今日のテーマトークは、『リアル・ペイン 心の旅』です。はい、ではマリオンさん、解説をお願いできますでしょうか?
はい、映画ドットコムより解説を読ませていただきます。僕らの世界が交わるまでで監督デビューを果たした俳優ジェシー・アイゼンバーグが監督・脚本・制作・主演を務め、第97回アカデミー賞で脚本賞と助演団優賞にノミネートされたロードムービー。
ニューヨークに住むユダヤ人のデビットと、兄弟のように育ったいとこベンジー。現在は添えになっている二人は、亡くなった最愛の祖母の遺言によって数年ぶりに再会し、ポーランドのツアー旅行に参加することに。
正反対な性格のデビットとベンジーは、時に騒動を起こしながらも同じツアーに参加した個性的な人たちとの交流や、家族のルーツであるポーランドの地を巡る中で、40代を迎えた自身の生きづらさに向き合う力を見出していく。
アイゼンバーグがデビット、テレビドラマメディア王華麗なる一族のキーランカルキンがいとこベンジーを演じ、第82回ゴールデングローブ賞で女演団優賞を受賞。
第97回アカデミー賞でも女演団優賞にノミネートされた。共演はルイス・ウェイン、生涯愛した妻と猫の監督でも知られる俳優ウィルシャープ、フィリスはある噂突然人のジェニファー・グレイ。
僕らの世界が交わるまでに続いて、俳優のデマストンが制作に名を逸られた。
はい、ではここから内容に触れる話に入っていきますので、ネタバレ気にされる方がいたら是非見てから聞いていただけたらと思います。
はい、では彩の感想、マリオンさんいかがでしたでしょうか。
そうですね、結構淡い話だなと思いました、まず。
僕らの世界が交わるまでが結構味付け濃いかったなって思うぐらい。結構淡い話だったなというふうには思ってて。
それぐらい結構、それぞれの抱えている痛みとか息づらさだったりとかが、結構しっかり解決しない終わり方だからだと思うんですよ。
解決しないって言うと言い方も厳しいニュアンスと違うところはあるんですけど。
なんかその息づらさとか痛みとかをどうやって向き合っていくのかみたいなことを、この旅を通じて。
その旅っていうのがめちゃくちゃ大きな影響を与えてその力を見出していくみたいな感じでもなく、
なんかじんわりと、まあ生きていこうか、今回明日もからもみたいなふうに思えてくるみたいな映画だったのかなというふうにはすごい思って。
一瞬なんかさっと見ちゃうと結構捉えどころのない話のように見えちゃうんだけど、
でもすごくなんか考えれば考えるほど、すごく大切なことをなんか僕も同じくこの旅から学んだなっていう気持ちにさせてくれるような映画でしたね。
もう本当にジェシー・アイゼンバークとキーラン・カルキンの演技は本当に最高でしたね。本当に素晴らしい映画でした。
はい、大石さんいかがでしたでしょうか。
これ僕すごい深く刺さっちゃって、マジで映画見てる最中ずっと泣いてたんじゃないかなぐらい、なんか自分の中に刺さってしまった作品なんですけど、
物語としてはさっきマリオさんもおっしゃった通りすごくパーソナルな話だし、
自分を重ねるとしても、彼らの羊、ユダヤ人である羊であるとか、おばあさんの話っていうのがかなりそこを具体的に描かれてくるので、
あんまり自分に重ねるって感じでもないかなっていうのも思いつつ見てたはずなんですけど、
なんかその、何だろうな、そのわかるわからない、この多分映画の一個のテーマだと思うんですよね。他人の痛みがわかるのかどうかっていうところって。
で、映画を見てる僕らですらそこの確信にはこの映画の中では触れないじゃないですか。
おそらく痛みを抱えている主人公2人、あるいはそのツアーに参加している人たちももしかしたらそうなのかもしれないわけですけど、
その痛みの本質は確かに確信までは触れられないし、映画ではそこを描かないんだけど、何かその、なんて言えばいいんでしょうね。
傷の形みたいなものはわかったような気がするというか、そこに何かこう輪郭みたいなものは見えてきたような気がするなっていうのはすごい見てて思ってはいて。
で、その傷は全然自分にない傷だし、多分彼らにしかない傷なはずなんですけど、どこか自分の形が違う傷にも近いところを感じてしまうというか共鳴してしまう部分もすごくあるなっていうのをちょっと思ってました。
で、あとこの映画冒頭とエンディングが僕最高だなって思っていて、空港から始まって空港で終わっていくわけですよ。
ある種その生きて帰りし物語として、その遠鑑構造としてできてるっていうのももちろんあるんですけど、それが空港であるベンジーがいるのが空港で始まって空港で終わるっていうのがすごくいいなという気がしていて。
最初もうどこまでも居心地悪そうというか、ここにいていいんだろうかっていう夢を彼がしてるわけですよ。
そんな彼が空港にある意味入れるようになる映画だなって思ったんですよね。
他者と、他者がいる環境に自分の身を置けるようになるんだな、彼がっていうのがすごくわかったし、それが空港であるってことは彼が飛び立つ準備なのかもしれないっていう気もしたわけですよ。
だからなんかすごくベンジーのこれからはきっと大丈夫だろうなって迅速思えたというか、そういう意味ですごくラストとオープニングの対になってる構造っていうのは僕めちゃくちゃいいなってこの映画は思ってます。
そんな感じです。
僕はですね、実はちょっとあんまりピンときてない部分があってですね、ただ描こうとしていることはすごい大切なことを描こうとしているとは思うんですね。
自分が所属している大きい集団としてのアイデンティティを追っていく中で、個人としての痛みに目を向けていくって、その大きいもの、自分が所属しているものの中での歴史の中での痛みっていうものと、
自分が人と共有できない、自分だけの痛みっていうものを並行して描いていくっていうのは結構大事なことを描いているのかなとは思ってはいたんですけど、何だろうな、なぜ自分に刺さってないのかっていうのが実はあんまりピンときてない部分があるんですけど、
ただ、もしかしたらこれあるかなって思っているのは、僕自分のその所属しているものに対するアイデンティティで悩んだことってあんまないなって思って、本作でいうとそのユダヤ人っていうアイデンティティを追っていく意味でそのホロコーストのツアーに参加するわけですけど、
