシングに対するスタンスがあって、そこでタバコを吸ってる人吸ってない人でタバコをやめる人みたいなのは心の側を描く要素としてすごい良い働きをしてたなぁと思って。
このあたり100円の声でもそうでしたね。で、フィクションの中でタバコが使われる時って人生にちょっと挫折みたいな感じた時に、なんて言っていいのかな、諦めを吸ってるなって思うんですよね。
現実のタバコがどうとかではなくて、フィクションでタバコが描かれる時ってある種の妥協であるとか、抵抗であるとかっていうものが込められてるなぁと思うんですよ。
で、ボクシングっていうものを題材に描く時にはそれがものすごい端的に出るわけですよね。人生において何かを諦めたり妥協したりしている人がたどり着くのがタバコなわけですよ。
それはもうボクシングを描いている以上絶対的に必然的なわけですよね。それの使い方はすごい上手いなぁと思って。
で、この2人が前編のラストで戦うわけですよね。で、もちろんアキラの側がシュンをボコボコにするわけなんですけど、ただまぁそれに食らいついていくとシュンが。
で、そこで初めちょっと茶化しが入ってた観客たちもだんだん盛り上がっていくわけなんですけど、これって要はロッキーが意外とそのアポロといい勝負をして盛り上がったっていうののシーンに重なるかと思うんですけど、
一方でアキラの側はこんなその芸人が1ミリでやったボクシングの試合で割といい勝負しちゃってる。
で、しかも挙句の果てにちょっといいパンチもらってダウンしちゃうと。で、しかもちょっとそのシュンの気迫に押されちゃうみたいになって周囲の人たちはもう失望するわけですよね、アキラに。
なんて手たらくだと。まぁそのジムの会長アキラを基本的には見限ってて、もうとっととやめろっていうので、最後にこの芸人と試合やっても金だけもらってとっととやめろって言ってる会長。
ただ、お前かつては才能あったよねとは思ってる人であるとか、かつてタイトルを争った元チャンピオンの解説者であるとか、
別居している息子、ボクシングをやって自分に憧れている息子であるとかが、その手たらくを見て失望するんですよね、アキラに。
しかもちょっと八王朝というかブックですね、あの一発パンツをもらって軽いダウンしてよみたいなのがテレビ局の方から指示があって、それをやることでとんでもない失望を周りに与えるわけですよ。
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で、これで最終的にアキラはさすがに勝ったんだったかな。ちょっとここの結末微妙に忘れちゃったんですけど、ただそれでも一生懸命やって闘志みたいなものを見せたシュンには喝采が送られるわけなんですよね。
で、シュンの周囲の俳優である親であるとか恋人とかが、シュンが人生に再び向かえるようになったことを認めて祝福してあげるみたいな展開になって、ロッキーのラストみたいな人生を取り戻すものみたいなのが見える一方で、アキラは本当に全てを失うわけなんですよね。
で、その全てを失うっていうのは、そのタイミングで失ったわけじゃなくて、特に失ってたっていうことがそこで思い知らされるわけですよ。
で、自分はボクシングをやってたふりをしてたということが分かっちゃうわけなんですよね。で、前編のラストでアキラは布団の中でもう悔しさで泣きじゃくるんですよ。
で、本当にそのラストのアキラとシュンの試合は正直塩試合、しょっぱい試合なんですよ。
だってあの一発のチャンピオンになりかけたボクサーが半分素人みたいなボクサーに追い詰められてビビって下がったりしてるのを正直試合としては見れたもんじゃないと思うんですよね。
ただ、そこでそういう試合をやってしまったっていうことに対する、自分自身に対する失望ですね。それで悔しくて泣くわけなんですけど、おそらくアキラは悔しくて泣いたことなんて何年も10年以上おそらくなかったんですよ。
惰性でボクシングをやってたので、ボクシングをやってるふりをしてたので泣いたことなかったはずなんですけど、ここでちょっと何かが取り戻されてるのかなみたいなのは見えるんですよね。
正直前編はボクシング映画としては試合自体のしょっぱさというか、旬の意地と境地みたいなものとアキラのだらしなさみたいなものが描かれる話で、試合自体もちょっとしょっぱい試合だし、すごい盛り上がるって感じではなかったなって僕は思ったんですけど、
ただちょっとロッキーメタみたいな部分がすごい面白いなって思ったのと、1つの試合をきっかけに取り戻すものと、実はとっくに失ってたと気づいてしまうものみたいなものの対比が面白くて、ちょっとそこが面白い話だなと思いましたね。
