1. 今日の10分de1テーマ
  2. 今日の10分de1テーマ「オス..
2021-08-15 15:35

今日の10分de1テーマ「オススメしない絶望VR『屋根裏の殺人鬼フリッツ・ホンカ』」について

spotify

本職は編集者のエイドリアン太郎が1日1テーマを決めて10分話すpodcastです。第37回目は「オススメしない絶望VR『屋根裏の殺人鬼フリッツ・ホンカ』」について話してみました。 #テッド・チャン #アウグスティヌス #マルティン・ルター

00:01
はい、というわけで始まりました。本日は、屋根裏の殺人鬼フリッツ・ホンカという映画を見まして、ちょっとその感想について話したいと思います。
この映画ですね、全然おすすめしないんですけど、ものすごくですね、実際の殺人鬼、ドイツの殺人鬼ですね。
で、フリッツ・ホンカっていう、なんか、少婦をですね、年老いた少婦を4人殺人した、殺した人なんですけど、
実際にいた人の、電気映画っていうのかな、です。
でですね、本当に不快なシーンも多くてですね、めちゃくちゃいい映画というわけでもなくてですね、全然おすすめはしないんですけど、
ただですね、これを見てすごく、僕が感じたのがですね、絶望VRって感じだったんですよね。
人間の絶望をですね、VR感覚で味わえるという感じでですね、それでおっと思ったんですけど、
まあですね、その映画どういう映画かというと、まあそういう実際の殺人鬼の電気を元にしてるんですけど、
でですね、すごい部屋に住んでですね、屋根裏部屋のですね、なんか本当にこう、女性のポルノが部屋一面に貼ってあってですね、
まあ女の子の人形が置いてあってみたいな感じでですね、なんかこう、すごいベタなですね、なんか殺人鬼の部屋の美術だなぁなんて思って見てたらですね、
エンドロールになったらその実際の犯人の顔とですね、その部屋とかが映るんですけど、そっくりなんですよね。
でどうも本当にその、かなりですね、あった出来事に忠実に作ってるみたいで、顔もそっくりにしてるし部屋もそっくりにしてるし、
まあ実際にあった人間との会話とかも裁判記録からかなり忠実に起こしてるらしいんですよね。
だからすごい映画としてはですね、淡々としてるんですけど、
でですね、まあこの不律本家ってなんかこう鼻が潰れてるんですよね、なんか鼻の形がベタって潰れててですね、
なんかそれはなんかどうも交通事故に、過去にあった時に潰れた鼻らしいんですけど、まあ全然説明はないんですよね。
というかその不律本家っていうのはですね、どういう生い立ちでここまで来たかとか全く説明なくてですね、
映画が始まったらですね、もうバーに通ってるある中でですね、
でバーの商婦にですね、声をかけるんだけど、振られてるってですね、で鼻が潰れててですね、
で仕事が全然なくて、すごい貧乏で、みたいな感じなんですよね。
でどうもこうちょっと気になって調べてみたらですね、
まあある中の親父にこう殴られて育ってみたいな、でこうお母さんに捨てられて養護施設で育ってみたいな、
結構まあ悲惨な生い立ちなんですけど、でその交通事故にあって鼻が潰れたというような感じなんですけど、
それ映画内で全く説明してないんですよね。
03:01
ある日の不律本家から突然始まるみたいな感じなんですけど、
その時の不律本家はある種類出来上がってるわけですよね。
でだからこういう生い立ちがあったから今こうなんですよっていうのは映画内で全く説明されてないと。
つまりストーリーがないんですよね。
いきなりですね、出来上がってる不律本家がですね、女商婦に声をかけていってですね、
順番に殺していく様をですね、淡々と見てるみたいな映画なんですけど、
それを見て思ったのはですね、こう、なんて言うんですかね、必然性を感じるんですよね。
この状態だったら、うん、殺すね、みたいな感じのですね、必然性を感じるわけですけど。
でですね、そう思うとですね、なんかこう思い出すというか、なんかこう思い浮かんでくるのが、
自由意志の問題なんですよね。
自由意志っていうのは、キリスト教とかから発してる哲学的なテーマなんですけど、
僕あんまりその哲学とかその歴史とか世界史とか全然詳しくなかったんで、
最初にそれを存在したのはですね、テッド・チャンっていうSF小説家の短編を読んでてですね、
そこに自由意志の話があったんですよね。
その短編がなんかいろんなこう大きなテーマを取り扱ってるんですけど、
なんか自由意志っていうのを扱った短編っていうのがあっては、なんだそれだと思ったらですね、
ストーリー的にはたまごっちみたいな小さいおもちゃみたいなのが流行ると。
そのおもちゃっていうのは、人間がボタンを押すぞって押そうとすると、その寸前に光るのかな?ピカッとかで光ると。