僕自分の日本人であるっていうアイデンティティに悩んだことって全然なくって、それが何か関係してんのかなっていうのは、ちょっともうちょっと考えたいなと思ってはいるんですけど、ただ言語化できるかもよくわからないなっていう感じですね。
では、お便りいただいてますので順番に紹介させていただきます。では1通目、大石さんお願いできますか。
はい、再びセロトニーさんからいただいております。
店長メンバーの皆様こんばんは。リアルペインとても刺さりました。自分はデイビットのベンジーに対する気持ちに強く共感しました。この映画に登場する人物は全員大人ですが、自分もデイビットのようにベンジーに対する羨ましさや憧れがありました。
私ごとではありますが、昨年父を亡くして主人公二人のように喪失感や悲しみに苦しめられています。
今世界には戦争で苦しめられている人が大勢いる中、他の人々と比べれば十分恵まれている自分に苦しむ権利があるのかと考えてしまいました。前代の映画の雰囲気も大好きでした。
ツアーが終わった後、あっさり解散する感じのリアル感が面白かったです。
二人が遅刻したのにも関わらず不満を言わずに待ってくれていたり、デイビットが食事中にベンジーについて語っているシーンで同情しながら黙って聞いてくれているツアーの人たちの優しさも心地よかったです。
はい、ありがとうございます。
ありがとうございます。
お父様が亡くされたということで、結構この映画が刺さってしまうんじゃないかなっていうのもあるんですけど、
大きい悲劇みたいなもの、戦争とかそういったものに対して、子の痛みとか悲しみっていうものをそこで賄賞化していない映画だとは思うんですね。
そこを投下に描こうとしている話なのかなって気もするので、世界から戦争があるの大変だな、亡くなってほしいなっていう思いと、ご自身のお父様が亡くされた痛みってどっちも同じ重さで抱えていっていいものなんじゃないかなっていうふうには思いますかね。
そうですね、痛みの大きさというか、この映画すごいいいなって思ったのが、ホロコーストってめちゃくちゃな悲劇ですよね。
で、それの中に自分たちのおばあちゃんがいて、そこから奇跡的に逃れてきたっていうエピソードがあったじゃないですか。
なんかそれがすごく大きすぎる悲劇が、すごい個人レベルになってるんだろうなっていうのを見てて思ったんですよ。
というか、何て言えばいいんですかね。こう、抽象的な悲劇ってどうしても悲劇として受け取っちゃうじゃないですか、漠然と。
で、その大きさに苦しめられちゃうのはすごく自分でもあるなって思ったんですけど、でも当たり前だけどそこに生きてる個人がいて、そこの風景を乗り越えたから今自分がここにいるんだなっていうのを思い立ったときに、
なんか何て言うかな、初めて手触りがするというか、そこで起こったことが初めてリアリティを持って自分の腑に落ちるっていう感覚あるんだろうなっていうのは見ててすごい思ったんですよね。
そうですね、確かに。結構やっぱり、今回彼らがツアーで巡る場所っていうところに彼らの祖先というか、大きな母体としてのユダヤ人とかの跡というか、そういうのを見ていく中で、
なんかやっぱりツアーのね、夫婦とかのおじさんとか結構別じゃね?みたいな結構割り切った見方してる。それも全然アリだなと思って。
なんかやっぱり人によって悲しみの捉え方全然違うし、痛みの捉え方全然違うしっていう。で、そこに大きさとか優劣も全然ないよねっていうことが結構僕はこの映画から見てすごい感じたことではあって。
ホロコーストという悲劇と、主人公たち2人に起こったパーソナルな出来事としての悲しみが結構フラットというか。
だから本当そこのなんか大きさで本当天秤にかける人全然ないし、なんかそれはそれ、これはこれでなんかすごくどちらもすごく切実で大切な悲しさであり痛みでしょっていうふうにすごくこの映画では描いてて、そこがなんかすごいいいなっていうふうに思いましたね。
エンジーは特にその痛みっていうものを常に個人の痛みとして受け取ろうとしている節があるというか、だから大きい悲劇みたいな感じで流度を下げたキャッチできない感じですよね。
常にここに個人がいてその個人の痛み悲しみがあったっていうのを受けちゃうから、やっぱダメージめちゃめちゃ大きいと思うんですよそれって。
そうそうそうですよね。やっぱりこのちょっとセルトニンさんのお便りとかで見てもなんかやっぱりちょっとそのお父さんを亡くした悲しみとやっぱその世界の戦争のことちょっと比べて自分の知恵を亡くした悲しみってちょっと小さいもののように感じちゃうみたいなニュアンスがちょっとあったと思うんですけど、
普通というか結構そういうのっていろいろセーブかけてることによってなんかちょっと割り切ってる部分があるから、あれ何を言うとしたんだっけ。ちょっとなかったことにしてください。難しいなこれ。
それこそあれですね、ベンジーがお墓を訪れるシーンとか、あとはガイドの人と喧嘩をするシーンがたびたび出てくると思うんですけど、なんかそこそこで象徴的だなと思いますよね。歴史の話をするんじゃない、今私は個人の墓の前にいるんだっていう、それが話をするんで、やっぱり彼の中ではあくまでそこには対等な人物がいるっていうことなのかなっていうのは出て思って。
その感覚は僕すごいちょっとわかるなというか、なんかそう感じるときに自分の中でしっくりくる、歴史とかの出来事がしっくりくる感じがあって、それこそ映画で言えばこの世界の片隅を見たときにすごい自分は近い感覚を覚えたんですよ。
その戦争のある意味被害者としての日本人っていう結構すごく大きな悲劇。まあでも悲劇だけじゃないんですけどもちろん。ただある日本に住んでる人からしたらある種の悲劇として捉えられるし、なんかそういうふうに歴史上語られてきたなって思ったものが、当たり前だからそこに生活があってって話をされたときに、当たり前のようにその隣に戦争がある時代があったのかっていうのがなんかしっくりきたんですよね。
なんかその感じはすごい、たぶんベンジーの世界観に近い感覚だし、僕は結構それが好きで映画を見てるところがあるなっていうのは思ったところで。
