電子メディアの時代
ただいま6月22日の朝6時50分ですね。
公開ダラダライブ、今日もお送りして参りたいと思います。
今日の札幌は曇り、気温はあんまり上がらない、21度までしか上がらないという。
ちょっとね、ここんとこ暑かったんで、ちょっとほっと一息の土曜日ですね。
土曜日の朝、公開ダラダライブということで、札幌のオープンエアなオープンスタジオからお送りして参ります。
今、北海道犬冬一郎くんのお散歩を終えて、短いお散歩を終えて、
ちょっと1階の改装したガレージで、キャンプ用のリクライニングチェアに座りながらの収録になります。
冬一郎くんは背中を向けて撫でろと言って、時々私の手を舐めると。
まあそんな感じですが、今日も公開ダラダライブ30分間、筋書きなしでダラダラと喋るということで、お送りして参りたいと思います。
今日、というか最近思っているのが、図書館、本。
図書館、本。何の話かわかりませんが、紙で書かれた本。
紙で書かれた本に対して電子書籍が出てきたんだけど、
もう電子書籍の時代は終わったと思い始めましたね。
紙の本の時代も終わった。
まあ終わったと言っても存続はするんですけども。
でも紙の本というのは結局、紙がメディアで、紙という媒体ね、メディアを見つけて、
そこに文字という発明を載っけたわけで。そこに印刷術が加わることで本文化の時代がね、
16、17世紀ぐらいからですか、グーテンベルクはいつでしたっけ、1600何年でしたっけ、1700年代入ってましたっけ。
あそこからいわゆる活字文化、本の文化の時代、そして新聞の時代という。
さらに今度はもっと遅れて20世紀近くなってからラジオの時代が始まったわけですね。
電子メディアの時代が始まったわけです。
電子メディア。当時はやっぱりそうですね。電子メディアの時代が始まったわけです。
音声や文字情報をデジタル化して送ると。
最初はアナログから始まるんですが、だんだんデジタル技術が発達することで、
映像や文字や音声を地球の裏側まで届けられるようになっていったと。
インターネットも発達してね。これ始まったのまだ最近なんですよね。
それが始まるまでは結局、紙と。つまり情報を伝える、
情報を伝えるためには紙と文字しかなかったわけですよね。
紙と、やっぱり印刷術があったことで大量にコピーできるようになった。
もっと言うとコピー文化なんですよね。
メディアにコピーする技術の進化、技術革新ですよね。
紙というメディアの発明、文字の発明、そして印刷術の発明。
それでコピー技術、大量にコピーすることが可能になった。ところが、
これは今、電子空間で、もうコピペコピペで学生でもレポートコピペできるぐらいの時代ですから、
何でもコピペできる時代ですね。
しかも映像でも音声でも写真でも何でもコピペできる時代に入っちゃったという。
さらにAIが出てきてね、勝手に作っちゃうと。
それをいっぱい読み込んで学習した上で勝手に新しいものを作ってしまうという。
言葉も文字も音声もAIがしゃべる。
映像も画像もAIが作る時代に入っちゃったわけですが。
いったいホモ・サピエンス、あと何をすればいいんだということもあるんですが、
その話はさておき。車がうるさいですね、土曜日なのに。
紙メディアから電子メディアへの変化
結局、本と文字という、そして印刷という時代は過去の遺物になっていくだろうと。
それしかなかったから、メディアがそれしかなかったからそうなった。
本に音声は載っけれないんですね。
昔、ソノシートって知ってますか。ソノシート。ペラペラのプラスチックの、
プラスチックじゃない、セルロイドなのかな。
なんか薄っぺらなソノシートってよく付録についてきたんですね。
要するに、本には音声を載っけれないから、文字は載っけれるけどね。
活字は載っけれるけど、音声載っけれないから、それでソノシート、レコードですよね。
それを付録で付けるなんていうのが流行ったんです、私の小学校時代ね。
そうやって情報を音でも届けたいと。
音声、肉声でも届けたい。
そして文字で届ける。
音声、肉声が、届ける手段がないから仕方なく紙に文字という形で切り捨てて、
