『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』の話をしました。
大きな影響力を持ってしまった前作に対して、その影響力を本作が削ぐ目的で作られているように見える点や、目的に対してこのやり方で良かったのかどうかなどについて話しています。
■メンバー
・山口 https://twitter.com/awajicinema ・マリオン https://twitter.com/marion_eigazuke ・オーイシ https://twitter.com/pteryx_joe
■映画の話したすぎるBAR in 週間マガリ
日時:2024年11月30日(土) ~
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場所:『週間マガリ』大阪市北区 天神橋1丁目11-13 2階 https://magari.amebaownd.com
■月1バー 映画の話したすぎるBARシンサイバシ
山口が店長の映画の話をするバーがリニューアルしました。
場所:「心斎橋」駅徒歩6分「BAR アメ村SHELTER」
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00:00
今日のテーマトークは、『ジョーカー フォリ・ア・ドゥ』です。
では、マリオンさん、解説をお願いできますか。
はい。では、映画ドットコムから解説を読ませていただきます。
バットマンに悪役として登場するジョーカーの誕生秘話を描き、第76回ベレンチャー国際映画祭で金字獅子賞、
第92回アカデミー賞で主演男優賞を受賞するなど高い評価を得たサスペンスエンターテイメント
ジョーカーの続編。トッド・フィリップス監督と主演のホワキンフェニックスがサイタックを組み、
ジョーカーが出会う謎の女、リー役でレディ・ガガが新たに参加した。
理不尽な世の中で社会への反逆者、民主の代弁者として祭り上げられたジョーカー。
そんな彼の前に、リーという謎めいった女性が現れる。
ジョーカーの狂気はリーへ、そして群衆へと伝播し、拡散していく。
孤独で心優しかった男が悪のカリスマとなって暴走し、世界を巻き込む新たな事件が起こる。
トッド・フィリップス監督のほか、脚本のスコット・シルバー、撮影のローレンス・シャア、
前作でアカデミー作曲賞を受賞した音楽のヒル・グドナトリルラ、メインスタッフも続登。
第81回ベネチア国際映画祭コンペティション部門出品。
タイトルのフォリア・ドゥはフランス語で2人ぐるいという意味で、
1人の妄想がもう1人に感染し、2人ないし複数人で妄想を共有することがある関王精神病のこと。
はい、それでは内容に触れる話に入っていきますので、ネタバレ気にされる方がいらっしゃったら、ぜひ見てから聞いていただけたらと思います。
はい、では沢居の感想、マリオンさんいかがでしたでしょうか。
そうですね、なんて言ったらいいんでしょうね。
全力で笑えないジョークをやりきった映画って言ったらいいんでしょうか。
なんか本当に簡単に言ってしまえば、前作に冷水をぶっかけるために作られた映画だなっていう感じがすごいしました。
それが本当にアーサー・フレックという人物そのものの映画に、この2話で完結をしたのかなっていうか、しっかりまとめあげたっていうふうにすごい僕は捉えられましたね。
まあそれは別になんというか、正直1作目だけでも十分それは伝わってはいたんですけど、
伝わってはいたんですけど、やっぱり世間のあまりにもまつりあげられたムーヴっていうのが本当に本作にもめちゃくちゃ反映されていて、
やっぱりこの熱気は冷まさないとダメだっていう思いがすごいあったんだろうなっていうのは本当に感じました。
なので正直、前作でも伝わっていたことをわざわざこの尺でやる必要があるのかっていう感じも受けたりはしたんですけども。
けどまあ、ちゃんとなんというか、アーサー・フレックというつまらないジョークしか言えないような男、
バリにつまらないジョークのオチを言って締めたという意味で、まあこの映画やっぱりすごいいいなというふうに僕は思いました。
はい、大石さんいかがでしたでしょうか。
03:00
なんかもう本当感想が結構見終わった後からいろいろ2点3点自分の中でしているんですけど、
なんか見終えた後はすごい誠実な続編だなという気がして、
まさにジョーカーというキャラクター、映画が生んだ、まあ元々バットマンの原作漫画にいるキャラクターではあるんですけど、
やっぱり映画ですごく知名度を得て人気になったキャラクターであるジョーカーっていうキャラクターそのものに対して、
どうアプローチをしていくのかっていうことをすごい考えられた続編だったなと思います。
それはおそらくそのジョーカー、もちろん現実社会において彼を模倣して起こした事件というのがまあ日本でも起こったわけですし、
そういったものに対してどう作り手として向き合うかってことをすごい考えた作品なんだろうなっていう、
その誠実さはすごい見た後、直後はすごい伝わってきて、なるほどなっていう感じはしたんですけど、
なんか見終わってからだいたい数日間くらい経ってきて、今になるとなんか本当にこれで良かったのかなっていうのも、
やっぱだんだん頭の中で持たげてきた感想ではあって、
果たして一作目の中でジョーカーに本当にその共振したような人たちだったり、救われたって思ったであろう、
まあ一作目のみならずだと思うんですけど、その他の作品群におけるジョーカーの描き方もおそらくそうだと思うんですが、
人たちっていうのの救いってじゃあどこにあるんだろうっていうのをすごい考えさせられるというか、
結局それってすごくその人個人の、もちろんこれはアーサー個人の話だって言ってしまえばそれまでなんですけど、
とはいえその弱者、弱い立場に立ってしまった人たちに撮ってみたら、
なんかまた結局自分で頑張れよって言ってる映画にもちょっと覚えてきてしまって、
なんかこれは確かにちょっと良かったのかな、これ誠実なのかな果たしてっていう、
なんかもう一回その問いが自分の中で出てきてしまって、自分の中でこの映画はすごい評価しかねるというか、
ちょっと固まりづらい映画だなっていうふうには今感じています。
