1. 大人になりたい旅がしたい
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#143【岡山】Geological Mystery Part3
2026-04-23 1:35:35

#143【岡山】Geological Mystery Part3

Geological Mystery―――土と炎と鬼の記憶―――3日目


山陽道の中心である岡山県。

かつてこの一帯は吉備国と呼ばれ、独自の文化を持つ勢力の存在していたことを、史書の中に垣間見ることができます。しかしながらその実態は謎に包まれ今なお詳らかではなく、「桃太郎」をはじめとする多くの伝説に彩られて埋没していきました。

そんな謎を解き明かす手がかりが”地学”。

この地の地質と地形について深く考えを掘り進めていくと、特殊な文化の根っこに行き当たり、やがて史書や伝説とは別の表情が浮かび上がってくるのです。


【目次】

〜 PodcastのイベントPart3

〜 進取と自治の気風が生んだ美観 【倉敷美観地区】

〜 端正な和朝食に合わせるのはまさかの“拡照” 【士水】

〜 倉敷の発展に欠かせぬ一族を知る 【語らい座 大原本邸】

〜 西洋美術館の魁はなぜ倉敷に生まれたのか 【大原美術館】

〜 ★歴オタ話★ 大原美術館に託した大原孫三郎と児島虎次郎の夢

〜 洗練されたデザインの“倉敷生活デザインマーケット” 【林源十郎商店】

〜 世界に誇る絶景 そこに秘められた大いなる謎とは 【鬼ノ城】

〜 1日の振り返り

〜 ★旅の終わりに★ 知られざる“もう一つの”桃太郎 岡山の地に刻まれた鬼の記憶



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感想

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サマリー

このエピソードでは、岡山県を巡る3日間の旅の最終日として、倉敷美観地区を中心に、その歴史的背景と現代的な魅力に迫ります。かつて独自の文化を持っていた吉備国、その謎を解き明かす鍵として地学的な視点も交えながら、倉敷の発展を支えた大原家や、日本初の西洋美術中心の私立美術館である大原美術館、そして「鬼ノ城」に秘められた古代の謎へと旅は続きます。特に、大原孫三郎と児島虎次郎の夢が詰まった大原美術館の設立秘話や、古代の石造文化の痕跡が残る「鬼ノ城」のミステリーは、この地の歴史の深さを物語っています。また、倉敷の街並みだけでなく、そこで育まれた食文化や、地域に根差したセレクトショップ、そして「もう一つの桃太郎」伝説に触れることで、岡山の知られざる魅力を深く掘り下げていきます。