切り捨てて。書くって言葉は何かを欠くというね。欠如するっていう、捨てるという意味もあるんですが。
文字で書いて(欠いて)それを情報として受け取った。
その昔、印刷術が発達する前っていうのは三蔵法師の時代なんですが、
偉いお坊さんは修行しに行くわけですよね。
ヨーロッパで言えば、カトリック教会ローマに行って、それで聖書を写して帰ってくるわけです。
町に戻ると聖書はもう一冊しかない、その坊主が書き写してきた書写ですね。
ライティング。筆記。
当時は紙だったり羊皮紙だったりしましたけど、紙はできたけども印刷術がなかった時代があったので、
それで書き写してきたわけね。
これ、だから修行に1年かかると。書き写すのに時間がかかるわけですよね、結局ね。
これ今、印刷したらもう一瞬で終わっちゃうわけです。
印刷術が発明された時に最初にベストセラーになったのが聖書バイブルだった。
それで宗教改革が起きたっていうね。
一般ピープルも聖書を読むようになって、うちの坊主の言ってることは違うじゃないかと。
神の言葉を直接手にできるようになった。バイブル。
そこから始まってるわけですけども、いろんなプロテスタンティズムもそうだし、資本主義もそうだし、そこから始まったんですが、宗教改革からね。
それは印刷術と紙メディアっていうものがあったんですが、技術革新に支えられてたんですが。
それはさておき、今は電子メディア、インターネット時代なんですね。
ここでは映像も画像も音声も文字も全部コピーできるんですね、大量に。
誰でもが。印刷屋がいらない。
印刷するには印刷屋が必要だったんですが、出版社が必要だった。
個人で出版できちゃう。そういう時代に入っちゃった。
これ電子メディアっていうのは結局、コピー技術の進化、発展なんですよね。
そのことによって情報をシェアできると、簡単にね。そういう時代に入ったと。
ここで何が言いたいかというと、結局、本、紙というメディアしかなかった。文字しかなかった、音声載っけれなかった。
仕方なく本を作って、それが情報の拡散に繋がって、みんな本を読む時代があった。
新聞を読む時代があった。それからラジオを聴く時代があって、テレビを見る時代があったと。
今はもうそれ、ラジオもテレビもライブで、オンエアで、その時流れているものしかリアルタイムでしか聴けなかったのが、今オンデマンドで全部データが置いてあるわけだよね。
それを全部聴ける、手に入れれる、コピーもできる。コピー、著作権に引っかかるやつは別としてね。
だから著作権保護なんてことが問題なんだけど、それもさておき、結局メディアが紙メディアから電子メディアに変わったと。
さらにそこに載っけられる情報は文字だけではなくなった。
本には絵も載っけられたよね。だから絵本も流行ったわけですけど、今は電子メディアを前提にしたら映像も音声も画像も文字も全部載っけられるわけですよ。
電子書籍の限界
話を頭に戻して、結局、紙の本か電子書籍かっていう、その二者択一自体が間違っている。
なんで電子空間で文字だけの情報に限定した書籍が売れると思うのかっていうね。そこがそもそも間違ってる。
紙メディアだから文字と絵しか載っけれなかった。動画とか音声は載っけれなかった。ソノシートをくっつけるとかね。
あと飛び出す絵本なんて昔あったわけね。平面だから二次元だから。今デジタル空間は3Dとかあるわけだけど、バーチャルリアリティとかあるわけだけど、それは置いておいて。
結局、電子空間で、文字情報だけを電子書籍にするから電子書籍は売れないんだという結論に至りました、私は。
だから紙の本か電子書籍かって言ったら、文字読むんだったら紙の書籍の方が読みやすいわけだよね。
電子書籍は読みにくいわけだよ。だから紙の本にまだ分があるわけ。これはもう根本的に間違っていて、電子メディアの上では、文字だけをシェアするなんていうバカなことはやっちゃいけない。
映像も音声も、ビジュアルも、文字も。文字はある意味、付加的になってくると思うんだよね。
例えばインスタなんかもそうだけど、写真載っけて動画載っけて、TikTokもそうだけど、文字って補完情報になってるわけね。