で、興味なさげにして突然押すって言っても押そうとした瞬間に光ると。
みたいな感じですね。
なんていうか、その機械の裏をかけないんですよね。
あれ?この機械って、なんか人間が押そうと思ったっていう運命を知ってるんじゃないか?みたいな感じなんですよね。
ってなるとですね、あれ?俺って人間として自由な意志を持ってるんだろうか?
誰かになんか操られてるというか、既定路線をそのまま進んでるんじゃないか?みたいなですね。
そのムードみたいなのがそのおもちゃをきっかけでどんどん広がっていって、で、こう、虚無主義に陥っていくと。
で、すごくですね、みんなもうやる気ないだと。
何やっても変わらないんだみたいになっていくみたいなですね。
すごい短い、5、6ページぐらいだったと思うんですけど、あの短編小説ですね。
で、ああ、なんかそういう自由意志みたいな考え方あんだみたいなね。
あんまりなんかこう、なんでしょうね、正直日本でそんな自由意志とはみたいなってあんまり問題になることないですよね。
この自由意志っていうテーマというか問題意識みたいなのってやっぱりキリスト教圏の中から生まれたものらしくてですね。
06:02
なんかこう、まあその一神教の落とし穴というか、キリスト教とか一神教なわけですけど、神が全てを決めてるんだというふうにですね、考えるとですね。
なんで神が全部決めてるのに人間は悪いことをするのとか、この世に悪があるのという疑問が当然生じてくるわけですよね。
でですね、これにどう答えようみたいなことでですね。
まあこれが何かマニ教とかかな、確かマニ教とかって何かこう多神教でですね。
多神教だと悪い神様とですね、いい神様みたいなのがいたりするんで、悪い神様優勢だとこの世は悪くなるみたいなですね、考え方があるんですけど。
一神教でですね、もう絶対神がいるとですね。
なんでその絶対神がいるのにこの世に悪があるの?みたいな疑問に繋がっておくわけですよね。
それに対してですね、どう答えるかっていうところでですね。
例えばこのアウグスティンスっていう、元紀元前後ぐらいの人だと思うんですけど、紀元前後ですね、紀元後200年ぐらいだったかな、ぐらいの人だと思うんですけど。
神学者みたいな人がですね、神は人間がかわいそうだから、かわいくて自由意志を与え保ったのだと。
だから人間っていうのは間違えるんだと。
だから悔い改めて救われようねみたいなことをですね、言ったわけですよね。
つまり神が全部決めてるけど、人間は特別に自由意志っていうのを与えられてるんだと。
自分で自由に選択肢の中からですね、よっしゃこれやるぞって言って、自分の自由な意思で選び取っているんだみたいなことを言ってですね。
割と多分その考え方がベースなんだと思うんですけど、カトリック教会とかはそれで広がってたわけですよね。
カトリックは教会にとっていいことをしたらあなた救われるよとかね、教会に寄付したら救われるよとか、禅行すれば救われるよみたいな感じですね。
救われるかどうかっていうののですね、判断基準がこの世での禅行になるわけですよね。
でなると禅行するっていうことは自由な選択、数ある悪いことからいいことまでの自由な選択の中から、
はいこれを私はいいことをしました、このすごい選択肢の中から君は自由に選べる中でこのいいことを選んだんですね。
だとしたらあなた復活しますみたいな、そういうような考え方なわけですけど、
それに対してですね、宗教改革の時にルターがそんなもんないと、聖書はそんなこと書いてないぞと、
これはもうどう考えても人間には自由意志なんてないよと、
自由意志なんてない人間がもうないからこの世での禅行で救われるとかそんなことはないと、
でも、神が恩徴として救うだけだと、だからもう神行しかないんだと言うわけですよね。
09:05
いいことやろうが悪いことやろうがですね、それが救われるかどうかみたいなことに直結しないし、
そのいいことも悪いこともですね、自由に人間が選び取れるわけがないっていう感じなんですよね。
決定論的というか、もっとルターの後のカルバンとかになると、
もう全て神が決めてるみたいなですね、完全な決定論、予定説っていう考え方でですね、
アメリカの南部とかは割とそういうキリスト教観っていうのがあるわけですけど、
そんな感じでですね、この世の全ての運命は決まってるぐらいまでこれを言うわけですけど、
そこでそもそも人間って数ある選択肢の中から自由に一つを選び取れるの?
それとも決定的、最初から決まってるの?人間がいることはっていうような論争があるわけですよね。
で、どっちを?みたいな感じですね。
キリスト教を元にした発想としてそういう考え方があるんですけど、
このフリッツ本家のこの映画を見てるとですね、決定論的と感じるんですよね。
これは僕が結構犯罪加害者に対して、