今僕めちゃめちゃピンときて、そっかこの世界の片隅になのかって思って。あれはそのすごい日本人のアイデンティティに根差している話じゃないですか。
その太平洋戦争に負けたっていうその大きい巨大な歴史的な物事の中にあった一つの人生っていうものをそこまでフォーカスの位置を変えたことで、あそっかってそこに個人ってあったんだったわっていうのを思い出すっていうのが、
あそこをリンクさせてってなると、なるほどね、そういうことか。僕がなぜこの映画にピンとこなかったのかっていうのが今ピンときました。
いやでもこの世界の片隅になのかなっていう、その大きいものとちっちゃいものが繋がってるよねっていうことを、別にそのどっち側も遮障しないっていう個人もあるよねって、大きいものもあるよねっていうことに気づくっていう話なのかなと思って。
今ものすごいストンってきました。そっかなるほどな。
たぶんこの映画独特なのが、そのベンジーの視点だけだったら結構その捉え方で腑に落ちやすい気がするんですけど、デビットは割と俯瞰的に捉える人だし、その視点もあるからすごくこう両方、両側の視点があるというか、その量儀性が映画の中に収められてる気はするんですよね。
確かにその劇中のお墓のシーンで、確かに僕ベンジーの見方すごく素敵だなって思って、確かに今目の前にいるそこの人を痛もうよっていう気持ち、データとかの話じゃなくてさっていうのをすごい確かに気持ちですごいよくわかる、素晴らしいなって思ったんですけど、
でもその感受性で全てのこと受信し続けてたら絶対に身が持たないなって思っちゃうんですよ、やっぱり。 だから彼はやっぱり自殺未遂とかを起こしてしまったりっていうのはそういうところから来てるのかなとかすごい思っちゃうし、
そういうのってなんだろう、生きていく中でデビッド側の感じになりますけど、社会溶け込むという中でそういうのを学んでいくじゃないですか。
で、そうやってみんな順応してるから、順応というかある程度してるからやっぱりちょっと、だからこそやっぱ彼がすごい素敵に見えるし魅力的に思える、一方でそれは辛いよねって思うデビッドの気持ちもすごくよくわかるみたいにすごい感じましたね。
そうですね。僕結構デビッドとベンジーって割と根っこ一緒やなって思いながら見てたんですけど、常に世界を個人としてキャッチしちゃうベンジーと、世界はなんというか大きいものであって、いちいちその個人を見てもしょうがないんだって思おうとしてるデビッドっていうの。
でもなんか2人の痛みの生まれてきてる場所って結構一緒なんじゃないかなっていう。デビッドも結構その神経的なしんどさ抱えてる人だったと思うんですけど、その医療機関かかってるみたいなことも言ってたから薬飲んでるみたいな。
だからやっぱり彼は彼ですごい不器用で、だからこそそんなこと言ってもしょうがないじゃないかみたいなことを歩きながら喋ってましたけど、でもそれに比べてやっぱ他の旅行客、器用じゃないですか。
デビッドの理屈も大きいその歴史の悲劇はそれはもう歴史のものとしてキャッチして、そういうツアー的なものとして処理できてしまう。そういうコモンセンスの中で生きてる人たち。でもベンジーが個人を見ないとダメなんだって言ったらそれにすぐなびくことができるっていう。めちゃめちゃ器用じゃないですか。
全体を見ないといけない。でも個人も見ないといけないっていう。すごい良いこと言ってる風に言ってるけど、単に器用なだけやと思うんですよね。それって。そのデビッドとベンジーそれぞれがめちゃめちゃ不器用なりにもう片側のやり方しかできない形で世界をキャッチしようとしてる。そのひた向きさみたいなものに比べたらやっぱみんな上手やなってちょっと僕は思ったんですよね。
だからやっぱりあの二人は繋がってるよなって思って。
それぞれがたぶんそれぞれに憧れというかある種の証拠を抱いているのは確かだし、たぶんお互い持ってないものを持っているように見えるからこそってことですよねきっとね。
そうっすよね。だからデビッドもベンジーもそれぞれがそれぞれのタイミングじゃないと人に優しくできない形があるわけじゃないですか。
はいはいはい。
ベンジーの優しさは今このタイミングその出し方してもその優しさ届かないなみたいなことがたぶんめちゃめちゃ多い優しさやと思うんですよね。あれって。むしろ周り振り回されちゃうものだと思うんですけど。
やっぱあのデビッドの物事を大きく捉えるっていうのはそれはそれで優しさ耐えられるというか。そこがその二人がペアで動いてる話っていうのがなんかすごいしっくりくるなぁとは思いながら見てましたね。
ちょっと見ててもしかしたらこれは一人の人にもまとめられるのかなというか。多くは多分デビッドとベンジーを両方持ってるんだろうなっていう気がするんですよ。自分の心の中に。だからこそあえてああいうふうにキャラクターとして分かれた時に自分の中のその葛藤みたいなものが可視化されたようにも見えるのかなっていうのを見てて思ったりはして。
そうですね。その分裂してしまった二人ある意味を周りのツアーの客も多分振り回されて嫌だなって思ってるとかあるかもしれないんですけど、やっぱある種の温かい眼差しがある中で二人と一緒に行動を共にしてくれてるっていうのもすごくなんか素敵だなっていうふうにすごい思ったんですよね。
デビッド偉いっすよ。ベンジーと一緒にいようとするだけでも。多分長らく距離を置いてたんですよね。
で、ベンジーの近くにいたら多分自分がデビッドだったらコンプレックスこじらせすぎちゃう気がするな。
そうですね。やっぱりほんとベンジーって場を支配するじゃないですけど、愛されキャラじゃないですかやっぱり。
結構何日目かの食事みんなで囲っているところでデビッドがベンジーでトイレ行ってる間に自分の思いトロした後にベンジーがピアノ弾いてみんなそっちの方向いちゃうとか結構寂しいなって思って。
あれすごいちょっと残酷じゃないかと思って。確かにやっぱベンジーに対する憧れは確かに僕もめっちゃ感じるなーって思いながら見てましたね。
次のお題でいきましょうか。
ゲコポンさんからいただきました。
