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Chikara💪チャージ レイディオ! おはようございます、Chikaraです。今日もスタイルを撮らせていただきたいと思います。
よろしくお願いします。 ちょっと今日も外ですが、新しいマイクで
撮らせていただいておりますが、マイクの聞こえ方はいかがでしょうか。 今日はね、ちょっと一つお話ししたいことがありました。
何の話かというと、空気を読める、読めないについて。
これ、こないだの、リブラ先生が
Sラボの川口社長のところの忘年会に行った時だったかな。で、ちょっとお話をされていたんです。
やっぱりね、空気を読めると思っていたけど読めないのかなーって、リブラ先生にお話されていたんだけども。
僕はね、それを聞いたときにちょっとふと思ったことがあったんです。
いや僕にとってリブラ先生ってね、やっぱりめちゃくちゃ空気が読める人だと僕は思ってたんですよ。
なぜかというと、あの川口社長のSラボの忘年会とか、ああいう、なんて言うんだろう、
いきなりほぼ見ず知らずの人たちの中に入っていって、
自分の立ち振る舞いを、いろいろこう周りを見ながら考えながら、どんな話題をどういうふうに出していこうかとかって、
そんなことを考えながら二次会三次会行って、みんなとワーッと仲良くなって帰ってこれるっていうのをね、
それって僕はもう一つの技術だと思っていて、それって空気を読めなきゃできないと思うんですね。
空気を読めない人、本当に空気を読めない人は自分がやりたいようにただ過ごすだけですよ、そういう時間。
でもしっかり空気を見て、周りの人の反応を見ながらどういうふうにやっていこうっていうふうにできるっていうのは、
やっぱりそれは周りを見る目もあるし、目っていうのは周りを見れる能力もあるし、
それに合わせた話題を自分の中から抽出する能力もあるし、それを発信して表現する力もあるっていうのは、
こんな空気を読める方は僕はいないと思うんです。
その時に僕自身もちょっと思ったんですけど、
僕はリブラ先生ほどそういう外交的な空気を読んだり、そういう立ち読みが上手い方ではないんだけど、
例えば仕事とかで、この人はこういう場面でこういうことを考えてそうだなっていう空気を読む力は僕は結構ある方だと思ってるんです。
でもその時に僕自身で言うと、思ったんですよ。
空気を読めたとしても、読めた通りにやるかどうかはまた別の話だなと。
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そこで僕はちょっと思ったんです。
空気を読んでも、空気を読んだ通りにやるかどうかが、
そこは人それぞれなんじゃないかと。
言っていることはわかりますかね。
その時にわざわざ、皆さん言いますかね。
僕は、この僕は、空気を読めています。
でも、空気を読めているにもかかわらず、僕はあえて空気を読んでいない行動をしますよっていう宣言をしてから、
活動行動をする人って僕は一人もいないんじゃないかなと。
そうすると周りの人から見ると、あの人は空気を読めない、だからあんな行動をしたんだって思われる可能性があるんじゃないかなというのが一つね。
だからもう一回だけど、空気が読めないなあの人っていう行動をしている人を見て、
実際にその人が空気を読めていないのかどうかはまた別の話じゃないかというのが一つの例です。
あとはもう一個、本当に空気が読めていないケースもあるんじゃないかと思ったんですね。
それはどういうことかというと、本当に周りの人が
どういうことをやってほしいとか、普通はこういうことをしないよねって思っているっていうことがわからないケースも中にはあると思います。
このケースはどういうときかというと、
本当にそのあれですよ、 馬鹿の壁鈍感の壁っていう話あるじゃないですか。
人寄りの人から見るとロボ寄りの人がどうしてそういう行動をするのかわからない。
どうしてそういう考え方をするのかわからないっていうケースがあって、逆もそうですよね。
ロボ寄りの人から人寄りの人を見ると、なんであの人たちはこの理屈でこういう行動をするって当たり前のことができないんだろうって
わからなかったりするのと一緒で、そこは馬鹿の壁鈍感の壁の壁の左右どっちにいるかによって
