00:04
国文字のあの人とつながる文字ブリッジ。今回のゲストは、一般社団法人国立ごはん代表、NPO法人マルイス理事の曽根健一朗さんです。
今回から3回にわたり、曽根さんのインタビューをお届けします。
曽根さんは、普段は建築関係のプロジェクトマネージャーとしてお仕事をされる一方、
職でつながるコミュニティスペース国立ごはんの代表を務め、NPO法人マルイスの理事としても活動されています。
さらに現在は、アーバンデザインセンター国文字の立ち上げにも関わりながら、人と街をつなぐさまざまな取り組みをされています。
お仕事の都合で国文字に暮らし始めて15年。今ではご出身の仙台と同じぐらい、国文字も買える場所になったそうです。
第1回となる今回は、曽根さんと国文字との出会いについて、国文字という街でどのように地域との関わりが始まっていったのか、
曽根さんのこれまでの歩みを通して、街と人とのつながりについてお話をお聞きしました。
それではどうぞお聞きください。
曽根さん早速なんですけど、項目として曽根さんについて聞いてみたいなと思いますが、
曽根さんは国文字と国立とそれ以外にも多摩エリアでもお活躍されていらっしゃると思うんですが、
まず曽根さんと国文字との関わりをお聞きしたいと思います。
国文字に引っ越してきた、もともと私は東京の生まれじゃなくて、東北宮城県の仙台市生まれで、拠点は基本仙台だった。
学校の時代とか学生時代とかこっち来てたりとかもしてはいたんですけども、基本は仙台の人間で、
ちょうど東日本大震災があった年の仕事の都合で震災にあって、仕事の都合でこっちに引っ越ししたのがきっかけが国文字に住み始めたっていうところがあって、
なんで国文字だったかっていうと、会社がマンション一つあるからそこに住んで、ブレって言われて住み始めたのが国文字、西国文字ですね、住み始めたのが最初。
本当に偶然。
偶然です、偶然です。
国文字を目指していらっしゃったわけではなくて、本当に偶然。
そうですね。
で、2011年ですか。
そうそうそう、7月です。
あ、15年前。
そうですね。
15年。
うん、になるんですよ。それきっかけです。
03:00
知らなかったですね。
地元の人みたいな顔してるとよく言われるわ。
意外に15年ですっかりどっぷり。
そうなんですよね、嬉しいことにね。
ここまでハマるというか、地元っぽくなるとは思ってなかったなっていうのが正直です。
第二の故郷みたいな、第二の地元みたいになってますよね。
地元ってなんだろうっていうのがここ何年かの自分のテーマでもありますね。
生まれ育ったとこじゃないの、なぜこんなに地元になるんだろうなっていうのを、そんな感じの15年になるんですね。
我々もそうですよね、国分寺で生まれ育ったわけではないですが、どっぷりもインタビューしてます。
国分寺で活躍されている方。
私たちは国家連に入って分寺ブリーチ始めたっていうことがきっかけで、いろんな方と仲良くなれたけど、それで言うと曽根さん一番最初のきっかけってどんなところだったんですか?
いろんなきっかけを多分あって、その引っ越しをした、来たのはその7月でちょっとしてからお盆とかになってくる頃に引っ越しをしてきてから自分の住む場所のことを知ろうと思って、
まず行きつけの飲み屋を作ろうと思って、西国分寺のジェイクスバーっていうところに最初引っ越ししてきた夜に行ったのかな。
もう早速。
その日に引っ越しに行って、そこでバーテンダーの人と喋って、また何日かしてまた別の日に街歩きをしていて、
その時はどこかな?