なぜかっていうと、映像とか音声に、もうそっちにメイン情報があるからだよね。メインインフォーメーションが。だから文字は補完情報。字幕もそうだよね。補完情報になってる。
そうすると実は、本の活字文化の時代っていうのは、本の文字がメイン情報だったわけ。そのメイン情報が本しかないから、本から情報を得た。
例えばバイブル、聖書から情報を得るわけ。キリストの声は聞けない。神様の声も聞けない。でも、聖書という文字を読むことで、神の声を聞いた気になるということです。
本当にイエスキリストとか神様の声が音声でインターネット上にあればね、それを直接聞けばいいだけの話ですよね。
ところが電子書籍っていうのは、バイブルの文字情報をPDFっぽいので並べてるだけなんですよ。
なんで直接、肉声で語らせないのか。つまり神様なりイエスキリストなりがもう聖書を語ります。イエスは言われたって、イエスがね。
当時の肉声、AIかなんかで再現してさ、イエスが語ればいい。
何が言いたいかというと、電子メディア上で文字情報だけを伝えるという電子書籍、紙の書籍・本という二者択一自体がそもそもちょっと発想として違うんじゃないかと。
電子メディアってのはそうじゃなくて文字情報以外の情報を伝えれる。特に映像と音声ですよね。
映像と音声を伝えれる。それが伝えたくてソノシートとかね、飛び出す絵本とかやってたわけだから。
それが今デジタル上でできるわけだから。文字は補完情報でいいと。
つまり紙の本か電子書籍かじゃなくて、紙の本か、本人が肉声で語る情報か、
本か。本。本人が肉声で語る本は、電子書籍上に載っければいいと。つまり肉声のない電子書籍はいらないと。
しかも他人が語ったりAIが語ったりするのはいらないわけね。自分で読んだほうがいいわけですよ。
だからオーディブルとかあるけども、今度はこの他人がね、なんかこう朗読するっていう。これもね、なんか狭い。
なんで電子メディアの最大のメリット、本人が肉声で、文字を書かずに本を書かずに本に書きたいことをしゃべれるわけ。
しかもそれをAIが今は文字起こしてくれるわけ。つまり本体としては肉声がある。
それが文字起こしされる。それが一体となって書籍になるわけですよね。
本人の肉声と文字起こしデータ
だからもう紙の本はいらない。電子書籍もいらない。必要なのは本人の肉声と文字起こしされたデータ。
もちろん映像もあってもいいけど、言葉を伝えるんだったら本人の肉声と文字起こしデータがあればいいですね。
それが紙の本に代わる次の世代の本だということなんですね。それが本当の本だと。
これからの電子メディア上の本当の本は本人の肉声と文字起こしデータ。これが本だと。
紙の本か、本人の肉声とその文字起こしデータかっていう。そのセットかっていう。
これが正しい二者択一だというふうに思うようになったわけですね。どうでもいい荒唐無稽な話してますけど。
なのに、なぜか電子書籍だけにする。なぜか音声だけにするっていう。
何で音声と文字を切り離すのかっていう、電子メディア上でね。これ一体にすればいいじゃないかと。
しかも本人の肉声で語ればいいじゃないかということなんですね。
それが実現するなんとプラットフォームがあるんですね。
LISTENはそれが実現するプラットフォームなんですね。
つまり本の書籍、紙の本を超える新しい時代の情報伝達ツールはLISTENだというね。
紙の本かLISTENかっていう。これが正しい二項対立。正しい二者択一。
紙の本を読みますか、それともLISTENで読んで聞きますかっていうね。
そういう時代になったということで、LISTENっていうのはすごいことなんです。
これがYouTubeの字幕じゃダメなんです。あれはダメなんです。
やっぱり本のように読めなきゃいけない。ブログのようにせめて読めなきゃいけない。
これをちゃんと実現してるのはやっぱりLISTENなんですよね。
文字データもちゃんとそのまま読めるし、ダウンロードもできるしコピペもできて読むこともできるし。