そこに至るまでにね、本当に日常の泥臭い描写がずっと続くのも、なんでその男たちがボクシングをやらないといけないのかみたいなのを、バックボーになるんですよね、その辺りの描写が。そこがすごい良かったなっていうのはありましたね。やっぱりね、人生がつまんないから戦うしかないわけなんですよね。そこの戦うことをやめたら人生の塩辛さに負けちゃうわけですよ。
それに負けないためには戦うしかないっていう。そこでボクシングをやることの意味を描くためには、本当に日常パートはもうしょっぱいですよ。ドロドロだしね。見てて嫌になるぐらい本当にそこのそこの描写がエグいんですけど、だからこその話ではありますね。
で、後編はアキラとリュウタの試合の話になっていくんですけど、すごい良いなと思ったのが、後半でシュンが出てこないんですよね。エンドロールのエピローグまでシュンが出てこないんですけど、初め、え、もう絡まないんだって、少しびっくりはしたんですけどね。ただ、そこが良いなって途中で思い直して、要は前編でシュンとボクシングの物語が終わってるんですよね。だからもうシュンは出てこないっていう、この割り切りはいいなと思いました。すごい。
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本当にロッキーぽいっていうか、ボクシングシーンのラストで頂点なんですよ。ボクシングを介してのシュン人生のピークはあそこだから、そこから先の話には出てこなくていいみたいな割り切りがすごい良いなと思って、もう後編はアキラとリュウタの話であるというのが分かっていくと。後編はそのリュウタが将来を職望されるボクサーだったけれども、目の怪我をしてボクシングを続けられなくなるっていう展開がまず中盤までかけて描かれていくんですけどね。
ちょっとここがね、この映画のまずいところだなって思ってて、どういうことかっていうと、そのリュウタがかつて児童養護施設にいてめちゃめちゃグレてたと、本当にストリートギャングみたいになってて、結構気に入らない人間とかを半殺しにしてたような感じだったっていうのがだんだん分かってくるんですけど、
その中で半殺しにされた人間の一人がリュウタに復讐することで目を怪我をしてボクシングを続けられなくなる。因果応報みたいなのが描かれるんですけど、ここでね、その復讐してくる人が前編から出てくる人間関係が複雑なんですけど、
アキラが普段日中働いて、日中というかこれも夜か、働いてるデリヘルのドライバーなんですけど、そのドライバーとしてよく、なんて言ってるのかな、デリヘル城を送って行ってる家のお客さんの若い男が車椅子なんですよ。半身不遂みたいになってるんですけど、
実はその男が後編で、かつてリュウタに半殺しにされて半身不遂になってる男だっていうのが分かっててあるんですけど、正直この男の立ち位置が割と雑というか唐突というか、結局リュウタを将来を期待されるボクサーからどん底に落とすためのツールとしてしか働いてなくて、
こいつがそのアキラが働いてるデリヘルの客であることの意味とかがあんまないんですよね。いつも客のところに連れて行ってるデリヘル城がアキラとちょっといい感じの中になりかける、いい感じの中っていうのは結構本当に言葉では表現できないぐらいもうしみったれた男女の関係なんですけど、
そこでまぁ多少人間関係みたいなのが描かれるけど、あんまり意味をなさないんですよね。最終的にそいつが何の役割を果たしたかっていうと結局そのリュウタがボクシングを諦めざるを得なくなるための障害でしかないんですよね。ちょっとそこはね、雑だなぁと思って、人間関係の配置微妙だなって思ったとこはありましたけど。
でまぁ結局後編は前編で情けない試合をしてボクシングをどんどんやめる方向に追い詰められていくアキラと不良の事故でボクシングを諦めざるを得なくなったリュウタとがもう一度最後にボクシングの試合をして蹴りをつけようとする話になっていくんですよね。
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でリュウタは元々養護施設で本当にグレてたわけなんですけど、そこにアキラが所属しているボクシングジムのボクサーがボランティアみたいな形で訪問してたのがきっかけでそのリュウタはアキラに対する思い入れがあるわけなんですよね。
でやっぱこの辺りはね、好きなやつなんですよ。なんて言ったらいいのかな。世界チャンピオンになりたいんじゃないお前だけに勝ちたいんだみたいな。あのーわかります?すごい好きなやつなんですよね。世界で一番になりたいんじゃなくてお前に別れらせたいんだみたいなのって結構まあ少年漫画的な世界観的な美味しさがあるなと思って好きだし結局人間ってボクそうだなと思うんですよ。