今のマルイスの拠点がある403の建物のオーナーさんに出会うっていうことが、そこではなかったんですけど、
今の島崎ビルっていうところの今がUNERABOっていうのが入ってるところの、昔ギャラリーやった時があって、
たまたまこのぶらぶら浮いた時にギャラリーに入って、その底で作品飾ってた作家さんが、
ここのビルのオーナーさんもそうだし、ここのギャラリー運営してる人たちが面白い人たちなんだよっていうので、すぐ紹介をしてくれて、
その当時その島崎ビルっていうところには、モーフィングっていうアート系のサビの卒業生が立ち上げたデザイン事務所があったりとかして、
そういう活動してた人、アート活動してた人たちとか、そのビルにオーナーさんの島崎さんっていう人とすぐ会えて、
06:03
そこからそういう街で活動してる人たちと知り合ったっていうのが最初かな。
たまたま道歩いてたというか、飛び込んだところで会った人たちと喋ったっていうのが多分。
たまたまその人たちが街での活動とか、街で活動してる人たちと知り合いが多かったとか、そういうのがあったかなっていう感じですね。
出会うべくして出会ったって感じですね。
そうなのかなと思いますよね。いろんな人と会って、本当その引越ししてきた最初の頃にいろいろ丸井の取締役の人と近くに、
仕事と別にギャラリー持ってたんですよ、その人が。その人とも出会えていろんな人と会ったりとか、
たまたま本当にいろんな人と会えたなっていうのが、今となっては最初のきっかけだったんだろうなって思いますよね。
今の活動っていうか、今の曽根さんが関わってることとかを振り返ると、
出会うべくして会ったんだなっていう気はするけれども、
まずは引越してきたときに、この町のことを知ろうと思って、いろんなところに自分の興味と興味関心とその町のこととかが重なる、そこに自分から出向いていったっていうのが、それがきっかけっていう感じですよね。
だから私は引越しは好きだったので、よく引越しを賃貸でも更新をしなくて、2年ごとに引越しするとかっていう生活をしてて、そのときは毎回テーマだったんですよね。
住むところの周りを知るっていう。
そのためのきっかけに、よく行けるのみを作るっていうのが、もともと毎回どこでもやってたテーマだったので、それをやるってただけじゃだけなんだけど。
そこで町を自分のレンズっていうかでフォーカスして見ていこうみたいな気持ちがそうさせてる。
そうだったのかなと思いますよね。きっかけは自分で作ってた方かもしれないかな。
もともと建築のお仕事だから、その建物だけじゃなくて、その建物を使う人とか、その町の成り立ちだったり、どんな人が行き来してるのかなとかに興味が。
興味があったっていうか、自然に湧いてくるものかもしれないですね。
建築の一つテーマで住み方っていうことを考えるのが仕事でもあるので、その時ってやっぱり住み方って当然家の中だけじゃないので、どういう町なのかとか。
09:02
その言葉の変換が多分お店に覗きに行くとかなのかなっていう。
町全体を見てらっしゃる。
あんまりそういうの考えてたわけじゃないと思うけどね。
自然と。
なのかなとは思いますよ。
でも、しばらく住んでみて町知りたいなとかじゃなくて、当日から行ったってことですよね。
引っ越し当日から。
箱届いて一段落したから飲み行ったっていう。片付けろじゃなくて。
喉を潤したいだけじゃなくて、ちょっとこの界隈の雰囲気とかを知りたいなっていうことですよね。
せっかく引っ越ししてきたから。
だいたい飲みに行くと見えますよね、その町が。
話題になるから、引っ越ししてきたんだって。
そこを引っ越してきたんだっていう。
一言でみんなが。
みんながあそこの行ってみなよって情報を集まりますもんね。
それは良かったなと思いますよ。
自然と今のスタイルに近づく行動をしてたっていう。
ともとやってたのかな。
多分ご本人の興味とかもそうだし、その興味とかが子供の頃からあったからその職業に就いたっていうのもあるかもしれないし。
相互の関係って感じします。
そうですね。考えてないけど聞かれるとそうだったのかな。
そうかもしれない。
みんな深く考えてなくて暮らしてるけど、暮らしぶりにやっぱりその人のカラーってすごい出るなってことですよね。