それを今度、エピソードをまとめればマガジン、冊子になるし本にもなるというね。
今、私始めたのがLISTENマガジンという。勝手に作ってるんですけど。
LISTEN上で新時代の、新しい時代の、本人の肉声と文字をセットにした、紙の本に代わる新しい図書館を作ればいいじゃないかっていうね。
ふうに真面目に思ってて、プロジェクト進行中ということで、7月1日新図書館オープンですね。
オープンという形になります。何の話してんだかわからないけど。
とにかくここ1週間はそれですね。そのイメージ。
LISTENでマガジンできるじゃないか、から始まって。
いろいろ考えていくと、紙の本か電子書籍か。この選択が間違ってる。電子書籍かオーディブルか。これも間違ってる。
電子書籍もオーディブルも、それを一体で本人の肉声で伝える。これが一番いいじゃないですか。
例えば、バイブルとともにベストセラーになったもう一冊あって。
それがなぜか当時の時代状況ですけど、マルクスのダス・キャピタルですよね。
ダス・カピタル、資本論ですよね。バイブルと資本論がベストセラーになったわけ。
だから一方で、それは連動して動くわけですよね。
宗教改革、宗教革命、市民革命とか全部含めて労働者の運動とかいろいろ波及していくわけです。
その後の社会のムーブメントを引き起こすわけですけれども、さすがにイエス・キリストと神様は生きてないので肉声では語れないけど、マルクスは肉声で語れたはずなんですよね。
だから当時、今のような技術革新があれば、マルクスは資本論を語ったかもしれない。肉声で。
それでリアクションができたら、リスナーからリアクションができたら、それに答えていたかもしれない。
そうすれば、いろんな例えばマルクス解釈とかいまだに出てくるじゃないですか。
人新生の資本論とかさ、読んだけどあんまり大したことなかったんですけども、あれがもてはやされちゃうという時代になってるんですが。それはみんなマルクスを知らないからね。
まあそうなるんですよ。それはさておき、いろんな解釈があるわけですよ。
いや初期マルクスはこうだった。いや晩年のマルクスはこうだった。エンゲルスとはこうだった。結局、文字情報を勝手に解釈してるだけなんですよ。
本人に聞きゃいいわけ、本人に聞けば。本人に聞きゃ解決するのに本人に聞く手段がないからしょうがないから文字を勝手な解釈を、万人が万人するから、
レーニン的な解釈もあれば、いろんな解釈が争うわけですよね。
お前は異端だ、正当派だみたいな話もあったわけですよ。あれは修正主義だとかさ。
いやお前こそ教条主義だとか、わけのわかんない話をやってたわけですよ。書かれた文字の限定された、制約された文字の情報だけを頼りにみんなが勝手なことを言って勝手に争ってただけで、本人に聞けば済む話だっていう。
それが今、実現するようになったのが、まさにLISTENですね。
紙の本を超える唯一のメディアは、電子書籍でもなくオーディブルでもなくLISTENである。これがもう私の中の揺るぎない確信だっていうね。またなに妄想喋ってんだと思いますが。
そういうことだと思うんですよね。真面目な話ね。だからそれを使わない手はない。
そうやって考えると、今度はLISTENというサイトを単なるポッドキャストとしてだけ使うのはもったいない。単なる文字起こしサイトとしてだけ使うのはもったいないわけですよね。
これはもう例えば、見ててね、文字起こしを直す人、直さない人いるんだよね。これはもう直すべきなんだね。
べきって言っちゃいけないね。直した方がいい。
セットなんだよね。肉声と文字っていうのは。セットでやっぱり情報としてシェアするっていうことが重要なんだと思うんだよね。
しかもそこは、例えば、語る言葉だから、論理的な不整合もあるし。
昔よくあったんですけど、例えばマルクスの話したんでついでに言うと、マルクスの思想の本質はここだみたいなね。
リスナーとのコミュニケーション
一人が一つの思想しか持ってないなんてことはないんで、人間ってのはもっといい加減な存在であって、
こういう時はこう考えてるし、こういう時はこう考えてるし、矛盾することいっぱい持ってるわけですよ。