ポッドキャストイベント参加と旅の始まり
大人になりたい旅がしたい。このポッドキャストでは、旅行とお酒が好きな同級生2人が、大人だからこそ知りたい、ちょっとディープな国内旅行のモデルコースを紹介していきます。旅のお供はこの2人。
旅外気概な旅行ガイドブックの編集者、春矢です。 ディープな旅がしたいけど知識がない旅行初心者、内田です。
このコースの冒頭の話で、ポッドキャストのイベントに色々参加しましたという話をしていますが、3つ目、ジャパンポッドキャストアワードの増唱式に、今年も誘っていただいて参加いたしました。
まあやっぱりちょっと緊張しますよね、あの場は。
今年はですね、去年とまた形式が変わりまして、メディアコンテンツ企業部門というのと一般クリエイター部門という部門が分かれたんですね。
要はラジオ局とか制作会社が作っている番組の部門と、そうではない一般人だったり、あとはその一般企業が作っている番組とかはこっちの一般クリエイター部門になるそうです。
で、対象はメディアコンテンツ企業部門がジェンスーとホリミカのオーバー座さん、一般クリエイター部門がユルゲン語学ラジオということでね。
まあこれ対象とってなかったのかっていう感じの2つですね。文句のつけようがない感じになってますね。
あとはパーソナリティ賞とか企画賞がそれぞれあると。
あとスポティファイイークオール賞というね、女性の地位向上みたいな観点から選ばれている番組ですね。
まあやっぱり緊張したなあ。
どうでしたか?
俺は関係ないんですけど。
でもやっぱりどうなるかなっていうのはすごく気になるし。
まあやっぱり誘ってもらって仲良くもさせてもらっている夜の農家が、今年が最後だっていうとね、息巻いてやってたので。
どうなるかなと思ったんですけど。
まあ参加して思うのは、うちは別にいいかなというか。
別に意識することはなく、自分たちのペースで。
やりたいことをやっていけばいいかなというのはやっぱり思うところですね。
ただまあいいなっていう気持ちはね、生まれるは生まれますね。
やっぱりね、一番の認知の高い栄誉かもしれませんからね。
まあちょっと今年が夜の農家最後って言ってたから。
本当に最後なんですかね。
そうなると僕も多分来年以降は行くことはないと思うので。
そうか。
この場にね。
誘ってくださってるわけですもんね。
そうそうそう。声かけてくれたから行けてたわけですね。
なのでまあ来年以降行けないのかなと思うと、また来たいなっていう気持ちは生まれたけど。
まあまあやることは変わらずやっていこうかなという、また決意を新たにという感じの場になりましたね。
さて今回はジオロジカルミステリー、土と炎と鬼の記憶の3日目、最終日ということで。
前日は夕方頃、倉敷の方に移動しまして、夜楽しんでね、そこに泊まっているということで。
この3日目はその倉敷を中心に巡っていくと。
そうですね。
このミステリー要素としては、鬼がまだ回収されてないので。
それがこの3日目に分かるんですかね。
そういうことになるかなと思います。
ちょっと一番謎な部分ではありますよね。
そして記憶というところも含めてなんですけど。
それでは3日目よろしくお願いします。
倉敷美観地区の散策と歴史的背景
前日ね、岡山県下でも第二の都市になりますし、旧国でいう備中の国の主婦になる倉敷というところに泊まっています。
倉敷はそういうわけで、本当に都市としても非常に栄えているんですけれども。
まず観光地として非常に有名なところですよね。
景観みたいなのは、これかっていう人結構いるんじゃないかなというふうな気がします。
ただ逆に言えば、混むんですよ。
いわゆる超有名観光地ですので。
なので、なるべく夜ちゃんと泊まったっていう血の量を最大限活かせるように、工程もいろいろ組んでいっていただければいいのかなというふうに思います。
そのために何をするかというと、この日もちょっと早めに起きていただいて、8時50分頃、これもっと前でもいいんですけれども、
今チェックアウトをしていただいて、朝一でね、この倉敷美観地区の散歩をしてみたいと思うんですね。
なるほどね。
はい。ということで倉敷美観地区なんですけれども、これちょっと開いてみましょうか。
もう本当昔ながら、昔ながらというかもうなんかタイムスリップしたかのようなね。
そうですね。
街並みですよね。
この川沿いにね、古い建物が並んでいるという。
やっぱりこのね、川というのも言ってくれましたけれども、水路の両岸にね、江戸時代から近代にかけての街並みというのが本当にそのまま残っているというね、
日本の中でも本当に非常に貴重な建築空間になっていまして、いわゆる国が指定する重要伝統的建造物保存地区、
充電圏ですね。
この21ヘクタールのうちの15ヘクタールぐらいがね、指定されているというね、本当にもう日本の財産なんですね、この街並みというのはね。
倉敷がすごいことは、もちろんこの街並みが保存されているのもすごいんですけれども、その街並みをちゃんと活用してね、今でも新しい発展を遂げているということもまたすごいわけであって、
観光料としてももちろん栄えていますし、そもそもここは工業都市、商業都市でもありますので、その産業としても栄えているからこそ、単なる観光地ではなくて、
今なおね、山陽地方を代表する都市の一つであり、岡山県下第二の発展を遂げているというね、まずちゃんとした都市なんですよね。
それがやっぱり暮らしのすごいところだなというふうにも思います。
なるほど。確かに古い街並みだと、やっぱりその観光的な側面が強くて、生活の街じゃなかったりとかもあり得るからね。そこが調和しているのはすごいことですね。
そうですね。なのでこの美観地区のことだけをね、観光ガイドブックで取り上げがちですが、前日に言ったような居酒屋だったりとか、倉敷駅の方行っていただくと、この周りには超現代的な街が栄えています。
こんな栄えてるんだって正直びっくりするかもしれない。僕は最初行った時びびりました。じゃあこの倉敷美観地区というのは改めて何がすごいのかというのを考えてみたいわけですけれども、まずですね、この川、これ倉敷川という川なんですけれども、これね正式に言うと川じゃないんですね。
さっきちょろっと言ってたけど水路なんですか。
というよりはね、運河です。
運河、なるほど。
つまりこれは人工的に作られた水路なんですね。
なぜそれをするのかというのが、この倉敷の発展の起点になるわけなんですけれども、倉敷はですね、ちょっと地図を見てもらうとですね、どのあたりにあるのかということなんですけれども。
岡山県の西側、岡山市が真ん中ぐらいなのかな。
そうですね。
そこからちょっと西に行ったっていうところですかね。
そして海に面しているわけですね。
ここでまたビゼン・ビッチュの違いになってくるわけなんですけれども、
岡山市というものは、そういうわけでビゼン藩、岡山藩池田家の持ち物がずっと続きましたので、
レッキスした城下町になって、その町並みを見ても残しているわけなんです。
しかしながら、倉敷というのは全く性格が異なる町でした。
ここは何かというと、ビゼン藩の領土ではなりません。
ここは天寮なんですね。
ああ、そうなんだ。
天寮って覚えているでしょうか。
幕府が直轄している土地ですよね。
その通りです。
これまで出てきたところで言うと、霜雨沙の沢原、猪田高を排出した沢原ですね。
そして最近だと文吾、大分県の北という場所はね、あの辺りのことなんです。
で、ああいった町には何が起こってくるかというと、
要は大名の支配を受けないっていう、ちょっと特殊な町になっているわけですよね。
その分何が起こるかというと、町民だったり商人というものの自治都市。
幕府の治めているんだけれども、実際の町の運営とかは住民同士が自主的にやらなければならなかったという、
そのために起こった新しい文化っていうのがこの天寮には起こりやすいんですね。
それがこの倉敷の特色でした。
特に倉敷の場合は、17世紀の前半からもうずっと変わらず270年間天寮だったものですから、
商人たちの自治都市っていうのは非常にもう組織化されて熟成したような気候を持っていたんですね。
倉敷もそもそもはですね、港へ続く潮目の町みたいな感じだったんですよ。
つまり岡山市が観宅寿司をやりまくったって話しましたけれども、これ事情は一緒です。
結局瀬戸内海に面していて、昔の方が瀬戸内海の入り入れというのは深かったんですから、
倉敷も海に非常に近い町だったんですね。
でもそうなってしまうと作物として土地がないみたいなことになって、それがそれで課題だったわけですよ。
それをどうにかするために、やはり倉敷は町民たちが主体になって、この観宅寿司というのを盛んに行いました。
で、行われるんですけれども、やっぱりとはいえ元々海だった土地ですから、いわゆる稲を植えようとしてもなかなかうまく育たなかったっていうのが残念ながら結果だったんです。
ただその分土地としてはできた。
から、稲はダメかもしれないけど他のもので代替すればよいんじゃないかっていう考えた人たちが現れたんですね。
彼らはそれで何を植えたかということなんです。
倉敷って社会科の教科書とかでどういった町として有名だったでしょうか。
繊維業だったっけ。
その通りです。
まさに一日目の冒頭で言いました小島というところもこの倉敷の近くなわけですけど、小島といえばね。
ジーンズですね。
つまり繊維業ですよね。
麺を植えたんです。
麺は塩分濃度が高いところに育ちやすい木だったんです。
あとイグサっていうのもね、これ教科書にあったんじゃないかと思うんですけれども、イグサって何ですかねこれね。
たたみの原料ですね。
そうです。ビッチュウとヒゴ、熊本ですね。
この2つがやっぱり一番有名で、あそこあそこで八千代の勧託をやってるわけですけど。
そういうことなんですね。
稲をもう諦めてある意味、代わりに町民とか商人は商業とか工業で生きていくってことを選んだ人たちだったんですね。
それでもって自分たちの経済を成り立たせて倉敷の町を発展させようっていう、
新宿と自主の基地、新宿、進んでいろいろとるところと自治都市としての寄付を江戸時代200何十年に渡って育んだ土地でした。
そしてその頂上が倉敷側なんですね。
倉敷という町を発展させていくにあたっては、やっぱり絶対に水路を通して物流を加速させなければいけない。
西湾について瀬戸内海が近いわけですから、その血のりを生かして倉敷のど真ん中を物流の拠点として川を巡り通しちゃって、
それで周りに商人たちを進んで町を盛り上げようと。
そういうことを考えたんですね、彼らは。
なのでかなり早い段階、江戸時代から倉敷側の改札が行われまして、あの町並みは形成されていきました。
そして今も変わってないんですね、それがね。
その自治の結晶なわけだね。
おっしゃる通りです。
同時に他の藩であれば、藩がちゃんと、いわゆる公立学校みたいなの作ってくれるわけですけども、ないんですよ。
藩の面倒が、見てくれないですよ、その辺はね。
ってなった時には、やっぱり自分たちで教育とか文化というものを起こしていかなければいけない。
やっぱり自分たちで何とかするっていうのが最大のミッションだと。
いうことで天寮には得意な人物が生まれてくるんですね。
これが井上忠敬であって、そしてこれから紹介する人たちなんです。
という、その倉敷美観地区です。
「しすい」での朝食体験
美観地区なんて多くに行っちゃったんですけれども、正直ここだけで1日使います、本来ならば。
結構広いです。
美観地区の中にいろんな美術館だったりとかお屋敷があったりするから、これからは美観地区の中でピックアップすべきものをいくつか紹介していきますが、全部美観地区の中の話をしています。
けれども、もちろんここでピックアップしたもの以外にもたくさんお店だったりありますから、そういったものはこれからご自身で美観地区を回っていただいてたどり着くのがいっぱいあると思います。
倉敷をちゃんと回りたい人は、この半日とかじゃなくて、1泊2日まるまる倉敷でいいぐらいの、そういった規模感だというふうに思ってください。
ただですね、朝ごはんを食べてないわけですよ。
実はね、この無理なり倉敷美観地区を朝に持ってきたのは、当然その込む前っていうのもあるんですけれども、10時からしかやってない店があるんですが、どうしてもここを僕紹介したくて、無理なり攻撃コースにしたっていうやや強引な感じになってます。
ただそこまでして紹介したい店があるんです。
