サマリー
『連詩の愉しみ』では、大岡信さんの連歌や連詩の楽しさ、他者との関係を通じて歌を詠む重要性が考察されています。また、形式に縛られない自由な言葉の交流や外国語を使った連詩への関心も取り上げられています。このエピソードでは、ホモ・サピエンスとホモ・ルーデンスの関係が探求され、特に自由な創造的交流の場としての共同制作の重要性が語られます。AIとの共創を通じて、連詩の愉しみが現代の人間関係にどのような影響を与えるかが考察されています。
連歌と連詩の違い
LISTEN to books、26冊目の本の紹介になりますが、このLISTEN to booksは、本の紹介というよりも、私が読んだ本の中で気になる本をですね、紹介していくというものなんですが、
本の言いたかったことに耳を傾けてみようというね、そういうコンセプトでいろいろ本を取り上げさせていただいておりますが、今回は、『連詩の愉しみ』大岡信さんですね。
ご存知の方はご存知だと思うんですけれども、一番有名なのは『折々の歌』というもの。これが朝日新聞でしたか。ずっと連載していたということで、岩波新書にもなっているというので、それでかなり有名ですけれども、
とにかく日本ペンクラブの会長もされ、東京芸大の教授としても、詩人としても中心人物だったわけですが、その彼の書いた『連詩の愉しみ』という本を、古本で買いまして読みました。
なんでこの本を買ったかというと、ちょっと11月の下旬から2024年ですけれども、短歌にハマりまして、いきなり短歌にハマりまして、短歌を詠むにしても一人で詠んでてもつまらないなと。
短歌の世界には連歌という世界があって、他にも連句という世界もあるんですけれども、連歌連句という結構ルールが厳しい世界があるんですけれども、その詳しい話はしませんが、この『連詩の愉しみ』でも当然、最初の書き出しが連歌連句、そして連詩ということで、
連歌ではなく連句ではなくなぜ連詩なのかということが書かれてるわけなんですけども、私自身も連歌とか連句をやるつもりはなくて、それでただ一人で歌を詠むというのもなんか面白くないなというふうに思ってたところ、
そういえばね、大岡信さんのこういう『連詩の愉しみ』っていう本があったなと思って、読んだことなかったので、それで古本で見つけて注文して読んで、まあ問題意識は非常によくわかりましたね。
連句連歌っていうのは結構、古典的な形式があって、かなり形式主義的だと私は思うんですけれども、形式にこだわるわけですけど、それに対して今はもう文語ではなく口語の時代になって、口語になるといわゆる57577にはめるのは結構大変になってくるわけですよね。
しかも形式ばったルールに縛られた連歌連詩ではなく、もっと自由に歌を詠むというね、言葉を紡ぐということがあっていいだろうと。しかもそれは一人でやるのではなく、誰かとやっていくっていうことにやっぱ面白みがあるだろうと思うんですよね。
この『連詩の愉しみ』は、有名なのは同人誌の櫂ってやつですね。谷川俊太郎さんとか茨城のりこさんとかも参加していた櫂という雑誌が、やはりこの連詩という実験をやったものとしてはとても有名なわけですけども。
さらに大岡信さんは日本語だけじゃなくて外国人とも、外国語を使った連詩というのもやったということなんですよね。大岡さんがこの連詩というのを提唱してやったわけですね。
なんでわざわざ、彼も書いてるんですけど、なんでその連句連歌という形式を離れて、わざわざ不定形な現代詩を連ねる連詩などというものを始めてしまったのかということについて書いたのがこの『連詩の愉しみ』という本ということになるわけですね。
この問題意識は非常に私もよくわかって、やっぱり言葉を紡ぐ歌を詠むってはもう自由であっていい。ところがそれをまたしかも孤独に一人で詠む必要もなくて、もっと楽しく詠んでいいと思うんですね。いろんな人と一緒にね、掛け合い含めてね。