なんで一番になりたいかっていうものの根っこを辿っていくと結局その過程というかきっかけ、根っこみたいな部分には誰か一人だけがいるもんだなと僕は思っててやっぱそれの端的な表現だなと思うんですよ。だから本当はリュウタももっともっとボクシングで世界を取ってまあ暮らしを良くしたい家族をそれで幸せにしたいみたいな思いもあったと思うんですけど、リュウタにとってのボクシングの根っこの根っこの根っこはアキラに勝ちたいなわけなんですよ。
あの日まあ養護施設にバンチャイで来ててただの子供とボクサーな日本でもトップクラスのボクサーとのあれだったわけなんでもちろん簡単に殴られちゃうわけなんですよねリュウタは。そこがきっかけで怒りとある種の憧れを持ってずっとアキラを見てきたと同時にアキラが落ちぶれていく姿も見てたわけなんですよね。だからリュウタが見てた先にずっとアキラはいたわけなんですよ。
だんだんまあそのアキラの存在そのものはちょっと比重が小さくなって自分の人生自分の暮らし家族の幸せみたいなものを作っていくためのツールにボクシングがなっていく中でアキラの比重が小さくなったけれども自分がボクシングを諦めざるを得なくなったと生きるためにはもうボクシングをやってられないとってなった時にそれでも自分にとってボクシングは何かそれだけは肩をつけておきたいって言って残るものがアキラなわけなんですよね。
だから最後にアキラと試合をやって引退したいっていう流れで試合になっていくわけなんですよね。で、この辺りね、前編でもそうだったんですけど、さまざまな過程を経て一度ボクシングを辞めたリュウタと惰性でボクシングをやって完全にへし折れてしまったアキラとか一度ボクシングを辞めたところからもう一度トレーニングを始めるところでロードワークランニングを始めるシーンがもちろんあるわけなんですけど、ボクシング映画でどのシーンが一番いいかって、
基本ランニングを始めるシーンだなって僕思ってるんですよね。で、やっぱりね、いいんですよ。やっぱりそのロッキーとかもそうなんですけど、勝ち負けは本当どうでもなくて、戦う決めた時点でもうこのまま物語が終わってるわけなんですよね。内面的なドラマとしてはその時点で完結してて、
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あとは、完結するまでに至った思いであるとか、熱量であるとか、信念みたいなものの証明でしかないんですよ。ボクシングの試合のシーンっていうのは、ラストの試合のシーンっていうのはね。で、やってる本人の中での答えみたいなものはもうおそらく走り出した瞬間に決まってるんですよ。物語はおそらくそこで完結してるんですよね。やっぱそこのね、あのエモーショナルな瞬間みたいなのがやっぱ走り出す瞬間にあるんですよね。
それはロッキーもそうだし、100円の恋もそうだったんですけど、かつて一度折れた人間がもう一度立ち上がって走り出すっていうのはね、やっぱもうエモーショナルの究極だなと思うんですよね。これを描けるからやっぱりボクシングは一度負けた人間が立ち上がる物語のモチーフとして最高の題材だなと思うんですよ。
あとボクシングがそういう話に向いてる要素として思うのが、シャドウボクシングなんですよね。で、シャドウボクシングって結局その仮想の相手を想定してボクシングのフォーム確認であるとか、イメージトレーニングをすると。本質的に自分の戦いっていうものを表現してるんですよね。やっぱりシャドウボクシングって。
あと、シャドウボクシングってフォーム確認とかもやるので、鏡を見ながらやったりするので、すごい端的にテーマが描かれるわけですよ。もう一人の自分に向かって拳を振り出すので、自分が勝ちたいのは自分であると、自分が戦ってるのは自分であるとっていうのが非常に端的に、画的に表されるんですよ。
で、この辺りもね、ボクシング映画、特にその人生を取り戻すっていう意味合いでのボクシング映画の好きなところだし、ボクシングがそういう映画に向いてるところだなと思うんですよね、それを見ると。やっぱこういうところが好きなんですよ。
で、最終的にこの二人が戦うわけなんですけど、この戦いのシーンは本当にいいです。前編の試合がちょっとしおじやいだったんですけど、後編のボクシングシーンは本当に名勝負として描かれて、意図的だなと思うんですよ。