矛盾に満ちた存在が人間で、それを一つの統一した思想として表現する。
ニーチェはこういう人だったとかね。いうこと自体が間違ってるんで、
こういう面もあれば、こういう断片もあれば、こういう断片もあって、これは別に整合的じゃないと。
この時はこういうふうに言ってた、この時はこういうふうに言ってたってだけの話であって、
しかもそれが5年10年経ったら違うこと言うかもしれない。これが人間なわけですよね。
それがリアルタイムで、過去の自分と未来の自分の対話もできる。
現在の自分と現在の他者との会話もできる。
その中で喋ってることや文字に書かれたものの情報を、常に見直していって改善していくっていう。
それがシェアされていくっていう。
こっちの方がよっぽどダイナミックで意味のある情報の共有になると思うんだよね。
活字メディアの書かれた本っていうのは結局、固定されちゃってるわけですよ。
切り捨てちゃってるわけですよ。そこに書かれてない情報があるわけですよ。
そこから進化しないわけですよ、次の本が出るまでは。
本書くのってしんどいから、これ1年2年3年タイムラグができちゃうんだよね。
遅くなるわけですよ、進化の速度がね。
もちろん過去に書かれた作品として残った本っていうのは、これはいつ読まれてもね。
その時代その時代で解釈されて、その社会に生きる人たちの糧になるから、
それはすごく大事なんですよね。
切り捨てられた断片としての文字情報が固定されている。
それが本である必要はないんです。別に電子メディア上にあってもいいんですが。
それが固定されてるってことは重要なんだけど、でもその解釈をめぐっていろいろ生まれるわけですよ。
でもそこに本人の肉声があれば。
それについて誰かが質問して、その時にね、10年前に。
それにリアクションしてるのがあれば、さらにリアルにわかるわけですよね。
だから本という媒体、本というツールを超えるメディアにすでになってると。
本人の肉声プラス文字、これはもう一体のものだっていうふうに思ってるし。
しかもそこにリスナーとか読者ですね、リーダーとのコミュニケーションがあるっていうこともとても重要で。
そこをやっぱりちゃんとやると面白いんじゃないかなと。
だから今は本、紙の本の時代は終わったと。
電子書籍の時代も終わったと。オーディブルの時代も終わったと。
これからはLISTENの時代だっていう。これが今日のね、公開ダラダライブの話なんですが。
冬一郎くんは呆れ果てて、ふてくされて寝てますね。
今日は気候が涼しいので、ここ2日3日暑かったのが涼しいので、冬一郎くんは過ごしやすいんだと思います。
今1階のガレージでね、朝ごはん食べてお散歩行っておやつして帰ってきて、
もう眠たいんじゃないかな。
ご主人様はスマホに向かって喋ってるし、俺と遊んでくれないし、しょうがねえなということで、
おとなしく足元で寝そべってます。
お利口ちゃんです。
そんな感じで、なんかよくわからないこと喋っちゃったね。
あと何喋ろうかな。
まあ、そんな感じで、だからこう、
しかもこれまで音声情報っていうのは、特にポッドキャストですけれども。音声配信っていうのは、もう流れてちゃって、過去のもので埋もれてっちゃって、空間・時間を超えなかったんですよね。
これが文字情報とセットになることで 時間を超えやすくなるということなんですよね。
空間も超えやすくなるんですね、文字情報とセットになる。
やっぱり音声だけだとやっぱり時空の縛りっていうのに縛られちゃう。
なんで本の文化が、印刷術とともに
世界中に普及したかっていうと、これは時間と空間を超えられたからなんですよね。
この時空を超えるってことはとても重要で、情報にとっては。インフォメーションにとってはね。
これが今、電子メディア上で時空を超えられるようになったわけ。
現在進行形で超えてるんだけども、
なんで過去、現在、未来でもっと超えないのかっていう。
新しい本の形
過去、現在、未来で超えようと思ったときに、
その情報が
過去、現在、未来で超える手段として、