僕はですね、見ている間ずっとジョーカーが出てきたら面白くなって、アーサーが出てくると面白くないなと思いながら見てたんですね。
ジョーカーは面白い、アーサーはつまんねっていうのを繰り返してて、でも最終的にどうせジョーカーのシーンもたんしなみたいなので、
まあ総合的にだんだんこうしなしなってなっていったんですけど、面白いのが作中の登場人物のジョーカー信者たちも同じ心境を辿ってるっていうのがちょっと面白いなと思ってて、
ジョーカーが出ては盛り上がっては、アーサーがられてしなびるっていう、最終的にしなびて終わるっていうのがすごい皮肉だなぁと思ってて。
アリーなんですけど、1作目に対しての2作目として意義深いなと思うんですけど、
06:06
結構映画として面白いかっていうのは結構僕は厳しいとは思ってはいるんですね。
ただ、いわゆる面白い面白くないっていうのじゃないところに、結構本作の面白みはあるかなとは、インタラスティングな部分はあるかなとは思うので、そこは話していけたらなとは思ってます。
はい、ではお便り紹介していきたいと思います。
じゃあ、オイスさんお願いできますか。
はい、エムハラさんからいただきました。
大きな反響を読んだ前作に対して誠実に向き合った作品だなという印象です。
ただ、誠実に向き合いすぎたがゆえに退屈な映画でもあると思いました。
ミュージカルシーンが多い割にあまり面白くなかったので正直かなりきつかった。
ただ本作のものすごく好きなシーンもあります。
それは前作にも登場したゲイリーが裁判で証言する場面。
ゲイリーの勇気と優しさと誠実さは、ジョーカーになろうとするアーサーを直前で引き戻しました。
もしゲイリーがいなければ、アーサーは完全にジョーカーになってしまっていたのかもしれませんね。
ゲイリーはアーサーにとっても、本作にとっても文字通り救いのような存在に感じました。
はい、ありがとうございます。
ありがとうございます。
あのシーン、証言のシーン、すげえいたたまれないなと思ってて。
もちろん優しくはあるんですけど、アーサーのことを恐ろしいと思っちゃってるっていうのが、すげえ悲しいなっていうのがあって。
アーサー自身は彼のことを好きなんですけど、妄想の結婚式のシーンで唯一、自分の友人関係として、唯一。
ただ、自分に優しくしてくれたから殺さなかったっていうのが、別にそれは優しさでも何でもないというか、相手からしたら単に人殺しに運良く殺さなかっただけとしてもちょっと捉えてそうな感じが切ないなぁとは思いながらは見てたんですけど。
なんか見たときは、前作見直してから見に行ったんですけど今回、なんか彼が結構めちゃくちゃなキーパーソンだったなっていうふうになるとはちょっと思ってなかったので。
というか前作のその彼女、妄想上の彼女みたいな感じになってしまってた女性も出てきたりとかしてたと思うんですけど、結構本当に前作と密接につながっていて。
やっぱそこで出てた登場人物たちがすごくアーサーにとってすごく、アーサーの自我というか存在価値みたいなのを揺るがすような存在だったなってある意味でってなってるっていうのはちょっと見ていて唸らされましたね、そこは。
めちゃめちゃ可哀想なことになってましたからね、本当に。
09:02
あの裁判の中で争われてたことに対して、まあ裁判で争うっていうことは理解できるんですけど、本心で本当にそうなのかなってずっと考えながら見ちゃったんですけど。
要は二重人格なのか、それともアーサーイコールジョーカーなのかっていう話。あれ多分どちらでもないよなっていう感じで見ててずっと。
だからこそあんな風に彼自身が揺らぐんだと思うんですけど。両方とも彼だし、とはいえ分離しかけてる、ある種文人的なというか存在でもあるしっていう、なんかあの裁判で争われてることって多分本人からしたら多分すごくどうでもいいことだったんだろうなっていうのが思えてきて。
まあ、とはいえ彼はジョーカーになってないとリーに振られちゃうんで、そこだけでジョーカーであろうとするわけですけど。
僕は裁判のシーンで、ジョーカーとアーサーは別だっていうのが弁護士の方針だったじゃないですか。
あれをやったのはジョーカーで、アーサーはそうじゃないんですっていうのを論調として持っていくわけですけど、どんどんそのジョーカーっていうものがアーサーから引き剥がされそうになっていってるなっていうのを見てたんですけど。
アーサーにはジョーカーしかないから、引き剥がされたら何もなくなっちゃうよなっていうのがあって、別にそのジョーカーであること自体は本人別にそんなに好きじゃないけど、社会からの承認がそれしかないっていうので、そこを引き剥がしてほしくないっていう思いもちょっと見えるなっていう。
最終的にそのジョーカーとアーサーは一個のものとして話は進むんですけど、ジョーカーなんてなくて、俺なんだ、アーサーなんだっていうので周りがどっちらけるっていうのが、それも悲しいなっていうね、ジョーカーに耐えられなくなるっていうのもそういうふうに僕は見てたんですけど。
いずれにせよ、本来持ってなかったもので人に評価されてしまった。しかも反社会的なことによって人から評価されてしまったっていうのが不幸だよなっていうふうには見てました。ちょっとなんかそんな単純な話でもないとは思うんですけど、僕にはそう見えたかなと思いましたね。
はい、じゃあ次のお便りいきましょうか。
甲信亮さんからいただきました。
年間ベスト企画以外では初めての投稿になります。
今回のテーマ作品であるジョーカー、ホリア・ドゥー、私は絶賛派です。
作品内容について少しだけ述べますと、創作や表現が人に与える影響力について強く意識された映画であるように感じました。
12:06
ホリア・ドゥーでは、前作が社会に与えてしまった影響についての反省表明と言えるようなストーリーが展開されます。
そして、そのストーリーテリングにミュージカルを部分的に取り入れることで、
原初的かつ人への影響力という観点で、コスパが高い表現である音楽とダンスの力によって前作の影響力を効率的に弱体化する反影響力の効果を狙ったのではないかと考えます。
東大随一のパフォーマーであるレディ・ガガを隣に置くことで、相対的にホワキンイコール・アーサーのパフォーマンスが劣って見えてしまうという、