みながご機嫌でいられるように気を使っている自分でなく気ままに振る舞っているだけなのにみなから愛されてるあいつ完璧なキーランカルキンはデビッドな観客の記憶と感情をかきむしったのではないでしょうか。
ツアーガイドとの別離のシーンなんか本当に心当たりがありすぎてこっちの方が思い出たくさんあったはずなんだけどなーって。
痛みを感じていることをどうしようもない人に対して強迫させることは自分勝手なことだとこの映画を見た後でも思っています。
ですが別の痛みを抱えている誰かに連帯を示すこともできるのかも。けらかしにならないようにうまくやる自信は全くありませんが。
はいありがとうございます。
ありがとうございます。
うまくやる必要ないかもしれないですけどね。
そうですよね。うまくやれるもんなんすか?っていう気持ちをするというか。逆に。
もうそういう時ってもうすごい切実な思いに駆られてると思うからなー。なんか冷静でいられに行く気がするんだよなーっていう。
たぶん社会の中ではというか、会社とかそういう場所ではきっとうまくやることが求められてるんだろうなーっていう。
パブリックな場所ではたぶんそうなことは多分めちゃくちゃ多いと思うんですけど。
冒頭のアプリティスの話じゃないですけど、それをやっぱりそうじゃないところまで拡張させちゃうとやっぱ何かを失う気がするんですよね。
痛みはもう痛みとして受け取るというか表現するのが多分良い悪いじゃないけど、なんかそれしか多分できない。
それしか多分本当の痛みは表現できないような気がしていて。
なんかうまくやろうとすればするほど多分また別のものになってしまうというか、変容してしまう気がしていて。
僕本当に痛みに寄り添うって究極その人用のやり方しか存在しないと思うんですよね。
で、なんかその人に寄り添う方法論みたいなものってたぶん成立しないんじゃないかなって思ってて。
例えば大井さんがおっしゃられてたように会社の中でそういうことが必要になるタイミングってあったりするとは思うんですけど、
それってなんか本当の意味で痛みに寄り添ってるわけじゃないなって思うんですよ。
その痛みに寄り添う側のロールプレイと痛みに寄り添われる側のロールプレイをして、
なんかお互いに痛みに寄り添いました寄り添われました。
じゃあ明日も頑張ろうねっていうことをやるロールプレイングゲームをやるだけなんじゃないかなって気がしてて。
もう何々さんに励まされたおかげで元気取り戻しましたって。
それを有用のレールに乗せられる感じがするなって思うんですよ。そういうのって。
確かにそれって明日の仕事をやるっていう意味では効果はあると思うんですけど、
別に痛みに寄り添ってるわけじゃないよなっていう。
その何というか怪我は治ってないけどとりあえず走れますねっていう応急処置をしてるだけで。
それはその上手さは多分本当の意味で痛みに寄り添ってるわけではないと思うんで、
本気で人の痛みに寄り添うっていう時はもう上手さじゃないもので行くしかないかなっていう。
こっちも痛みを背負う覚悟でなっちゃうんじゃないかなって思うんですよ。
本当それこそちょっとThe Room Next Doorもある意味ちょっとそういう話ではあるんですよね。
なんかそういうバランスで描かれてる映画だなっていうのはすごい自分は感じてますね、この本作に関して。
確かにそうですね。
次のお便りいきましょうか。はい、ではマリオさんお願いします。
はい、きょうじさんからです。
はじめまして。テーマ作品が素晴らしかったのでお便りさせていただきます。
リアルペイン。熟練監督の作品のような佇まいがありました。
撮り方、切り方、繋ぎ方の女性なさが見事で、何より本作は語りすぎね。これが何より品があって素晴らしい。
ここでのヒントは、言い換えると作中で印画率を回さないということになります。
人間性を描く作品や作家が陥る大きな穴として、
この人は過去にこんなことがあった、だから今こうなんだ、という原因と結果を描写することがあります。
果たして人間のリアルな痛みとはそんな簡単に印画化できるものでしょうか。
本作は見事に語るラインに切度があります。
さらに痛みに対する他者の開剤、人の痛みを自分の文脈で解釈することの愚かさを、
皮肉なニューマを交えて描いています。
今のビンタはただの暴力だ、というところですね。
この映画を通じて、40代の生きづらさ、男性同士のケアの大切さ、
移民1世から3世が抱えるそれぞれ異なる難題などなど、
自分たちの得意な文脈に接合させ、感想を展開することは可能だと思います。
しかしそれこそが前述した大きな穴に落ちることそのものであり、
現代のア・リアルペインという、
単数固有の痛みの尊さを踏みにじる行為ではないでしょうか。
人の痛みを自分の文脈で語った瞬間、大きな断絶が生まれるとさえ思っています。
キーラン・カルキンが見事に演じたサクセッションのローマン・ロイも、
非常に服装的なパーソナリティを抱えた人物でしたが、
それが何に起因するものなのか、断片的に想像できこそすれ、
あらましは一切わからない、むしろ踏み込ませない複雑さが、
何よりも人物としての魅力、凄みを表現していたと思います。
だからキーランは最終シーズンの年に、
共演者を差し置いてエミー賞の主演男優賞を取ったのだと思いました。
長文乱文失礼いたしました。
はい、ありがとうございます。
ありがとうございます。
めちゃめちゃ素晴らしい作品評じゃないですか、これね。
何も言うことない。
素晴らしいですね。
そうですね、確かに本作を自分の文脈で語ると、
彼らの痛みに揺れ添ってないことになるっていうのは、
本当にその通りかなと思うんですけど。
でも、痛みを開示し合うことは必ずしも、
その人の痛みを分かった通りは言っちゃいけないんですけど、
でも、開示することはケアではあると思う。
ケアの始まりではあると思うので。
確かに。
やっぱり傷の形を見せ合わない限りは、
傷ついてるってことが最低限共有できれば、
多分いいんだと思うんですよね。
その傷の形は全然違って全然いいというか、
深さも浅さも全然違っていいんだけど、
でも傷ついてはいるよっていうのが、
すごい大事な出発点というか、