紙の本と電子書籍とオーディブルとかYouTubeとかいろいろあるわけですけども、コンテンツがね。
なんか時間を超えやすいのは、本だと思われてるわけ。
これ別に、音声データ、ポッドキャストが時間を超えてもいいじゃないかと思うんだけど、
超えにくいわけね。埋もれちゃうから。
検索に引っかからないし、探すの大変。もう地層の中に埋まっちゃうわけね。
化石として掘り出すしかない。
これを化石じゃなくて、ちゃんと掘り出して陳列すると。博物館、図書館にね、アーカイブにね。
っていう作業が必要なんだと。
その時の掘り出す手掛かりが文字なんだよね、文字。
文字情報とセットで掘り出すと。
文字情報とセットで並べとくと。図書館、ライブラリー、アーカイブに。
そうするとそれが時間を超えるんですね。
時間を超えやすくなる。空間も超えやすくなる。
だから本にこだわる必要ないわけね。
なんか本になってるとそれが、あの、なんとなくね、いまだに流通力が高いんだけど。
これはやっぱり電子書籍には、電子書籍は、紙の本にはかなわない。
かなわないって変な言い方ですけど。
やっぱ紙の本の方が物理力があって、時間を超えやすいんだと思うんですよね。
多分ね。
それともう一つは音声ですよね。
だからね、電子メディアの特性を活かそうと思ったら、やっぱ肉声だと思いますね。
言葉を伝えるツール、言葉を伝えるツールとしてはね。
肉声、映像じゃなくて肉声ですね。
言葉を伝えるツールとしては文字と肉声。
肉声を文字とセットにすることで、時空を超えるという。
そういう話なんだろうなっていうのが私の整理ですね。
これはね。
ということで、いろいろまた戯言を喋ってますが、
今日の結論。
紙の本の時代は終わった。
電子書籍の時代は終わった。
オーディブルの時代は終わった。
これからは、本人が肉声で文字とともに語る「ほん」の時代。
紙に書かれた本か電子書籍かという二者択一はそもそも間違っている。
本人が肉声で語った音声と文字か、
紙に書かれた断片としての本人の声が聞けない紙に書かれた本か。
どっちがいいかっていうね。
情報量としては圧倒的に、紙で書かれた本よりも、
音声とセットで文字情報もあるという方が、豊富なんですよね。
ただそこで音声とその文字起こしを使って本を作るっていう発想がないというね。
電子メディア上に載っける本としては、オーディブルか音声だけか文字だけかっていう、
ここがそもそも間違っているというね。
わけのわかんない話してますが。
そんなことで紙の本の時代は印刷術の始まりとともに始まり、
電子メディアとAI文字起こし。2023年ですね。
やっぱりAI文字起こしっていうのは結局、印刷術ですよ。
紙メディアに対する印刷術っていうセットだったのに対して、
電子メディアに対する印刷術は、音声データのAI文字起こしが
これが印刷術だと思うんですよね。
紙の本や電子書籍の終焉
グーテンベルク並みの発明ですよ。
だからこのAIによる音声文字起こし、精度の高い文字起こしっていうのは。
これまでは字で書いて、作家が書いて、それを活字に組んで
印刷機にかけて、印刷業者がぺったんぺったんと大量コピーしていたのが、
今はなんと私がしゃべって、AIが文字起こしして、
それでもう大量コピーできちゃうというね。
そういう時代に入っちゃった。
印刷屋はいらない。
ペンもいらない。原稿用紙もいらない。活字もいらない。印刷機もいらない。
それを全部やってくれるのはAI文字起こし。
それで本ができちゃう。
だから音声入力による本の出版。
これが紙の本を超える新しい時代の本だというね。
29分30秒経ちました。
一人の方、聞きに来てくれましたが、呆れてどっか行っちゃいました。
はい、ということで公開ダラダライブ。
もう台本なしで好き勝手なことを語る。
これで48回目ですね。あと2回で50回記念ですけども。
この話、実は昨日の夜、明日公開ダラダライブ何しゃべろうかなって。思いつかないなって。
そういう時はもう考えない。
寝て起きると、今日はもうこの話をって決まるんですね。
ということで、最後までお聞きいただきありがとうございました。
ではまた。