順当に考えれば映画としての欠点と指摘できそうな傷さえも、ジャオカーというキャラクターの影響力を弱体化させることを意図した反影響力という観点ではプラスに作用しているのではないかというのは考え過ぎでしょうか。
はい、ありがとうございます。
ありがとうございます。
面白いですね、見方が。
面白いですね、本当に。
確か監督がインタビューか何かで、これはミュージカル映画じゃないって断言してるらしいですよね。
なるほど。
断言するんやな、この映画でって思うんですけど、ミュージカル映画じゃないっていうのはそうですかって感じですけど。
でも確かに歌とかダンスとか、いわゆるモロに妄想の世界ですよね、彼のとか彼女の。
繰り広げられるほど、時代はどんどん深刻な時代になっていってるよねっていうことになるんですよね。
お便りにもありますけど、反影響力というか、ある意味表現の限界みたいなのを突きつけてきているような感じも見受けられるようなこの映画って感じでしたかなっていうのは。
それは本当に僕がお便りの映画で紹介したエンジェルウォーズとはまた真逆の感じというか、とはいえやっぱり限界じゃんこれみたいな。
いろんなものが限界だよねって言ってるような映画ではあると思うんですよね。メディアにしろ民衆にしろお前ら全員限界来てますぜみたいなところはやっぱあるなっていうのはちょっとこの映画で突きつけてるものなのかなっていうのはすごい感じましたね。
すごい似てるなって思ったのが、マトリックス・デザレクションですよね。
僕も同じこと思いました、分かる分かる分かる。
やろうとしてることすげー近いなと思って。
一択目に持ってしまった影響力がその悪い方向に社会に舞い始まったことを取り戻そうというか、いやちょっと違うんだわ、そんなに扱っても困るんだわっていう。
まさに星梨央さんおっしゃってる反影響力みたいなものを狙った映画っていう意味ではすごいそれとかも連想しましたね。
いやー、マトリックス・デザレクション、正直僕どういう映画かよくわかんなくて、ただマトリックスを解体したいんだなっていうのはむちゃくちゃよくわかったというか。
15:08
ただちょっとジョーカーのこの作、マトリックス・デザレクションとちょっと違うのは、やっぱマトリックスとジョーカーの作品の立ち位置がちょっと違うかなと思っていて、
マトリックスはやっぱりウォシャウスキ兄弟にとっての話だと思ってるんで、やっぱりあれってすごく彼らに根差した話なんですよね、やっぱり。
誰しも代わり得るんだっていう世界っていうのは、みたいなのを彼らのパーソナリティというかジェンダー的なところとすごい密接に関わってる映画っていうのがあるんですけど、
ジョーカーはそこじゃないので、トッドフィリプスと密接した親密化っていう映画っていうわけでもないっていうのがちょっと違いとして出てますよね、そこ。
ホワイキン・フェニックスが歌うシーン多いわけですけど、見てて混乱してたんですけど、これって歌うまいんかなっていうのが僕よくわからなくて、
多分あんま上手くない気がするなぁみたいな、母国語として聞いてないことで、このピンときてないみたいなのがちょっと上手く処理しきれなかったんですけど、
後半でレディー・ガガがちゃんと唱えて歌いだして、あ、やっぱこっちがちゃんと歌うまい人だよねって、じゃあやっぱそんなにだったよね、きっとっていう風な、なんていうか後からちょっと腹落ちしていったりはしてて、
やっぱ明らかに出力が違うなっていうのがあって、本当にそこで表現してる人と、あくまでこのアーサーっていう人間としてそうだったらいいのになって、
俺本当はこんなことできないけどっていうことを無理してる人がやってる人の雰囲気みたいなのはあったなーっていうのは、まぁ後々思うとはそういう風には感じたりはしたんですけど。
確かにレディー・ガガが本気だったらもっと上手いよなっていうのはありますね。
まぁわざとあれぐらいの出力というかにはしてるっていうのはまぁ感じられますけどね。
まぁでも見てる時そんなになんかめちゃくちゃホワイティフェニックスの歌が下手かとは思ってはいなかったんですけど。
なんか割と聴けるじゃんと思ってました。
聴けるし、まぁその本気の歌手との出力が違うという意味でもまぁ別にそれは良いことというか、
まぁある種限界な男が頑張って空元気出してる歌だと思えばそのぐらいだよねみたいなところはやっぱあるので、
まぁなんか僕はあれですごい、あれで良い歌、歌唱パフォーマンスというかっていうふうには見ながら見て思いましたけど。
はい、じゃあ我々からトピック出していこうかと思うんですけれども、
まぁ触れるとこは多い作品ですけど、どっからいきましょうかね。
18:07
まず冒頭のホワキンエンジェルアーサーのその痩せ具合にちょっとびっくりしちゃったんですけど、
こんなになんていうか、ちょっと前に某を恐れてるで少しふっくらしたホワキンを見て後だったんで、
こんなに変わるかねと思って、ちょっとあの背中はすげーなってなりませんでした。
確かに一作目もすごかったと思うんですけど。
そうですね、もっと痩せてますよね多分ね、おそらく、そんな気はしました。
いや、まぁあとね真の冒頭という意味では突然ルーニートゥーンズ調のアニメが始まるのびっくりしましたけどね、そういえば。
あれもうほとんど映画の内容全部言ってましたよね。
まんまでしたね。
あれ入れる必要が本当にあったのかはよくわからないんですけど、まんまと言えばそのままの内容のアニメだったし、
でルーニートゥーンズにしたら質感やっぱり今っぽいなっていうか、
なるほどなるほど。
なんかそこも寄せて欲しかったなってちょっと思ったんですよね、ザラザラ感とか。
僕カートンネットワークでその当時のやつとか見てたんで、なんかそこはもうちょっと頑張ってほしいなとか、
そこでノイズになることはないんですけど、ちょっと変なとこで引っかかってしまったっていうのはありますね。
だって前作はね、やっぱその当時のバーナーのロゴが出たりするじゃないですか、ソウルバスの。
ああいうのとかやって再現度とかすごい意識しててのに、なんかアニメはもうちょっと再現度足らないんじゃないみたいな変なことを思ったりしました。
ちょっとアニメを差し込んだのは飲み込めないなっていうのもあって、
わかるんですよ、そういうことするっていうのは。ジョーカーだからっていうのはわかるんですけど、