あきらが挫折していたと気づいてしまうシーンが前編なので、後編は完全に折れた人間がもう一度立ち上がって戦うっていうのを決めるまでの話なので、最後の試合もそれを証明するための試合として存在しているわけなんですよね。だからね、そこは当然名勝負になるわけなんですよ。
あと、コーナーに追い詰めるとか、ちょっとフックを当てて体を回すみたいな。僕そんなにボクシング詳しくないんですけど、多分技術的に結構ちゃんとしたことをやってるなっていうのが見ててわかるので、そのあたりはすごい良いなっていう。
ボクシングシーンをおためごかしにしていないみたいなのがあって、ボクシングシーンが本気だとね、ドラマ全体が本気っていうふうに感じられますね。で、この映画のすごい良いところ、ラストラストの結論みたいな部分で、なんで今まであきらがずっとボクシングを辞められなかったのかっていう部分で、世界チャンピオンになりたいからっていうのがずっとあるんですよね。
で、これはずっと言葉にはしてないんですよ、本人の口からは。で、例えば事務の会長が、お前まだ自分が輝けるのと思ってんのかみたいなことを言ったりするんですよね。で、この輝けると思ってんのかって何のことかっていうと、世界チャンピオンになれると思ってんのかってことですよ。であるとか、自分に憧れてるけど別居してしまってる息子が、父さんは世界チャンピオンになりたいんだよねっていう、実は奥底に隠してる言葉を自分に語りかけてきたりするんですよね。
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あと、そうだ思い出した。この以外のちょっと足りてないなって思うところが、あきらの息子が大人すぎるんですよ。ここはね、ちょっと不完全だなと思いましたね。この物語のテーマを言わせるためにちょっと大人びすぎてるんですよね、子供が。そこはまあちょっと足りてないかなと思ってた子でしたけど。
結局、そのあきらが惰性でボクシングをやってたのは、世界チャンピオンになりたいからなんですよね。でもそれを言語化することなんてできないわけですよ。どう考えてもなれないから。もう30も半ばになってて、惰性でボクシングをやってて、かませ犬でリングに上がってるだけの人間が、まだ世界チャンピオンになりたいって言ってることを公害なんてできるわけないんですよね。で、自分自身に対してもそれを言うことはできないわけですよ。
そんな馬鹿げたことはボクシングを知ってれば知っているほどできるはずがないから。でもそれでもなりたいって思ってるんですよね。で、最後リュウタとの試合を終えて、完全にそれを自覚的に自分に対して言えるようになるわけなんですよ、あきらは。世界チャンピオンになるためにボクシングをやってると。
ここの対比もよくて、ボクシングをやめるために戦ったリュウタと、自分はまだボクシングを続けて、世界チャンピオンになるためにボクシングを続けるんだっていうものを自覚して戦ったあきらとの対比みたいになるんですよね、リュウタとあきらの対比が。で、ラストが走っていくあきらなわけなんですけど。
これ見た時ね、あのー、桐島部活辞めるっていう中の一部のセリフを思い出したんですけど、絶対にかからないドラフト、野球のドラフト会ですね。絶対に自分がかからないドラフトを待ってるみたいな話のシーンがあるんですよね。で、これだなと思ったんですよ。自分は絶対に世界チャンピオンになれるはずがないと思ってても、世界チャンピオンになれると思ってやるしかないっていう話なわけなんですよ。
っていうか、そうでも思わないとやる意味がないんですよね、きっと。で、この辺りのことがジムの会長であるとか、息子の口から語られていって、どんどんそのあきらの外堀りが埋められていって、最後追い詰められた時に、そこであきらはボクシングを捨てるんじゃなくて、世界チャンピオンになりたいと思いながらボクシングをやるっていうことを決めるわけなんですよ。
ここで大事なのは、世界チャンピオンになれるかどうかではないんですよね。世界チャンピオンになれる、なると思ってボクシングを続けるっていうことを選ぶっていうことが大事だと思うんですよ。正直ボクシングなんて、日本チャンピオンになってもそれだけで生活していけないっていうぐらい収入というか、なりわいとしては全然なわけですよ。そんなことやったって、少なくとも経済的には報われないわけなんですよ。
この台座に対する作り手の思い入れの重さみたいなのが、おそらく竹監督であるとか、脚本の足立さんであるとかって、たぶんボクシングに映画作りをかけてると思うんですよね。正直映画作りだってごくごく一部のトップのクリエイターで、おそらく日本国内の大作映画撮ってもそんなにおそらく報酬的には恵まれないと思うんですよ。