それがですね、中心部からだいたい10分ほど、深水さんに近いところなんですが、しすいという店があるんですね。
平食とかを出されてるんですかね。
71歳の朝ごはん。
これめっちゃおいしそうなもの。
シンプルだけどね。
しすいというのは、武士の死に水と書いてしすいさんと呼びます。
今市長が言ってくれた通りなんですけれども、71歳の朝ごはんっていうのがね、一つグランドメニューで名物になってるわけですね。
これどうですかね、中身見てもらってね。
これだからご飯とお味噌汁、お漬物とかつお節だけ。
だけです。
だからおかずがないっていう感じですね。
そうなんです。
これもある意味引き算なんですけれども、引き算の和食の朝ごはんっていうのをやってるだけこれになったというね。
そういったような感じの雰囲気もありますよね。
ただね、僕本当にここのね、特にぬか漬けとお味噌汁、絶品です。
もう今この写真見てるだけでもこのお味噌汁の味は思い出します。
っていうくらい特殊なお味噌汁でした。
味のコクが何層にもあって、今まで食べたことのないお味噌汁でした。
めちゃくちゃおいしかった、このお味噌汁。
そんなに変わるのかなって思っちゃうけど、違うんですね。
シンプルだからこそ、より引き立つものがある。
これは一文十道さんとかもある意味近いかもしれないですけれどもね。
この新水井さんなんですけれども、そういった美観地区の中の、これもやはり地区100年ほどの古建築をリノベーションしている昔ながらのお店。
定食見えるんですけれども、お茶屋の容量なんですね。
つまり江戸時代とかね、時代劇でよく出てきますけれども、
本当に昔の町人とかが、武士とかが立ち寄っている、お茶をちょっと飲む一服するカフェですよね、昔の。
みたいな感じなんですけれども、今はここで朝ごはんとかランチとかのメニューであると、こういったお食事も出してくださる。
シンプルであるからこそ話すのがすごく難しいんですけれども、
やっぱり一個一個の素材のこだわりっていうものをすごく感じるんですね。
お味噌汁に関して言うと、やはりここも暮らしの土地に根差したお味噌というものを使っていらっしゃって、
それに山菜とか野菜の旨味が溶け込んでいるのが僕はすごくポイントだなと思ったんですよ。
具体的には大根ですとか、あとなっぱのものもいろいろあったんですけれども、
野菜の甘みっていうものと、味噌も塩気というよりはやっぱり包容力のあるような印象で、
合わせ技だったんですよね、このお味噌汁に関して言うと。
にお豆腐が入っているっていう、めちゃくちゃ美味しかったんですよ。
もうそれ以外言いようないんです。
あとはやっぱり地元への還元っていうのをすごく考えられてるところで、
今のお味噌汁もやっぱり地元のお野菜とかっていうのを使っているんですけれども、
同時にお米もまたすごく美味しいんですよね。
これも白米と玄米を選べて、僕は玄米を選んだんですけれども、
これもやはり美増坂のお米なんですね。
今回ややダークホース的に美増坂の名前だけ出てくるんですけれども、
津山というところが一番有名、これビーズの稲葉さんの出身地のところなんですけれども、
山合いのすごい寒冷なところと温暖なところの境目にあるようなところで、
特殊な環境で美味しいものが育つっていうところなんです。
ちょっとプチプチとしてやっぱり玄米の美味しさと、
ふっくらとした旨味の濃純な感じっていうのがもうめちゃくちゃ美味しいんですよ。
朝ごはん、去年食べたのが一番美味かったかもしれない。
いいですね、シンプルだけどそれだけ一緒に残る朝ごはん、いいですね。
そうなんです。だから本当話すのが難しいんですよね。
すっげえ特色があるわけではごめんなさい、正直ないんです、はっきり言って。
だけど、あーっていう感じの言葉を失うような美味しさがありまして。
お味噌汁の甘さとかふくよかさっていうのがね、
関東の人間が食べても大丈夫なんだけど、やっぱりなかなか食べない味わいで美味しかった。
野菜の甘みかな、やっぱりあれは出しても。っていう感じがしたんですよね。
じゃあその一個一個のこだわりと質が高いというか。
そうですそうです。そういうことなんです。
ただね、これだけじゃないんですね。
もうお料理が美味しいのはもちろんのことで、僕が言うまでもないことなんですけれども、
ホスピタリティとかの部分で感動しちゃいまして、
朝ごはんのメニューというのはこの一十一歳の定食と、焼きおにぎりの定食みたいのがあったりしたんですけれども、
同時にね、一品物も実はちょっと頼んだりするんですよ。
僕はそういうわけで豆腐が好きなんですね。
なので冷薬庫というものに非常に、このクラシティのお豆腐屋さんの冷薬庫を使っているということで、
非常に惹かれてこうじいて見てたら、この定食を頼んでいただいても同時に、
冷薬庫も頼んでいただいて大丈夫ですし、順番とかもご飯後とかでもできますよみたいなことを言ってくださって、
頼んでしまったんですね、冷薬庫を。
なので一十一歳定食に冷薬庫を追加でオーダーをして、
そのまた出汁状、これね福岡の糸下の醤油だったんですけれども、
でそれが美味しいとなってたんですね。
どうしても飲みたくなってしまったんですね。
朝から。
朝10時からまさかの飲みを始めるという。
これ申し訳ないんですけど、僕ねこの店行った時は歩きで行ってもその日運転するってなかったんですよ。
飲んでしまったんですね、まさかの。
それ出してくれたんだ。
出してくださいます。朝にもかかわらず。
冷ややっこと日本酒にしようかなとか思ってたんですけど、
キビ焼酎ってものがあるのを見つけまして、
これなんだろうって聞いてみてたら、マスターがこれは岡山でしかなかなか飲めない、
キビっていうのはキビ団子のキビであり、キビの国のキビなわけですけど、
いわゆるトウモロコシみたいなキビって言いますよね。
あれの焼酎で麦焼酎にちょっと近いと言われたのが、
僕のストライクショーだったわけなんですけれども、
僕麦焼酎大好物。
めちゃくちゃいろんな出汁とかにも合いますよって言ってくださって、
オーダーしてしまいまして、冷ややっこと麦焼酎をね、
みんな周りのカップルとかは美味しい朝ごはんいただいてるにもかかわらず、
一人でカウンターで冷ややっことキビ焼酎飲み始めるという。
すごいね。
定食頼んでるんですよ、しかもその時も既に。
なのにぬか漬けだけ最初に出してくださる。
だから酒飲みの心をよくわかってくださってるわけですよ。
だから僕だけなんかオリジナルメニューみたいになっちゃってる。
途中からお忙しいのに皆さん本当に。
にもかかわらずそういうのをやってくださる。
その前にさ、オススメもしてくれてるわけじゃん、キビ焼酎を。
そうなんです。
すごいね。
僕があまりにもジロジロ不審な目でも見てるから、
たまに書いたのかもしれないんですけれど。
しかもそのキビ焼酎がすごくおいしくて、
キビ焼酎って初めて飲んだみたいな話になって、
そしたら岡山がこうこうこうでみたいな話になって、
実はこれを作ってるのってここから歩いて5分間とか空きますから、
もしよかったら寄って行ってくださいみたいな。
クラシティで作ってるんですね。
とかもやっぱり教えてくれて、地元の観光案内所みたいにもなってくる。
冷薬をいただいてすごくおいしかったわけなんですけれども、
キビ焼酎飲んであーって思って、
したらカウンター2席しかないんですけど、
僕そこで1席に座れたっていうのもあって、
旦那さんの方がすごいこう作業しながらもお話に聞き合ってくださって、
すごくいろんなお話をしてくださった、クラシティの。
で、あまりにもそのお話が面白かったっていうのがあって、
ゆっくりとこの皆さんとお話がしたいと思って、
けど何も頼まないのはやっぱ失礼なんじゃないかって思ったんですよ。
それはそうでしょうね。
でしょうね。で、停食まして頼んでご飯遅らせちゃってるしみたいな。
で、悪いなと思って、申し訳ないと思って、
何か頼んだ方がいいんじゃないかと思ってですね、ページをパラパラ巡っていたらですね、
クラシティに拡散の核に日照時間の章という文字が見えたんですね。
これ何でしょうか。
何これ。メニューに書いてあるんだよね。
そうです。読み方が何かというと、クラシティカクテルなんですね。
カクテル。
拡散するのカクテルにしてると書いて、クラシティカクテルなんですよ。
これはまあ遊び心のあふれる造語でしょうけど。
飲めるんですね、朝から。朝からバー営業というね。
メニューを見てみましょうか。
クラシティカクテル。地酒をベースに地元の素材を使ったカクテルです。
冷たいお飲み物ですと。
まさに2026年1月、これ僕いたのとまさに同じ月なんですけれども。
なので僕も本当にこのラインナップだったと思うんですが、
白桃ほうじ茶焼酎、ピオーネほうじ茶焼酎、一軸ほうじ茶焼酎、レモン煎茶焼酎、いちご煎茶焼酎。
だからこれフルーツとお茶の焼酎を合わせている。
はい。こういうのがあるんですよ。
これは飲まないわけにいかないだろうと思いまして、
白桃ほうじ茶焼酎をオーダーさせていただいたんですけれども、
いや、めっちゃおいしかったのこれ。
白桃のようはすっきりとした、ちょっとクリーミーな白桃で、
たぶん泡立てだと思うんですけれども、あれが上にあるんですけれども、
ゆっくり飲んでいくとちょっと混ぜ合わさっていって、まさにサボエさんで飲んだようなところもあるんですが、
ほうじ茶のこの焙煎香がね、徐々に立ち込めてきて調和してくるんですよね。
飲んでいくうちに。おいしかったんですよ。
これめっちゃおいしかったの。
なんかなかなかフルーツとお茶を合わせるっていうのが、
どういう味なんだろうっていう。
ちょっとやっぱり苦味とかもうまく入ってくる感じ。
ただ桃っていうのも実は、やっぱり癖がややあると思うんですよね。
カエシというかっていうのがあるんですよ。
桃の主張が強いよね。
そうそうそう。その桃のフレッシュさっていうのを失わずに、
カエシの苦みみたいなのがほうじ茶にうまくむしろブレンドしていくみたいなね。
そんな計算なんじゃないかという気がするんですね。
いや気になるなあ。
ピヨーネなんてのはまさに葡萄なわけですけど、
とかイチジクとか要は美中の思うにやっぱり岡山県のフルーツ大国を活かしたものにあって、
お茶はやっぱり見まさかの番茶だったりもします。
はいはいはい。
まあやっぱりその地のものを使ってっていう意識もあるんですね。
すごくそれが強い方々。
ちなみにね、なんでこいつは酒の紹介しかしないんだと思った方に情報がありまして、
今度は木浴の木、山髄に木と書いて木にテラスと書いてね、クラシティモクテル。
モクテルというのはノンアルコールのものなわけですけれども、それもあるんです。
こちらはやはり白桃の番茶だったりピヨーネといった先ほどのフルーツのラインナップものがあると同時に、
シノノメというシナモン香る生姜の番茶、あとはハレバンチャイとかね。
やっぱり見まさかのお茶っていうのは非常においしいので、それを使ったいろんなアイディアがあるわけですね。
なので削り節だか玄米だかって言ったら意外かもしれないんですけど、
お食事をいただいた後でね、ちょっとデザート的にこのモクテルをいただいたりなんていうのも全然いいんじゃないかと思いますし、
旦那さんの方はもう本当に香料割ってる、いわゆるバーテンダーさんみたいな感じでやってて、
お料理は奥様が大体やってらっしゃってたので、カウンターに運良く二席のカウンターに座れたらそういったお酒の話でもたくさん聞けるので、
僕は運が良かったです。ここはめっちゃおすすめです。
なので、ただどんじとか混むと思うので、
10時かららしいんですけれども、朝ぜひ並んでいただいてもいいかもしれないですね。
行く価値あります。並ぶ価値ありますね、ここは。
なるほど。
最高の朝ごはんです。
大原家の功績と大原美術館の設立
ということでね、朝ごはんをいただきましたら、ちょっと美観地区のピックアップのいくつか施設をしたいと思います。
さんから徒歩10分ほど行っていただいたところにあるのが、
カタライザ大原本邸です。
これは、お家の一つという感じなんですかね。
そうですね。ただね、ただのお家じゃないんですね。
クラシティというものを語る上で、どんなテーマであろうと、
大原家のことは絶対に避けては通れない。
この大原本邸というのは、端的に言うと、江戸時代以来のクラシティの筆頭角の商人と言って過言ではないでしょう。
大原家の邸宅です。