なんだろうな、ちょっとチョケ過ぎ感も感じんことはないかなっていうのもあるし、
直接的すぎて逆にあんまうまく感じないなっていうのもあって、
なんかむしろ、実際にあの収容所というかアーカムアサイラムですよね、あそこ。
刑務所兼精神病院みたいなとこですよね。テレビ映っててたまにアニメ流れてたじゃないですか。
そこにジョーカーそのものじゃないにしてもピエロっぽいキャラが自分を乗っ取られるみたいな番組が流れてて、
曖昧場でアーサーがそれを見て最終的にそのピエロが破滅に向かっていってるのが流れているみたいな感じで、
なんか後々なぞらえていくみたいなことも可能だったんじゃないかなっていう気もして、
21:03
そんなことをしないといけないかどうかっていうのは微妙なんですけど、アニメやるとしたら、
わざわざ劇中にそういうカーテンが流れているテレビもあるんだったらそこに流して、
でも実際にそこに流れている番組が実際にそれであるかどうかもあんま関係ないじゃないですか。
もうアーサーが勝手にそれを見てるだけでいいから、この話は全部。
全部アーサーが見た妄想ですっていいから別に何でもいいんですけど、
あそこに冒頭に流れたアニメが何でもない。
アーサーが見た妄想としてですらないから、もうなんか作り手のやったった感だけがちょっと感じる部分もあるなと思って、
そんなに意味あったんかなっていうのは結構疑ってます、あれは。
確かに本当にアニメ終わりました、プツンって切ってはい、ジョーカー本編始まりますみたいな感じじゃったじゃないですか。
何?っていうか出るみたいな、なんですか、ピクサー見る前についてる短編でも見てましたか?みたいな感じの断実というかはめちゃくちゃ感じましたね。
確かにそれだったら本当に刑務所で見てるアニメがああいう感じのというか、そのものズバリじゃなくとしても乗っ取られるみたいな話みたいなのって、
僕ルーニー・トゥーンズ全部見てるわけじゃないですけど、なんかあるんじゃないですか、ルーニー・トゥーンズの作品に。
そういうのありそうな気がするし、ゲームに流してたやつちゃんとルーニー・トゥーンズでしたしね、スカンクのやつとか。
せっかくアニメーションっていう絶対なるフィクションとしてあるんだから、それが途中で入ってくることで、
もう現実とフィクションぐちゃぐちゃになってるみたいなこともできたような気もするけど、
もうバツって分かれてるから、あそこそのまま取り外しても話成立してるじゃないですか。
むしろ説明的すぎるまでの説明を省くことで、むしろちょっとよく完成度上がるぐらいやと思うんですけど、なんかね、うーんっていうのは思いました。
だからそういうところを含めてなんかあれなんでしょうね、お便りにもすごいありましたけど、なんかギチギチだなというか、
伝えたいこと完璧に分かって帰ってくださいねみたいな。
それを誠実というワードとかね、ゴイさんとかも使ってましたけど、そういうところが誠実さだったりするのかもしれないですけど、
だからやっぱり確かに前作のほうは間違いなく映画としての広がりとかはあったわけですよね。
やっぱり想像の余地とかあったんだけど、それゆえに変なやつが燃え上がっちゃってみたいところがあったから、この作りなのかもしれませんけど。
なるほど。
だからそれがいいのかがわかんないっていうのはありますね。
だから映画としての出来よりもそっちを優先しすぎてるところはやっぱりある気はしていて。
今回例えば、明らかにアーサーの妄想と現実っていうのをミュージカル、てか音楽とダンスがあるとこれは妄想ですよっていうふうにパキッて分けるじゃないですか。
24:06
前作って現実とそれが実続きだってどこまでがモアさんの妄想でっていうのがわからないからこそ、
ジョーカーらしさでもあり面白さだったり信頼できない語り手だよねって話にもなってたと思うんですけど、
本作でそれを作り手側がすごい明確に提示してるなって思ったんですよ。
明確すぎるぐらい提示してるなと思って。
だからこれはもう、あ、もうノットフォーミーなんだなと思って、作り手側がそもそもこちらに対して。
そうですね。
だから見てて、あ、信頼できる語り手だなってなって。
お便りとは全く違った。
だって現実じゃないシーン、明らかに現実じゃない描き方になってるから、
あれ?妄想か現実がわかんないとかじゃなくて、妄想、現実、妄想、現実。
だからもう逆に全部信用できるんですよね。
妄想シーンは妄想だからOK、現実OK、妄想OKってなってるから、
その曖昧な部分はなくって、めちゃくちゃ信頼度の高い語り手によるストーリーテイングだなと思いながら見てたし、
やっぱりその、ジョーカー信者の描き方っすよね、本作。
お前らだよって言ってたじゃないですか。
完全になんかその、お前らだよっていう、映画見に来てお前らだよって言ってる感じで、
僕もなんかすげえわかるなって思ったんですけど、別の方があれっぽいなって言ってるの見てて、
それすげえそうだなって思ったんですけど、エヴァンギリオンの旧劇場版だなって思いましたね。
あれはまんま観客出しますけど、お前らだーって出しますけど、あれに近いものを感じるっていう。
そうっすね。いや、それに近いかもしれない。
今回のリアドゥも、エヴァンギリオン旧劇も、ある種、中にあるドロドロしたものをぶちまけてしまって、
どっちだけさせるみたいな部分という意味ではすごい似た映画。
それあと、ホワキンフェニックスの某は恐れているもある意味そんな映画だったし、みたいな。
そういう風に繋げることもできるよなーって感じですよね。
確かに。でも、エヴァ旧劇は逆に面白いですからね、あれは。
あれはもう最高に面白いですよ。
あんなもん見せられたらもうたまんないくらい面白かったので、でもそれすらも許してくれないんですよね、ホリアドゥって。
本当にアーサーっていう人って本当に退屈というか、なんてことない普通の弱い人ですよ、みたいなことを言ってどっちだけさせて、
それが別に面白いかもなんともないっていうことが事実としてのしかかってくるって、だいぶつらいものを突きつけてくるよねってちょっと思いましたね。
27:08
あとちょっと、さっき映画ドットコムの解説読んだ時思いましたけど、アーサーってワード一回も出てこないことになんて悲しいんだって思いました。