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それこそ本当に世界で公開される映画の監督ってなったら、もうすごい多額の報酬が期待できると思うんですけど、日本国内でどんなに大作映画を監督したとしても、おそらくそんなに見た目ほどの報酬は得られないと思うんですよ。でもそれでもたくさんの人が映画作りっていう生き方を選んで映画を作ってるわけなんですよね。きっとみんな世界チャンピオンになりたいと思って映画撮ってるんじゃないかなと思うんですよね。
で、映画においての世界チャンピオンが何かっていうのは僕はわかんないですけど、でも多分目指して撮ってるんだと思うんですよ。そうでもないとやってられないと思うんですよね。で、日本の正直比較的小規模な映画ですよ。関西でも1巻ぐらいでしかやってなかった映画なんでね、アンダードックって。
で、その土地場の人が世界一の映画を撮るみたいなのを言ったときに、なかなか勇気がいることだと思うんですよ。でもこの映画を見たら多分信じてると思うんですよね。滝監督も足立さんも、映画で世界チャンピオンになるって信じて撮ってるんじゃないかなと思って。で、その辺りの熱情の入り方みたいなのがやっぱりこの映画から伝わってくるんですよね。
この映画の好きなとこ、一番好きなとこそこなんですよね。報われるとかじゃないと。これに人生を懸けてそれで世界チャンピオンになりたいと思ってしまったから戦ってるっていうのをボクシングを通じて作り手たちが映画で俺たちはそれをやってるっていうのを宣言してるように見えて、やっぱそこがすごい好きだったんですよね、この映画。長いですけどいいっすよ。
やっぱその辺りのメッセージはね、この長さとその日常パートの重さがあってこそ描かれることでもあるなと思うんですよね。誰もいないジムで一人トレーニングをしてると、ほこりっぽくて暗いジムの中で、それって例えば映画のシナリオを書いてたりだとか編集をしてたりするときの映画の作り手の状態にも重なるなと思うんですよね。
その辺りの思い入れ、意思のこもり方みたいなのがこの映画にはあるなと思って好きです。ボクシング映画っていう枠をはみ出してるなと、作り手たちの自己言及的な領域までいってるんじゃないかなと思うところがあって好きだなと。
まあね、ボクシングでこういう話書かれたら基本的に好きなんですよ。好きなものはしょうがないって感じですね。はい。
じゃあ次、佐々木インマイマインの話いきたいと思います。同じく映画.comの解説読ませていただきます。
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ささきとの日々を思い起こす。
悠司はある舞台出演のため稽古に参加するが、稽古が進むにつれ舞台の内容が過去と現在にリンクし、悠司の日常が加速していく。
そんな矢先、悠司の電話にささきから数年ぶりの電話がかかってくる。
キングヌーの井口治、鈴木拓司、村上二次郎らが脇を固めると。
えーっとね、うーん、よかったというか、あのー、ちょっと映画としてすっげー面白いって感じではなかったんですけど、
まあなんというか、自分自身に重なる部分。自分自身の人生、高校時代の過去もそうだし、今現在にも重なる部分が多いっていう意味合いで、ちょっと刺さる部分が多いでしたし、
このポッドキャストの第1回でお話ししたんですけど、今年の日本映画、特にその精神円がすごい厚かったなっていうのに対する集大成的、ある種の結論、回答的な部分でもすごい見応えのある映画だなとは思いましたね。
うーん、まあまずこの映画のすげーなと思ったところはね、生々しい高校生感のある会話かなと思って、高校生男子がどうでもいい話してる感がすごいんですよね。
この辺りあんまり説明的じゃない、他の方の意見で説明的なとこが気になるみたいな意見見たことあるんですけど、僕はむしろ徹底して説明感がない、生々しくてリアルな会話だなって僕は思ったんですけどね。
うーん、まあちょっと感じ方の違いなのかな。で、本当にね、意味がないんですよ、こいつらの青春に。ずっとゲームしてる。ずっとあのぐるぐる回すサッカーのやつあるじゃないですか、棒回したら人形が回ってボールを送るサッカーゲーム。
あれやってたりとか、バッティングセンター行ったりとか、無意な青春の究極みたいなことをずっとやってるやつらなんですよね。で、この映画全体的にあんまり青春そのものに対して肯定的に見えないというか、
良きものとして言われてるようには見えないっていうのがこの映画のすごいところだなと僕は思ってて。なんかあのね、あの頃は何気ない日常だなと思ってたけれども、今思い返すとかけがえのない素晴らしい日々だったみたいな語り口ってよくあると思うんですけど、