今はね、大原家の実績だったりとか、クラシティの街の歴史とかを展示する小民家のミュージアムになっているというところですね。
中に入っていただくと、実際大原家というものがどういった役割を果たしたかっていうのは、
すごい現代的なセンスでいろいろと展示がされていて、
一方でクラシティの街の発展の歴史が年表形式で紹介されていたりするので、
運河や街並みというのはどういう風になって、そしてどう産業を発展させてきたのかっていうところも、
クラシティ自体の歴史を知る上でも非常に大事なポイントになってくるかなというわけです。
そしてこの大原家というものなんですけれども、これ聞いたことあるでしょうか。
ちょっとわかんないな。
これは今も日本の繊維道を代表するメーカーをどんどんと立ち上げたところです。
具体的に言うと、今で言うクラボー。
クラシティ宝石であるクラボーですね。
あとはクラレっていう会社あると思うんですけれども、あれもともとクラシティのクラですから。
ああ、そうなんだ。
それぞれその初代社長とかを務めているのはこの大原家なんですね。
だから本当に今も続いている巨大メーカーの創立者になるわけなんです。
先ほどそのクラシティという町が、そういうわけで稲が育たないので諦めて、
面下の方に振り切ったって話ありましたけれども、結果それが江戸を損したんですね。
この大原家というのは元々は元禄の頃と言いますから、要は17世紀の終わりなんですけれども、
その頃にビゼンの国の頃からビッチュの国越してきた人たちだったそうです。
米どんや、要はお米自分たちは取れないんだけれども、
山陽道一帯から集まってくる米をこのクラシティに保管して、
それを瀬戸内に流して輸送するという貿易商社ですよね。
とかその面の取引とかで蓄財をして、いつの間にかクラシティを代表する商家になりました。
特に有名なのが6代目からの3代続いてなんですけれども、
6代目の大原孝次郎、7代目の大原孫三郎、そして8代目の大原宗一郎というのは、
ちょうどここが江戸時代から明治への架け橋になっているんですけれども、
近世の江戸時代の商家から近代の実業家に見事に転身を果たしたということで、
非常にこのクラシティの発展を牽引した人物で、
3代に渡って大きな足跡を残したんですね。
彼らが残したのはこのクラボ、クラレっていうだけでももちろんすごいんですけれども、
それだけじゃなくて、山陵の発展をすると同時に、
人々の働き方とか福祉とかいうところにも非常な関心を持った人たちだったんです。
特に医療の発展とか、人が人として幸せに暮らすっていうことのところを追求した文化事業家であり、
事前活動とかにもすごい力を入れた人たちだったんです。
だから単純な実業家ではなくて、そういった精神の部分に深く入り込んで探求して、
より良い暮らしを得るためにどうしたら良いのか、
自分たちと共に働くその従業員の人たちがどうやったら幸せになるのかっていうことを真剣に探求した名経営者なんですね。
この辺、渋沢一にもちょっと似てるような気はしますね。
ですからこの大原本邸に行っていただくと、この人たちが残した名言みたいなものが釣り場になっていたりとか、
この大原っていうのはもう山陽の本当に経済の拠点になりましたから、
大原の一家から派生する経済あるいは文化の人脈というものが図式化されていたり、
あるいはこの八大総一郎の書斎というものをイメージしたブックカフェがあったりというふうに、
単純な観光施設だけではなくて、お休みどころとしても非常に楽しめるところになっていた。
この大原家があったから、倉敷も盛り上がったということですね。
間違いないです。
その歴史を見れるということですね。
展示内も見てみると面白くてですね。
これがさっき言ってたやつね。
降り注ぐ言葉。
名言が天井からぶら下がってるんですね。
そうなんですよ。
いわゆる安全の道は進歩も工夫もないものである。
子孫というものは祖先を訂正するためにある。
結構革新的な感じの。
現在と過去を整理するのは未来のためだ。
ちょっと実業的な見方の言葉もありますね。
そういうのがあるし、人脈のツリーみたいな。
キューブツリーって書いてますけど。
これ人の顔が書いてあるんですね。
なるほど。
この四角のランプが連なってるんですけど、
それの表面に顔が書かれていて、
それが人脈というか関係者のツリーになっていると。
そういうことですね。
なんか資料館みたいな展示っていうよりも、
もうちょっとビジュアルで感覚に訴えかけてくる感じになってますね。
そうですね。
なかなか身体的にも楽しめるようなね。
直感的に楽しめるような施設にもなっているということで。
やっぱりまずはこの大原家と倉敷というのはしっかり抑えた方がいいと思うんですね。
ただ実は言うと、おそらく倉敷の大原というとですね、
おそらくこの施設が一番有名ではないと思うんです。
やっぱり倉敷の一番の観光地であり、大原の名を冠したもので絶対外したいのは、
この大原本邸の川を挟んですぐ向かいにあるんですけれども、
大原美術館ですね。
これはもう絶対マストのスポットです。
すごい神殿みたいな感じの建物ですね。
この大原美術館というのは1930年に開業していますので、
もう約90年前ですね。
戦前に開業したもので、西洋美術中心の私立美術館としては日本初もだったんですね。
これ倉敷にできたんですよ。
やっぱり東京とかにできるのかなと思うけど、倉敷にできるの。
そうなんです。これがすごいところなんですね。
これを作ったのは、先ほど大原本邸でも名前が出ましたけれども、
7代目大原孫三郎という人物でした。
これがちょうど明治から昭和にかけての人物だったんですね。
特に有名なのはエル・グレコって、これ中世のヨーロッパの画家ですけれども、
いわゆる受胎告知がここに収められていたり、
モネのスイレンもここにあったりします。
日本にあるんだ。
そうなんです。モネのスイレンっていっぱい書かれているんで、
その中の一つがということなんですけれどもね。
ただこれがすごいのは、実際モネに会ってね、生前のモネにね、
そこで買い付けたみたいな話もあるくらいの、
日本でもかなり西洋美術の先駆けをいった美術館だったんですね。
なんでこんなことをするのかということなんですけれども、
ここがまたね、これ自体が一つの問題になるくらい、
僕ね、これ大原家で本当にいつか浅沢になると思うんですよ。
なってほしいんですよね。
この大原孫桜という人物が非常に面白い人でして、
この人はですね、在後なした大原家の御曹司で生まれていて、
最初からあんまりね、三難とかだったんですよ、孔子郎さんのね。
だから後継ぎでも本当はなかったはずみたいな形で、
甘え飾りで育っちゃったんですね。
いわゆる早稲田大学、創業専門学校に入って、
親の目を抜き出して、ただ金の仕送りはいくらでもつきませんから、
東京に行ってね、6日授業も出ず、もう遊び放棄だと。
ちょっと耳が痛いです。
学生デビューしちゃったんですね。授業に出なかったんですよ。
ただ内田のレベルじゃなかったんですね。
我々はね、お金がないのにアルバイトで稼いでいたわけですけども、
この人は親が無限に送ってくるわけですよ、お金を。
結果どうなったかというと、気づいたら学生ですよ。
東京専門学校の学生にも関わらず、
なんと現代の日本円にして、約1億円の借金を抱えてしまった。
そういうね、激ヤマ学生だった。
それだから仕送り以上にってことだよね。
何でそこまで使えるの?
すごいね。
あと人にお金を貸しちゃったりとか。
なんでだよ。
かもなんですよ。世間知らずのボンボンで本人も遊び好き。
もう付け入れ好きしかないようなやつだったんですよ。
すげえな。
1億円の借金を抱えた大学生ですよ。
すごいね。しかも遊んでっていうのもすごい。
そう。何かを授業とかをやろうとしてたのに、ただ遊んでただけ。
遊びに消えていったんですよ、1億円の。
すげえな。
っていうヤバい学生だったんですよ。
ヤバいじゃないですか。さすがにこの動画の中で。
親が知ったら泣くどころじゃないですよ。
さらにヤバかったのが、孫サブルはどういうわけか、人には好かれたのか、育ちの良さがあったのかわからないんですけど、
親戚の人がこれを助けてあげなきゃって思ったらしくて、
こうしろんさんってお父さんにバレたら逮捕になるから、言わないまま財務整理みたいなのを一緒にしてくれようとしたんですよ。
ところが、もう親戚のびっくりするような学の借金があるわけですよ。
しかもろくな借金じゃないわけですよ。
なんとね、これは笑い事じゃないんですけども、その親戚の人はあまりのショックに病気になってしまって、亡くなってしまったんですね。
は?
そうなんです。
は?
孫サブロの借金のせいで、ショックである意味病気になっちゃって、亡くなってしまったんです。わざわざ助けてくれようとした人が。
ええ、だいぶ笑えないレベルになってきたね。
笑えないですよ、全然これ。一人一人亡くなってるわけですから、間接的に。
さすがにお父さんにバレて、どうなってんのってことになるわけですよ。
1億円の借金、大学に入れたら1億円の借金を作って帰ってきて、
お前、言い返しろっつってクラシキに連れ戻されて、勝手的な監視官に送られたんです。監禁状態ですよ、こんなバカ息子を。
さすがの孫サブロも、親戚の人がすごい良いお兄さんだったらしくて、
本当に慕ってた人が、自分の借金のバカみたいな行動のせいでショックで死んでしまったというので、監禁されて親に。
というので、さすがにこれはヤバいと。自分というよりなんてバカみたいな人間なんだということで戒心した。
そういうふうな監禁状態になった時に、とある本を読んだんですね。
それは宝徳記という本でした。
無垢入る徳川の記記と書いて宝徳記。
これ、聞いたことありませんか?この本の名前。
え?宝徳って聞いたことないでしょうか?
ニノミヤ金次郎。
あのニノミヤ尊徳、ニノミヤ金次郎の原稿録こそが宝徳記なんです。
我らが小田原出身、小田原城内に宝徳ニノミヤ神社がありますけれども、
あれはニノミヤ尊徳が行った宝徳司法という経済再生の考え方みたいなものなんですけれども、
これのノウハウをまとめたのがその弟子が書いた宝徳記というものなんですね。
これを孫三郎が読んで戒心したんですね。
すごいんですよ、ニノミヤ尊徳って実はめちゃくちゃ。
渋沢栄一にも影響を強く与えてるし。
このどうしようもないバカ息子を、本当にヤバいですよこいつマジで。
戒心した一つのきっかけが宝徳記だったんです。
要は宝徳記に何が書いてあったかというと、
こんなのだって自分のことしか考えてないよ、典型じゃないじゃないですか。
っていうのじゃなくて、いかに世の中のために自分の財産を役立てるか、自分の命を全うするかというのが書いてあって、
それになんで自分はバカだったんだ、そしてまして人の命を奪ってしまったとある意味。
というのが戒心した。
そしてそうなっているときに同時に出会ったのが、やはりこれは青山明にも非常に通じるんですけれども、
キリスト教の精神を持った博愛精神を持った人物に出会ったんですね。
それが石井十二という人でした。
石井というのは石井さんで、十は数の十で、次の人の次で石井十二という人物だったんです。
これ名前こそ出てないんですが、実はこのポッドキャストで一瞬触れた人なんですね。
この人は何をした人かというと、岡山じゃないんですけれども、この時ちょうど岡山で活動し始めた人で、
日本で初めての本格的な個人を作った人だったんです。
この時近代化のイケイケドンドンだったわけなんですけれども、一方で労働環境の悪化とかで病気とかも流行って、
親を失ってしまって行き場のない子どもたちというのが日本に多くいると。
そういうのを近代化の陰で隠れてしまっているんだけれども、やっぱり人道のあるべき姿じゃないと。
人の道に外れてしまうこのままだとということで、近代の医療、この人もともと医者を目指していた人なんですけれども、
医療というよりは福祉というものに初めて開眼した日本人だったんですね。
これが岡山で活動拠点を持っていたために、岡山個人というものを作って、
それでいろんな人に協力を得ようとしていた人がいたんです。
そしてこの石井十二はなぜポツンと出てきたか。
この人の出身地はヒューガの国の高辺なんです。
覚えてるでしょうか。高辺に明倫堂という学校があった話のこと。
何をしたところか覚えてますか、明倫堂。
一般市民も通える学校だったんですね。
そうなんです。秋月の繁校だったんですけれども、一般市民の門口を開いた。