そんな感じはするなと思って。
そうですね。
確かにその文脈みたいなというか、
語律みたいなもので、
その人の痛みを解釈するっていうのは、
あんまりこう、なんて言うんでしょうね、
普段映画が僕ら話してるときそういうことやってそうで、
あんまりちょっとボコボコしちゃうとこあるんですけど。
そうなんですよね。
結構ううってなってはいたんですけど。
でもその人の痛みを理解することとは別に、
一旦自分の、他者として一旦その痛みを、
なんて言うんだろうな、飲み込むじゃないけど、
落とし所を一回見つけたいみたいなのは、
やっぱあるのかなと思ってて。
もちろんそれが理解したとかっていうのは、
本当にそれは傲慢だと思うんですけど、
ただそこで全く理解したいみたいな、
っていう感情はちょっと絶対あって、
理解したいというか、
そこで何か愛入れないんで、
その痛み分かりません。
で、止まっちゃうのもまた良くないからな、
みたいなのがあるから、
そこはまたちょっと難しいとこですよね、そこの。
理解したという言葉の落とし穴みたいなところだと思うんですけど、
それは。
そうですね、だから理解しようとしたら、
理解できなくなるっていうのは、
よく言われる、マリオさんがおっしゃられた、
理解したということの落とし穴っていうやつだと思うんですけど、
じゃあその理解しようとしないっていうのも、
それはそれですごい危険だなというか、
その因果律を自分の中で全部構築できないにしても、
そこに因果があるっていうことそのものに対する、
そのものに対する想像自体はしないといけない気がするんですね。
その想像の手段として語るとか解釈するっていうのが、
プロセスとして必要な気はしてて、
ただその語ることとか解釈することがゴールではないんですよね、
それはあくまで探すということの手段であって、
結局たどり着けないですけど、
だからってやらなくていいわけではないっていう風に考えておく必要があるかなというか、
だから本作もデビットとかベンジーがどういう痛みを抱えているかっていうのは、
確かに僕らはもうたどり着けないと思うんですね。
ただじゃあもう理解しなくていいです、
彼らは彼らですっていうのは、
それはそれで別に何だろうな、
それは寄り添ってないなって思う部分はあって、
もしかしたらそれがさっき言ってた、
うまく人の痛みに寄り添うっていうことのやり方の一つなのかもしれないんですけど、
本当にその人の痛みそのままキャッチしちゃったらこっちが壊れちゃうと思うので、
こっちが壊れないようにその人の痛みを受け止めるようなことはできた方がいいんじゃないかなとは思うんですけど、
それの下準備として想像するというか考えるっていうことはクッションじゃないな、
そのプロセスを経ないとやっぱり壊れちゃうんじゃないかなっていう、
壊れずに人の痛みに寄り添うためにはある程度の事前準備じゃないですけど、
ケーススタディみたいなものも必要なのかなって気もするっちゃする、
ただこれが完全に方法論に落とし込まれるとよくないっていうね、
だから常にゼロベースで考えて語って解釈してし続ける必要があるんじゃないかなっていう、
そうですね、だからその人の因果を想像することはしても、
その人にその因果がこうでしょって伝えることはしちゃダメなのかなって気はして、
それをやったら暴力になっちゃうなって思うんですよね。
だからこの人こういうことなのかもなっていう想像した上で、
何も言わずに一緒にいるのが多分できることの最大限というか。
そうですね。
あとやっぱりお便りもあったんですけど、
痛みとか悲しみを単数個数でやるっていう風な考え方を前提に持つことっていうのは本当に大事だなと思うというか、
改めて思うと1月って結構そういう作品多かったなって思ってるんですけど、
今回死とかそういう痛みの話って、
ここで喋ってないですけど、アンデッド愛しき者の不在。
結構そういう話で近いのあったなって思ってて、
それも結構3人の家族とかがいて、それぞれ大切な人を亡くしてる。
亡くした大切な人がアンデッドとして戻ってくるみたいな話なんですけど、
なんかそのそれぞれのエピソードが、やっぱそれぞれ独立したもの感がすごい際立ってて、
特殊なシチュエーションだっていうのもあるんですけど、
それぞれ辿る結末も全然違ってて、
大切な人を亡くしたという事象に対してこんなにも形が違うんだなって思ったんですよね。
けどそこにある喪失とかは普遍的なものはあるんだけど、
そこみんなバラバラだよねっていう。
そのエピソードというかその形がっていうのが結構しっかりそこが伝わるみたいな作品だったんですけど、
そういうのも痛みとか悲しみの形ってみんな違いますよっていうのを、
リアルペインでもそこは描いてることかなっていう風にすごい思って、
1月ってそういう話結構多かったかもなぁみたいな風に個人的にはすごい思ってました。
あと、本作を言語化したり解釈するのって、
つまりところ自分の痛みを考えるためのものかなと思うんですね。
映画見るってそうかなとは思ってて、
映画の中ではこういう話が行われてますけど、
あなたにとってそれって何ですかっていうのを考えるためのものというか。
だからもちろんある因果に沿って本作の彼ら、デイビッドとベンジーを解釈すると、
いやそうじゃないっていうことになるかもしれないですけど、
どっちかというとそれってやっぱり僕ら自身の痛みとか悲しみが何かっていうのを考えるためにやってるなと思うんですよね。
だからそこをちゃんと切り分けて捉えておく必要があるというか、
僕自身がこういう風に痛みとか悲しみを考えてるんで、
じゃあデイビッドとベンジーもそうですよねって言った瞬間にそこは暴力になってしまうというか、
普段やってる気がしてしまうなと思って。
そうなんですよね。結構やっちゃってるよなっていう普段の映画の話してる時っていうから、
本当にちょっとすごく反省をしました。
もちろんエンタメ性ってそういうところにはある気がするので、
その人の怖さとかっていうのがそういうことなんだっていう因果で繋がるって多分エンタメ性だと思うんですよ。
的に言うとこれは多分その対局にある映画かなって気もしてくるんですけど、