全然そんな感じじゃないんですよね。本当に若い時、友達といてすっげー楽しかった。けれども、あの日々は意味なんてなかったし、その面白い瞬間の裏の日常は本当にもうドロッドロのぐっちゃぐちゃで、もうただ人生が忍びていくだけの時間でもあったみたいなのがね、同時に描かれてて、全然良いものに見えないんですよ。
そこがこの映画の良きところ。過去をノスタルジーで過度に美化していない感じがあるのがすごい良いなと思って。やっぱね、そういうの大事だなと思うんですよ。この話に出てくる中心的な人物、ササキって存在なんですけど、まあいわゆるイチビリなんですよね。生え仕立てられたら全乱になっちゃうイチビリ高校生の典型みたいな。典型でもないか、あそこまでやれるやつそうそういないですけど。
33:09
ただ家に帰ると、家はめちゃめちゃ貧しくて、母親はいなくて、父親は滅多に帰ってこないと。で、友達は家に来たりして、まあダラダラ遊んでるけど、その時はまあ楽しそうにしてるけど、友達帰った瞬間もうドローンってめちゃめちゃ暗い。なんかスイッチが切れたような人間になっちゃうっていう、表裏、若さの元気な部分、華やかな部分とどうしようもない絶望に囚われてる部分みたいなものがササキの裏表になってるんですよね。
で、例えばそのササキの派手な部分だけを見て、ああいう楽しい奴らいたいねっていう、あの頃は良かった的な話に作ることは割とよくあるのかなと思うんですけど、そこでその派手さ、楽しさの裏にある人生のどうしようもなさみたいなのがあることで、精神そのものの任命制みたいなのがこの話の中で描かれてるなと思ったんですよ。
だから過度にその精神を美化するってことは、結局ササキのことを何も分かってなかったってことになっちゃうわけなんですよね。そこで本当はササキはすごい暗い失望を抱えてたというのがその話の中で描かれていくわけなんですよ。
で、そこでね、ちょっとずつちょっとずつその説明ではない形でエピソードの中で語られていくんですけど、ササキが美術部に所属していたというのは語られてて、割と今そういうのね、茶化しながら言うわけなんですよね。
もうずっと美術部で絵描いてただけだったみたいなことを言ってて、どうでもいいことだみたいな感じで言うんですけど、家に帰ると美術書であるとか自分が描いた絵とかが置いてあるんですよね。絵が好きだったっていうのが出てるんですよ。でもそれは口では説明しないんですよね。置いてあるものとかで表現してるんですよ。
この二人はこの映画のすごい上品なところを説明していない。なんでそのササキの家がそこまで貧しいのかであるとか、なんでその父親が最終的に死んでしまったのかみたいなのもなんとなくはさせるけども語られはしないんですよね。
で、これはね、この若さの闇みたいな部分は主人公のユージにも当てはめられてて、主人公のユージは家に帰るとばあちゃんしかいないんですよ、なぜか。で、ばあちゃんと割としみったらな日常を過ごしてるんですけど、そこで服の生描きが気になってると。
で、そのユージが学校に行った時に自分の服をくんくんによったりしてるんですけど、それはばあちゃんが洗濯物した後にすぐに干さずに洗濯機の中に放置しちゃってるからっていうのがわかるんですよね、後々の描写で。で、そこにあるのは何かわからないけど家庭の崩壊があるのかなっていうのを察されるわけですよ。
あるいは単純にばあちゃんがちょっとボケてるのか、もともとそういう性分の人なのかはわかんないですけど、巨大な不幸というよりはどこかネジがずれててストレスがそこに積もっていくような日常があるっていうのがわかると。
で、そのユージも佐々木が一緒にいる高校時代は楽しいけれども、家に帰ると。つまりそのユージが腹の内側に隠している何かっていうものは暗くて重いものだなっていうのがそこで察されるわけなんですよね。
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で、その青春時代が終わったと大人の時代になるわけなんですけど、ここで大人になった奴らの関係性みたいなのがちょっと微妙に距離感あるのとかもすごい描き方上手いなと思って。
だんだん高校から外に出ずに地元に残ってパチプロやってる佐々木のエピソードがちょこちょこっと語られたりはしていくんですけど、だんだんその東京に出て俳優を目指すようになったユージとは生き方であるとか心であるとかがだんだん離れていってるっていうのがわかるようになってるんですよね。