そして秋月の種茂という植え付き餃子屋の兄さんにあたる人ですけれども、
この人は何をしたかというと、ヒューガの国の農民たちが生産力を衰えると、
子供を殺してしまうということが、悲しい出来事がやっぱり両面起こっている。
だめだとそんなの。
農民が確か3人目の子供を産んだからかな。
とかはお米を支給してあげるっていう福祉をやったっていう画期的な人物だったんです。
それによって高辺という土地の生産は潤って、文化も起こって、そして植え付き餃子を産んで、
明倫堂から多くの人材が羽ばたいていった。その人だったんですね。
ちゃんとその教育が生きてるね。
そうなんです。高辺藩の最末期に、この人は幕末の時代から生きてる人ですけれども、
明倫堂でやはり学んでるんですね。
その明倫堂高辺藩の教育に、福祉というものの最初の芽生えを持ってたはずなんです。
それがたまたま岡山でフィールドを移して、岡山でやった。
そしてこのバカ息子だったマゴサブローに出会ったんですね。
そしてマゴサブローはそういうわけで、自分というものの人生がいかにバカなことをしてきたかというのもあったし、
法徳記を読んで少し芽生えてきた時もあったし、っていうタイミングも良かったなと思います。
石井十二という、本当に博愛精神を絵に描いたような人に出会って、自分の人生というものを考え直したんですね。
そしてようやく戒心をして、お兄さんたちが死んじゃったりもしてたっていうのもあって、
孔子廊の後を継いで、ついにマゴサブローは、ちゃんと戒心した経営者として大原家を継いだんですね。
そして何をしたかというと、実力の面でもちゃんと起こしたんですけれども、
やっぱり日本という国、暮らしという街が良くなるためには、ただ単純に利益だけを追い求める近代化っていうのはダメなんだと。
文化とか人の心とか、暮らしの幸せがないとダメだっていうんで、自分たちの企業を見てみたら、
やっぱり江戸時代の都定制度みたいなのが残ってて、結構過酷な労働環境をあえて美徳とするようなところもあった。
あるいはふと周りを見てみたら、まだ学校に行かなきゃいけないような年齢の子どもたちが、親の稼ぎが少ないがために働きに出されて、
教育を受けないまま自分の工場で糸を作っているのを見て、でもその子たちはまだ読み書きもよくできないような教育を受けてないんですよ。
っていうんで、これはダメなんだというふうに思って、もう仕事休んでもいいからって言って、
なんと自分の工場の中に小学校を作るってことがあって、教育を受けてない自分の校員たちをそこに入れて、教育を施すことを自らやったんですね。
だったりとか、教育機関にいろんな日本近代化の知識層を呼んで、芸術の素晴らしさだったりとか、実力のノウハウだったりとか、大原孫三郎が全部お金を出した講演費とかも呼んで、
倉敷の人のために日本の最先端の知識というものを時間に触れさせる。その講演会はなんと今も続いてるんです。
孫三郎の名前を取って、今でも倉敷に日本の最先端の知識層を呼んで、倉敷の市民のための講演を開くっていうのは今でも行われてるんです。
ってことをやるんですね。
自分は大学サボってるのに。
そう、同省のバカ息子だったりも関わらず。
すごいね、代わり様が。
だからこそなんだかもしれないけどね。いかに自分がバカだったかということに気づいたんですね。
立派になって。
立派になったんですね。
そして同時に人々の心を養うことっていうのは大切だというふうに考えたため、
芸術というものの素晴らしさというものもちゃんとこの人は分かんなきゃいけないと思ったんですね。
そして倉敷の人にそれを広めなきゃいけないというふうに思ったんです。
そのためにちょうど明治への終わりになって、西洋からの文化というものを流入してくるわけですよね。
っていうので、この人はお金は持っていますから大原卿はね。
若き芸術家の才能を後押しするパトロンになってあげたんですね。
そして自分とほぼ同世代の小島寅次郎という人物が岡山にいるのを見つけて、小島の方から会いに行ったんですけども。
小島寅次郎というのはすごく美術が上手くて芸大に入って、青岸切とかとほぼ同級生なんですけども。
その中でも一等賞みたいなのを取ったような、すごく才能の満ち溢れた人物が立中の国の出身だったんですね。
ただやっぱりお金がまだなかなか学生でないからっていうんで、大原卿に援助を購入したんです。
そしたらその孫サブローとか、お父さんは高志郎もなんですけれども、これはってことで援助をしてあげると。
さらに言うならば、君の絵の才能というのは私たちが担保する。そして学資も出してあげると。
なんだけれども、ぜひクラシティの人のために美術というものをちゃんとやってほしいというふうなことを言い始めたんですね。
具体的には小島寅次郎を西洋に送り出して留学をさせてあげると同時に、西洋で一級の美術家たちに会って、その絵を買ってきてほしいっていう、買い手としての役割を担わせたんですね。
小島寅次郎自身もやっぱり西洋の美術の生のものを日本に持ち込むっていうのが、いかに大切なことであり、そしてハードルの高いことかって分かっていたので、孫サブローにその意義というのをちゃんと解いて。
孫サブローも実力の面もあるから、ちゃんとリスクとコストも天秤にかけた上なんだけど、やっぱり自分のそのバカな前反省を鑑みても、いろいろ思うところがあったんだと思うんですけれども、やっぱりそれは買う価値がある。
倉庫もこの時実は結構経営がまずかった時もあったんですけど、それでもなおこの美術を買う意味はあるんだと、倉敷の人のために。
小島寅次郎に是非あのモネという画家に会ってきてほしい、マティスという画家に会ってきてほしいと言って、寅次郎は本当に会いに行くんですね。
そして世界一等の美術家たちに日本人として会って、その絵を買うことに成功したんです。
それが倉敷に持ち込まれるんです。
つまり東京にもないような一等の世界との名画を、ただの資本家とこの一人の画家が世界中から買い集めるっていう異常な事態が起こってるんですね。
この時の倉敷には。
いやそう、寅次郎もすごいな。 すごいです。小島寅次郎というのもすごい人物だったと思います。
急にその熱量が出てきて、すごいですね。
そうなんですよ。都合3度にわたってヨーロッパにこの寅次郎を派遣して、寅次郎は寅次郎で自分の創作活動もすごい頑張って、画家として名を成していくわけですし、
同時にその倉敷の人のためにね、本物の西洋画というものをね、本当にフィルターかかんない状態で持ち込む。直輸入ですよ。
フランスから倉敷へ。
っていうのが起こるんですね。
ところがですね、寅次郎はそういうわけで画面が上がって、日本でも代表する画家になっていくんですけれども、
明治神宮に掲げるための絵を描いてほしいということを頼まれるんですね。
つまりもう国の事業として、明治時代というものを象徴する絵を描いてほしいという政府から頼まれるんですよ。
っていうぐらいの画家だった。これに心血を注ぐわけですね。これの歓声にね。要は時代を象徴するようになるわけです。
ところが、過度な力の入れようと、あるいは西洋画で無茶振りがいろいろたったったのかわかんないんですけど、
なんとね、その絵の制作中に過労でね、突然亡くなってしまったんですね。
完成させられなかったんです、あの絵を。
ちょっと休んでほしかったね。
そうなんですよ。まだ40代の若さでね、亡くなってしまったんですね。
で、マゴサブローもね、非常にやっぱり悲しむわけですよ。
ムニの親友、ほぼ同年代は1歳違いとかなんですよね。
ムニの親友であり、同志であり、そしてこのクラシックの英雄になる、備長の英雄になるはずだったトラジロが死んでしまう。
ということで非常な喪失感にやっぱり苛まれた。
実は自分実業の面であんまりそのとき調子良くなかったりもしたから、余計ダメージが多分つらかったと思うんですね。
でもね、これでマゴサブローが思ったのは、トラジロが途中で死んでしまったからこそ、その志をやっぱり自分が受け継がなければならないって使命感に燃えたんですね。
このトラジローが亡くなった1929年、その翌年にある意味ゴリ押しで自分の資材を投じて、トラジローと共に集めたそのコレクションを見せるための美術館を作った。
それがこの大原美術館だったんです。
へー。
いやー、このマゴサブローは逆境から跳ね上がってくるね。
そうなんですよ。
なのでこの館内にはトラジローがマティスとかモネから本当に集めた、その直で買ってきたものというのが、
本当に西洋一等の名画がこの私立美術館として開館したっていうのが異例なんですよ、非常に。
それも実現できたのはその二人のタグがあって、そしてマゴサブローの思い切りがあったからなんですけれども。
だから今なおね、日本を代表する私立美術館として、もうこの名は普及だと思います。
大原美術館っていうのは本当にすごいです。
私立美術館でここまでのクオリティを持っているのはなかなかないです。
本物があるのもすごいでしょ。
もう情熱だけっていう感じがすごいあるね。
そうなんですね。
でマゴサブローはまもなくしてなくなるんですけれども、この大原家の遺伝子っていうのはちゃんとその後も受け継がれました。
8代曹一郎がマゴサブローと継ぐわけですけれども、
曹一郎というのはやはりこのクラシティの人のために本物の美術を見せなきゃいけないっていうのの使命感というのは受け継いだんですね。
もちろんそれはマティスだったりモネだったりっていうのも偉大だったんだけれども、やっぱりマゴサブローの生きた時代からどんどん戦後になってこう時代が変わっていくから、
現代の美術の潮流、現代の最新の一丁の美術というものをどんどん持ってこなきゃっていうんで、
マゴサブローの意志を継いで自分もどんどん西洋の美術というものを見極めて買っていくんですね。
ですから大原美術館がすごいのはモネがあるだけでも十分すごいんですけれども、その後も常に収集と成長を続けていくんですよ。
そして一方でマゴサブローの時代は西洋の文明開化の影響をもろに受ける時代ですから、西洋の美術を日本に持ち込むっていうことが大きな意義があったわけですけど、
孫一郎の時代になると、それから一つまた時代が下っていくので、西洋のマゴサブローたちが持ち込んだ美術というものに影響を受けた日本の画家たち、美術家たちが、
自分たちでオリジナルのものも作っていこうっていう潮流になっていく。そして孫一郎が支援したのが民芸運動だったんですね。
民芸というのはつまり日本の忘れ去られようとしている前時代の洋の美というものに日本の美術の本質があるんじゃないかと。
柳宗吉たち、これは大正時代から起こってくるものなんですけれども、そういったものを孫一郎は民芸にもかなり入れ込んだ人でした。
だから西洋美術だけじゃなくて、幅広く世界の美術を俯瞰した時に、日本のクラシティの発信する価値とは何なのかというのを考えた人たちだったんです。
そのために今も大原美術館本館はマゴサブローたちが集めたものが多いんですけれども、文館とかには東洋館とか民芸館みたいなものがあって、
そこは孫一郎たちが民芸家たちと集めたミングとかも置かれていて、別の聖火の美術館でもあったりするんですね。
そういう発展を常に遂げていっているっていう美術館なんです。
今のクラレンになるまでの大企業を継いでいるだけでもすごいのに、美術をクラシティのためにっていうところも引き継いでいるのはすごいですね。
すごいです。
すごい一家だな。
そうなんですよ。これが大原美術館なんです。本当に日本を代表する美術館ですから、ここは絶対行ったほうがいいです。
もっと言うならば、ちょっと今回話の流れのために僕は最初にクラシティ美術館地区を9時に設定したんですけど、美術館も9時くらいやってます。
美術により興味があるよって人は大原美術館に9時に朝一で行ったほうがいいです。ここも混みますから間違いなく。
なんとなく大原美術館っていう名前は知ってたけど、当時としては画期的な美術館だったんですね。
そうなんですよ。なんかオリエント美術館ともちょっと被るんですよね。
個人の情熱が社会的な意義を生むっていう。それを受け入れる別々の風土、クラシティの実勢っていうのもやっぱりすごいんですけど。
今ね、大原美術館は最近ね、文館というものをオープンしまして、これはね、今小島寅次郎記念館というふうに名前になってます。
やはりこの美術館を使ったタテ役者の寅次郎のこともやっぱりもっとちゃんと検証しなければいけないということになって、寅次郎の作品もいっぱいあるし、