それを多分楽しむのももちろん映画の良しだし、
それこそスターウォーズなんて因果の塊だから楽しいわけじゃないですか。
そこがそこに繋がるのかっていう。
一方でとはいえそれを全てにおいて適応したらいいのかっていうと、
多分それは違うしっていうのを今作をすごく描けてる気はして。
これはある意味監督の前作の僕らの世界が交わるまでもある意味そうだったかなって気もするんですよね。
痛さが分かりつつ、でも絶対理解できないお互いの痛さを描く話というか。
なるほど、そうか。
リアルペインと比べると味付け濃いじゃないですか。
味付けは濃いです。
ちょっとダバタ感があるから、リアルペインを見た時に楽さがそっかったというか個人的に。
あれ?タンパク?みたいな。
そういう話じゃないからしょうがないんですけど。
確かにどちらもそれぞれ双方の痛み違い、痛さっていうのを理解するまでの話。
交換する話っていうのがいいかな。
傷ついたからようやく向き合えるようになる話じゃないですか、あれって。
そうですね。
傷つきの意味みたいなものを描く話だったかなっていう気がして。
本作もちょっとそういうところはあるなというか。
それぞれが時間を置いて傷ついて40代に、ある意味傷だらけで40代になってるからこそ、
もう1回向き合える時期が来るというか、ある意味交わる時期が来るっていう話でもあるのかなっていうのは見てて思ったりはしました。
本作、個々人の痛みっていう部分にフォーカスすると本当にストーリーラインって全然ない話だと思うんですけど、
ある程度その因果に沿って進むっていうのがやっぱりホロコーストツアーだと思うんですよね。
そこはある程度因果で解釈できるところとしてあって、そのストーリーラインを僕らは一旦追えばいい。
なぜこの悲劇があったかっていうのを歴史として理解できるっていうのがあって、
その見やすさの中に個人の前提条件が何もない、ただそこにいる個人としての痛みっていうものにフォーカスするっていう、
なんかその両輪であることで見やすかったのかなって気はちょっとしましたかね。
逆にちょっとそこは僕がピンとこなかった部分なのかなと思ったんですけど、
そのホロコーストっていう大きい悲劇を僕は本当に歴史としてしか捉えられてないんだなって思って、
それが個人の痛みの話につながるっていうのが、僕はこううまくリアリティを持って捉えられなかった。
もちろんその登場人物たちはユデア系のルーツだからそこに痛みがあるっていうのは理解できるんだけど、
僕個人としてそこの感情移入がうまくできなかったっていうのがあったんですけど、
そこはさっき大井さんがこの世界の片隅を例に挙げてくれたことで、
あ、なんかわかるなってなったっていうのがありましたかね。
でも確かに歴史としてのホロコーストみたいな感じで捉えてるみたいなのはちょっとわかるというか、
リアルペイン今回見てて、ポーランドに残るユダヤ人の跡っていうか、
こんな感じなんだっていうのを初めて今回見る部分結構多かったと思うんですよね。
かつてユダヤ人たちのコミュニティだった場所とか、
ホロコーストとかの収容所とかの場所とかはなんとなく見たことあったりしますけど、
そういうのあるんだとか全然知らなかったなって思って、
そういう感じで結構見てたから、
全然知らなすぎて個人の悲しみに接続するまでも、
もうちょっと時間が僕欲しいみたいなっていうのは見ながらあったかもしれないですね。
それぐらい距離感遠く感じてたっていうか、感じてはいけないものだと思うんですけど、
自分の中でだいぶ距離感が遠かったんだなっていうのもちょっと改めて感じてしまいましたね。
これはそのアイデンティティって言っていいかちょっと怪しいんですけど、
でもなんか自分の中に近い感覚が生まれたことはあるにはあって、
これはなんかアイデンティティというか人間というアイデンティティを自分が感じた瞬間なんですが、
NHKで、NHKスペシャルかな?
生命46億年っていう映像を見たことがあって、
それは生命が誕生して人間になっていくまでっていうのを、
いろんな途中を映像というかCGとかで置いたり、
あるいはその研究者の話を聞いたりしながら、
僕らがどういう道を歩んできたのかみたいなことを振り返ってみるというか、
最新の科学で振り返ってみるみたいな話なんですけど、
それを漠然と高校生ぐらいの頃かな?見てた時に、
ふと例えば魚だった頃に自分の祖先っていうのは確実にいて、
その祖先が何かの事故で別の魚が食べられていたら今自分ここにいないんだよなとか、
あるいは恐竜時代、僕らネズミみたいなちっちゃい動物だったわけですけど、
その動物の頃に恐竜に自己的に踏み潰されていたら、
今自分ここにいないんだよなっていうのをふと思った時に、
すげえ奇跡の上に自分いんじゃんっていうことに気づいて、
でもそれなのにそんな奇跡の上にいるにも関わらず自分はこんなもんだっていう、
そのちっぽけさの両方にグラグラきちゃったことが一回あって、
なんとなく特にホロコーストを見た後のベンジーの感覚って、
そういう感じなのかなって想像はしてたんですよね。
自分の今の状態とそこに至るまでの奇跡性というか、
とはいえその隣では悲劇というのもしっかりあってっていう、
そのスケールで物事を見た時に、
なんで自分が今こうやって生きてるんだっけっていうのがグラグラきちゃうというか、
っていう感覚なんじゃないかなっていうのを見てて思ったんですよね。
バスで帰って泣いてるシーンを見て、
自分はそこ、もちろんそうかどうかわかんないけど、
すごい自分の経験だとそこに接続したなって気がしていて、
自分は多分それきっかけで結局、
生物の研究とか進化の話を多分研究しようっていうふうに思ったな、
そういえばってこともちょっと映画を見てて思い出しました。
そうですね。
なんかわかりますね、その感覚は。
僕結構、今全然関係ない話をしようとしてる気がするんですけど、
ニュースとか見た時に、
その当事者全員の立場を想像しちゃうんですよね。
だから例えば殺人事件とかあった時に、
殺された側のこともそうだし、殺した側のこともめっちゃ想像しちゃって、
めっちゃしんどくなるんですよ。