この辺りもうちょっと違うんだなっていう。俺たちの人生はもう違うものになってしまってるんだなっていうのがわかっていく過程みたいなのも心当たりがあるんですよね。
わかるなっていう。そういうね、特に男性の方がより生々しくわかると思うんですけど、仲良かった友達でも本当はちょっと分かり合えてなかったかもしれないみたいなのがだんだん離れていくみたいなリアリズムがすごい良いんですよ。
こういうのね、何て言ったらいいのかな。本当にね、青春の暗さを描いてる。それは単に暗いというよりも明るさの裏側、こういうのの裏側にあったものっていう描き方なんですね。
で、それは今大人になってからも引きずってる何かだったりはするんですよ。
あの頃、あんまり思い出さないようにしてたけど、あの頃の高校時代の裏側にあって、暗さみたいなのを今見つめ直してもう一度前に進むみたいな話になってるんですよね。
この辺り、正直ちょっと野暮ったいとこもある映画かなとは思いつつ、もうね、その分かるなっていう、本当に仲良かった友達でもあいつ本当はそんな相性あってなかったのかなみたいなのであるとか、
本当に仲良かったけど、大人になるとなんか違う道だよな、もう違う道歩いてるんだっていうのが分かっちゃう感じがね、すごいよく分かるなと思って。
正直僕、佐々木みたいにクラスで一番目立つみたいな感じではないけど、ちょっとその半分自暴自棄的に目立つことでちょっと自分の存在をギリギリで持たせてるみたいな人、ちょっと心当たりがあって、そこもね刺さったんですよね。
そういうのがね、結構自分と重なるし、ちょっとある種の諦めとかを帯びながら大人になった中で忘れてたものをもう一回思い出すみたいな感じもある映画だったんでね、めちゃめちゃ刺さったんですよね。
で、あの、ちょっとこの映画と分かる人にしか分からない可能性があると思います。この高校時代の光と影の二面性みたいなもの。で、その間にある瞬間、全然それは決して良いものではなかった。肯定できるほど良きものではないけれども、それこそがなんか青春というか瞬間とかそういうものなのかなみたいな。
このバランスね、分からない人には多分その共感しようがないというか、この映画自体を良いねっていう風に共有できる人多分限られちゃうかなと思うんですけど、これ共感できる人すごいいてほしい、隣に。分かるよなぁの感じって言い合いたい映画なんですよね。
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ちょっとね、小中高、あと大学と会社に入ってからも同じとこに勤めたってやつがいて、小中高大社会人、しかも社会人代、ルームシェアしてたんですよね。えっとね、だから多分何歳ぐらいだろう。小学校の時はそんな仲良くなかったんですけど、中学校入ってから仲良くなって、13歳ぐらいから26歳ぐらいまでずっと一緒にいたのかな。
多分10年以上一緒にいて、親よりも長い時間一緒に過ごしてたようなやつがいたんですよ。で、そいつの誕生日にこの佐々木inmymindのDVDを贈ろうかなと思ってて、分かるよなって言いたいんですよね。あれだよなって。あの時のこいつあいつだよなみたいな話をしたいんですよ。めっちゃ個人的な話。で、この映画のラスト、佐々木死ぬんですよね。死んじゃうんですよ。
正直僕今、ちょうどこの前37歳になったんですよね。で、正直おじさんと言っていい歳なわけですよ、十分に。十分おじさんな歳なんですけど、正直リアルに同世代の人間が奇跡に入り出してもおかしくない年齢なわけですよ。交通事故とかね、体調不良とかね、あいつ死んだんだってみたいな話が聞こえてきておかしくない年齢なわけなんですよね。
その時にその葬式で集まる感じみたいなのもあり得るだろうなと思って。まだ幸いない、しかし人間が死んだみたいな話はまだ聞こえてはきていないんですけど、そろそろ増えてくると思うんですよ。あり得ると思うんですよね。そこのね、リアリティ。やっぱりね、人生のピースの一つが欠けたみたいな感覚はあると思うんですよ、それって。
その感じをすごい見せられたなっていう。割とね、結構語るの難しいというか、感覚的な部分で共有したいなっていう。それは根本的にはもう僕の高校時代の話なわけなんですよね。高校時代に僕が感じてた匂いであるとか肌感覚の話になるので、めちゃめちゃ共有が難しいんですよ。
あの頃感じてた匂いとか肌感覚って表現されるような心の何かなんですよね。でね、またこのね、佐々木役の細川岳さん、今まで聞いたことなかった役者さんなんですけどね、そのおちゃらけてるけど闇を抱えてる高校生、若者みたいなのね、見事に演じてるんですよね。