寅次郎と共に同時代を生きた岸田流星とかそういった日本画家の作品もここにありますので、本当に美術好きな人は大原美術館だけで半日かかると思った方がいいですよ、マジで。
なのでその辺りはぜひ自分の好みに応じて調整してもらえればいいのかなというふうに思います。
これがね、クラシティの観光のメインだったわけですけれども、もうこれでお昼の時間になってると思います。大原美術館ガチでちゃんと見ると。
林源十郎商店とランチ
ということで大原美術館の本館からですね、徒歩1分ほどのところにあるのが林厳重郎商店さんです。
セレクトショップみたいな雰囲気ですかね。
その通りですね。キャッチフレーズのところに書いてありますけれども、クラシティ生活デザインマーケットというね、おっしゃる通りセレクトショップの集合している文化施設です。
なので最初日ということもあってね、ぜひお土産を買っていっていただけるといいんじゃないかなと思うわけですね。
これね、店舗紹介を見ていただくとですね、これ林厳重郎商店自体ビルなんですよ。
その中のだから1階2階みたいに分かれているわけですが、木工のね、木のクラフトのものがあったり、画質なんていうのもあったりね。
カフェも入っているし、あとはね、この三宅商店っていうのはこのマスキングテープも実はクラシティめちゃくちゃ有名で、これ産地なんですね。
テープとか紙雑貨の専門店があったりとか、あるいはこの鶏の卵を売っているね、食材のセレクトショップもあったりするという。
まあいずれにせよこのクラシティだったり、美前美中のフードとかに根差した多彩なね、コンセプチュアルなショップがね、集合しているデパートなんですね。
これは本館2階の中にね、林厳重郎商店記念室というものがあるんです。
これね、さも林厳重郎商店なんていうと江戸時代から続いているみたいに思うと思うんですけれども、事実としてこれ江戸時代とか明治にあったもちろん商家なんですが、
一回それが途絶えた後にね、別の人がこれをね、野後をあえてそのままにしてね、再興したっていうんですね。
それなぜかというと、この林厳重郎という人物が非常に偉大な人だったっていうんで、そのリスペクトを込めてね、ビルを新しく起こしたと言うんですね。
林厳重郎というのは大原孫桜たちと同じ時代を生きた薬屋さんでした。薬屋さんだったんですね。
しかしながら、やはり大原家と同様に、クラシティの自治新書の寄付を一心に受け継いだ商人であって、すごくこのクラシティの街のために事業を展開して発展をさせたりということをやった人たちだったんですね。
同時にさっき大原孫桜のお話をしたときにですね、石井十二という高辺出身の福祉家が出てきたわけなんですけれども、この人と大原孫桜を引き合わせた人こそがこの林厳重郎だったんですね。
なので林厳重郎を引き合わせなかったら、大原孫桜はどうしようもない奴の孫だったかもしれないんです。
っていうような役割を担った人で、孫桜とかに比べるとやや脇役になっておっしゃうわかもしれませんが、もし孫桜のドラマをやってる時があったら、超重要人物として間違いなくこの人も出てこなきゃいけない人です。
地域の社会のためにもすごい大きな足跡を残した商家であり、個人でもあったということで、当時の資料とかを残して、ちゃんとこの林厳重郎の足跡を伝えるミュージアム、このセレクトショップの中に貼ってたんですね。
なのでここも無料で見られますので、林厳重郎商店でいかにこのクラシティの街のために尽くしたか、大原孫桜の人生にも大きな影響を与えたかっていうのを見ていただく。
と同時にお土産も買っていただく。そして今回のメインの用途であるんですけれども、ランチを食べるわけですね。ピッツェリアこのフォレスタさんです。
ピッツェリアがあるんだ。
ピザを食べに行きたいと思うんですね。
めっちゃうまそうだなこれ。
本格ナポリピッツァ、南イタリアの郷土料理を得意とされているイタリアンです。
すごいなんかちゃんとした釜があって、そこでピザが焼かれてますね。
もちろんねこれだけでも美味しそうなんですけれども、マルゲリータとかっていう定番に混じってね、ひとつね変なものがあると思うんですね。
桃太郎。
岡山ピーチポークベーコン、岡山県産キニラ、岡山ニラの栽培が盛んです。モッツァレラチーズ、バーベキューソース、タルミジャーの温泉卵ということでね。
この岡山のお肉と野菜を使って仕上げたオリジナルピッザなんですけれども、めっちゃうまかったですこのピッザ。
バーベキューソースっていうのもね珍しい。
そうなんです。これがコクが深くてね。
あとまろやかな温泉卵を割ってやるわけなんですけど、うまいんですよこれ。
キニラっていうのもいいですね。
キニラはねクラシティが特によく食べられます。
浸水さんとかでもメニューあるはずですね。キニラの雑炊とか美味しいんですよ。
いや美味しそうだな。
これをねこのちょっと火が差し込むね木漏れ日の中でねテラス席が止まったりして。
でナポリピッザの窯で焼いたものが出てきて、そしてね、もうどうせ朝飲んでるんですから。
変わらないわけです。
ワインをね、ぜひいただいてほしいなというふうに思うんですね。
このランチセットでメイン一つとサラダドリンクっていうセットがあるんで。
でドリンクでちょっとプラスするとアルコールも飲める。
今回ね車運転しなきゃいけないのでね、そういった方はもちろんエスプレッサとかねそういったものもありますし、
やはり岡山ということでね梨とかピーチのねジュースもあったりします。
でメインはねピザだけじゃなくてパニーニとかパスタとかもあるんですね。
なので本当にそれぞれの好みで選んでくれればいいですし、
それいずれもね岡山の素材ピッチの素材を使っているのもあるので地域性も感じられると。
今回あんまり洋食食べてなかったのでね、これいただくのもいいんじゃないかなと思いますね。
なのでこの林原住の商店があることがいっぱいあって、
ショッピングもする、ミュージアムも見る、でショッピングもいろんな店がありますからね。
そしてランチをいただいてお酒を飲むというのをまとめてやっていただけるね文化総合デパートみたいな感じで、
非常に中もおしゃれですからいいところですね。
楽しそうだね。
ここ夜もやってるので、もし夜ピザ食べたいよって人はねここに夜行っていただくのもいいと思います。
古代山城「鬼ノ城」の謎
なのでちょっと駆け足になってしまいました。
本当はクラシックにこんなもんじゃないんですね。
もっといっぱいあるんですけれども、最低限絶対ここはだろうっていう一番最短のコースでご紹介したという次第です。
ただねこうしてるとやっぱりもう結構夕方前になっていると思いますので、
徐々にね残念ながらもう気の見つかなければいけません。
ということで林厳重路商店さんから10分ほどでそのホテルに帰れると思いますので、
そこで車をピックアップいたしましょう。
そして徐々にね空港の方に向かっていくわけなんですけれども、
最後のスポットでね一つねご紹介したところがあるんです。
それがですね、クラシティの市街から車で45分ほど北の方へ行っていただいたところにある木の城です。
なんだこれ、高台にある、名前はお城だけど建物はちょっとお城っぽくはないですね。
木造でね小屋みたいな感じですね。
これお城なんですか?
はい、今内田がこの疑問を思えたのはまさにおっしゃる通りだと思います。
それこそね全然実に岡山城とかを見ているわけですけれども、
いわゆる普通に想像するお城というのは天守閣があったりね、
そして5層なりにそんな感じで積み重なっているわけじゃないですか。
ところがこれね、
いやもう小屋ですよこれ。
そうですよね。
随分ちょっとお城にしては小さいしなんだろうって感じですよね。
でもこれもね城なんですよ。
なぜじゃあこういった違いが起こるのかということなんですが、
作られた時代が全然違うからなんです。
岡山城とか16世紀とか、
大体やっぱり戦国時代から江戸時代にかけて作られるっていうのが一般的な城なわけですけれども、
この木の城ができたのはおそらく7世紀と言われています。
つまり日本にある数少ない古代式山城と言われているものなんですね。
いやちょっと俺それの存在を知らないわ。
そうかもしれないですね。
確かになかなかいわゆるお城ってのはないですからね。
ただこれも立派なお城で日本100名城に選ばれているお城です。
そしてね、僕これ覚えてないかもしれないんだけど、
ここ2年前の9月に初めて行ったんですけど、
あんまりにも感動して、
LINEとかでめっちゃ写真送りつけたんですよ多分これ。
超感動したんですここ。
僕お城で今めっちゃお勧めできるのがここだと思いますね。
すっごい感動します。
あまりにも景色が綺麗で。
絶景です本当に。
トップにある写真もすごい綺麗ですよ。
木の城を最後になぜ行くかというと、
あえて最後に行くのは夕焼けを見に行くんですねここにね。
瀬戸内海に沈んでこの夕日と照らし出されるこの意向ですね。
本当に世界レベルの絶景だと僕は本当に思います。
世界に誇れる絶景です。
ここはぜひ注目いただきたい場所ですね。
なので歴史興味ないよっていう方であっても、
十分にここを目的地にする価値はあります。
あまりにも景色が綺麗です本当に。
そしてこの門みたいなのが復元されてる。
これさすがに7世紀のものじゃないんで。
当時の想像して復元してるものなんですけど、
その前がねちょっとしたスロープみたいになってて、
階段みたいになってて、そこに腰かけることができるんですよ。
その腰かけて膝に手をついて、
この瀬戸内海の方を一望するっていうのはね、
何にも変え難い経験であり、他の城ではこれできません。
これは本当にぜひ一生に一度行っていただきたい。
絶対的なオススメです。
めちゃくちゃいいですここは。
これはもう夕日とこの景色を見に行くということですね。
まずはそこですね。
ただですね、今回のテーマに照らし合わせた時にも、
最後にやっぱりここを訪れておきたいところなんです。
なぜかというと、この木の城というものの漢字なんですね。
鬼の城と書くんですよ。
そしてまあ今ね日本遺産の、これ日本遺産に登録されてるんですけども、
鬼の棲む山城というちょっと物騒な文字があるわけなんですが、
ここがこのミステリーの締めくくりになる場所なんですね。
まず木の城というものはさっき言った古代式山城と言いまして、
一般的に歴史の教科書では、
663年の白石猛威の戦いというものが、この一つの鍵になっています。
これ覚えてるでしょうか。
いやなんかそんなあったなって感じだな。
そうですよね。
これは大化の改新によって天治天皇とかが政権を育ちから脱出したわけなんですけれども、
その後にですね朝鮮半島で揉め事が起こったんですね。
朝鮮半島はその時一番南に九太良という国がありました。
そして真ん中に白城という国がありました。
今の北朝鮮のあたりには黄国というところがありました。
そして中国には大東帝国、唐ですよね、があったんですね。
ところがですね、この朝鮮半島の3国のうちの九太良というのは日本と仲良かったんですよ。
一番南にあったと思って。
だけども他の国の連合部に詰められて滅亡してしまったんですね。
九太良の王族というのが日本に逃げてきたんですよ。亡命してきたんです。
天治天皇とか日本の朝廷は朝鮮半島の情勢が日本にとって良くないものになると、
九州の防備とかをやらなきゃいけないから面倒なことになるわけですよ。
海外から侵攻される恐れがあるというので、
日本のためにも朝鮮半島は九太良に行ってくれないと困ると思ったんですね。
そこで朝廷は水軍を起こして九州から朝鮮半島に、
九太良最高の支援として軍を起こして渡って朝鮮半島に攻めたんですね。
ところがこれを迎えたのが唐と白城の連合軍でした。
唐というのは今は中国ですから、超巨大な人口であり軍事力で文明も発展していたので、
日本と九太良の連合軍は壊滅的な敗北を期します。
そうなるとどうなるかというと、九太良最高どころじゃなくなるんですね。
自分から喧嘩を仕掛けに行って負けてきたわけですよ。
ってなると当然白城とか唐というのは怒りますよね。
日本に攻めてくるんじゃないかというのがマジで現実に帯びてくるわけです。
これはやばいと思って超慌てて九州からいわゆる大阪のあたりまでの瀬戸内海沿岸に、
キュンピッチで城を築いたんですね。防衛拠点となるような。
その一つがこれだと言うんです。
実際にまず最前線の拠点である津島というところには金田の木っていう、