なんで人を殺すほどのことになったのかって想像しちゃって、
めっちゃしんどくなるんですよね。
あと事故が起きた時に、
その事故に巻き込まれた側もそうですけど、
事故が起こした側は今何考えてるのかなとか、
めっちゃ考えちゃって、
ニュース見るとすっげえしんどくなるんですけど、
なんかその想像できるっていうことが、
あれ、何も次に話繋がらないですわ。
今喋ったけど。
でもある意味、ベンジー的な多分世界観の捉え方なのかなっていう気はして、それって。
そうですね。
想像力を働かせるって、理解の1個というか、大切なステップの1個じゃないかなっていうのは思うので、
すごい確かにそうか、ベンジーっぽいなってすごい思いましたし。
よくそうだな。
でもさっき僕全然ホロコーストとの距離感遠いなって思ったって言ってましたけど、
観心領域見た時はすごいうわーって思ったなって思って。
だから僕が彼と同じような感じでホロコーストツアーを持ってる時に、
観心領域見た時のうわーって思った感じまで僕持ってけるのかなって言うとちょっと不安だなって思ったっていうのがあるっていうか。
いや、それむっちゃわかりますね。
だから僕も多分あのツアー参加してたら、
多分歴史的事実をなぞっていくツアーとして参加しちゃう感じになると思うんですね。
そうなんですよね。
だからあのやっぱこうホロコーストもの見ててうわーってなるのってあのめっちゃ靴が溜まってるところあるじゃないですか。
個人がたくさんの個人がここで亡くなったんだなっていうのが視覚化されてる光景だと思うんですけど、
それもなんというか僕結構事実として捉えちゃえるんですよねそこで。
だから本作であのいや歴史じゃなくて個人として見るんだって言ってお墓に遺書置くじゃないですか。
あそこもあそっかユダヤの宗教観にそういうのがあるんだふむふむってなっちゃってそこは情報として処理しちゃったんですよね。
それはやっぱ僕が知らない情報が入ってきて単にそれを知ったっていう処理をしちゃったんで。
だからそこでこのやっぱ僕が本作をうまく飲み込めなかったところだったんですよね。
それって個人に触れたことになるんだって僕が知らないやつだなってなっちゃってあんまりそこで入り込めなかったっていうのがあったんですけど。
そこが例えばその日本の文化に根差した何かだったりしたら多分うわーってなってた可能性はあるんですよね。
日本のやつだったら僕が知ってる個人との振り合い方だからこれは個人と振り合ってるなって思えるんですけど。
どっちかというとその知らない情報を知ったっていう処理になっちゃったのがあったりして。
だから結構僕の感情犬もだいぶ都合のいいセンサーだと思うんですよねそこは。
ここなんかすごいさっき言ったんですけど自分のアイデンティティとは全く違うじゃないですか彼らってもちろんですけど。
でもそれでもなんか自分はこう揺れてしまった部分があったっていうのは冒頭で言ったんですけど。
それって何かっていうとやっぱり今後のお便りの中でもありましたけどキーラン・カルキンの演技がまあ素晴らしかったっていうのはあって。
僕すごい彼の演技見てて思い出したのがアフターさんのポール・メスカルをちょっと思い出したんですよ。
表面上すごくさしげで楽しそうでめちゃくちゃ奇策なんだけど目の奥にずっと悲しみというか孤独というか痛みというか何かそういうものがこの人の目の奥にもあるなっていう感覚がずっとあって。
そこを本当に見事に演じられてたなっていうのが見ててすごい思ったことなんですよね。
確かにすごくすごい魅力的だしすごくめちゃくちゃ繊細で悲しいところを持ってるみたいなのがわかるのは本当になんか彼だからこそというか。
なんて言うんだろう。ちょっとなんか虚勢張ってる感じって言ったらいいんですかね。若干。
お便りもあったのメディア王のドラマサクセッション。僕全部見てないんですけど確かにめちゃくちゃ魅力的なんですよね。
キャラクターみんな面白いんですけどサクセッションって複雑で割り切れなくてみんなそういうとちょっと虚勢張ってるんですよやっぱりそこって。
じゃないと負けちゃうからっていうのがあって、のし上がれないからっていうのがあってどこかちょっと虚勢張ってるんですよね。めちゃくちゃなんかメンタル病んでたりとかしてるのにみんな。
なんかそこらへんの複雑さっていうのはなんかすごいなんか彼お手の物な感じすごいするんですよね。
最終シーズンまでちょっと見れてないのであれなんですけど、最終シーズンで彼だけ賞を取ったって何なのかっていうのはちょっとやっぱり気になっちゃいましたよね。
そうですね。
アフターさんのイフみたいな話かもなっていうのはちょっと思ってました。
だからやっぱあのアフターさんのお父さんもずっと一緒にいたら結構しんどさはあるじゃないですか。
娘としてもこいつってなってる部分あったと思うんですよ。僕カラオケで見捨てるシーン未だにちょっと許せないぐらい。
あれはダメ野郎ってなりますけど。
だからそのテメェこの野郎ってなるっていうのが続いてた話として見てて。
いやでもそのテメェこの野郎ってなってるけどそれでもそのお前のナイブさが俺はちょっと羨ましいんだって言っちゃう瞬間みたいなそういう話だなってちょっと思って。
だから美化しないですよね過去として。今目の前にあるキャッチしにくいけどそれでも優しいのがお前だよねって言ってる話っていうのがいいなと思って。
詰まるところ人生ってそれやなっていうお前めんどくせーけどさーってやっぱ一緒にいてんだよねっていうのを続けていくことやと思うので美化せずに過去として現在進行形として続けていくことだなと思うからやっぱそこは良かったんですよねやっぱり彼らの関係が。
いや本当にそう。本当にそうですよそれは。
だから大地さんがよくおっしゃってた男同士って仲間になりがちって。
だから目的を共有してそれで結びついているっていうので。
じゃあ目的なくなった時に一緒にいる理由ないねみたいになるのは結構ありますねそれは本当に。
そうなんですよ。だから仕事仲間はできても仕事友達はできないんですよ例えばですけど。
そうなんですよね。
果たしてそれでいいのかっていうのを常に自分に問いかけてますけどね。