確かに。
一切触れられないんだなって思った時に、うわ、めちゃくちゃ悲しいって思って、
いや、なんかさすがにちょっと同情するなーっていうか、っていう気持ちにはちょっと今なりますね。
やばいですね、それ。
いや、それってもう本作の評価が低いのの現れみたいなものだと思うんですけど、
映画を売る側も、この映画に何かを期待して見に行った側も、ジョーカーを見に行ったわけじゃないですか。
で、実際1作目はあれはアーサーの話じゃなくて、ジョーカー誕生誕なわけですよ。
ジョーカーが誕生するのをみんな見に行ってるから、アーサーっていうのは自分の名前を代入してもいいものとしてそこにいるというか。
だったんですよね。
だったのに、今作がもうアーサーでしかないというか、アーサー個人の話で、もうそこに自分を代入しようがないし、
むしろそのジョーカーはいませんでしたってなっていくっていう、ジョーカーなんてものにはなれませんでしたって、
あなたはジョーカーになれませんでしたっていうのを突きつけていくから、
それはまあこのプロモーション側としてもアーサーの名前を出さない映画紹介をするような中で本作に期待されてたものとは違う評価を受けるよなっていうのは思いますね。
悲しすぎるだろうっていうか、正直一作目見た時からこれって別にジョーカーの話じゃなくてアーサーの話だったじゃんっていう気持ちで見てたんですよね。
僕これジョーカー公開時とかに誰と話したのかな、山口さんもしかしたらいたのかもしれないんですけど、
これって自分をジョーカーだと思い込んでる人の話だよねみたいな話をめっちゃしたことがあって、本当そうだよなって思ったんですよね。
本当にこれアーサー・フレッグという男の人の話だったなっていう。
なのにすごいそこでジョーカーが生まれ、そこにある種熱狂的というか、これはすごい共鳴してしまうみたいな感覚に陥るみたいなの。
あんま確かにそこのピント来ないもんなって思ってたので、その話をした時にすごい腑に落ちて、やっぱりこれアーサーの話だったなっていうのは前作からずっと思ってたんですけど。
だからやっぱり冒頭で僕も言った通り、何を今更な話をずっとしているんだみたいな感覚になったっていうのはそういうところです。
30:00
そうですね、本当に突き詰めると語ってることは1作目と一緒だなっていうのはあって、アーサーっていう持たざる者がジョーカーっていう仮面をかぶって周囲からは評価されました。
でも結局自分としては何も持たないアーサーって人間でしかないんですよねっていうことを描いた話なんだけど。
1作目のジョーカーが映画としてむちゃくちゃ出来が良かったし、いろんなものを曖昧に描いたことで結局ジョーカーの話に慣れてしまってるっていうところがあって。
じゃあその曖昧さなくしますねっていうアーサーの古代妄想の話なんですよって、それを勝手に周りが評価した話なんですよってそこを曖昧に描くことは今回は一切しませんってしたら、
とんでもないことになったわけじゃないですか今回。言ってることは一緒ですよ本当に。
そうだと思いますね。結局そのアーサーがじゃあなぜあの立場にいるのかっていう話の方におそらく作り手は問題定義したかったんじゃないかなっていう気はするんですよね多分。
あの話は別にジョーカー的になってある種世の中を狂わせれば自分の望みは叶うって話じゃなくて、おそらくそういう立場にいる人が犯罪を起こしやすかったりするけどそれはただ断罪していいんでしょうかって話のはずだったんですよ。
だからなんか本作見てて結局断罪するんだっていうのはちょっとがっかりしたところがあって、もちろん殺人っていうのは良くない行為ですけど、そうなってしまったその社会背景みたいなものは今回全く描かれないじゃないですか。
一作目で描いたからではあるんですけど、そこが完全に抜けてしまってただアーサー個人の責任になっちゃったのが、古代妄想を抱くつまらない人間ですよってだけになっちゃったのがあれっていう感じが個人的にはすごいしていて。
なるほど。確かにその一作目で描きたかったことというか、描こうとしたであろうことっていうその社会的な側面っていうのがあったけど、そこを一作目は多くの人がジョーカーの話として捉えたっていうのに対して、そうじゃなくてアーサーの話なんですっていうことを明朗に言おうとした。
けど結果的にそのアーサー個人に全てが集約しすぎて、ちょっと社会が希薄になったっていうのはあるかもしれないですね、確かに。
そうなんですよ。もちろんそれによって熱狂するっていう意味での社会は描かれるんですけど、ただ結局根本そこに追いやったその構造みたいなものは一切描かれなくなってしまったというか。
なんかこれって本来の描きたかったこととは違うと僕は思うんだけどなっていう。
33:07
なるほど。一作目のアンサーというかカウンターをやろうとしすぎて、結局一作目がやろうとしたことそのものはちょっとスポイルしちゃってるみたいな感じはあるかもしれないですね。
じゃないかなって僕思ったんですよね。
なるほどなー。
確かにちょっとスポイルっていうのが本当になんかあんましっくりくるかもなーっていう気はちょっとしますね。
でもなんかそこまでなんか一作目でそこまでめっちゃ社会構造がどうこうって描きたいかっていうと別になんかそんな気もあんまなさそうだったかなって正直思っていたので、なんかまぁそこまであんまちょっときてないとこはちょっとあるんですけど。
なんかあの時期って多分どちらかというとジョーカーだけじゃなくて複数の映画でその格差っていうのを描く映画が多かったと思うんですよ。
あの年で確かパラサイトとかもそうですし。
あの辺確かにパラサイトとかアスとかあの辺が連続してた時期ですよね。
なので割とその問題意識としてそもそも映画見てる人はっていう大前提が置かれますが、割とそこが前提としてあって僕見てたので結構やっぱりそこではああいう立場に陥ってしまう状況みたいなある種社会モデルとしての映画として結構僕は文脈に置いてたので、
そういう面は確かに今になってこの2作目のフォリアでになっちゃうとちょっと薄くなったのは残念だなっていうところはありますね。
法学においてはジョーカー信者って1作目よりさらに悪質なものとして描かれてるとは思うんですね。