これ僕もここめっちゃ好きなんですけど、古代に山城が今でも残っていたりとか、
瀬戸内海の島にも似たようなものがあったりするんですね。
しかしながら九州方面に築かれた城というのは、
今でもちゃんといつ築かれたかって大体わかるんですけれども、
この木の城だけは謎なんです。木の城は歴史書に一切登場しないんです。
だからわからないんですこれもなぜこれができたのか。
ただ遺構としては建物があったこととか痕跡が残っていて、
その発掘調査で考古学のアプローチからすると、
やはり他の津島とか九州の城と同じ時期に築かれたんじゃないか。
つまり動機としてやっぱり当時代の信仰に備えて築いたんじゃないか。
場所としてもはずいぶんあり得るわけですよ、瀬戸内海でね。
って言うんだけれども、なぜかこの木の城だけは歴史に一切登場しないんです。
他の作られた城はちゃんと記録が残っている。
残っています。
ここだけないんだ。
ここだけないんです。
なぜ?
わからないんです。これはわからませんもう。
そして木の城っていう鬼の城っていう字が当てられてるんです。
謎なんですこれも。
これも結局わかってないから想像するしかないわけだよね。
そうです。
ただ岡山県この木々の地方に伝わっている民間伝承によると、
木の城というのはそもそも古代式山城ルンルンという問題ではなくて、
あのウラがいたのがここだったと言うんですね。
最初のね、きびつ神社のところで話した桃太郎伝説の中で言う鬼だよね。
その通りです。
きびつ彦の御事が討伐した、討伐せざるを得なかったウラという悪い鬼が木々の国にはいた。
それが山から降りてきて田畑を荒らしたり人をかどわかしたりしてトネオノやってると。
いうので制伐しなきゃいけない。
その山っていうのがこの木の城だったと言うんですね。
だから鬼の城なんですよ。
また勝手なこと言うけど、確かナマハゲの時にもそんな話あったと思うけど、外人なんじゃないか説があるよね。
だからなんかたまたまその当時日本にいた外国人がここにいて、
だからなかなか記録にも残せず謎のまんまみたいなのとかあんのかなってちょっと妄想したわ。
本当にそういう説もあるんです。
それはなぜかということなんですけれども、木々の国のこの歴史の最後の総括にもなるんですが、
木々の国が栄えて大和にある意味対立したんじゃないかっていう説があります。
これはもう推測でしかないんです。
それなぜかというと、木々の国は実は今回飛ばしたんですけれども、大規模な前方後衛戦みたいなのが結構起こっているんですけど、
ある時期を境に全く途絶えるんです、それが。
つまり古代に確実に4世紀とか5世紀には木々の国には王様みたいなのがいたのは間違いないんですよ。
超巨大な権力者がいたのに、ある時期を境にすると全くそれが現れなくなるんですね。
それこそが大和の国に平等された証拠なんじゃないかと。
つまり大和に対抗し得るだけの力を持っていたものが何らかの理由によって消滅して、
画一世紀の中に取り込まれたから大規模なものを作れなくなっちゃったんじゃないかっていうふうな説があったりするんです。
そしてそれと不法なすように、木々津彦の見事が悪いもの、鬼に類推されるようなものがこの木々にいたからといってそれを平等しにいった。
これも何となくリンクするんですね、時代的に。
ヤマトからすると敵大国というか、危険分子であるこの木々にいる危ない奴らっていうのを裏、鬼として退治しにいったという考え方もできる。
できる。
そしてなぜこの裏なのか、裏になぞられた何者だったのか、木の城によった何者かが歴史から姿を消して、
そしてなぜこの岡山に記憶だけ残っているのか、それはこれまで来たもののすべてがそこにあるんです。
彼らが持っていた技術なんですね。
つまりヤマトの国とか近畿とかは、やはり稲作とか農村的なところがあったわけですけれども、そして木を使ってものを建ててということをやっていたんですが、この木の城もですね、ちょっとこれ見てください。
屏風折れ、高石垣、谷に築かれた水紋、城内に残る蘇石建造物の跡、そして岩屋。
石だ全部。
そうなんです。
ここには古代式山城、確実に何らかの石像文化技術を持った人物たちがこれを築いたら間違いない。
しかしそれが何者だったのか全くわからないんです。
この辺の繋がりわかるでしょうか。
でももしかしたらタジキスタン人かもしれないってこと?
もしかしたらそうだったのかもしれない。
それは熊山遺跡ともし同じ人物を作っていたらそうかもしれない。
しかしタジキスタン人だったかはわからないけれども、日本のいわゆる奈良京都で発展した、木を共にする仏教と文明とは別の流派を持つ日本人、あるいは日本人じゃなかったかもしれない人間が、この木々にいたのはおそらくもう間違いない事実だと思うんですね。
なるほど。
しかしそれはなぜか歴史から姿を消したんですね。
結局その人がどういう人かわかんないけど、もしかしたら木造派の大和と石造派の木々があって、大和が木々をたまたま倒したから石造派がなくなって、大和がその後朝廷になるわけだから。
それで日本が木造国家になったんじゃないかっていう、そういう流れなのかなっていうこと。
あくまでも想像の範囲、推測の範囲でしかないんですけれども、あるいはそうだったのかもしれない。
なるほど。
説明がつかないんですよ。
日本だけはなぜ木造とかをね、だけじゃないけれども、要は中央アジアから東アジアの方に流れてきた石造文化は、あるどっかの瞬間でシャットアウトされたんですね。
なぜかそれは残らなかった。
日本のメインストリームには。
だけど、木々だけはなぜかその痕跡があるんですね。
そして謎なんです、それは。
歴史書に現れないんですよ、これを作った者たちは。
もしかしたらその木の城もさ、もともと石造だったかもしれないよね。
そういうことなんです。
だから記録に残らなくて、後から木造のものが立ったり、という可能性もあるわけだね。
ミステリーだね。
ミステリーなんですよ。
ただ確実にやっぱり石を使う、岩を使うというのは、後々戦国時代とか石垣とか出てくるわけですけれども、古代の文明においては使いこなせるということ自体が異能であり特殊技能の持ち主たちだと思われるんですね。
あるいはそれはもしかしたら日本では石というものの資源が手に入りづらい事情もあったのは間違いないと思います。
中央アジアの砂漠とは全然違います。
というのはそのオリエント美術館から見たら明らかなわけですよ。
だからやっぱりそれは単純に征伐されたとか戦いがあったかどうかというよりも、やっぱりどうしてもこの中央アジアで栄えた文化っていうのが東アジアに馴染めなかったっていうのももちろん一方であると思うんですよ。
政治的な生かさない話じゃなくて、自然の風生として育ってしまった。
資源が手に入りづらかった。
じゃあなぜここの木々だけにそれが残ったのかというのもやっぱり謎なんです。
というのがね、この大いなる謎を象徴する場所なんです。
木の城、鬼の城なんですね。
実際にこの木の城は建物のあたりがメインなんですけれども、本当に周囲何キロにも渡って散策をすることができます。
そこにはこのウラが住んでいたという大きな洞窟が残っていたり、一節にはウラの胴体を埋めた首輪の秘密人物が持っていかれましたから、胴体がここに残ったっていうような墓があったりね。
そういったウラ伝説の舞台でもあるんです。
いや、不思議だなあ。
確かに答えが出てないっていうね。
そうです。もうこれはわかりません。
ただね、何にせよこの景色は本当に素晴らしい。
だから余計ここをある意味持ってたっていうことは、瀬戸内海とかに大きな影響を及ぼすだけの根拠になっちゃったと思います。
平野も海も一望できるんで、そしてこれだけの防衛拠点を持っていたっていうのはただものじゃなかったと思うんですよね。
謎は深まるばかりです。
そうなんですよ。
ということで、その謎に思いを発していただくと同時にね、この絶景、最後の夕日をの絶景を楽しんでいただいて。
岡山は晴れの国で、晴れが多いわけであるんでね。
僕も、インベがグーズラムフットだけどここは全部晴れてるんで、今まで何回も行ってもね。楽しめるんじゃないかというふうに思います。
旅の振り返りと「もう一つの桃太郎」
そしてね、ここで絶景を堪能していただけたらね、もう時間になってると思いますので、木の城から車で35分ほど行っていただいたところにあるのが岡山桃太郎空港です。
新幹線から来た方は、もうちょっと時間かかるんですけれども、岡山駅まで戻っていただいて、新幹線でキロに着いていただければというふうに思います。
それでは3日目を振り返っていきましょう。
前日は倉敷駅近くのホテルに泊まっているという想定ですね。
こちらを朝8時50分頃、9時前ぐらいですね、チェックアウトします。
そこから徒歩5分ほど、倉敷美観地区に入っていきます。
この美観地区がすごく広いということで、この後もね、その美観地区の中のスポットを巡っていくので、まず街歩きという感じですね。
この倉敷川に沿うようにね、古い街並みが残っている地区ですので、朝の気分がいい時間帯にね、街歩きをしていただくという感じですね。
約1時間ほどね、街歩きをしていただいて、朝10時目がけて、市水に向かいます。
ここはお茶屋さんですね。そこで11歳の和食の定食のメニューがございますので、そちらは朝ごはんにいただきます。
地元の野菜を使った味噌汁とぬか漬け、そして美味しい今坂のご飯、そして削り節というね、本当にシンプルな11歳の定食となっております。
そしてね。
はい。
まあ、一品物もありますし、お酒もあるということなので。
クラシックカクテル。
はい。
まあ、ちょっとね、車があるのでね、大丈夫な方、そして飲みたい方は朝から飲むこともできると。
そうです。
焼酎をジロジロ見てると、おすすめをしてくれるというね、優しい店主さんたち。
本当にホスピタリに満ちた優しい店主さんたちでした。
はい。なので、ほんわかした雰囲気で、優しい朝ごはんをね、いただくという感じですね。
そこから徒歩10分ほど、カタライザ大原本邸ですね。
このクラシックの発展を作った大原家の本邸ということですね。
大原家が作った企業が、今のクラボだったり、クラレンになっているという、本当に発展に大貢献した大原家ですね。
特にこの6代甲子郎、7代の孫三郎、8代宗一郎というのがね、偉業をね、成し遂げたこの3代というのに注目という感じですね。
ですので、こちらでその大原家の歴史だったり、このクラシックの発展の歴史を見ることができると。
そこから徒歩1分ほど、大原美術館ですね。
ここはもう本当にとても有名な美術館ですので、知っている方も多いかと思いますが、
日本初の西洋美術中心の私立美術館ということで、7代の孫三郎がね、宝刀息子ではあったわけですけれども、
戒心をして、このクラシックのために小島寅二郎の助けも得ながらね、美術品を集めてそれを展示している美術館と。
本当に一級品の西洋美術がこちらに集まっておりますので、美術好きの方はね、
ぜひ時間をとってじっくりと鑑賞していただければと思いますね。
そこから徒歩1分ほど、林源住郎商店ですね。
こちらはクラシック生活デザインマーケットということで、いろんなセレクトショップが入っているビルということですね。
その中には林源住郎についての展示をしているエリアがあったりとか、
あと、おぼやにはピッツェリア・コノフォレスタというのがね、ありますので、
お昼はぜひこちらでね、ピザを召し上がっていただければと思いますし、
あとはお土産なんかもね、こちらで買っていただければと思います。
そこから徒歩10分ほど、ホテルの方に戻りまして車をピックアップします。
そして来るまで45分ほど、木の城というね、春や大寒冬の絶景が望める古代式の山城ということで、
いわゆる想像するようなね、お城とは全然違う雰囲気のお城がそこにありますので、
こちらの謎もね、妄想しながら夕焼けの景色をね、眺めて。
そしてそこから来るまで35分ほど、岡山桃太郎空港に戻りまして、このコースが終了というようですね。
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ミステリーと言いつつ、答えのないミステリーがね、たくさんあるという感じですね。
なので皆さんの想像にお任せというか、いろんなことを考えられるという感じですね。
そうですね。前半部分の未然の方でいろいろ思っていたのは、
なんかこう新しく進んでいくエネルギーがすごいあるなっていうのを感じましたね。