それが至る道の果ては敵ですよ。
そうそうそうそう。まさに。
だから本当なんか1月にみたいな全部つながってくるんだよねこうやって言うと。
だってね多分男性で言うとthe next doorでしたけどね。
the room next door。
the room next doorみたいなこと言える友人いますって話ですよ。
自分に。
なんか別の問題解決を試みられそうだなって思います。そうなったら。
いとこか。ヒントはいとこにあったのか。
あとそのいられるというかその他者の存在を容認できるっていう意味で言うと。
さっき僕が思った空港のシーンがすごい印象的だなと思っていて。
空港ってある意味社会というか世界だと思うんですよね。ある種の象徴としての。
でそこに座ってられないんですよ多分最初って。
座ってるんだけどすごく不安そうなんですよ居心地が悪いというか。
それってすごい自分の中の孤独が自分の中でフィードバックしてるような状態だなと思っていて。
それに対して最後って本当に見てられるようになるじゃないですか座って。
本当に受け入れてもらうわけじゃないんだけど他者の存在を許せるというか他者と一緒にいる自分のことを許せるようになるんだろうなと思ってあれを見てて。
それがすごい自分の中でそのケアの文脈にすごいがっつりはまったラストだったなと思っていて。
前もちょっと自分の経験で話してたんですけど自分としては映画館がそういう場所だったんですよね。
他者と一緒にいても何も自分が迷惑じゃないって自分自身の自認が思える場所というかとして回復していったっていう経験があるので。
その変化みたいなものすごいちっちゃい変化だと思うんですけど。
でもなんかそこにすごい映画の最初と最後始まりと終わりっていうのを置いているところが。
この映画の分かりづらいんだけどでもこういう進歩感が大事なんじゃないかって言ってるような気がして。
まずその始まりと終わり方の締め方がまずいいっていうことですけど。
服の色もお互いちょっと変わってるのいいですね。
なるほど確かに確かに。
最初ベンジー赤い服着てるんですけど。
デビットが青い服なんですけど。
逆になってるんですよね帰りって。
そっからもすごくお互いの痛みを交換した感じというか。
お互いに足りなかったものを受け取って今ここに帰ってきたんだなぁみたいな感じがすごくしたんですよね。
だからやっぱり大井さんおっしゃってたようにベンジーは帰りの空港にもうちょっと僕いるからさって言って。
あそこの中でしっかり社会というか集団の中にちょっと溶け込めるような気持ちの落ち着きを取り戻したかもでも思えるし。
デビットはデビットでもうちょっと自分の感情とかをもうちょっとオープンにして。
やれるようなように生きていこうってちょっと決心がついたようにも見えるしみたいな。
あの辺の流れをすごくサラッと衣装の色とかでやってるのとかもすごくいいなって思ってました。
あともう一個今作で触れておきたいのが、劇版ずっとショパンっていう。
そうですね。
まあポーランドの作曲家なんでそこっちゃそうなんですけど、こんなにずっとショパンだと思ってなかったっていうか。
でも僕改めてショパンいいなって思っちゃいました。今作出て。
あーでもそれはわかります。
自分もちょっとピアノを習ってたことがあるので何回かショパンを弾いたことがあるんですけど、
なんかショパンって結構劇場的な曲が多い印象があるんですよ。
あーはいはい。
なんかそれがちょっとベンジーにも重なるところあるし。
確かに上品なんだけど結構荒らしい曲みたいなの結構多い確かにショパンって。
美しいけどちょっと荒さもあってみたいなのが確かにちょっとベンジーっぽいのかなって言われたらそうかも。
実際やっぱり自分が弾くときにやっぱり感情込めやすいんですよねショパンの曲って。
あーなるほど。
だから好きだったところはあるんですけど。
なるほどね。
僕は勝手にそう読み取ったっていうところではあるんですけどね。
確かになかなか演奏しててどうかっていうところは知らないので流石にピアノ弾いたことないんで。
僕はショパン、あーポーランドの人だもんねぐらいな感じしか見とれてなかったんですけど。
うんうんうん。
でもなんかすごい大西さんの言ってること結構まとえてるんじゃないかなってすごい思いましたけど。
そうだからなんか弾いてて気持ちが表現できてるつもりになって気持ちがいいんですよすごく。
ね。
難しそうですもんねショパンそもそもまず。
そうまず弾ける快楽はもちろんあるんですけどね。
いろんな曲を書いたり、
こうやって書いていくというか、
色んな曲を書いているときにすごくいい曲ができると思うんですけどね。
そもそもまず。 まず弾ける快楽はもちろんあるんですけどね。
確かにレストランでピアノを弾くシーン、レイチーが、結構感情的な弾き方だったと思うんですけど、
バッハとかでそれできそうだなっていうのはすっげーわかります。 これでドギュッシーとか無理やもんなーみたいな感じがしちゃうというか。
バッハはね、幾何学なんですよ、どっちかっつーと。 数学的美しさなんすよね、あっちはね。
あー、そうですねそうですね。 なるほどなー。
いやー、いいな、その読み解き。
確かにな。今回クラシックだからいつもよりかは読み解き、読み解きというか、なんかいろいろこうだもんなーみたいなのが結構想像しやすかったかもしれないですね。
なんで帰り際ショパン聞いて帰りましたもん、久しぶりに。
それは僕もした。やっぱ聞くよね。 聞きます聞きます。
はい、ではそんな感じでリアルペイン心の旅の話は終わっておこうかと思います。
ではお知らせになります。映画の反射すぎるバー次回は2月22日土曜日開催予定です。
場所は大阪南森町週刊曲がり、15時オープン、23時クローズです。
またこの番組ではお便りを募集しております。番組全体やトークテーマ作品へ向けてご自由にお送りくださいませ。
バーの最新情報次回テーマはXOBインスタグラムにて告示しております。各ご案内は番組説明文をご確認くださいませ。
それでは映画の反射すぎるラジオ第199回リアルペイン心の旅の回を終わりたいと思います。
それではまたお会いしましょう。さよなら。