もう上っ面の見たいものだけ見て、見たくないものは全然受け入れずに飽きちゃう、あるいは見捨てちゃう、どうでもよくなっちゃうみたいな。
あるいは何だったら憎んじゃうみたいな側面もあると思うんですけど、そういう軽薄なものとして描いてたとは思うんですけど、
その中でレディガガが演じてたハーレクイーンのキャラクターというか、彼女もそれの先方に立っている人間ではあるんですけど、
サイドキックが前に出るみたいなことはあるなっていうのはあるんですけど、
本作においての彼女の役割って僕あんまり魅力的に感じなかったんですよね。
ジョーカーを見捨てる、アーサーを見捨てる人間っていう意味での高感度の無さとかじゃなくて、
舞台装置でしかなさすぎるように僕は感じたところがあって、
ジョーカーを評価して、ジョーカーを持ち上げて、アーサーを見てない人の集団の擬人化でしかないというか、
36:07
あんまり個人としてのキャラクター性みたいなのはあんまないなと思ったんですよね。
なんかほぼニアリーイコールモブみたいな感じというか、
もちろんそのビジュアルとかあるいはパフォーマンスの存在感っていうのはあるんですけど、
ストーリー的な存在感あんまないというか、別にあれがファンにもてはやされたから調子乗りましたの代わりに
一向人になってるだけぐらいの感じに見えるというか、
なんかあんまりその物語的な吸引力を感じなかったんですよね。
確かに結構彼女嘘つくって言ったじゃないですか。
なので結局彼女のバックボーンってあんまりよくわかんないよねってまま終わっちゃうっていうのはあるので、
本当にただの、ただのというのはちょっと違いますけど、
本当にジョーカーに熱狂的なガールって感じでしかないよなとは見える。
けどそれぐらいの中身の無さこそが現実的なのかなみたいなところなのかもしれないですけど。
仮にも原作コミックにおいてナーリキャラクターであるハーリークイーンを実質的なモブみたいな扱いしたっていうのは、
結構なんでしょうね、ある意味このシリーズっぽいっちゃっぽいのかもしれないけど、
だってそもそもアーサーが何者でもないしっていうのもあるから、
っぽさはあるんだけど、にしても装置やなーみたいな感じにはしちゃったんですよね。
ちょっと切なかったシーンとしては、地下房に追いやられたアーサーに会いに行くっていうシーンがありましたけど、
そこで彼にメイクをするっていう。
メイクをした彼を受け入れるっていう形になってくると思うんですけど、
あれはすごい切ないなーと思って。そのままの彼、素の彼では受け入れてもらえないんだなーっていうのが結構明確に示されたシーンで、
きっつーってなりながら見てました。
なんかこれあれでしょうね、みんな片思いの三角関係みたいな感じですね。
そうですね。
ちょっと思ったのが、それこそその一作目とか今作でもそうですけど、メイクをするシーンっていうのは、特に一作目かな。
すごい印象的に映りますけど、今作すごいその反復としてのメイクを剥ぐシーンっていうのがあるなと思って。
公衆トイレでのすごい美しい一作目の、彼が初めて殺人を犯した後の全能感で踊るっていうシーンの反復を今回ちょっと映すじゃないですか。
ダンスが終わってその後にある意味巣に戻ってメイクを落とすっていう。
39:00
あそこ僕すごい、あのシーンはすごいいいなって思ってて。
なんか人間的だなってすごい思ったんですよね。
その時の恐怖というか、結果的に自分が言ってしまったことを巣に戻って、なんていうか怖くなっている自分みたいなものを、なんかすごい明確に映しているシーンだなと思って。
なんかそういう意味ですごいメイクを剥ぐ、まさにこの映画のテーマってそれなんですけど。
確かにそうですね。
なんかそのシーンがすごい。
そうそうそうそう。
なんかすごいそれは多分意識的に一番なんか力入れて描かれているのかなっていうのはすごい見てて思いました。
大事ですからねそこは。
そう思うとあれですよね。
監視の人たちにヒゲ剃られるシーンとかも結構なんか思想的な感じしますけど。
もういつ死んでもわかんない状況かっていうのもあるし、そういうのがだんだん削ぎ落とされていくみたいな描写にも見えるよなっていう。
これはこじつけなとこもありますけど。
僕のサウリーの感想でも言ったんですけど、ジョーカー出てるシーンは面白いとは思ってて。
裁判のシーンめっちゃ好きなんですよね。
自己弁護することになって、弁護人の番みたいになった時に演じるわけじゃないですか。
独断上を演じるわけですけど、何も言ってないんですよねあそこ。
何も言ってないっていうのがちょっと面白すぎて。
そのわっさらさが結構魅力でもあるなとは思うんですけど。
一作目と基本的には予温としていることは一緒だとは思うんですけど。
でもやっぱりカッコつきの表現として聞いてもらいたいんですけど、映画として面白いのは一作目だと思うんですね。
それはなんかいろんなものが曖昧だったりとか、表現としてやれることとしてフィクションとしてやれることをやろうとしてるっていう感じが
一作目の方がピリッとやりきってるなっていうのがあるんですけど。
予温とすることは一緒なのに映画としてここまで違うっていうのが、むしろそこにこそ映画っていうものの本質があるのかなって気もして。
すごい残酷なことなんですけどね。言いたかったことを伝わらないのが映画っていうことでもあるから、それって。
なんかその一作目と二作目の差みたいなのを考えたときに結構そこにある映画というものの本質みたいなのがあるんじゃないかなって気がして。
ちょっと怖くもあったりはするんですけど、上手に嘘をついた方が勝つってことでもあるんでね、それって。
だから本当に一作目の逆再生してるみたいな映画だなって気はしていて。
メイクをつけたところからメイクを剥ぐってところもそうですし、ある意味ラストシーンは冒頭で街でリンチされたところに反復にもなってるように見えるんですけど。
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本当にただただアーサーという人がジョーカーになっていくまでの話をやり、そのジョーカーがアーサーに戻っていく話をやるって、