この細川岳さんの演技だけでも見ていただきたいですね。すごい。これは本当にすごい。見事。誰しもが細川岳さん演じる佐々木を見て、あいつのこと知ってるって思えると思うんですよ。これが素晴らしいんですよね。
あとまあ関係ないんですけど、ラストでね、エンドロールの入りのところの音楽が佐々木がその仲良くなる女の子を誘ってカラオケ、誘ったというかその子が一人で歌ってるカラオケを聞いて一目惚れしてそのカラオケルームに一緒に歌おうって誘って歌い始める歌っていうのがそのエンドロールの入りの歌なんですけど、それがね中島美恵の化粧っていう歌なんですよ。
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で、この歌めちゃめちゃいい歌なんですよね。ザ中島美恵的なのが本当に女性のしみったれた人生をしっとりと歌うみたいな感じの歌で、まあそういう歌多いんですよ、中島美恵は。ちょっとね、その怨念こもってるタイプのほう、それでも怨念を持たないでおこうと思う女の人の気持ちみたいなのを歌ってる歌多いんですよね、中島美恵って。
悪女とかね、道国とかね、別れ歌とか、ひとり上手とかね、まあ中島美恵結構好きなんでね。やっぱね、その多分佐々木って高校でカラオケ行った時とかは、当時流行ってた歌とか歌ってたと思うんですよ。人気者としてありたいって思ってる人間だから、周りに反応してほしいから受け狙いで何かをやってたタイプなんで、おそらく彼らの高校時代って2010年くらいなんですけど、その当時の流行曲を歌ってたはずなんですけど、
本当はその中島美恵とか歌いたいと思ってたやつだっていうのがそこでまあわかるっていういい演出になってるんですけど、そこでね、佐々木が歌う化粧、中島美恵の化粧がエンドロールの歌なんですよね。これがいいんです。中島美恵そのものの歌ではなくて、中島美恵の化粧を歌ってる佐々木の歌っていうのがいいんですよ。
このある種の侘びしさ、切なさ、黄昏感がこの物語のラストにぴったりなんですよね。見た人とぜひ共有したいっていう映画。で、さっき言った10年以上一緒にいたやつにDV送ってわかるだろって言いたいっていう映画でしたね。
どっちもね、アンダードックと佐々木インマイマインもちょっと大傑作って感じじゃないなっていうのが僕の感じです。ただ完成度ではない部分にすごい魅力のある2本だなと思って。あとね、どっちもね、泥をすするような人生の中に何かを生み出す話でもあるので好きなんですよね。はい、って感じでした。はい、じゃあ以上です。
はい、えっとではお知らせなんですけども、今まで9月から継続的に月一でやらせてもらっている大阪の南森町にある週刊曲りっていうカフェバーでやらせてもらっている映画の話したすぎるバー12月度なんですけど、えっと企画は立ち上げてて、えっとね、ちょっとね、完全にコロナ感染の流行がもう一度来ちゃってる感じになっているので、やり方をどうするかっていうのは正直迷わしいところであるんですけど、日付自体は決めてて、
12月26日の土曜日の今のところ18時から23時に映画の話したすぎるバー12月号をやろうかなと思ってます。で、内容としてはがっつり語ろう2020年映画ベストってことで、ま、今年のベスト映画をメインのテーマに語るって感じの場にできたらなと思ってます。
ま、テーマはあくまでとりあえずなので、あとは今年のベスト映画なんですかねみたいな話をきっかけに、他のお客さんと映画全般の話をしてもらうみたいな形にできたらなと思ってて、ただ今回は今までずっとフリートークでやってたんですけど、ちょっと余興を入れたいなと思ってて、2020年映画ベストの投票を集めようかなと思ってます。
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で、その投票形式がちょっと工夫してみようかなと思ってて、自分が思う客観的にこれが今年のベストだと思う映画っていうのと、客観的にはベストとかではないけど、個人的な思い入れが偏愛が強い映画っていうものを個人的ベストとして上げてもらってるので、2票1人から入れてもらうと。
客観的ベストと個人的ベストっていうものを1作ずつ上げてもらって、2票入れてもらうというので、最終的な投票数で今年のベスト映画をこの映画の話したすぎる場としての、2010年ベスト映画として決めるみたいな余興できたらなと思ってます。
ただ実際できるかどうかはちょっと見極めてる段階ですね。もしよかったら来ていただけたらと思います。
以上、ポッドキャスト吉野映画酒場第12回アンダードック前後編と佐々木インマイマインの話をさせていただきました。それではまたお会いしましょう。さよなら。