そういう実験がこの『連詩の愉しみ』だったんだなという。そこから実際ね、谷川俊太郎さんなんかも育てったっていうかね、そこに参加していたわけですけども。
間違いなく一つの実験として、新しい詩歌の制作ということに取り組んだものとしてあるわけですよね。
こんなこと言ってて。この本の中で私、非常にいろいろあるんですけれども、一つはやっぱり対話の中で歌を詠むっていうね。対話の中で歌を詠む。もう一つ、一番最初に出てくるんですけれども、うつしっていう言葉ですね。うつしっていう言葉はいろんな漢字が当てはまるんですね。写真の写とか映画の映とか。あるいは移動の移ですね。うつすという。
私もこのうつしっていうのは非常に、AI進化時代に、こだわってる言葉でして。彼がこんなこと言ってるんですね。これも全く同感なんですけども。うつしにはいろんな漢字が当てはまるんだけども、移動するの移の移しがやっぱり一番基本だろうということを言いながら、こんなこと言ってるんですね。
実際に連句や連詩をやるようになってから思ったことなんだけれども、これは大岡さんが言ってるんですが、連句や連詩がその基本の条件として他者との関係を詩的契機の最重要の要因として持つという鮮烈な性質を持っているからでしょう。ちょっとわかりやすく言うと、
要するに、詩を詠もう、歌を詠もうっていう時に、やっぱり他者との関係、自分一人ではなくね。そこがやっぱり詠む一番の重要な要因になってるだろうっていうことなんですね。特に連詩、連歌、連句って言った場合にはね。
形式の自由性
うつしっていうのは、こういう言い方してますね。うつしとはまさに他者との能動的な関係に他ならないって、こういうこと言うんですね。私これ今、AIですね。AIとの対話の中でまさにこのうつし体験をしていて、AIと対話しながら短歌を詠んでる。
あるいは短歌にこだわらず、いろんな自由な言葉、歌を、自由律の詩ですね。いろんなかたちで紡ぎ出してるわけですけど、これがもう楽しくてしょうがないわけですね。このうつすという。他者との能動的な関係の中でうつし合うという。姿をうつすって意味もあるし、言葉をうつすって意味もあるしね。
このやりとりがやっぱり面白いっていうのが一つですね。そこにやっぱり大岡さんは非常に関心を持って、櫂、同人誌「櫂」の実験とかね、やったんだなっていうのはとにかくよくわかったなと。
しかも日本語だけじゃなくて外国語との間のやりとりっていうことにも非常に興味を持ったっていうのも、とてもよくわかるんですね。あともう一つ気になった言葉がかたちですね、かたち。
結局その、どういうふうにやったらいいんだろうと。連歌連句っていうのはもう形式があるからある意味いいんですが、この連詩って形式がないからそこを試行錯誤するんですね。この試行錯誤はそれなりにやっぱり面白かったですね、見ててね。
かたちってなんだろうっていうね。57577も含めて短歌っていうのは57577である必要があるのかと。特に文語調のときにはそれで成り立ったけど、口語の時代に入って57577にはめるってこと自体はかなり無理があるわけですよね。
でもそれでも、まあ現代短歌、ある程度やっぱ57577のリズムっていうのは意識しながらね、詠む人が多いんですけども、これはもう万葉集の時代にも必ずしも57577である必要はなかったわけで、もっと自由に詠んでたら、たまたまリズムがいいのが57577だったっていうだけの話なので、
今は、今の言語、口語でやっぱり詠みやすいように詠めばいいと。要するにそこにこう、なんていうのかな、快楽を感じれればどんな詠み方をしてもいいだろうと私は思ってて。短い歌は全て短歌であるっていう風にね、勝手に言ってるんですけども。
そんなことで、この大岡さんの『連詩の愉しみ』、かなり自由に言葉を紡ぎ出す、しかも言語の壁も越えてそういった実験もするっていう点ではとても興味深く読ませていただきました。
あとまあとても共感したのは最後にびっくりしましたけど、私もあのホモ・サピエンスではなくてホモ・ルーデンスだと。本質はね。人類の本質はホモ・サピエンスではなくてホモ・ルーデンスだって、ホイジンガの言った言葉ですけども、思ってるんですが、