それぞれにとって当たり前と思っていることが違えば、それはそこに反したことを行動すれば、もちろんあの人空気読めないねってなるわけです。
空気っていう言葉が、誰にとっての空気かと思うんですけど、
これって要は、大多数の、多数派、少数派の人にとっての空気って多分空気じゃなくて、
空気を読める読めないって言うときに使う空気は、大多数の人にとっての空気だと思うんです。
だからこそその空気が読めないねっていうレッテルを張られるわけで、
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少数派が私独りよがりでこんな空気読めないねあの人って言っても、そんなのみんなの空気じゃないよ、あんただけの独りよがりの空気でしょって言われるわけだから。
だから空気が読めないって普通に丸というときは、大体多数派の人たちの意見なんだろうと思います。
多数派の人たちが、通常こういうときはこういうことはしないよねとか、通常こういうときはこういうことをするよねっていう空気っていうのは、
多数派の人が作っているとすると、どっちかというとロボ寄りじゃなくて、
人、感情的な人、感情寄りの人が生み出している感覚なんだろうと思うと、
確かにそういう感情寄りの人たちから見ると、ロボが思うこと、考えること、行動することは、空気が読めないと言われてもしょうがないことが多いのかもなという気はしました。
だから今日もう一回ですけど、空気を読める読めないについて、一つ目は、ロボからも全然読めないわけじゃなくて、
空気を読める、こういうことを要望してるんだろうなというふうに勘どころが働くっていうことは間違いなく僕はあると思うんですよ。
その通りに行動するかどうかは別です。
そのとき、感情ではわかるけど理屈では違うと思ったら、僕は理屈で僕の思う正義、僕の思う正しいことを行動するでしょうし、
もしくは僕が楽しい、これがやりたいと思ったことを優先すると思うので、そういうときはもしかしたら僕のことを外から見ている方は、
力は空気を読めない人だな、だからああいう行動をしてるんだなって思うケースもあるかもしれません。
ただもう一回ですけど、それは読めていてもやらないこともあれば、本当に読めてないときもあれば、
読めてなくても僕なりの筋は通っているケースが大半だろうというふうには思います。
逆にロボ側が多数派になった世の中が出たとしたら、逆にロボの空気を読めないのはロボ側じゃなくて人がなってくるだろうということで、単にそういうことなんじゃないかと思いましたね。
だから空気を読む読めないは、誰からの基準で見ている話かによって見え方が違うということと、空気が読めても読めなくても、
あ、違うわ、行動が空気を読めてない行動のように見えても、本当に読めてないわけじゃないということもあるんじゃないかということを言いたかった。
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言ったことがわかりましたかね。ややこしかったかな。
とにかく、和歌の壁、鈍感の壁の同じぐらいの範囲にいる方たちは同じような感覚でみんな行動できるでしょうから、
それは空気をみんな読み合っているなというふうな一種の主観、だから錯覚でしょうけど、そういう感覚で居心地よく過ごせるでしょうということだと思います。
そこから少し外れている人を見ると、なんでああいうことをやるんだろうってわからないなというふうに見えることもあるんだろうなというふうに思ったということですね。
何の話をしているんでしょう。
空気を読めない読めるというのは、単にどの立場から見ている言葉なのかというだけの違いで、
僕は、もしくはリブラ先生は、空気が読めない人ではないというふうに思ったということですね。
なんか話がとっちらかったかもしれませんが。いかがでしょうか。
ロボは空気が本当に読めないのか。いや、読める。読めてもやらない。
もしくは本当に自分の信念に基づいて、正しいと思うことに基づいて単に行動しているときに、
空気が読めない人と思われるケースもあるかもしれないという2つのお話になりました。
ということで、以上になります。
今日のお話いかがでしょうか。
新しいロボの解説になりました。
あまりロボを空気が読めないといじめないでいただきたいということで、今日は以上になります。
それでは行きます。
力チャレンジ!
今日も力あふれる一日を!