僕のカラーは何だろうね。とりあえず飲みに行くとなんとかなるんで。
飲みに行くと繋がれるようになってる。
そうかもしれないですね。
情報になっちゃう。
飲める体があって良かった。
でもそれが一番良い関係のネットワーク。
多いですよ。でもそういうので、それこそちょっとしてからまた同じ地元アルコールの延長で国たちにも歩いてきたんですよ。
今亡くなっちゃったんですけど、ガロウがあって、ガクっていう死にせのバロウがあってですね。
入って作家さん、その時は増田譲徳さんっていう先生が作品の展示をやっていて、その人の展示は震災の後だったのと原発が爆発した後だったので、
そういう社会的な絵を描かれてる方だったので、原発の絵を描かれてたんですよ。
12:05
入って見てて、もちろん分かるんだけど具合悪くなっちゃって、絵が迫力ありすぎたのと状況が分かるから。
具合悪くなったんだけど、その作家さんに絵見てて具合悪くなりましたって伝えたんですよ。
問いをかけたんですね。
面白いよねっていうので、ぜひ話聞きたいって。その人の展示がちょうどその日からで、ギャラリートークがあるんだ、これからって。
その時、つかさおさむさんっていう作家さんの先生とトークイベントがあるっていう。
そのまま予約制のトークイベントだったんだけど、すぐ入れてくれて、話がして、その日の夜にその先生たちと飲みに行くっていう。
やっぱり、昼に出会って。
その夜には一緒に先生たちと飲みに行ったっていう。
つかさおさむさんっていうのは、たぶん皆さん見たことのある絵があって。
アンネ・フランクの、なんだっけ、こういう本。
一撃図書館で破られるっていうやつがあった。
アンネ・フランクのあの本の冊子を描いてたり、ミハイル・エンっていうのを描いてる人だったんです。
結構有名な先生で。
マスター・ジョーソー・トークさんっていうのも、いろんな有名な先生で。
そこから今も付き合いがある。
その人たちとの出会いっていうのも、やっぱり良かったなっていうのは、今もその引っ越ししてきた初期の初期が。
そのギャラリーのGACっていうアトリエのオーナーさんとも仲良くなって、
ずっと国たちの文化活動、アート活動があるときはよく手伝いとか声かけてもらって、なくなっちゃったんですけど、
今アトリエ、ガローモも閉めちゃったのかな、だけど、
やっぱ昔本当にお世話になった、この地域でお世話になった人だなっていうのはずっと感謝してる感じですね。
いろんな人に会えたので、そのとき。
どこの地域に行っても曽根さんは誰とも仲良く寝れそうだね。
そうなんですよね。
私は比較的長く住んでたのはもちろん地元仙台ですけど、その以外に大阪と名古屋も住んでたっていう意識があるところなんですよ。
どこも友達多いし、今もフラット行ってもお店入っても入れる人もたくさんあるんですけど、
ちょっとね、ここの今住んでる国分じゃちょっとなぜかその当時持っててなかった印象があって、
なんで住み続けてるんだろうっていうのと、さっき言ってた地元っていう感覚が芽生えた初めての場所で、
15:01
他も同じなんですよね。人もたくさんいる、友達も行きつけもあるし、仕事でも行くんだけど、やっぱ帰るのは仙台だったり東京だったのが、
なんかね、今はここは帰ってくる場所になった感じがする。
今は大阪と名古屋帰ろうと思うとこじゃないので、
旅行みたいな目で。
用心があれば行くっていう感じで、住み続けるって言うとはちょっと違うなっていうのがあるけど、
今ここの町は住み続けていくなっていう感じの町に今はなってるなって。
まさにホームタウンになったんだな、体現としてね、思うとこですよね。
でもその感覚って言葉じゃ説明できないですよね。
水が合うとか、そういう寒洋区みたいなのもあるけど、まさにそれも言葉じゃ説明できないけど、なんかここにね、
合うなじゃないですけど。
なんかあるんだなっていうのは、ここ何年も悩んでると思うんですよね。
引き寄せられる何かがあることですかね。
ですね。
いかがでしたか?
ぜひチャンネル登録、そしてインスタグラム、フェイスブックでも最新情報を発信していますので、フォローをお願いします。
それではまた!