割とこう、なんでこんなことをしちゃったのかな?みたいな感じですね。
割と結構同情というか、この決定論的な必然性の中でですね、
こんなことをしてしまったというふうに、僕は割と捉えてしまうところがあって、
犯罪加害者とかを見るとですね、
かわいそうな運命に巻き込まれたみたいなね、被害者と同じくみたいなふうに見えちゃうところがあるんですよね。
そういう考え方をそもそも持ってるんですけど、
このフリッツ本家とかの映画を見てると、やっぱりそれを再認識しちゃうんですよね。
必然性に吸い込まれていくような感じがするというか、
パッ!映画が始まりました!ってなったらですね、
まず極貧で屋根延べ屋に住んでいて、アル中でですね、
妄想があってですね、顔が見にくくてナンパとかしても断られてですね、
女性への怒りをためていてですね、中年50歳くらいのかな?
この先の見通しも全然ないわけですよね。
という中でですね、日々バーに通ってですね、
その丈夫を物色してるんですけど、結構絶望がすごいわけですよ。
もう本当にすごくてですね、見通しもなくてですね、
そういう自分の中に昔虐待されたりとか、
親に捨てられたみたいな根源的な怒りとかもあるわけじゃないですか。
っていうような状態でですね。
さてと、じゃあ例えば僕がですね、
12:02
よし、じゃあ今からあなたは殺人を犯す前の不律本家にですね、
あなたちょっと今からしますと、
この殺人を犯さないようになるべくしてくださいねって言われてですね、
わかりました、じゃあちょっと今から不律本家に乗り移りますねってパッて乗り移ったらですね、
パッて言ったら全然将来の見通しもないしですね、
アル中だしですね、妄想はあるしですね、女性への怒りとかですね、
そもそも自分が虐げられてきたみたいな根源的な怒りはふつふつ湧いてくるしですね、
めちゃめちゃ絶望的にも感じるわけで、
多分ですね、またその処父たちを出会ったら多分殺しちゃうんだと思うんですよね。
だからそういうですね、避けられないというか必然性に吸い込まれるようにですね、
同じようなことをやっちゃうんじゃないかなと思うわけですよね。
じゃあですね、全ての運命が決まってるのかっていうとですね、
そうとも実は思ってなくて、
人間の行動っていうのはかなり必然性に吸い込まれていくと思うんですよね。
なんかこう自分がコントロールした、自分が無限に選択の中からですね、
良いこと悪いこと選んでいくみたいなことはやっぱり難しくてですね、
怒りに駆られてるような人とか、絶望の中にいるとかですね、
しかも自分のせいでもなくですね。
この不立本家だってね、捨てられたりとか逆転受けたのは自分のせいじゃないわけじゃないですか。
交通事故で鼻が潰れてるのはですね、自分のせいじゃないわけですけど、
それらがですね、キュッとその選択肢を狭めていってるわけですよね。
で、そんな感じですね。
まあその人間の行動っていうのはやっぱりかなり必然性に吸い込まれていくと思うんですけど、
でも周囲の環境は偶発的だと思うんですよね。
で、それはですね、ちょっと映画の中にもやっぱりそれが示されてるシーンがあって、
同じくですね、もうこう絶望的状況のですね、娼婦のおばあさんがいてですね、
この不立本家ともうちょっと短い間同棲するんですけど、
これも実際になったことらしいんですが、
そのおばあさんはですね、その場にですね、もう家もないぐらいな感じですね、
その不立本家の家から場にまた通ったりとかしてるんですけど、
その過程でですね、なんか修道場に出会って、
修道場に打ちきませんか?って言われてですね、
まあ結果的に救われるわけですよね。
もう家もなくてですね、絶望的な人生みたいな状況から救われて、
不立本家の前から姿を消すんですけど、
やっぱですね、こういう出会いっていうのはじゃあ偶然ですよね、完全な。
なのでやっぱ人間がですね、なんかこう必然的に動いてるんですけど、
周囲の環境はやっぱ偶発的なので、
その偶然次第によっては救われることもあると思うんですよね。
だからですね、なんかこう、
僕はなんかやっぱ、なんか何ですかね、犯罪加害者とかを見るとですね、
必然性に吸い込まれていくような、
なんかその運命に吸い込まれていくような、ちょっと憐れみみたいなのも感じますし、
15:01
その良い出会いとか良い偶然にですね、出会えなかったんだなという風運っていうのもやっぱ感じるんですよね。
なので割とですね、こういう犯罪加害者に興味がちょっと出てきてしまいますし、
こういう映画もですね、全然お勧めしないんですけど、ついつい選んで見ちゃうんですよね。
ということで本日はこのお勧めしない絶望VR、屋根裏の殺人鬼不立本家についてでした。
ちょっと時間が長くなりました。本日はありがとうございました。
15:35

コメント

スクロール