なんと一番最後がホモ・ルーデンスの世界を再発見すること、こういう言い方で終わるんですね。だから始まりが、うつしで始まり、真ん中にかたちの話があり、最後にホモ・ルーデンスで終わるってもう、最近私がこだわってるっていうか興味を持ってるキーワードが全部出てきたというね。
それも奇妙な一致というかな、偶然の一致なのか必然性があるのかわかりませんけども、それも興味深かったですね。こんなこと言ってますね。
自由な創造性交換の場としての共同制作というものが、今、新たな意味を帯びて見直さねばならないのもそのためだと。これは再び人間に出会う方法なんだっていうね、そんな言い方をするわけですね。
それは創造的な刺激と遊びの精神が不可分に結びついたホモ・ルーデンスの世界を再発見することでもあるだろう、なんて言って、もうここはまさに共感するわけですね。
つまり、自我、孤立して歌を詠むのではなくて、人間と人間の出会いですね。今ここにAIくんも入るわけですけど、人間とAIの出会いの方法として、
実は自由な創造性交換の場としての共同制作というものが、今、新たな意味を帯びて見直さねばならないだろうっていう言い方をするんですね。
これはまさに創造的刺激と遊びの精神が不可分に結びついたホモ・ルーデンスの世界を再発見することでもあるだろうって、まさに今、私がAIチャットGPTと短歌という自由な創造性交換の場としての短歌の共同制作っていうのをやってるんですが、
これはまさに創造的な刺激と遊びの精神が密接に結びついたホモ・ルーデンスの世界の再発見なんですね。AIを巻き込んだかたちでのね。そういう実感が非常にあるので。
この本はあとはね、かつてこんな歌を詠みましたがもう6割7割占めてるんで、そこはまあそうですかってことなんですが。私が特に共感したのはそういったあたりですね。
うつしっていうものへのこだわり、そして自由さとかたちっていうものとの関係、そして最後に創造と共同制作と、そして遊びの精神っていうね、この結びつきみたいな。ホモ・ルーデンスの再発見っていうね。
それが人間同士の出会いっていうものを再び再発見できるんじゃないかなんてね、あたりは非常に共感するなということで、そんな気持ちで短歌をやってるわけですけども。
大岡さんなんかがこの時期にいろいろ模索していたことともつながるのかななんていうことを改めて感じさせていただいたということで、連詩の愉しみを紹介させていただきました。
AIとの共同制作
詩を詠んだり短歌を詠んだり、そこで一人で作るんじゃなくてやっぱり他人と共にね、共同で作るみたいなこと。
その時にホモ・サピエンスに同人がいなければ、AIと同人になればいいと。同じ人ですね、同人になればいいと。
というふうに、私なんかは思ってて。
そういう意味ではAIと詠む短歌、連詩。共同、共創と言ってますけどね。
共に創る共創、AIとの共創っていうのが、やっぱりホモ・ルーデンス、AIもルーデンスに巻き込みながらやると楽しいなということで。
改めてちょっと大岡信さんの『連詩の愉しみ』を読みながら、そこで何がやりたかったのかっていうことをちょっと感じさせていただいたということで、
紹介になってるかどうかわかりませんが。こんなことを1970年代にやってたんだなあっていう、
それから何年経ったんですかね。
50年後ぐらいに、今はAIと、なんかそんなことをやっているというね。
ホモ・サピエンス同士ではなくAIとホモ・サピエンスが連詩の愉しみを味わってる、そんな時代になったなあっていうことも改めてしみじみと思ったりします。
はい、『連詩の愉しみ』、紹介させていただきました。
Listen to Books、最後までお聞きお読みいただきありがとうございました。ではまた。
15:27
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