本当に一作目の逆再生そのままやってるなっていう感じが。だからこそ、一作目のカタルシスってやっぱりもたざる者が持つことに仕方がないけどカタルシスがあったんだなっていうのがむしろ逆説的にわかるというか。
いかに一作目すごかったかっていうのが逆にわかるみたいなのは本当にその通りですよね。
それが仮初めだとしても、持たざる者が何かを手に入れるっていうこと自体は映画的な魅力なんだなっていうのがあって、言ってることは一緒なんですけどね。
それは空虚ですよっていうのを言ってるんだけど、でもその空虚なものだけれども何かが手に入られたように見えるっていうのが映画なのかなっていうふうにも思ったりしたんですけどね。
だからすごく、もちろん一作目に共鳴する人に対するある種の批評的な目線が本作にはあるんですが、一方であれに救われた人もいるはずなのに、そこってどうするんだろうなっていうのはずっとやっぱ。
そこに対するタイトルとして本当にそれは誠実なのかいっていう。
それむっちゃあって、本作で言うとアーサーと一緒に収容されてる若者いたじゃないですか。
ジョーカーに憧れて行動して最終的に監視の暴力で死んじゃう男の子いたと思うんですけど、彼ってジョーカーが救いだったんですよね。
それしかないから。で、彼はそこに縋って生きてたんですけど、じゃあ彼にジョーカーなんていないんですよねって嘘なんですよねって言ったところで何の救いにもならないんですよね。
だからジョーカー一作目でやって、君ももしかしたらジョーカーかもしれないって言ってくれたことに対して、いやジョーカーなんていなくて君って何者でもないんですよねっていう。
冷水をかけて現実を見せたところでその本に別に救われるわけでもなんでもないっていうのがあって、別にそこで現実を見せても別にそこで現実を見たから前に進めるわけじゃないからこそそこに救いを求めてたわけじゃないですか。
じゃあゼロですってなったところでじゃないかって思いもむちゃくちゃあって。やっぱその街中のチンピラどもはまあまだいいんですよ。やっぱ収容されてる彼に対する救いっていうのは何ていうかすげーどこにあるのかなっていうのは思いましたね。
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まさにさっき僕が構造的な話としても取られるっていう一作目を言いましたけど、結局この二作目まで踏まえてみたら構造的にその立場にいる人は構造的に逸脱しく生きるしかないって言ってるようにも見えるんですよね。
なんかそこに救いを何も提示せずに作り手の責任を取ったって勝手に言ってるのはさすがにちょっと虫が良すぎないかなって思ったとしちゃって。
それは作り手として責任は持たなきゃいけないと思うんですよ、作品に対して。それが社会にどういうメッセージを送ってしまったかっていうのは責任を持たなきゃいけないと思うんですけど、ただキャラクターを二作目でこういうふうに処理するだけで、二作目の救い全部嘘ですっていうのってちょっとそれ一番責任なくない?って気がしちゃって。
なんかそれだったらあれですよね、弁明しなかった方がまだマシだったよみたいな感じですかね、それって。 そう、だったら弁明しない方がいいし、別のキャラクターで別のことを描けばいいじゃん、そしたらさっていう。そうじゃない救いがあるよっていうことを別の映画で描けばよかったじゃん、なんでわざわざ二作目でやるのよそれをっていうのがすごい自分の中で引っかかってしまって。
なるほどね。 それって結局一作目の良くないって作り手が言ってるものに固執するしかなくなっちゃうじゃんって思うんですよ。だってあれを原理的に見るしかなくなる、二作目は言ってるだけっていうふうに思うしかなくなるじゃないですか、本当にとってみたら。それって正しく伝わんのかなっていう、伝わんなくない?それってむしろっていう。
確かに、1でイエーイってなった人に冷水かけたら、それはもうやけっぱちになるしかなくない?みたいなことに繋がるよねって結局一緒じゃんみたいな結末がみたいな。世界にどうインフルエンスするかみたいなところが結局一緒じゃんみたいなところになっていくかもしれないよねっていうことですよね、そこがね。なるほど。
結構このジョーカー・フォリアードゥっていう世の中に低評価が渦巻いてると思うんですよ。結構乱暴な低評価が多いなって気持ちはあるんですけど、なんかみんなそのなんでそこまでジョーカー・フォリアードゥが嫌いなのかっていうのを多分あんま整理できてないのかなって気もして。
割と本当はみんな大井さんが言ってたことを根っこで思ってるからそこまで低評価になっているのかなって気がせんでもないっていうか。
僕ちょっと最近思うことで結構アンチ正しさみたいなのが結構すごい最近しんどくあって、すごいロアク的な態度とか過剰にアンチ正しさを求める態度とかってすげーしんどいんですけど、
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彼らが単純な邪悪というよりも、そういう正しさに救われないっていうのがわかってるから、そこにアンチするしか実存的な救いがないんだろうなって気はしてるんですよね。
そこにアンチ正しさを唱えることにしか救われないっていう感覚があるんじゃないかなとは思ってて。だって世の中でみんなが唱えてる正しさ俺のこと救わなかったじゃんっていう叫びがちょっと最近見えるなって思う時があって、
多分その表面上言ってる悪辣な態度とかっていうのは多分その人の本質じゃないような気がしてるんですよね。むちゃくちゃ助けてほしいって叫んでそうだなって思うことがあって、
なんかその表面上の言動がちょっと悪質すぎて、あんまその人に手を差し伸べたくないなって思いもちょっと生まれるぐらいではあるんですけど、でも結構切実だなって思うことは多々あって、
なんかその気持ちに寄り添うとした時に、例えばそれってもしかしたらジョーカーに救われた人かもしれないなとか、世の中に嫌な言動をばら撒くことで救われてる人みたいなのがもしかしたらいるのかなっていう、
なんかそのことをちょっと思って、いやそうじゃないんですよねって、ジョーカーなんていないんですよねって言って、じゃあ世の中って良くなるのかなっていうのはすごく思いますそれは。