もちろん歴史的な伝統的なものも踏襲しながら、
現代的なものに工夫をしながら、いろんなものを作り出してるなっていう感じがすごく受けましたね。
それに対して日中の方に入ると、なんかそれよりかは歴史を重じてというか、
なんか昔のものを大切にしながら、だから多分美観地区に現れてるんだと思うんですけど、
そういうものを大切にしながら生活をしているのかなという、
なんかちょっと雰囲気が違うなっていうのは感じましたね。
そうですね。やっぱり国が違ったし、藩も違った。クラシティア天寮ですしね、そういうのがあったと思いますね。
それがまたぐことで感じられるのが面白いなと思いましたしね。
私なんか独特な感じがすごいする、全体的に。
なんかちょっと日本的じゃない部分もたくさんあって、それがまた謎にもなるんだけど。
なんか独特な土地なんだなっていうのが結構意外でしたね。
岡山は本当深く分けていくとすごくハマりますね。沼りますね、非常に。
いやーなんか面白い、なんか不思議な気持ちだったな。なんか今までにない感じがありましたね。
今回はちょっと岡山の外観というものをなぞりながら、
もうミステリーというところを一つの軸にしたのでこういうコースになったんですけど、
裏話すると本当は僕ね、岡山もう一つ別のテーマでもやれるかなと思って、最後までその二択で迷って、
今回ミステリー寄りに振って、もう一つは実は岡山の教育っていうものに振るハートフルな話にして、
マグサブロたちの福祉もそうだし、岡山県立農業高校のレストランとか、表町ブックスクエアの話とかっていうのと同時に別の地域を巻き込むことで、
なぜ微前微中の教育熱の高さが生まれたのかっていうことにも知ってようと思ったんですけど、
今回はちょっとこっちの地質学のほうにしました。またそれは別の機会に話せればと思ってはいますが、
ただね、やっぱりこのジオロジカル、要は日本人が文明を起こして文化を起こしてっていう以前の問題で、
土地というものから生に得られる資源だったり感触だったりっていうものが、
そこに人の手と心がどういうふうに変わることで文明というものを起こしていったのかっていう、
すごい根源的な問いを岡山というものは投げかけてくるような、そんな土地でもあったりするわけですね。
だから土地の条件に適応する人間の適応能力の高さというものももちろんある。
日本人がそれを精緻に刻み込んで世界一等の技術を持ってたっていうやっぱり素晴らしさもある。
しかしそれと同時に自然の猛威の前ではやっぱり無力だったというね、そういったやっぱり歴史もあったりする。
そういったその人間と自然と歴史との間でこう紡がれてきたものの中に、
この謎に満ちたね、最後まで正体を表さない石像文化たちがね、
なぜここでシャットアウトされたのかっていうのは今は全くわかりません。
ただ最後にですね、実は一つ見ていただきたいものがあるんですね。
今見ていただいているのは岡山県さんの確かこのホースページだったかな、あると思うんですけれども、
岡山桃太郎物語、奇別彦と裏という絵本なんですね。
これ何かというと、いわゆる日本昔話で知っているあの桃太郎あると思うんですけど、
実はね、このキビの一帯、まあ岡山なんですがには、
別の結末を迎えた桃太郎の話というのが別に伝わってるんです。
そのことを最後にちょっとご紹介したいんですね。
見ていただきたいのはね、最初の方はこの奇別彦の成長端みたいなのがあるんですけれども、
このあたりですね。
近頃、キビの国を恐ろしい鬼たちが暴れ回り、村人を襲っているらしい。
そんな噂が大和の国に聞こえてきました。
鬼はみんなが驚くほどの巨大らしく、ことに裏と呼ばれる頭の鬼は身の丈4メートルを超え、
瞳は血の色にギラつき、髪は赤毛でぐるぐる渦巻いて、それは凄まじい形相だとか、
日中新居山の頂に住みつき、海を行き来する船を略奪したり、
里の女子どもをさらっては釜茹でにして食っているといいます。
村人たちは彼らの住処を鬼の城、鬼の城と呼んで、恐れを呑いているそうです。
帝から命じられて、この奇別彦は首を取ってこいと言われるわけですね。
戦いが起こって、桃太郎とあるわけですけれども、
3人の部下を連れて、この桃太郎は、奇別彦はキビに討伐に向かった。
鬼の城からも矢が応戦されてきて、非常に決戦があった。
本当だ、矢が飛び交ってる。
ところがついに、一本の矢が海に落ちましたが、もう一本は見事に浦の左目を突き刺しました。
浦の目から溢れ出した血が、血水皮を赤く染めていきます。
浦が逃げるわけですね。笑顔した浦がね。
恋に化けたりして、なんかいろいろやるんですけれども、
桃太郎は変化して、ウになって、恋を追いかけて、ついに恋を捕らえて殺すと。
で、浦の首を跳ねたんですね。
ところがですね、
木に晒された浦の首は夜になるとうなりを上げ、それが何年かも続きました。
このあたりはね、以前鬼滅神社で話をしましたね。
困るわけです。こういうことになってるからね。
どうしたものかとなったときに、
ここでね、浦が鬼滅彦の枕元に立ったという話はあったんですが、
ここからがちょっと違うんですね。
数年がたったある夜のこと、桃太郎の夢に浦が現れたと。
桃太郎、俺は鬼などでないぞ。
夢の中で浦が語るには、
彼は朝鮮半島にある九太羅の国の王子でしたが、
隣国との戦いに敗れ、友の者たちとこの国に逃れてきたそうです。
船で岐日の穴埋に流れ着いたものの、漁師たちから鬼と間違われて暴力を振るわれ、
仕方なく山に逃げ込んで、新山の頂に住まいを構えたというのでした。
しかし、お前たちは女子どもをさらっては釜茹でにして食うというのではないか。
これは桃太郎の台詞ですね。
そしたら浦は、この俺がそんなことをするはずがない。
新山のふもとに阿蘇の里という小さな村がある。そこに行ってみるといい。
桃太郎が阿蘇の里に実際行ってみたんですね。
したら、浦は命の恩人だと語る阿蘇王という少年に出会いました。
彼は子供の頃、新山で熊に襲われそうになったところを浦に助けられて、それで浦と仲良くしていたと。
土産にこの少年がね、里の食べ物を持って行くと、浦はお返しに自分が作った鉄製の桑や杉、森やお森などの農具や漁具をくれました。
阿蘇王はそれを村人たちに使ってもらおうと配って歩きました。
しかしながら、鬼が作ったものなど気味が悪い、初め目を背けた人々も少しずつ手に取ってくれました。
実際に使ってみると、浦が作った道具はそれまでのものより優れていて、格段に作業がはかどったのです。
みんな鉄の桑とかを持って、持ち始めたんです。
そのとある村人と結婚するんですね。親しくなったから浦はね。
浦が村人と結婚する。
村人たちに浦は恩人なのでね。
で、きび団子を食べるんですよ。
きび団子はね、阿蘇姫という奥さんが、きび団子をどっさり作って、いっそ浦に届けた。
きび団子は浦に届けられてるんです、ここではね。
団子を届けて食べてるんですよ。
そしてこの話を今、もう一回戻って、桃太郎を少年から聞いたんですね。
で、そうすると自分を激しく責めた。
私は阿蘇姫や阿蘇から愛する人を奪い、きびの国から希望の光を奪ってしまった。
桃太郎が嘆く声に応えるように、どっからともなく浦の声が語りかけてきました。
桃太郎、ようやく真実を知ったようだな。
浦か。さぞかし私を恨んでいるだろう。
いや、お前が俺を討ったのは、きびの国の平和を守るためなのだろう。
俺もお前と同じくらい、この国の人々の幸せを願っていた。
お前も大事なものを守ろうとしたのだな。
そうだ、俺たちはもう少し違う形で出会っていたら、心を分け合う友になれたかもしれない。
皮肉な運命だな。
桃太郎は自分の罪を食い、浦のために何かできることがないかと問いかけました。
そうすると、ここからがナルガマ神社の話なわけです。
浦が自分のかまどの火を焚く役目というものを奥さんにやらせてくれと。
そうしたら妻を見守ってやる、自分が幸せだった奥さんとの生活を再現したいんだと。
幸せが訪れるときはこのかまを豊かになり響かせ、災いがあるときには荒々しくならせて人々に生きる道を示す。
わかった、これ桃太郎の台詞ですね。
私はお前の意思を継ぎ、生涯この国の人々の幸せのために身を尽くそう。
その証として今日から、きびの二文字を取って、きびつひっこと名乗ることにする。
きびつひこか、お前の働きをここからしっかり見ているから。
きびつひこと改名した桃太郎は、浦に誓った言葉通り、その一生をきびの国の繁栄と安定のために捧げました。
見よ、あの海の向こうに私の生まれた大和の国がある。
いつかこの国、これきびの国のことですね、と大和の国が一つになるだろう。
国と国の隔てなどなく、さらに大きく豊かな国を目指すのが浦と私の夢の行き着く場所だ。
そういう国づくりを固く誓い合う三人を浦が天から暖かく見守っています。
こういった結末の桃太郎というのがあるんですね。
お互いの正義を認め合って、殺してしまった罪滅ぼしというかね、
このきびの国を桃太郎であった鬼滅彦が安定させていくというストーリーなんですね。
いわゆる桃太郎は完全上学だけど、そういう話では全然ないですね。
そして大きく違うのは、桃太郎が鬼滅彦に改名したことになっているんです。
桃太郎が鬼滅彦、ああそうか。
浦を討った後に鬼滅彦になったという話もしているし、
そして浦のエッセンスを見てほしいんですけれども、
彼は何をしていたのかというと、遥かに優れた技術を持って鉄を分け与えたって書いてあるんです。
ここなんですよ。
熊山遺跡の話、そしておさふげの刀剣の話、美銭焼きの話とか思い出してほしいんですけど、
きびの国の繁栄は鉄と石によってできてきたものなんですね。
それにあるいはその資源の活用方を最初に気づいたのが浦であり、
その姿がもはやわからない謎の木の城におった先人たちだったんじゃないかということなんです。
それで今話の中で浦は自分のことをくだらの王であったと言ってますよね。
つまり虎人として流れ着いて、やはり日本人じゃない何者かだった。
ただし彼らは日本の文化とは違う文化を持っていたから、
石の使い方とか鉄の作り方とか当時の日本人が知らないものというものを知っているいわゆる虎人だ。
そしてそれがたまたまこの岡山に流れ着いたからこそ石像のものとかを作ったり、
早くから地下資源とか鉱物とか地質学ジオロジカルに目をつけて、
そこで新しい日本の文明開化というものをここに道を示した人たちだったんじゃないか。
っていうのがもう一つの浦の話なんですね。
はぁー。
俺木の城のとこでオチ言っちゃったね。
まぁまぁまぁそうなんですよ。
へぇー。
これがもし事実だとしたらすごい数奇な運命だよね。
そうですね。
なのでちょっとそのあたりも含めてなんですけれども、今回タイトルジオロジカルミステリーというのはそういうわけで、
この岡山というものになぜ石像文化とか鉄の文化が残ったのかということが、
あるいは日本のこの地下資源というものに目をつけた技術者たちによって見出されたからなんじゃないかと。
当時の日本人じゃなかったね。
そしてそれがミステリーとしても残っているからっていうことなんですけれども、
だからそのミステリーは土と炎と鬼の記憶という風にした。
この鬼は当然浦なわけなんですけれども、
彼らが見出したその土であり炎の使い方であり、そしてそこから生まれてくる鉱物みたいな鉄製品とかってものが、
この鬼々の国に生まれて、そしてその後の日本を変えていってしまったんじゃないかというようなね、かもしれない。
だからミステリーでしかないんですけど。
そういったもうね、日本の今の当たり前の文明の中に隠れていってしまった存在のかすかな記憶が、
この岡山には今も残っているんじゃないかと。
そんなことでね。
もう一つの桃太郎の話というのがね、謎をこの岡山に何らかの思想を投げかけている気がします。
もう一個の桃太郎はちょっとみんな読んでみてほしいね。
そうですね。これ無料でダウンロードできますのでPDFから。
面白いな。
みんなが知っている物語からこんなミステリーが生まれるというか、あったんだなというのが面白いね。
これ配信している頃にはきっと今日は旅の話が開催中ということになっていると思います。
ということで次回は雑談会なわけですけど、我々もそのテーマにのっとっておすすめスポットを紹介できればなと思っております。
ということで次回もお楽しみに。
今回はこの辺でありがとうございました。
ありがとうございました。
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