結局そういうところが結局見えてなかったよねみたいなっていうか、悪劣な振る舞いというか言動する人の実はその切実なところっていうのを、誰もアーサーを見ていない、劇中の民衆とかリーがアーサーを見ていなかったと同じような現象ですよねそれって。
が起こっていて、それは監督自身もある意味そういう感じだったっていう、この作りを見るとみたいなところがありっていうのが、かなり絶望的ですよね。
いろんなものに限界だなって言ってるなって感じしますね。お前らの限界これねって、見えてないんだねっていうところの限界を突きつけてくる感じだなってちょっと思いましたね、今の話聞いてると。
そういう映画だったなあっていう。
だからこそ本当ラストで彼がファンに刺されるっていうラストで、なんとなくその後ろで次のジョーカーっぽいのが生まれてますよみたいな感じで映しますけど、あのラストも本当に今思うとというか、やっぱ全然政治じゃないなって気がして。
本当フロスキタパンデルにしかないじゃん、それってっていうか。
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それを弱さを受け入れた後のアーサーにどう救いがあるかを描いてほしかったんです、どちらかというか。
自分自身弱さであり孤独を受け入れた後に、彼にどういう救いがあるのかをこそ本作で描くべきだったんじゃないかなって気はしていて。
本当にカウンター打つことに取りすぎてたせいだなって思いますね、そこまで至らなかったっていうのが。
それって本当あれですよね、悪辣なこと言ってる人そのもの感というか。
そう、結果的にはそうなんです。
逆張りをすることじゃないですか、要は。
正しさへのアンチって要は。ある種の逆張りだと思うんで。
ってことを作り手も実はやってたりするかもねっていうところっていうのはちょっと今大石さんの話とかここまで最近話してきてなんかちょっと得る視点だったなとちょっと僕はすごい思いましたね。
そう考えるとめちゃめちゃ悲しいですね、この作品自体が。
本当に悲しいし、だからやっぱりこの映画のことちょっと嫌いにもなれないというか、つまんないって言い切れないなっていうのはやっぱりそういうとこかなっていうか。
これはちょっと今までの話ちょっと聞きしてきた中でなんてこと言うんだって言うかもしれないんですけど、僕はなんかこの退屈さが担保されてるっていうある種の、ある種の退屈さっていうかつまんないよねって言い切ってるのが成立する映画っていうのがあるんだっていうのが、僕はすごい興味深いし面白いなって思っちゃったんですよね。
そんだけ好きかって、とことん人につまんないと思わせる映画がめちゃくちゃ面白いって思えるっていう体験そんなないなって思って。なんかそれができるのがやっぱすごいし、この映画のやっぱ唯一無二さだなってちょっと思ったりもしたんですよ、正直。
それ僕もちょっと分かって、劇場出た後にその前一緒に並んでてた人が、そのもう一人一緒に来た同伴者に久しぶりにクソ映画見たって言ってて、それ聞いた時にこの人正しく受け取ってるってちょっと思っちゃったんですよ。正しいとか何様だよって感じですけど、でもなんか伝わってるなっていうのはちょっとだけ思ったところがあって。
なるほどな。いや、もしかしたら自分が好きじゃないと思うものに対して好きじゃないっていう支えを与えてる映画なのかなっていう。
それはそれでもしかしたら救いなのかもしれないなっていう。良くないけどね、良くないですけど、やっぱ一作目っていう船に乗った人に対してその船空いてますよっていう作品だとしたら、それはちょっと悲しすぎるなと思って。
なんかいっそちょっとクソ映画だよねっていう体験を同時代性を共有してることにちょっと喜びを覚えるぐらいの方がもしかしたら救いなのかなっていう。
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ただこの映画の退屈さを楽しめる、許容できるっていうのもある種の特権性だとは思うんですよね。
僕はちょっとそういうとこを感じたよっていう。面白かったよっていう。退屈だけで面白いっていう映画だったよっていう映画ではあったなって思いました。
そうですよね、泣けなしの2000円を払ってこれを見るために生きてきたぐらい楽しみにしてた映画が全然好きじゃなかったとかだったら、ちょっとそれはやっぱ悲しいですもんね。
人によってはね、アイマックスとか払ってね、もうちょっと割増料金で見たりするわけですから。
なんなら年に1回の映画をこれにっていう人もいますよきっと。
そんな人に対してトッドフィルプスは、わーって言うわけですよみたいなのが、それも体系として僕は素晴らしいことだと思うよとは思うんですけど、そんなもん言ってられるかいっていう人の気持ちも大いにわかるっていう。
あなた正しいよって言ってあげたいというか、そうだなっていう。
これはつまんないもん、見たらつまんねえよって言うよっていうのはそりゃそうだっていう。
はい、じゃあそんな感じでジョーカーフォリアドゥの話は終わったかと思います。
ではお知らせになります。
映画の話したすぎれば、次回は11月ちょっとまだ日程未定なんですけれども、また決まったらお知らせいたします。
場所は大阪南森町週刊曲がり19時オープン23時クローズです。
また大阪震災橋で第3木曜日に山口が店長する映画の話したすぎれば震災橋も営業中です。
今回は第3木曜日ではなくて臨時で10月31日木曜日の開催となります。
場所は震災橋駅徒歩6分バー雨村シェルター内19時オープン23時クローズです。
さらに週刊曲がり11周年イベント夜は短しい100物語ホテルに映画バーメンバーのマリオンさんと大石さんが参加いたします。
10月26日土曜日開催場所は京都九条にあるホテルC京都16時オープン22時クローズです。
さらにさらにこの番組ではお便りを募集しております。
番組全体や次回お便り募集テーマトークテーマ作品を向けてご自由にお送りくださいませ。
最新情報次回テーマはXとインスタグラムにて告知しております。
各ご案内は番組説明文をご確認くださいませ。
57:00
それでは映画の話したすぎラジオ第185回ジョーカーフォリア2の回を終わりたいと思います。
それではまたお会いしましょう。さよなら。
57:34
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